福山羽生にとって今年のクリスマスは特別な意味があります。なぜなら、彼は特別なプレゼントがもらえるからです。
クリスマス当日、教会には空席がありません。兄弟姉妹たちは聖なる食事を取ったり、パフォーマンスを行いながら祭事に参加しています。端っこに座っている福山羽生を除いて、全員が喜びで輝いています。なぜなら彼は痛ましい現象を目にしていたのです:ここ数年の間、教会はわびしい状態に陥っていたのです。兄弟姉妹の多くは世俗的な物を求め、肉の快楽にふけ、名誉と富を求めて悪戦苦闘し、富みを追い求めています。この中には世間の邪悪なトレンドに完全に吸収され、取り付かれている者もいて、名だけのキリスト教徒と化し、本質的には未信者と変わらず、主の教えを心の奥底に投げ捨ててしまっている者までいます。元々、集会に参加するのは兄弟姉妹数人ですが、祝祭がある度にしばらく集会に参加していない人たちも多く教会にやってきます。
この瞬間、福山羽生は頭を上げて、ステージ上の兄弟姉妹たちが4列に並んで讃美歌を合唱しているのを目にします:「ああ、主なる神様、あなたを讃えます」:集会,讃美歌,教会「ああ、主なる神様、あなたを讃えます、あなたが私を選んでくださったからです。数多くいる人類の中で、あなたは私を見つけてくださりました。ああ、主なる神様、あなたを讃えます、あなたが私を愛してくださったからです、そしてあなたの愛は全宇宙、山、そして川を満たしてくださります⋯⋯」讃美歌の美しいメロディーと共に、兄弟姉妹たちは幸せそうに拍子をとっています。しかし、福山羽生は違った感情を抱いていました:「私たちは主に対する称賛を歌っているけど、主を讃える実際の行動は見られないし、通常の貫きも見られない。これは主の教えに沿っているのか?」福山羽生は主のこの御言葉について考えずにはいられません、「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」マタイによる福音書 15:8。主は私たちのことを仰っておられるのでは?⋯⋯
ついに、司祭の宣言により、クリスマスのお祝いは無事に終了しました。信者たちがそれぞれ笑顔を浮かべながら1人ずつ帰って行く中で、福山羽生は重い足を引きずりながらバスに乗って家路につきました。ソファに横たわりながら、福山羽生は絶望と悲しみに駆られ、彼の心は混乱と困惑で満ちていました。彼は心の中でこう思います:「私たちのこのようは行いは主の承認を得られるだろうか?」その瞬間、ドアのベルが鳴り、彼の思考が途絶えました。彼はこの時間帯に誰かが訪れて来るとは思っていませんでした。ドアを開けてみると、そこには何年も会ってなかった須田兄弟がいたのです。これに驚いて興奮した福山羽生はこう言います、「どうして今ここにいるんですか?」須田さんは笑顔でこう言いました、「君に大きなクリスマスプレゼントを持って来たんだ。中に入ってもいいですか?福山羽生はこう答えました、「どうぞ、入ってください!」そして、二人は廊下に入り、ソファーの上で嬉しそうに談話しました。
談話中、福山羽生は心に抱く混乱と困難について語ります。須田さんを大きくため息をついてこう言います、「ああ、正直言うと、私もこの問題に気付いていました。教会の現状は本当に気掛かりです。普段、教会は暗く、集会に参加する兄弟姉妹は数人しかいなくて、冷たくも暑くもないぬるま湯みたいな状態です。しかし、大切な祝祭の時期になると、それぞれが大きな愛情をもって前向きに振る舞い、大きな声で主を讃えます。表面的には、教会はとても活気があるように見えても、祝祭が終わると、信者たちの熱意は一瞬にして冷めしまい、教会も元の状態に戻ってしまいます。なので、私は、私たちの祝いは主を礼拝して讃えられているのかどうかということを疑問に思っています。後に、私は主のこの御言葉を目にしました、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書 4:23-24)。神は私たちが言葉ではなく、心から本当に神を礼拝することを求めておられます。神は私たちが形式的行為を踏んで神を礼拝することを期待されてもおられません。従って、主の御言葉に照らし合わせてみると、私はこのような形で祝うことは神を心から礼拝していることにはならず、むしろ表面的な讃えと礼拝に過ぎないと思います。これは神の御心とは一致していないのです!」
須田さんの言葉を聞いた福山羽生は何度も頷いてこう言います、「神が求められているのは私たちが心から本当に神を礼拝することなのです。しかし、私たちは様々な催しを行ったり、祝祭を祝ったりして表面的な讃えと礼拝に集中してしまっているのです。これら全ては主の教えとは何の関係もなく、本当に主の御心とは一致していないのです!」
須田さんは少し水を飲んでから続けてこう言いました、「その後、私は説教師の説教を聞きました。彼は神を礼拝することは主として心の底から神を讃えることだと言っていました。すなわち、神の栄光とその御姿、ならびに神の全能さを目の当たりにする時、および神の偉大さ、そして神の威厳と憤りは害することができないということを体験する時、私たちはそのように心から神に真の称賛を捧げるということなのです。これが厳密に神を礼拝するということです。同時に、彼はまた、神を信仰し礼拝する上で大切なのは神の御言葉を聞いて、神の御言葉に従いながら実践し、さらに神の道を辿ることだとも言っています。これが実際に神を礼拝することなのです。主イエス様はこう仰っておられます、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。…わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」ヨハネによる福音書 14:23-24。更に、彼は私にある書籍を渡してくれました。クリスチャン,神の言葉,信仰心この本の中に、こう書かれた段落があります、「何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。」
