賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

クリスチャンが達成しなければならない4つのこと―神を信じるには、4つの最も根本的なことをとらえるべきだ

2019-06-20 08:00:00 | 礼拝説教

   主につき従うのには、四つの最も根本的なことがあります。それはわたしたちすべてのクリスチャンが達成しなければならないことです。この四つのことは、神の言葉を読むこと、神に祈ること、本分を尽くすこと、そして神の言葉を実行することです。わたしたちのすべての霊的な生活には、おもにこの四つの面があります。わたしたちの毎日の生活の中にこの四つの面の実行があれば、わたしたちは本当のクリスチャンとしての条件を持つようになります。

第一の重要なことは、神の言葉を読むことです。

   わたしたちは主を信じたその日から、聖書を読んでいます。数十年一日のように聖書を読んでいて、今まで中断したことがありません。では、わたしたちがどのように神の言葉を読めば効果を収めることができるでしょうか。神の一言一言から真理を探り出し、神の意志を求め、注意深く祷読し、かみしめるべきです。おおざっぱに読んだり、聖書の字句を暗誦したりしてはなりません。わたしたちは注意深く読み、探究して、聖霊の啓き、照らしを得る必要があります。それでこそ真理の真意と主の意志を理解することができます。

第二の重要なことは、主に祈ることです。

   ヨハネによる福音書第4章23-24節でこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。だから、わたしたちが祈る過程は、神を礼拝する過程でもあります。ここには、霊と真理をもって神を礼拝するという条件があります。つまり、わたしたちの祈りが主に良しと認められることを望むなら、祈る前に心を落ち着かせて、主に何を言いたいか、毎日わたしたちに臨む環境の中で主の意志が何かを考えてみるべきです。わたしたちが主の意志を理解したら、主の意志にしたがって祈るべきです。ひたすら神がわたしたちに何かを与えるように要求してはならず、また目的なしに繰り言を言ったり、毎日同じ祈りを繰り返したりしてはなりません。祈る時は自分の困難を正確に知り、心をもって神の意志を求め、神に本音を語り、誠実な言葉で言うべきで、大きな口をたたいたり、空論を説いたりしてはならず、また、神の前で空約束をして実行しないようなことをしてはなりません。しかも、何事にも神を求め、神を仰ぎ見るべきであり、どんな時どんな場所でも心の中に神の位置があるようにし、神を崇めるべきであり、何事にも神の啓き、導きを求めて、従順な祈りをするべきです。そのような祈りこそが神を礼拝する祈りです。

 


第三の重要なことは、自分の本分を尽くすことです。

   マルコによる福音書第10章29-30節でこう書かれています。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」。主イエスはまたこう言われました。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。わたしたちすべてのクリスチャンは、自分の尽くすべき本分があります。あるクリスチャンたちは主のために自分をささげることができ、数十年一日のように道を走って福音を宣べ伝えています。あるクリスチャンたちは真心をもって主を信じ、真理を追い求める兄弟姉妹に施しをし、彼らを助けることができます。あるクリスチャンたちは消極的で弱い兄弟姉妹を支えることができます。またあるクリスチャンたちははるばるやってくる、福音を宣べ伝える人を受け入れることができます。実は、これらはみなわたしたちが常に生活の中で行なうことです。しかし、本当に本分を尽くすことは、自分の意図を混ぜずに神のために行なうことであり、祝福を得て主と取り引きして、天の国に入るという祝福、冠を得るためにではなく、多くの人の前で他人に褒められるためにでもなく、主の心を満足させるためだけに行なうことです。そのような気持ちを抱いて行なうなら、本当に本分を尽くすことになり、主に受け入れられることもできます。さもなければ、人が自分の企み、欲望、要求のために本分を尽くし、捨て、費やすことになり、主の言葉を守り、神のみこころを行なうとは言えなくなります。そうであれば、主イエスはわたしたちを罪定めして、「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるはずです。

第四の重要なことは、真理を実行することです。

   実は、真理を実行するのは主の言葉を実行するのです。主イエスのわたしたちへの教えは非常に多いです。例えば、主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタ22:37-39)。主の言葉を実行するのは神のみこころを行なうのです。そのためには、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛しなければなりません。実行する中でどのように代価を払い、費やしても心から喜んでそうするべきであり、自分の意図、目的や野心、欲望を持ってはなりません。どんな試練、精錬が臨んでも、神に従い、神を愛すべきであり、不平を言い、神に背いてはならず、また神に反発し、反抗し、神を裏切ってはならず、死に至るまで神に忠誠を尽くし、証しのために立つべきです。だから、わたしたちが主の言葉を実行する時、ただ主の言葉の表面上の意味によって行なってはならず、主の言葉の中に含まれる主の意志が何か、そして真理の本質、真理の真意が何かを探究するべきです。そうすれば、わたしたちの実行は本当の真理の実行になれます。主の言葉の表面上の意味によって行なうのは、ただ聖書の字句を守るのです。それは真理の実行だと言えません。

   以上は、わたしたちが神を信じるのに守らなければならない四つの根本的な重要なことです。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことをとらえることができれば、主に良しと認められることができます。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことを守ることができなければ、神を信じるには方向、目標がなく、長年神を信じても大きな進歩を遂げることができません。だから、わたしたちが根本をつかんでこそ、神を信じることに成功すると保証できます。こうして、わたしたちが失敗することがなくなります。


キリスト教徒が業務において調和をとりながら協力し合うための3原則

2019-06-19 22:14:46 | 礼拝説教

   ご存知の通り、私たちは心を1つにして神に仕えてのみ聖霊の導きを得ることができ、教会の働きも神から祝福を受けることができます。これは、主イエス様が私たちにこう仰っておられるからです:「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。(マタイによる福音書18:19)。

   私たちが業務において協力し合う間、サタンは常に解体の働きを行います。サタンは常に神の働きを妨害し弱体化させて神の御心が実現するのを妨げるという狡猾な計略を実行するために私たちの堕落と背きを利用します。表面的には、キリスト教徒たちが業務で協力し合うことにおける問題は人間関係の問題であるように見えます。霊的世界においてはと言うと、実は戦いが行われています。真理を理解しなければ、私たちはサタンの計略を見抜くことができないだけでなく、頻繁にそれに利用され、苦しみと嘲りの中を生きることになってしまいます。すると、私たちは他人と敵対し、お互いを警戒し合い、攻撃し合い、傷つけ合い、心を1つにして自分たちの本分を尽くせなくなってしまいます。無意識のうちに、私たちはサタンの策略に騙されて教会の働きを解体してしまうのです。

