賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

主イエス様が働きをされた時、たとえ話を語られた理由

2019-10-06 20:38:40 | 聖書の言葉

   主イエス様は働きをされた時、当時の人々に多くの御言葉を話されました。その中にはとても分かりやすい御言葉があります。例えば、主イエス様は頻繁にこう言われました:「よくよくあなたがたに言っておく…」主イエス様がピリポに仰った:「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか…」(ヨハネによる福音書14:10)、という遠回しのお言葉もあります。しかし、私が本当に感心したのは、網のたとえ話、羊飼いが見失った羊を探すたとえ話、邪悪なしもべが借金を取り立てるたとえ話、放蕩息子が帰ってくるたとえ話、結婚式の宴のたとえ話、イチジクの木のたとえ話など、主イエス様が語られたたとえ話でした。これらたとえ話を読んでいると、私は、「主イエス様は働きをされた時、どうしてこれらのたとえ話を語られたのでしょう?これらには主のどういった御心が隠されていたのでしょう?」、と思わず考えてしまいました。

   これらの疑問を頭に、私は主の御啓示を求めて主に祈り続けました。ある日、私は聖書を学習していた時、聖句の中のこの説を読みました。「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、『なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか』。そこでイエスは答えて言われた、あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。」(マタイによる福音書13:10-16)。私はこれらの聖句を注意深く熟考し、祈りを捧げ、主イエス様の御言葉の中で探求していると、主の御言葉を少し理解することができました。主イエス様が働きと説教をされていた時、主の説教を聞きにやってきた人は大勢いましたが、その全員が当時のパリサイ人と同様に、主に心から従い、主の道を歩んでいたわけではありませんでした。彼らが主の説教を聞いていた理由は真理を求めるためではなく、主イエス様に対する罪状を見つけること、そして主を唆して罪を着せることだったのです。人々の中には、主が多くの奇跡を起こしたこと、主が人間に恵みと祝福を与えることができること、そして病人を治し悪霊を追い払うことができると知った故に主イエス様に従うという人たちがいました。彼らの目的は、主の道に従い、主の御心を大切にすることではなく、さらなる恵みと祝福を手にすることでした。わずか数人のみが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ等の様に、真理を愛していること、そして主の働きと説教の中に権威と御力を見た故に主に従う意思を持っていました。従って、主イエス様は、心から神を信じ真理を愛する者たちを得るために、たとえ話をお使いになり、神の働きと性質を証言するために真理を表しながら全ての人に説教され、天国の秘密を明らかにされました。真理を愛した者たちは誰もが積極的に主イエス様を求め、それによって彼らは聖霊の御啓示と御指導を受け、たとえ話の意味を理解しました。しかし、真理を愛さず恵みと祝福だけを求めた者たちは自発的にこれらの御言葉の意味を理解しようとしなったので、彼らは決して真理を理解できませんでした。このように、神への真の信仰を持って真理を愛した者たちと恵みと祝福だけを求めた偽信者と未信者たちはそれぞれの種類によって分類されました。これは主イエス様が仰った次の内容を成就しています:「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイによる福音書13:11-12)。これが、主イエス様が働きをされた時にたとえ話をされた意義の1つ目の側面です。

   その後、私はあるウェブサイトでこれらの御言葉を目にしました:「まず1つ目は、種まきの喩えである。これは極めて興味深い喩えである。種まきは、人間の生活の中で一般的な事柄である。2つ目は、毒麦の喩えである。穀物を栽培したことのある者と大人は、毒麦とは何か理解できるであろう。3つ目は、からし種の喩えである。からしとは何かについては、皆知っているであろう。知らない場合は、聖書を読めば分かる。4つ目の、パン種の喩えに関しては、大部分の者が、パン種は発酵に用いられるものであることを知っている。パン種は人間が日常生活で用いるものである。それ以降の6番目の宝の喩え、7番目の真珠の喩え、8番目の網の喩えは、すべて人間の生活から採り上げられたもの、つまりこれらの喩えは、すべて実生活に由来するものである。これらの喩えは、全体としてどのような考えを示すものであろうか。これらの喩えは、神が普通の人間となり、人間と共に生活し、通常の生活で用いられる言葉を使用し、人間の言葉を用いて人間と意思疎通し、人間に必要な物事を授けている、という考えを示している。神が受肉して人間の中で長期にわたって生活したとき、人間の様々な生活様式を経験し、目の当たりにした後、そうした経験は、神が、神の神性の言葉を人性の言葉へと変換する際の参考となった。無論、神が生活の中で見聞きした事柄により、人の子の人間としての経験は豊富なものとなった。神が一部の真理や、神の旨を人間に理解させることを望んだ時、神は上記と類似の喩えを用いて、神の旨や神の人間に対する要求について人間に伝えることが出来た。これらの喩えは、すべて人間生活と関連しており、人間生活に無関係の喩えは一切ない。主イエスが人間とともに生活した時、イエスは農民が作物の手入れをしているのを見、毒麦とは何か、パン種とは何かを知っていた。またイエスは人間が宝を好む事を知っていたので、宝と真珠の喩えを用いた。」「これが、神が受肉したことの利点であった。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言葉で人間と会話して神の旨を表現することが可能であった。神は、人間が人間の言葉により、理解しようと苦戦していた神の深遠な神性の言葉を、人間に対し、人間のやり方で説明ないし『解釈を与え』た。このことは、人間が神の旨を理解し、神が遂行したいと考えていた業を知る上で役立った⋯」