これらの御言葉から、私は徐々に神の御心を理解しました。私たちは神を信じ、神の御言葉を読んでいるのですから、日常生活において神の御言葉に従い、その実相を貫くべきなのです。同時に、問題に遭遇する時は、心を尽くして神を愛し満足させることを追い求めるだけでなく、神の教え通りに振る舞い、神の証言も行うべきなのです。こうしてのみ、私たちは神に認めていただけます。しかし、自分のことしか考えていない私たちは、名目上は神を信じ、主イエス様を求め、聖書を読み、集会に参加して説教を聞いていますが、私たちは主の御言葉を実践できていたのでしょうか?自分たちの利益がかかっている時、私たちはそれを脇に置いて神の御言葉通り厳密に実践できるでしょうか?困難や自分たちの観念と一致しない状況に遭遇すると、私たちの心は葛藤と不満でいっぱいになり、神が私たちのためにお作りくださる環境に対して不従順になり不満を抱いてしまいます。そして、さらに困ったことに、多くの兄弟姉妹たちは富みと様々な物質的快楽を追い求めるために世間の邪悪なトレンドを追い掛けてさえしており、心の中には神が宿れる場所がほとんどないのです。彼らはずっと主の教えを心の奥底に投げ捨ててきたのです。よく考えてみましょう:「私たちのこのような振る舞いは神の道に従っていますか?私たちはどうすれば主に認めていただけるでしょう?」
福山羽生は窓の方に行き、外のとても賑やかな雰囲気を見て、祝祭を祝う人々の声を聞きました。福山羽生は感情を込めてこう言いました、「私たちは日常生活において主の御言葉通りに実践せず、心の中に神に宿っていただける場所を持っていなければ、このような祝祭の場でさまざまな活動を行っていても神にご満足していただくことはできません!この表面的で一時的な熱意は私たちが真理を実践して主の道に従っていることを表してはいません!主の道に従わなければ、最終的に私たちは主に見捨てられてしまうでしょう!数年に渡って、私はこの問題について困惑していましたが、私はそれとどう対応して良いのか分からなかったのです。あなたの交流を通じて、私はより明白に理解することができました。神を信仰し、神に従うにあたり、もっとも大切なことは主の御言葉を実践し、父なる神の御心通りに振る舞うことです。これこそが、心から神を礼拝し讃えるということで、こうしてのみ私たちの信仰は主に認めていただけるのです!」
須田さんも窓の所に来ました。この時、空では花火が輝きを解き放っていました。輝く花火を見ながら須田さんはこう言いました、「私たち人間は神の御心を分かっていません、神がこういった物事についてどうお考えであられ、どう見ておられるかは決して考えないで、自分たちの考えやどうやって幸せになるかについてしか考慮していないのです。それで私たちのすることがどうやって主に認めていただけると言うのでしょう?私はこの御言葉の段落を目にしました、「神に関する真の認識なくしては、人類に真の礼拝や帰服はあり得ず、盲目的な偶像化と迷信があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類は神の道に従って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることもとうてい出来ない。反対に、人間のあらゆる活動や行為は神に対する不従順や反抗、中傷的なそしりや批判、そして真理や神の言葉の真の意味に反する悪行に満ちる。」神の御心の理解と神に関する知識がなければ、私たちの神への礼拝はただ形だけのスローガンのようなものに過ぎず、実際には何の意味も持たないのです。そして、更に、私たちは決して神の教えに従わず、自分たちの古いやり方を固持しています。サタンによる誘惑と策略、そして邪悪な物事に関して言うと、私たちはそれらを真の形では識別できていないので、それを捨て去ってそれから離れることができないのです。これら基本的な問題が解決していないとなると、それは私たちが依然として神に反抗かつ抵抗しており、真理と一致していないことを証明しています。これらは全て邪悪なものでないでしょうか?これ故に、今私たちが最も集中すべきことは、神の真の知識を得ることをどのように追い求めるか、私たちの貫きをどのようにして神の御心と一致させるか、そしてどのようにして神に従い、神を愛するかということであり、そうすることで私たちは父なる神の御心通りに振る舞う人になることができ、最終的には神の国にお連れいただくことができるのです!」
福山羽生はこう言いました、「その通りです!私たちは神の知識も神の御心の理解も持っていないから皆自分たちの好みと観念、そして想像に基づいて振る舞っているのです。ひょっとしたら、表面的には私たちの振る舞いは大きな罪を犯してはいないように見えても、本質的には真理を違反して、神の御心通りに行動できていないから、それが最も深刻な問題になっているのかもしれません!これにはこの主の御言葉を思い出させられます、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」マタイによる福音書 7:21。 信仰の秘訣は主の御心に従って追い求めることであり、それが天国に入る唯一の道なのです!兄弟ソン、私はあなたの交流は聖霊の御啓示と御啓蒙で満ちているように感じます。特に、あなたが読んでくださった言葉にはとても感動しました。私にその本を数日貸してもらえませんでしょうか?
須田さんは笑顔でこう言いました、「これが正にあなたへの’プレゼント’ですよ!」
こう言いながら、須田さんは福山羽生に本を手渡しました。福山羽生はその表情に大きな驚きを見せながら本のカバーを目にしました⋯⋯
あなたの祈りをもっと主に聞いていただくために、 正しい祈り方 を把握しましょう。