 

 

   私たちはサタンの策略を見抜けないことが頻繁にあり、サタンのような堕落した性質を持ってもいるため、兄弟姉妹たちと協力し合う際に心を1つにして主に仕えることができないことがよく起ります。時に、私たちは意見、考え、または見解において自分たちのパートナーと相違することがあると、傲慢な本性に支配されている私たちはパートナーに自分たちの言うことを聞くようしつこく要求し、私たちと私たちのパートナーはお互いがそれぞれの意見を固持するという結果が生じてしまいます。その結果として、不和と疎遠が起り、私たちの短気さが激発したり、正否にこだわり過ぎてしまいます。時に、私たちとパートナーとの間に力量や能力の差があると、私たちは力量の低い者たちを見下し、自分たちを支持して好き勝手なことをしてしまい、教会が重要視することに対して問題を引き起こしてしまいます。時に、私たちはパートナーから尊厳を傷つけられたり、個人的な利益に影響を及ぼすようなことをされると、私たちは寛容さと辛抱強さを失い、自分たちの利益を守るために彼らを攻撃し傷つけ、結果的に教会の働きが行き詰まってしまいます。

   他人と協力し合う上でこのような問題を抱えていながら、私たちの業務は神に承認していただけるでしょうか?ピリピ人への手紙2:2にはこう記されています:「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」アモス書3:3にはこう書かれています:「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」私たちはパートナーたちと心を1つにしていれば、神の働きと承認を受けることができます。しかし、私たちが調和を取れていないとなると、共に歩んで行くことができず、私たちの内で神の御心を実行していただくことが困難になってしまいます。従い、このような業務の仕方は神に認めていただけないのです。

   ならば、私たちキリスト教徒は他の人たちと調和をとって協力し合うにはどのような原則を把握するべきでしょう?

第1に、私たちは聖霊の指導と心理の原則に従うべきであり、我意に固執したり、他人から抑制されてはいけません。

   生まれた状況、生活環境、素養のレベル等は人それぞれなので、教会の働きで生じる問題において私たちが異なる意見を持つことは当たりまえのことです。もし私たちが他の人に自分たちの言う通りにすることを要求したり、そのために地位を利用して人を抑えつけるようなことをしたら、それは聖人らしからぬ行いとなってしまいます。私たちは神の御旨に沿った形で神に仕えることを望むなら、人の話を聞くのではなく、真理の原則を探求すべきなのです。私たちは他人の道や自分たちの道を行くのではなく、毒、権力、知識や評判に縛られるべきでもないのです。私たちは神の御言葉を求め、神の御言葉の権威の下に服従すべきなのです。主イエス様はこう仰られました、「神を信じなさい。」(マルコによる福音書11:22)。 私たちは同僚、パートナー、牧師や長老に主イエス様の御言葉に沿わないことをするよう求められても、言われるがままにするのではなく、主イエス様の御言葉に従うべきなのです。もし彼らの言うことが主の御言葉に沿っているのであれば、私たちは自分たちを脇に置いて神から来ることに従うべきです。

   私たちは道義心に欠けることや無意味な事柄について意見が異なる場合は譲歩してしつこく主張するのは控えるべきです。例えば、私たちの教会でホームステイを提供していた姉妹2人が時折兄弟姉妹たちのためにする料理について衝突することがありました。実際、これは単なるアプローチの仕方における相違で、教会の原則や関心事には全く関係のないことでした。従って、もしこのような場合に自分の意見に固執してしまうと、それは私たちの堕落した性質の表れとして捉えられてしまいます。後に、この2人はお互いに自らを脇に置けるようになりました。その時、2人の間にあった疎遠な関係は解消され、お互いに仲良く協力し合えるようになったのです。

   さらに、私たちは聖霊の御啓示と御指導に従うことを学ぶべきです。例えば、直面する出来事にどう対応してよいのか全く分からない場合、私たちは主に祈りを捧げ、主を求めるべきです。その後は、どうして良いのかと意識して考えなくても、突然進むべき道を自分たちの中で見い出し、それを比較的適切であるとみなすと心の中で平安を感じられるのです。この場合は聖霊が私たちを導いてくださっておられるので、私たちは聖霊の御導きに従うべきなのです。ローマ書8:5にはこう記されています、「霊に従う者は霊のことを思うからである。」 加えて、私たちはパートナーと意見が食い違うことがあります。私たちは最初は自分のアイデアの方がパートナーのアイデアよりも優れていると考えますが、心の中ではそう頑固にならずに先ずはパートナーのアイデアを受けいれてみるべきだという漠然とした気持があり、その気持ちがあると心が和むものです。私たちの内にある御導きに従えば、パートナーの提案は本当によいもので、教会の働きにとってより有益なものであることが分かります。そうすると、あの漠然とした気持ちは聖霊の御導きから来るもので、私たちが聖霊の御導きに従うことは極めて重要であると確信できるのです。

第2に、私たちは他人に勝とうとするのではなく、お互いから学び合おうとすべきです。

   ピリピ人への手紙2:3-4にこう書かれています:「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 これらの節は、名誉と富を求めて奮闘することは私たちが貫くべきキリスト教徒らしさではなく、私たちは謙虚であるべきで、自分勝手にならずに他人に対してもっと思いやりを持つべきであることを示しています。しかし、私たちは傲慢な本性を持っているため、いつも自己顕示したがり、教会の働きに欠陥があると簡単に人をけなし、手柄を自分のものにし、罪をなすりつけたりしてしまいます。これが私たちと他の人たちとの間に調和を欠いた協調性をもたらしまいます。私たちがこれらの節に書かれているように探求における考え方を変えて、自己主張をせずに謙虚であり、他の人の長所を見て学ぶことができれば、盲目にうぬぼれたりせず、自然と他の人たちと仲良く協力し合えるようになるのです。

