賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

毎日の聖書への信仰心:あなたの心の中で神様と神殿はどちらのほうが偉大な存在ですか

2019-10-21 22:37:28 | 聖書の言葉

   聖書には次のように記載されています:「 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタ12:6-8)。私が神様を信仰し始めた頃にこれらの聖句を読みました。当時、私が分かっていたのは、主イエス様は、律法のもとで生きていた人々に、神様は神殿よりも偉大な存在で、神様は安息日の主であることを思い出させるためにこの言葉を言ったということだけでした。それにより、イエス様はその日に病人を癒すことができました。また、休息日にトウモロコシ畑を通る際に、トウモロコシを引き抜いて食べた弟子達を非難することもありませんでした。昨日、私はこの聖句を再び読みました。イエス様が休息日に働かれたという事実から、私は、律法のもとで生きていた人々に、イエス様は神殿の外で新たな働きを行われたこと、誰もが神殿から離れ、神様の新たな働きを受け入れるべきであることを思い出させていらしたのだと、明確に悟りました。

   しかし、その頃、律法と規則に闇雲に従って生きていたパリサイ人は、神殿を神様よりも偉大な存在とみなしていました。どうやら、彼らは神殿にいる神に仕え、律法について人々に説明するものの、律法や規則、制約についてただ話しているだけのようで、彼ら自身が律法を遵守することは決してありませんでした。さらに悪いことに、彼らは神様の律法を否定し、預言者を殺害し、未亡人の家から金銭を巻き上げていました。従って、神様の御目には、彼らがしていることはすべて、神様の御心や御要件とは一切無関係で、彼らの奉仕は単に犠牲の儀式を行い、偶像を崇拝しているだけと映りました。彼らは神殿、自身のステータス、生活を神様や神様が表された真理よりも評価していたため、彼らの心には神様のための場所はありませんでした。そのため、主イエス様の御説教を聞き、イエス様が表された数々の御印や奇跡を目の当たりにし、イエス様の御力と御権威、そして驚異に満ちた御偉業を認識しても、真理を追求したり、神様の御意図に従うための方法を探したりする心を誰も持ち合わせていませんでした。その上、彼らは、主イエス様を普通の人であると言って、イエス様を裁き、非難し、イエス様が悪魔の王子を使って悪魔を祓ったと冒涜したのです。彼らはローマ政府と手を携え、主イエス様を十字架に磔にすることさえしました。最終的に、彼らは神様の性情に反し、神様の義なる懲罰と呪いを受け、地獄の中で壊滅させられました。

   次に、パリサイ人達に欺かれたユダヤ教信者についてお話します。彼らも“神殿”を神様よりも偉大な存在と見ていました。たとえば、彼らは祭司や律法学者、パリサイ人を神様よりも偉大とみなしてたのです。そのため、祭司に欺かれ、煽られると、理性を失い、神様の信者が持っているべき基盤を失いました。彼らは主の側に立つことができなかったばかりか、盲目的に祭司に従い、主イエス様を十字架に磔にせよと叫んだのです。彼らは祭司や律法学者、パリサイ人の偽善の真実を見破ることができず、神様に仕えるこれらの人々が主よりも自身のステータスや聖書の言葉を偉大とみなしていたことを知りませんでした。彼らは、いわゆる“神の従者”で、“真理の道を守ること”をカモフラージュとして使い、人々を欺くためにさまざまな噂を捏造し、嘘をでっち上げていました。彼らは自身の手中で人々を厳しくコントロールし、神様の御働きを必死になり妨げ、損なわせ、人々を支配しようと神様と競っていました。従って、彼らに従ったユダヤ人も最終的に滅び、壊滅させられました。それでは、どのような人々が神様を偉大として称賛しているでしょうか?私はヨブのことを考えました。彼のすべての子供が死に、全財産が奪われ、深い悲しみに沈んでもなお、神様を冒涜する罪を犯さず、神様の名前を賛美し続けました。ヨブは次のように言いました。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。ヨブの心には神様のための場所がありました。ヨブにとって、神様は心の中で唯一の存在で、彼の羊も、牛も、財産も、子供たちも神様と比ぶべくもありませんでした。ヨブは心の中で神様を偉大な存在として称賛することができたため、試練を乗り越えた後、神様から素晴らしい御祝福を受けました。別の例ではペテロがいます。ペテロが主イエス様に従っていたとき、主の声に注意深く従い、主の御指示に沿って行動しました。兵士が主イエス様を捕まえようとしている重大な局面では、ペテロは自分の命も顧みず、主イエス様を救うために、走っていき兵士の耳を切り落としました。このことから、ペテロが自分自身よりも主を愛していたことが分かります。このような行為は普通の人にできることではありません。主はペテロの行為に満足されました。そのため、主イエス様は神様の国への鍵をペテロにお預けになり、教会を率いていく重い責任をペテロに委ねられました。