   これらの御言葉から、主イエス様が働きをされた時に多くのたとえ話をされた理由は、信徒たちが神の御意図と人々に対する異なる御要件をより良く理解することで、彼らが心を込めて正直に主を礼拝できるようにすることでした。律法の時代において、ヤーウェ神は人間に御言葉を発出するために預言をお使いになりましたが、その御言葉は全て預言であったため、当時の信徒たちはその意味を直接理解することができませんでした。今日でさえ、私たちは依然として預言者たちの預言の多くを明確に理解することができません。これは真実です。主イエス様が地上で働きをするために人の子として受肉され、人間の言葉で人々に神の御意図と御要件をお伝えになった時、私たちはその御言葉の中の真理をより良く理解して把握することができ、それは私たちが主の働きと性質を知り、そして人類を救うことに伴う辛さと努力の全てを理解するのに役立ちました。主イエス様が人類への愛を表すために見失った羊のたとえ話をお使いになったように、神も全ての人が救われることをお望みであり、誰にも滅びて欲しいとは思っておられません。人は真の信者である限り、一時的に誤った道を歩むことがあっても、神はその人を救う努力をされます。これは聖書にあるこの御言葉を成就しています:「これは預言者によって言われたことが、成就するためである、『わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』」(マタイによる福音書13:35)。 これが主イエス様が働きをされた時にたとえ話をされた意義の2つ目の側面です。

   私は読み続けました:「神は人間の立場から、人間の言葉を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行うことが可能であった。神は、人々が神の優しさと親しみを人間が感じ、また神の心を理解できるように、人間の言葉と知識を用いて言葉を述べ、業を行うことさえ可能であった。」これらの御言葉から、主イエス様が働きと説教をされていた時、主は人間の言葉を使ってたとえ話を語られましたが、それは理解するのが容易であったし、私たちが神の優しさと素晴らしさをもっと感じられるようにしてくれると同時に神により近づけるようにしてくれるからであったと私は理解しました。律法の時代を振り返ってみましょう。神は働きをするために受肉されなかった時、炎の中でモーセと話されました。神はシナイ山の上でイスラエルの民と話されました。神は風の中でヨブと話されました。当時、人々は神が話されておられるのを聞いた時、恐れを感じ、神に立ち向かったり、近づこうとはせず、まして自分たちの心を静めて神の御言葉の意味を知ろうとはしませんでした。しかし、恵みの時代において、肉となられた神は人間の言葉を使って働きと説教をされ、たとえ話を使って人々に神の道を理解することを教えてくださりました。それは、私たちが直接神の御意図を求め、神の働きと御導きを受け入れ、そして神の贖いを得ることができるように、神はもはや私たちが近づけない存在ではない、または私たちに畏敬の念を抱かせる御方でもないと感じられるように、さらには、私たちが神の御気遣いと優しさを感じられるようにもしてくださったのです。これが、主イエス様が働きをされた時にたとえ話をされた意義の3つ目の側面です。

   神の働きより、私たちは、神は真理を表すために肉となられ、私たちがもっと容易に神の御意図と御要件を知って、真理を理解し実践できるようになり、それ故に自分たちの堕落した性質を捨て去り、清められ変化を遂げることができるようになり、そして神を知り、神に従い、神を礼拝する者になることを目的に、人間の言葉を使って私たち人類に話してくださったということが分かります。私は神に感謝します。全ての栄光、神にあれ!