   さらに、私たちは教会の働きの各業務は兄弟姉妹たちの調和のとれた協力を通じて成就する必要があり、それは1人の人間が達成できることではないことを知る必要があります。私たちは協働によってのみ、教会がその働きにおいてより良い結果を出せるようにすることができるのです。結局のところ、全ての人が何でもこなせるというわけではなく、誰もが多くの欠点や欠陥を持っているものなのです。自分たちの個人的な裁量に基づいて神に仕えていたのでは、教会の働きが良い効果を得られるようにするのは容易なことではなく、時には教会の働きにおいて逸脱を引き起こしたり、損害をもたらしてしまうことすらあります。兄弟姉妹たちと業務において協力し合っていれば、私たちはお互いを多かれ少なかれ補足し合うことができ、それによってミスをある程度は避けることができるのです。これについて、コリント人への手紙にはこう書かれています、「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように⋯」私たちは1人1人が仲間なのですから、私たちは協力し合ってのみ神から委ねられた本分を成就できるのです。律法の時代に、ヤ―ウェ神がモーゼにイスラエルの民をエジプトから導き出すよう命じられた時と同じです。しかし、口下手であったモーゼは神から与えられた任務を独力では成就できませんでした。従って、神はアロンをモーゼの代弁者として育てました。彼らはそれぞれの本分を尽くし、お互いに協力し合って、ついにイスラエルの民をエジプトから導き出し、神からの任務を完了させました。これと同様に、今日の教会はその働きにおいてより良い結果を出せるように、私たちが業務において協働するよう手配されるのです。これ故に、私たちはパートナーの欠点のみに注目したり、彼らをけなしたり、傷つけるなどすべきではないのです。私たちは物事を違う視点から捉えて、私たちのパートナーを私たちのヘルパーとしてみなすべきなのです。こうすることで、教会の抱える問題は解決し、私たちはお互いに調和のとれたパートナーシップを持つことができるようになります。これは教会の働きとお互いのいのちの成長にとって極めて有益なことです。

第3に、私たちは共通の目標を目指して働き、心の中でお互いを備え合い、支え合うべきです。

   ピリピ人への手紙2:1-2にこの記述があります:「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 2どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」エフェソの信徒への手紙4:3にはこう書かれています、「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」 これらの節から、私たちキリスト教徒は、お互いに協調のとれたパートナーシップを持ちたいのなら、共通の目標を持ち、心を1つにし、神からの任務を成就するためにお互いに心を合わせる必要があることが分かります。そうすれば、私たちの間にどのような論争や不一致があったとしても、私たち全員が神の御心が実行されるにはどのような形で物事をなすべきかを考え、個人的な意見を貫くことは止めて、代わりに利己的な利益や計画を脇に置くようになるでしょう。その瞬間、私たちは一致団結したことになるのです。

   私たちキリスト教徒は外面的にも、内面的にも結束しているべきなのです。時に、表面的には私たちの間には何の論争も起きていないように見えることがあります。しかし、私たちは全くお互いを愛し合わず、大切にせず、助け合わず、心の中にも暗黙の了解が全くないのです。私たちは皆、それぞれの問題において個人的に努力をしているだけなのです。真の団結は全くできていないのです。真の団結の表れとは次のことを言います:「教会に深刻な問題がある、または兄弟姉妹たちが困難に直面していて、否定的で弱気になっていることを知った時、全員が心を1つにして探求し祈りを捧げる。同僚が業務においてミスを犯したら、それは教会の働きに関与することであるから、彼のみならず、他の全員にその対応をする責任があることを理解できることであり、そして一緒にその問題を明確に理解して解決策を求めることである。誰かが大変な思いをしていれば、愛情のこもった心で彼を助け、一緒に神を頼り、解決策を求めることである。神の御言葉の御啓示と御啓蒙を得られれば、お互いの霊的いのちの成長を支え合うためにそれを交流かつ共有できること。私たちのパートナーの行いが主の御心に沿っていないことがあれば、私たちは相手を怒らせることを恐れずに、その問題を提起するべきであり、それは彼らにとって有益なことであるだけでなく、彼らはそれから教訓を学び、それを警告として受け止めておくことができるのです。。。」これはキリスト教徒の間の心の中における真の、かつ相互の愛情であります。私たちが1つであるということは、その言葉が示唆する通り、私たちが統一体である、つまり、私たちが自分勝手なことをせず、不和にならず、孤立せずに共通の目標に向かって一生懸命になり、努力を注ぎ、ファミリーとして一緒に暮らすことを意味しています。

   皆が知っている通り、イスラエルの民は敬虔な心をもってヤ―ウェ神に仕え、ヤ―ウェ神の律法と戒律を破ろうとはしませんでした。神に忠実に仕えたことが功を喫して、彼らは神の御業をたくさん目撃し、神の御気遣いと御加護を授かり、最終的に彼らは常に神から恵みを受けていました。これが神に仕えることにおける彼らの秘訣でした。今日、私たちは教会で法衣をまとって神に仕えてはいませんが、それでも私たちは教会で働くものであります。調和のとれた協力における原則を理解していなければ、教会の働きは神から祝福されることはなく、私たちは最終的に、神の御旨に沿った形で神に仕えていなかったことが理由で神から認められることもないでしょう。その反面、私たちは調和のとれた協力における原則を理解すれば、神の使いとなるにふさわしい人間になる希望が持てるのです。これについて、申命記10:12にはこう書かれています、「すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え…」。 業務においてキリスト教徒が調和を取りながら協力し合うことの大切さが明確に分かります。