   このことについて考え、私は神様に祈りを捧げると、「私の心の中では、『神殿』と神様とどちらのほうが偉大だろうか?」と自問しました。パリサイ人が神様に抵抗していたという事実は、私に1つの警告を与えました。つまり、もし私が神様を信じながら、心の中では偉大なる存在として称賛せず、受肉したキリスト様を知らず、崇拝せず、またキリスト様に従っていなければ、私がどれほど神様を信じており、神様に従っており、神様のために犠牲を払い、努力したところで、キリスト様の目には私がすべきことすべてが無意味となるでしょう。私はヨブやペテロを見倣うべきです。どのような試練に遭遇しようとも、神様の統治を信じ、神様に真の信仰を持つべきです。神様の御働きや御言葉がどれほど私自身の観念や想像と一致していなかったとしても、自分自身を脇へ置き、神様に従う必要があります。このようにしてのみ、私は真に神様に従い、心の中で神様を称賛する人になれます。兄弟姉妹の皆さん、あらゆることにおいて、心の中で神様を偉大な存在として称賛しましょう。そうすれば、神様の御祝福と愛は確実に私達と共にあるでしょう!


毎日の聖書への信仰心:あなたの心の中で神様と神殿はどちらのほうが偉大な存在ですか

2019-10-21 22:37:28 | 聖書の言葉

   聖書には次のように記載されています:「 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタ12:6-8)。私が神様を信仰し始めた頃にこれらの聖句を読みました。当時、私が分かっていたのは、主イエス様は、律法のもとで生きていた人々に、神様は神殿よりも偉大な存在で、神様は安息日の主であることを思い出させるためにこの言葉を言ったということだけでした。それにより、イエス様はその日に病人を癒すことができました。また、休息日にトウモロコシ畑を通る際に、トウモロコシを引き抜いて食べた弟子達を非難することもありませんでした。昨日、私はこの聖句を再び読みました。イエス様が休息日に働かれたという事実から、私は、律法のもとで生きていた人々に、イエス様は神殿の外で新たな働きを行われたこと、誰もが神殿から離れ、神様の新たな働きを受け入れるべきであることを思い出させていらしたのだと、明確に悟りました。

   しかし、その頃、律法と規則に闇雲に従って生きていたパリサイ人は、神殿を神様よりも偉大な存在とみなしていました。どうやら、彼らは神殿にいる神に仕え、律法について人々に説明するものの、律法や規則、制約についてただ話しているだけのようで、彼ら自身が律法を遵守することは決してありませんでした。さらに悪いことに、彼らは神様の律法を否定し、預言者を殺害し、未亡人の家から金銭を巻き上げていました。従って、神様の御目には、彼らがしていることはすべて、神様の御心や御要件とは一切無関係で、彼らの奉仕は単に犠牲の儀式を行い、偶像を崇拝しているだけと映りました。彼らは神殿、自身のステータス、生活を神様や神様が表された真理よりも評価していたため、彼らの心には神様のための場所はありませんでした。そのため、主イエス様の御説教を聞き、イエス様が表された数々の御印や奇跡を目の当たりにし、イエス様の御力と御権威、そして驚異に満ちた御偉業を認識しても、真理を追求したり、神様の御意図に従うための方法を探したりする心を誰も持ち合わせていませんでした。その上、彼らは、主イエス様を普通の人であると言って、イエス様を裁き、非難し、イエス様が悪魔の王子を使って悪魔を祓ったと冒涜したのです。彼らはローマ政府と手を携え、主イエス様を十字架に磔にすることさえしました。最終的に、彼らは神様の性情に反し、神様の義なる懲罰と呪いを受け、地獄の中で壊滅させられました。