神の御心に叶う奉仕は4つの重要な要素を理解しなければなりません

2019-06-18 21:37:17 | 礼拝説教

第1に、私たちは神を愛する心を持ち、主の御心を考慮し、全てにおいて主と心を1つにし、主の親友になろうと一生懸命に努力する必要があります。

   主イエス様はこう仰りました:「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイによる福音書 22:37-38) これらの御言葉は主イエス様が私たちに守るようにと求められる戒めであり、それ以上に主に仕える人それぞれに対し要求されていることでもあります。主は私たちが主を愛する心を持つこと、そして主の親友になる最善の努力をすることを求めておられます。ペテロを例に挙げてみましょう。彼は自らの将来を考慮したり、そのための計画を立てることなく、主に従い、そして主からの任務を担うために世俗的なもの全てを捨てました。彼は主と心を1つにし、全てにおいて主の御心を満たすよう求めました。主イエス様は死から復活された後、ペテロの前に現われました。そのことは聖書にこのように記されています、「またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい。』」(ヨハネによる福音書21:16-17)。ペテロは最初から最後まで主に忠実でした。従って、主イエス様は彼が主を愛する者になることを期待され、主の信者たちを導くという大変な責任を託されたのです。その後、ペテロは常に主イエス様の御言葉を心の中に抱き、進んで神の真の愛を追い求めることに一生分のエネルギーを費やしたのです。彼は主の御心を考え、全てにおいて主を満足させることに集中し、迫害や苦難を強いられながらでも主の信者たちを引率しきったのです。最終的に、ペテロは死ぬまで神に従い、神を極限まで愛しながら、主のために逆さ十字形に遭いました。これ故に、ペテロはまさしく主と心を1つにしていた人であり、主の親友でもあったのです。私たちは主に仕える資格を得たければペテロに習う必要があり、主を知り愛することを求め、全てにおいて主の御心を考える必要があります。加えて、私たちは、業務を行うにあたり、主の働きのため、主を讃えて主の証言を行うために自らを犠牲にし、個人的な関心を考慮したり、そのための計画を立てたり、自分たちに良いことを求めたりせずに心から主の御心を満たすべきなのです。そうすれば、私たちの業務は主の御心と調和が取れるようになるのです。

 第2に、私たちは全てにおいて真理を求め、主の御心を理解し、聖霊の働きにおいて綿密に協力し合い、聖霊の働きと歩調を合わせる必要があります。

   全てにおいて真理を求め、主の御心を理解するということは主が信者全員に求めておられることですが、それ以上に、主のしもべ全員が入り実践すべきことであります。しかし、私たちは説教したり働いている時、または何らかの問題や困難に遭遇する時、多くの場合は全く神の御心を求めようとせずに独自のやり方をしてしまいます。時に、私たちは真理を求めていても、その過程をたどるだけで、何の結果も得られていないことがあります。例えば、兄弟姉妹たちの信仰が冷めていくのを見たり、世界のトレンドを追いかけて肉の快楽を楽しんでいる者を見たり、主を見捨てて裏切る者たちを見ると、私たちはただ単に彼らを支えて激励するといったありとあらゆる外面的な行動を取ることに集中し、やるべきことをやってさえいれば十分だと思っています。しかし、私たちは主の御心を求め理解することには全く注意を払わず、これらの問題の根源は何なのか、教会を蘇らせて神を安心させ、満足させるためには何をすべきであるのかということは全く考慮していません。主の御心を理解して求めることがなければ、私たちは神から増々離れていき、心の暗さと渇きを感じ、主の御前に触れ、御指導を受けることができず、歩む道を持つこともないのです。

   しかし、常に主の御心を理解することに集中していれば、私たちは聖霊の御啓示と御導きを容易に受けることができ、教会で起きている問題や困難を次第に見抜けるようになり、どのようにして主に仕える働きを適切にこなし、私たちの業務においてどういった原則を把握しておくべきで、どのようにして、心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くし、そして力を尽くして私たちの本分を適切にこなして神を満足させるのかということがはっきりと分かるようになります。こうすることで、本分を実行するにあたり、私たちの人間的な考えは減り、行動を取る上で自分たちの観念と想像、能力や内面的素養に頼ることがなくなります。私たちの神との関係は普通になり、神の御心に沿った本分が行えるようになります。例えば、教会が悲惨な状態にあるという問題や、多くの信者が消極的かつ弱気になり、世俗的なものを求めるという問題に直面する際、私たち神のしもべは主の御心と要件を求めることにもっと努力を費やすべきなのです。私たちは教会が悲惨な状態に陥る根源を見つけることができれば、兄弟姉妹たちが主への信仰を取り戻すためにどう手助けすればよいのかがわかります。私たちは今こそが終わりの日の終末であると分かっています。この時期に教会が増々悲惨になり、信者たちが消極的かつ弱気になり、世俗的なものを追い求めるのはよく起る現象です。これは聖霊がもはや宗教界で働いていないことを示しています。これについて神はこう仰りました:「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)。悪化しつつある教会の悲惨さな状態を解決するために、私たちは聖霊の働きが宿る教会を見つけ、聖霊の働きの傾向と動きを追求し、新たな啓示と啓蒙を求める必要があります。私たちが自分たちの観念と想像を手放し、敬虔な心、および真理を切望し求める心を持っていれば、主は間違いなく私たちが主の御心を理解できるよう御導きくださり、生ける水の備えを受けられるようにしてくださります。真理を求める心を持って神に仕えていれば、私たちは神の啓蒙と祝福を授かり、私たちの欠くもの全てが神によって補われ、完全にされます。

第3に、私たちは業務において神を讃え、神の証言をし、兄弟姉妹たちを神の前に導くため、神の御言葉を実践し、そして神の御言葉を使用して問題を解決する必要があります。

   人々を神の前に導くことは神に仕える者たちに対する神からの要求であります。人々を神の前に導きたい場合、私たちは神の御言葉と神の要件に従って彼らを導き支える必要があります。そのためには、私たち自身がまず神の御言葉の体験と知識を持ち、主の御心と要求に関する理解をある程度は得ている必要があります。私たちは全てにおいて、そして神がご用意くださる環境において、自らの欠陥と不備を知るために神の御言葉を熟考し、そして神の御言葉の中に実践するべき正しい道を見つけることを学ぶ必要があります。神の御言葉を体験し実践することを通じ、私たちは神の実際の、かつ真なる知識を習得し、私たちの神との関係は増々適切になるでしょう。こうすることで、私たちは遭遇する問題や困難の本質を見抜き、そして自らの実体験、ならびに神の御啓示と御指導を通じて兄弟姉妹たちが神の御心を理解し、実践するべき道を見るけるのを助けることができるようになるのです。例えば、兄弟姉妹たちの間に意見の相違があり、業務を行う上で彼らが仲良くできていない様子を目にする時、私たちがこの問題の本質を知ることができず、それを解決するために神の御言葉を求めていなかったとすれば、私たちは自分たちの考えで彼らを注意したり、激励したり、または聖書の内容に従って彼らを非難して教育し、今後そういうことはしないようになどと言うでしょう。このような行為はただ単に彼らを物事の是非に執着させるだけで、彼らを神の前に導くことは全くできないのです。しかし、私たちが問題を解決するために真理をもって実践し、兄弟姉妹たちに神にもっと祈りを捧げ、神をもっと頼りにし、神の働きを一緒に体験するように指導していれば、彼らは、「私たちは誰もが堕落した性質を持っており、それによって支配されコントロールされている私たちは他人と普通の関係が持てず、そしてそれはサタンによる欺きと堕落であること、神は私たちの堕落した性質を清めて変えるための環境を用意してくださること、私たちが自ら持つサタンの堕落した性質を知り、それを嫌い、自らの肉に背き、我執を捨て、真理を実践し神を満足させることに意識的に注意を払うことができれば、私たちは物事の是非に執着せず、他人と仲良くできるようになり、神が用意してくださる人々、出来事、物事、および環境から何らかの教訓を学ぶことができる」、ということを知るでしょう。従って、業務を行うにあたり、私たちにとって最も重要なことは、兄弟姉妹たちが神を知り、神の御心と要求を理解することを学ぶように指導し、神はどのような人を愛されるか、そしてどのような人を嫌われるかを理解させ、神の性質と神そのものに関する真の知識を修得させることであり、そうすることで彼らは神の御言葉を実践し、神に従い、神を崇拝できるようになるのです。これこそが人々を神の前に導くということであり、神を讃え、神の証言をしているということでもあるのです。

   しかし、もし私たちが自己顕示するため、および自らを褒め称えるために説教を説いて、自分たちのイメージを確立させることには集中しているが、真理を使用して問題を解決することができないという場合、私たちが主の御言葉を実践して主の道に従うよう人々を導くことができていない場合、そして私たちが人々を神の前に導き、神を尊敬させ、神を頼らせるために神を褒め称え、神の証言をするということをしていない場合、私たちの業務は実際に主に抵抗していることになり、私たちは反キリストが歩む道を歩んでいるということになります。聖書に記述されているパリサイ人のことを振り返ってみましょう。彼らは説教と働きを行う中で人間の習わしを遵守していましたが、神の戒めを捨て去り、神の道から逸脱していきました。加えて、彼らは頻繁に自分たちの証言を行って自らを褒め称えるような形で聖書の手紙と教義を解釈し、その結果、人々は誰もが彼らに耳を傾け、彼らに従い、神から離れ、神を裏切ったのです。主イエス様はこう仰りました:「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、また、宴会の上座、会堂の上席を好み、広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。」(マタイによる福音書23:5-9). 主イエス様は私たちが唯一なる神のみを信仰し、崇拝することを要求されていることが分かります。従って、私たちはパリサイ人の業務を拒絶し、常に神を褒め称え、神の証言を行い、私たちの兄弟姉妹たちを神の前に導く必要があります。このような業務のみが神の御旨に沿った業務なのであります。

第4に、私たちは神の御心が妨害を受けることなく実行されることを保証するため、神の前では常に静まり、自らを省みて自己認識し、自らの罪や過ちを発見したら迅速に正すべきであります。

   私たちは、主のしもべとして、常に神の御前で生きる必要があります。私たちは神の御啓示と御指導を通じ、自分たちはサタンに堕落させられているという真理を見抜き、真理を持っていないことがどれだけ哀れで、悲惨なことであるかを認識し、自らの欠陥と不備をはっきりと知り、自己認識を得るべきであります。私たちはまだ完全にされていないため、自分たちの本分を十分な形で尽くすことができず、業務を行う上で逸脱したり罪を犯すのはとても普通なことです。私たちは自分たちの逸脱と罪を発見したら素早く神の前に行き、神の御言葉に従いながら敬虔な心と探求心をもって自らを細かく分析して省みるべきです。これと同時に、私たちは周りにいる兄弟姉妹たちと純粋かつ率直に会話をするために自らの面目、虚栄心、そして地位を脇に置き、真実を受け入れ、彼らから批評と指示を受け入れて過去の過ちを繰り返さないようにするべきなのです。こうしてのみ、私たちは神の御心が私たちの内で確実に実行されるようにすることができます。

   例えば、私たちは誰もが傲慢な性質を持ち、人々よりも高い地位にいることを楽しみ、常に働きや説教において自慢げに話しをして自己顕示し、人々に自分たちを尊敬させ、崇敬させようとします。この結果、兄弟姉妹たちは人間に耳を傾けることしか学ばず、遭遇すること全てにおいて人間に従うため、彼らの心には神が宿れる場所がありません。このような教会はとっくの昔に神の御導きを失っているので教会の働きは全てが混乱した状態にあり、何の結果も得られず、私たち自身も頻繁に壁にぶつかって失敗に苦しんでいます。この時、私たちは神の前で素早く静まり、自らを知るために自らの思考と考えを省みて、自分の言葉と振る舞いを知り、神の御言葉による裁きと刑罰、そして暴露と取り扱いを受け入れるべきなのです。これより、私たちは、「私たちは神に仕える機会を利用して自らを褒め称え、自らの証言をし、名誉と地位を手にするために自分たちの欲望を満たすことを追い求め、人々を私たちの前に導いている。私たちがやっていることは、人々を求めて神と争い、神の選ばれし人々を操って自分たちのものにするということであり、私たちは神が見下され、忌み嫌われる反キリストの道を歩んでいる。私たちは悔い改めなければ、神の性質を害し、神から罰を受けることになる」、ということが明白に分かります。私たちは、問題の深刻さを知った後すぐに悔い改め、神に告白し、肉に背くことを実践し、私たちの働きや説教において意識的に神を褒め称え、神の証言をし、忠実に業務をこなし、誠実に振る舞うべきであります。さらに、私たちは神と適切な関係を築くことに注意を払い、神の御心と任務を常時心に留め、神の御心が妨害されることなく実行されることを保証する目的でのみこの人生を生きるべきであります。このように誠実に悔い改めていれば、主は徐々に私たちが正しく業務を行う道を歩むよう導いてくださるでしょう。