   次に、パリサイ人達に欺かれたユダヤ教信者についてお話します。彼らも“神殿”を神様よりも偉大な存在と見ていました。たとえば、彼らは祭司や律法学者、パリサイ人を神様よりも偉大とみなしてたのです。そのため、祭司に欺かれ、煽られると、理性を失い、神様の信者が持っているべき基盤を失いました。彼らは主の側に立つことができなかったばかりか、盲目的に祭司に従い、主イエス様を十字架に磔にせよと叫んだのです。彼らは祭司や律法学者、パリサイ人の偽善の真実を見破ることができず、神様に仕えるこれらの人々が主よりも自身のステータスや聖書の言葉を偉大とみなしていたことを知りませんでした。彼らは、いわゆる“神の従者”で、“真理の道を守ること”をカモフラージュとして使い、人々を欺くためにさまざまな噂を捏造し、嘘をでっち上げていました。彼らは自身の手中で人々を厳しくコントロールし、神様の御働きを必死になり妨げ、損なわせ、人々を支配しようと神様と競っていました。従って、彼らに従ったユダヤ人も最終的に滅び、壊滅させられました。それでは、どのような人々が神様を偉大として称賛しているでしょうか?私はヨブのことを考えました。彼のすべての子供が死に、全財産が奪われ、深い悲しみに沈んでもなお、神様を冒涜する罪を犯さず、神様の名前を賛美し続けました。ヨブは次のように言いました。「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)。ヨブの心には神様のための場所がありました。ヨブにとって、神様は心の中で唯一の存在で、彼の羊も、牛も、財産も、子供たちも神様と比ぶべくもありませんでした。ヨブは心の中で神様を偉大な存在として称賛することができたため、試練を乗り越えた後、神様から素晴らしい御祝福を受けました。別の例ではペテロがいます。ペテロが主イエス様に従っていたとき、主の声に注意深く従い、主の御指示に沿って行動しました。兵士が主イエス様を捕まえようとしている重大な局面では、ペテロは自分の命も顧みず、主イエス様を救うために、走っていき兵士の耳を切り落としました。このことから、ペテロが自分自身よりも主を愛していたことが分かります。このような行為は普通の人にできることではありません。主はペテロの行為に満足されました。そのため、主イエス様は神様の国への鍵をペテロにお預けになり、教会を率いていく重い責任をペテロに委ねられました。

   このことについて考え、私は神様に祈りを捧げると、「私の心の中では、『神殿』と神様とどちらのほうが偉大だろうか?」と自問しました。パリサイ人が神様に抵抗していたという事実は、私に1つの警告を与えました。つまり、もし私が神様を信じながら、心の中では偉大なる存在として称賛せず、受肉したキリスト様を知らず、崇拝せず、またキリスト様に従っていなければ、私がどれほど神様を信じており、神様に従っており、神様のために犠牲を払い、努力したところで、キリスト様の目には私がすべきことすべてが無意味となるでしょう。私はヨブやペテロを見倣うべきです。どのような試練に遭遇しようとも、神様の統治を信じ、神様に真の信仰を持つべきです。神様の御働きや御言葉がどれほど私自身の観念や想像と一致していなかったとしても、自分自身を脇へ置き、神様に従う必要があります。このようにしてのみ、私は真に神様に従い、心の中で神様を称賛する人になれます。兄弟姉妹の皆さん、あらゆることにおいて、心の中で神様を偉大な存在として称賛しましょう。そうすれば、神様の御祝福と愛は確実に私達と共にあるでしょう!