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信仰とは何か、どのように信仰を持つようになるか

2019-06-17 22:33:12 | 礼拝説教

   信仰とは何でしょうか?主にある多くの兄弟姉妹たちは、神様の御名を認め、根気よく聖書を読み、集会に参加し、祈り、更にはすべてを犠牲にして勤めさえできれば、自分は神様への信仰をもつ信者であると思っています。しかし、これは一面的な解釈です。実際、神様への真の信仰とは、私たちの精神と身体が精錬や逆境の中で大きな苦難に耐えるとき、それでも神様を誤解したり、神様について文句を言ったりせず、その代わりに神様に服従し、たゆまずに神様を信じ、神様に従えることを意味します。



   聖書の記録から私たちは次のことを知ることができます。ヨブがサタンによって誘惑されたとき、ヨブの家畜は盗賊に強奪され、使用人たちは殺され、子供たちは惨事にみまわれ、彼自身は体中に痛い腫物ができ、ヨブの妻は彼をあざ笑い、神様の御名に背くように言いました。これらの突然の災難に直面したとき、彼は心身ともに痛みに耐えました。しかし、ヤーウェ神様が彼から奪われたことについて文句を言わず、ヨブは「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)と言いました。彼は神様に関する強く顕著な証しを立てたので、これがサタンに恥をかかせ、サタンを負かせたのです。ヨブの神様への信仰を見て、神様は二倍にヨブを祝福し、更なる牛や羊と美しい子供たちを彼に授けました。そして最終的にヨブは年老いて死にました。ヨブは信仰の模範であり、主を信じる私たち一人ひとりが見習うに値する人物です。

   ヨブの証しからわかるのは、神様が彼を祝福したとき、ヨブは人の持っているものはすべて神様の祝福によるものであると信じていたので、彼は神様に感謝し、神様を礼拝し、また彼が神様の試練にあったときも、たとえそれを理解できず、心の中で痛みを感じても、彼はまだ神様に服従し、文句を言わなかったことです。これこそが神様への真の信仰であり、神様への人間の誠実な心なのです。「信仰とは何を指すのであろうか。信仰とは、あるものを人間が見たり触れたり出來ない時、神の業が人間の観念と一致しない時、また、それが人間の手に屆かない時に、人間が持つべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。人々は、苦難や精錬の時、信仰を必要とする。そして信仰には精錬が伴う。これらは切り離せない。」と神様の御言葉にあるとおりです。

   それでは、私たちはどうしたら神様への真の信仰を育てることができるのでしょうか?このためには、私たちは日々の暮らしの中で神様の御働きを実践的に経験し、その価値を十分に認識することが必要です。私たちの人生のための神様の支配と指揮と采配、また神様の権威と御業を見ることができ、それらを通して神様についての本物の認識をもつことができたとき、どれほど神様の御働きが私たちの観念に沿わなくても、それにもかかわらず私たちは神様への信仰を保つことができます。これはヨブと全く同じです。彼は神様について聞いたことはあっても、神様を見たことはありませんでした。しかし、彼は神様の権威を知り、すべての物事において神様の義を見ることができました。例えば、人間の運や不運、どれほどのお金を人が手に入れるか、生涯で何人の子供ができるか等、これらすべては、人間自身の計画や計算に関わらず、神様の権威の下にあることをヨブは知っていました。誰が邪悪で神様によって罰せられ、誰が心が優しく神様の恵みと祝福を授かるか等を、彼は見ていました。神様に関するこれらの認識があったため、彼は神様への真の信仰を育てたのです。ですからサタンの誘惑にあったとき、惨めではありながらも、彼はその享受していたものすべてが神様から与えられたものであり、彼自身の勤勉な働きにより手に入れたものではなく、また神様がそれらを取り上げられるのであれば、彼は神様について文句を言ったり、神様を誤解したりするべきではなく、神様に服従するべきであることを知っていたのです。ですから彼は神様に対して一切の要求をせず、神様の指揮と采配を受け入れて服従し、サタンの前で神様への顕著な証を立て、神様に受け入れられたのです。もう一つの例はモーセです。彼は四十年間荒野にいました。そこには誰もいなく、友人は昼は羊、夜は星だけでした。しかし神様に頼ることで、このつらい四十年間をモーセはついに乗りきりました。この経験を通して、神様の御手によってすべてが指揮され、神様にできないことは何もないと、彼は本当に実感しました。このような神様についての認識が、神様への真の信仰を育てる助けとなったのです。ですから、神様が彼にイスラエルの民をエジプトから導き出すように言ったとき、彼は神様の御前にひれ伏し、その任務をためらわず受け入れたのです。彼はどうしてエジプトの軍隊を一人で打ち負かすかなど心配せず、ただ単純に服従しました。これはすべての物事が神様の御手の中にあり、神様によって指揮されていると彼は信じていたからです。最終的に、神様への真の信仰に頼ることにより、彼はイスラエルの民をエジプトから導き出すことに成功したのです。

   ですから、もし私たちが神様への真の信仰をヨブとモーセのように育てたいのであれば、私たちの日常生活において神様の御働きを実践的に経験しなければなりません。特に何らかの苦労や悲惨な状況にみまわれたとき、私たちはまず初めに意図的に服従するべきであり、それから神様を仰ぎ、神様に祈り、神様の御旨を求めるべきです。これらを通して神様への真の従順を達成できたとき、私たちは必ず神様の素晴らしい御業を見、神様への真の信仰を育てることでしょう。この時点で、私はある新しい姉妹の経験を思い起こします。彼女が神様の新しい御働きを受け入れて間もなく、彼女は病気になりました。その後、病状はだんだんと悪くなり、顔面神経麻痺になる危険さえありました。そのころ彼女はとても弱く、酷い痛みに悩まされていました。しかし、祈りと神様の御言葉を読むことを通して、彼女はサタンが病気を利用して彼女をかき乱そうとしていることを理解するようになりました。この病気はサタンの誘惑であり、また神様の試みだったのです。神様の御意向を理解した後、彼女は神様に祈り、自分のすべてを神様に委ねて証しを立てる決意があると言いました。その後、彼女は驚くほど速く回復しました。このようにして、彼女はその病気のために神様から離れなかっただけではなく、神様の素晴らしい御業を見たことによって、神様に従う決意をいっそう強めたのです。また、一人の兄弟がいました。彼は最初に神様を信じ始めたとき、とても情熱的でした。しかし、その後彼は神様への信仰のせいで中国共産党に追われたので、家を離れて放浪者のようなホームレスの暮らしを余儀なくされました。これは非常に苦しく、彼は弱ってしまいました。後に、神様の御言葉を読むことを通してのみ、彼は自分の神様への信仰の不純に、その信仰が神様の祝福と恵みを授かるためだけのものであったことに気付いたのです。ですから彼は自分の神様への信仰についての間違った見方を正しました。その後、彼は厳しい状況の中において絶えず神様に頼り、福音を述べ伝えるその本分を尽くしたので、何度も中国共産党の追っ手から逃れることができました。このことを通して、彼は神様の素晴らしい御加護を身をもって体験し、神様の全能性と知恵も見ることができました。そして彼の神様への信仰はますます育ったのです。

   このような実践的な経験は、私たちが実際の状況において神様の導き、支え、助け、または懲らしめや鍛錬をしっかりと経験する限り、神様が私たちの中でなさることはすべて私たちへの神様の愛と救いであると理解できる、と教えています。そうすれば私たちは神様について真の認識を得、その全能性と知恵の偉大さを実感し、神様の義なる御性質が人間によっては不可侵であることをよりよく知ることができます。その時がきたら、私たちは神様を畏れる心を持ち、それによって私たちは神様への真の信仰を育てることでしょう。

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クリスチャン必読の試練―神様からの別の祝福

2019-06-16 21:57:58 | 礼拝説教

   クリスチャンである私たちは誰一人として試練と無関係ではありません。聖書にはこう記されています。

   「わたしはこの三分の一を火の中に入れ、銀をふき分けるように、これをふき分け、金を精錬するように、これを精錬する。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『彼らはわが民である』と言い、彼らは『ヤーウェはわが神である』と言う」(ゼカリヤ書13:9)

聖書にはこうも記されています。

   「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(ヤコブの手紙1:2)

   このことから、神様はご自身の選民に精錬と試練をお与えになり、それを通じて私たちの信仰と神様への愛を完全にし、私たちの堕落した性質や信仰における汚れを解消し、私たちの誤った見方を矯正するとともに、私たちが清めていただけるようになることを望んでおられることがわかります。それゆえ、私たちは自分の観念に反する様々な環境に遭遇する可能性があります。そうした環境の例として、病気の精錬に遭遇するというものがあるかもしれません。また親戚の苦難や自宅に盗人が入るなど、家族が不運に見舞われることもあれば、仕事で困難に出会ったり、人生において自分の望まない状況に遭遇することもあるでしょう。また別の例として、自分の肉体的な利益が教会の利益と衝突するとき、何をしようと決断するか、ということが挙げられます。これらの例はいずれも疑いの余地なく私たちにとっての試練です。では、神様が私たちのために用意される試練に対して、どのように対応するべきでしょうか。そして私たちに試練が降りかかるとき、神様の御心はどのようなものでしょうか。

   最近、私は聖書について深く考えてきましたが、試練が降りかかったときのヨブとアブラハムの経験に啓発されました。それをみなさんと分かち合いたいと思います。

ヨブの試練

   初めに、ヨブという名で知られる聖書の登場人物に触れなければなりません。ヨブは生涯にわたって神様を畏れ悪を避け、しばしば神様に捧げ物を行なったため、神様は山のような牛と羊、そして巨大な富を与えて彼を祝福なさいました。聖書に記されていることから、ヨブがいかに祝福されたかを見ることができます。

   「彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった」(ヨブ記1:2-3)

   しかしその後、試練がヨブに降りかかります。牛と羊とらくだは強盗に残らず奪われた上に燃やされ、しもべは殺され、子どもたちは崩れ落ちる家の下敷きになりました。災難と呼ぶことのできるこのような出来事が立て続けにヨブを襲ったのです。では、それらのすべてにヨブはどのように対応したでしょうか。そのとき、ヨブはそれでもなお神様の聖なる御名を讃え、こう言ったのです。

   ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)

   その後、ヨブの全身は痛みを伴う腫れ物に苛まれ、灰の中に座って素焼きのかけらで腫れ物をかきむしりました。東で最も豊かだったこの人は物乞いとなりました。ヨブに降りかかったこれらの試練は、きっと私たちには耐えがたいものだったでしょう。しかしヨブは決して神様を責めず、その代わりに神様への信仰に満ちたまま神様を讃えたので、サタンは恥をかき逃げ出しました。

   ヨブは強く響くような神様の証しを行ない、神様の試練を難なく通過しました。それらの試練に続いたのは、神様からのさらなる祝福でした。富と牛は二倍に増え、子どもたちは一人ひとりがひときわ美しくなりました。しかも神様はヨブがさらに140年生きることをお許しになり、そのため210歳まで生きました。神様の試練を経験したあと、ヨブは人々に試練をお与えになる神様の御心をより深く理解するようになったのですが、それは次の言葉からもわかります。

   「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう」(ヨブ記23-10)

   こうした試練のあいだ、ヨブはしっかりと証しを行ない、その証しはサタンを恥辱にまみれさせ、他人からの大いなる賛美をもたらしました。その後、サタンは再びヨブを誘惑しようとせず、ヨブは真に自由な人間となり、神様の称賛を得たのです。



   さらに、ヨブが試練を耐えたあとで受け取ったより大きな祝福として、嵐の中神様がヨブのもとに現われ、彼に話しかけ、ご自身の全能と統治についての深い認識をお与えになりました。ヨブはこう言いました。

   「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42:5)

   神様の出現を見ることができる被造物になることは、かくも偉大な祝福なのです。

   ヨブの経験から、神様の称賛を得る彼の能力は、試練が降りかかったときの行動と不可分であることがわかります。自分自身の観念にまったく反する試練のあいだ、私たち一般人が有していない理性をヨブは有していました。まず何より、ヨブは神様を責めず、強盗から富を取り戻すために人間的な手段を一切使いませんでした。その代わりに神様の御前で自分自身を静めることができ、私たち人間は神様から祝福を得るが、まったく同様に災難にも苦しむと信じました。自分に降りかかった状況がどれだけ自分の観念に反していても、ヨブは神の御名を讃え続けたのです。

アブラハムの試練

   ここでもう一人聖書に登場する人物、信仰の父アブラハムについてお話ししたいと思います。アブラハムが百歳の時に神様から息子を授けられ、そのイサクを深く愛したことを、兄弟姉妹はみんな知っています。しかしある日、神様の試練がアブラハムに降りかかります。神様はこう言われました。

   「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22:2)

   考えてみてください。このような試練は誰にとっても耐えがたいものであり、それゆえ中には神様に対抗したり、観念で一杯になったりする人もいるかもしれません。では、アブラハムはどのように対応したでしょうか。大きな悩みと痛みを感じながらも神様に従い、口論することも条件を主張することもなかったのです。一人でイサクを山に連れて行き、彼を殺そうと刃物を振りあげたまさにその時、神様は天使を遣わしてアブラハムの手を止めさせ、それで試練は終わりました。さらに、神様は誓いをなされ、大いなる祝福をアブラハムに授けられました。神様はこう言われました。

   「わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」(創世記22:17-18)

   私は別の本のこの一節も読みました。

   「人間にとって、神のする多くのことは理解しがたいものであり、信じられないようなものですらある。神が誰かの指揮を取ろうとするとき、その指揮はしばしば人間の観念とかみ合わず、生まれた不協和音と理解不能なものごとが人間に対する神からの試練となる。アブラハムはその点、自身の神への従順を示すことができた。そしてそれこそが、神の要求を満たすための最も基本的な条件だったのである。アブラハムが神の命令に従いイサクを捧げることができた時になってはじめて、神は自分が選んだ人間であるアブラハムに対して真の確信を得た。この時はじめて、神は自身が選んだこの人が、自身の約束とその後の経営(救いの)計画になくてはならないリーダーとなることを確信するのである」

   この文章から、神様は私たちを試すために環境を整えていらっしゃることがわかります。外側から見ると、そうした試練は私たちの観念に反していて理解しがたいものであり、そのせいでそのような環境では痛みや苦しみを感じますが、それらの試練には神様の丹念な努力が満ちあふれています。試練においてアブラハムがしっかりと証しを行なったとき、神様はアブラハムの誠実さをご覧になり、息子をお取りにならなかっただけでなく、子孫が浜辺の砂粒と同じくらい、あるいは天の星と同じくらいに増えるようにアブラハムを祝福なさいました。その背後で、神様の御心はさらに深い段階に達しました。人類を経営する働きのリーダーとしてアブラハムをお選びになったからです。神様はアブラハムの子孫を通じて人類を経営する働きを行なおうとお決めになり、これらの人々を通じてご自身の行ない、知恵、権威、力を示されることになりました。旧約聖書を読むと、律法の時代における神様の働きが、おもにイスラエルで行なわれたことが容易にわかります。つまり律法をお示しになり、人々を地上での暮らしにおいてお導きになったのです。イスラエルは、地上における神様の救いの働きが試され、生まれた地でした。また神様の最初の受肉もイスラエルでその働きを行ないました。神様はユダヤ人の姿をおとりになり、人類を贖われましたが、その結果、人類を贖う主イエスの福音が恵みの時代においてユダヤの地から全世界へと広まることになりました。

   このことから、アブラハムの受け取った祝福の偉大さがわかります。アブラハムが多くの国々の父となれたこと、そして彼の子孫が神様に祝福されていることは、初期の時代に降りかかった神様の試練につながっていると言えるのです。

   これらの経験から得られた啓発

   アブラハムとヨブに降りかかった試練から、私たちが遭遇する試練はどれも神様のよき御心を含んでいることが容易にわかります。それらによって神様の祝福が得られるだけでなく、さらに重要なことに、私たちの霊的ないのちが飛躍的に成長し、神様についての認識をさらに得て、さらに勇敢に安定して神様を信じる道を辿れるのです。アブラハムとヨブに降りかかった試練は、私たち一般人が経験するようなものではありません。それは私たちが二人のような霊的背丈を持っておらず、またこのような試練に耐える資格もないからですが、それでも人生において大小問わず様々な難しい試練に遭遇することがあります。ある姉妹が病気のために痛みに苦しみ、命が危機に瀕しているのを私は見たことがありますが、それでも彼女は神様への信仰に満ち、自分の生死を神様の御手に委ねることを望みました。自分の病気が回復するかどうかに関係なく、それでも神様の采配と指揮に喜んで従う覚悟だったのです。そしてついに神様の行ないを目撃し、病気は奇跡的に回復しました。この過程のさなか、神様への彼女の信仰はさらに増し、神様の全能性と統治についてさらに現実的な認識を持つようになりました。職業において万事が良好に進んでいるときは神様の祝福に感謝するけれど、仕事が困難だらけになったり、家族のお金が足りなくなったりすると、心の中に不満が持ちあがり、祝福してくださらないことで神様を責めるような兄弟姉妹がいます。ところがその後、神様の御言葉の啓示を通じて、神様への自分の信仰が単に神様との取引に過ぎないこと、また神様を豊饒の角と見なしていることに気づきます。そうして神様への信仰の裏にある誤った動機を理解するようになり、かくして信仰への誤った見方を正し、被造物として正しい場所を占めるようになります。正しい動機をもって経験するとき、いのちが成長するだけでなく、仕事も再びうまくいきます。兄弟姉妹がこうした試練に直面するとき、彼らの肉体は様々な程度に苦しみますが、これらの試練からさらに貴重なことを得ます。つまり人間をお救いになる神様の御心をさらに理解し、神様についての認識が現実的になり、さらに多くの真理を得るのです。ゆえに、試練は私たちクリスチャンにとって神様からの別の種類の祝福であり、私たちのいのちが成長し、私たちが神様の称賛を得るために通らなければならない道だと言えるかもしれません。

   クリスチャン一人ひとりにとって試練はこのように有益なのですから、試練や苦難が降りかかったからといって文句を言うどんな理由があるでしょうか。友のみなさん、そう思いませんか。

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