賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

うつ病を克服する方法を見つけましょう!

2019-06-15 22:47:11 | 信仰生活

私の家族がうつ病になりました

   うつ病はここ数年で広く知れ渡るようになりました。官僚、有名人、学生、または賃金労働者など、多くの人々がそれに悩まされています。以前、私はニュースでその言葉を目にしたことがあるだけで、まさか自分の家族がそのえじきになるとは思ってもいませんでした。

   私の娘はかつて幸せな家庭をもっていました。私の義理の息子は散髪屋を経営する社交的で友好的な男性でした。彼は収入はさほどありませんでしたが、競合圧力もほとんどなく、気楽な生活を送っていました。しかし、子供が生まれた後、彼らは家計をやりくりすることができなくなってしまいました。私の義理の息子は友人の多くが車を持っているのを見て嫉妬で溢れていました。生活の質を改善させようと、彼は自分の店を閉店して、大きな美容院に働きに行きました。そこで足掛かりを築こうとした彼は朝から夜まで働き、夜の12時頃まで帰宅しないことがよくありました。彼は頻繁に自腹で中国や韓国に行って上級者向けの勉強会にも参加していました。なぜなら、彼の職場では常にスキルアップして客を引き付け、その客を維持していないと、解雇されることを逃れられないからです。日が経つにつれ、私の義理の息子は憂鬱になり、口数も少なくなり、あまり笑顔を見せなくなってしまいました。従業員は全員が月6万元以上の売上目標を達成することを会社から義務付けられていて、そのノルマを達成できない人は月例会議の際に全員の前でテーブルを3度はい回り、犬のように吠えさせられるんだと彼は口にしていたことがありました。笑い者にならないようにと、彼の同僚の中には自分のお金を足して売上目標を達成している人たちもいました。社内では、口が達者で上司にこびる人たちが昇格していました。私の義理の息子は上司の行動を嫌っていたので、決してお世辞を言いませんでした。これ故に、彼は上司から強い風当たりを受けていたのです。このようなプレッシャーの中で、彼はそこで働くのが嫌になってしまいました。しかし、同僚の多くが家や車を持っていることを考えると、彼は辞める訳にはいきませんでした。この結果、彼は精神的葛藤に陥り、それから抜け出せなかった彼は徐々に口をきかなくなり、怒りっぽくなったのです。その後、彼の状態は更に悪化していき、死ねば問題は全て解決するなどといったようなことを頻繁に口にするようになり、彼は私の娘に子供を育てて欲しいとまで頼んでいました。これを知った私たちは検査を受けさせようと彼を病院に送り、彼は精神科医にうつ病と診断されたのです。彼が病院にいた時、私はうつ病患者の大多数はオートローン、住宅ローン、仕事または感情的な理由で病を患っていた若者であったことを知りました。その中にはいい成績をとるプレッシャーが原因でうつ病に罹っていた10代の学生すらいました。活動的で明るい生活を送っているべき若者がどうしてうつ病などに罹っているのか、私は理解できませんでした。



現代の若者はどうしてうつ病の中を生きているのでしょう?

   後に、私はインターネットで偶然ある報告結果を見つけ、そこには中国におけるうつ病発症率は世界平均を上回っていると書かれていました。うつ病患者の数は9000万人に及び、毎年10万人以上が自らの命を絶っています。あるアンケートによると、職場や就職のプレッシャー、そして若者の精神状態が最も深刻であり、彼らは世間、住宅、そして子育てに関することから相当なプレッシャーを感じているとのことでした。このようなプレッシャーが緩和されずに長期間続くと、若者はうつ病になりやすくなってしまうのです。この報告書を読んだ後、私はこう思いました:「この現代社会で、一体どうしてこの若者たちはこのような苦しみとうつ病の中で生きるはめになってしまったのでしょう?」

うつ病の根源

   ある日、私の通う教会からワン姉妹が私の自宅にやってきました。私の困惑を知った彼女はハンドバッグからタブレットを取り出して、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「サタンが人間を虜にし、支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけます。足かせは人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気もありません。したがって人間は、無意識のうちに足かせをかけられた状態で極度の困難の中を歩んでゆきます。この名声と利得のために、人間は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆきます。」。 姉妹はこれらの御言葉をまとめてこのように交流してくれました、「若者はどうして激しいプレッシャーをかけられながら生きて、うつ病に罹っているのでしょう?それはサタンが名利を使って人間を閉じ込め操っているからです。それは、一旦名利を手にすれば、高い地位と大きな富を取得し、他人を見下ろすように生活し、全ての人から尊敬されると私たちに誤解させているのです。それは私たちが名利を全力で追い求めるようにするために、このような高い理想を抱かせるのです。その結果、私たちはこのサタンの思考の中に捕まって逃げられなってしまいます。そして、自分たちの目標や理想を手にすることができないと、私たちは困惑と苦しみに陥り、そこから抜け出すことができなくなるのです。あなたの義理の息子さんも同じです。彼は車や家を所有している人たちに嫉妬し、他人から尊敬されるためにそれらを手にしたいと思ったから、それらを求めて苦労しながら努力して、苦しい生活をしていたのです。しかし、彼は目標を達成できなかったので、苦しみに陥りました。生活面と精神的なものを組み合わせたプレッシャーの中、彼は常に神経が張り詰めた状態にあり、それが彼を精神的に参ってしまう直前まで追い込みました。そして、彼はこの苦しみから脱出するために死にたいとすら思ったのです。これより、若者は誰もがサタンの植え付ける人生観を指針として生活し、成功と他人の上を行くことを追い求め、名誉、利益、そして地位を求めて人生を過ごすということが分かります。彼らは望みを叶えることができないと、落ち込んで死にたいとまで思います。この時点で、彼らは抵抗する術なく、サタンから悪の巣窟におびき寄せられてしまっているのです。ついに、サタンは人間を地獄へ連れて行き、人間を虐待し貪り食うという悪質な目的を達成するのです。」

   私は姉妹の交流を聞いた後、サタンが人間を傷つけるために用いる手段はとても極悪非道たるもので、名利は人類を強く束縛するものであると感じました。人生の浮き沈みを経験してきた私たち年寄りですら名利の束縛から抜け出すことができないのに、若者にそれができるはずがありません。そして私は姉妹にこう尋ねました、「サタンは私たちを酷く傷つけるので、それから抜け出す方法はないのでしょうか?」

うつ病から抜け出す方法

   姉妹はこのように私と交流してくれました、「この苦しみを解消したければ、私たちは神の前に行なければなりません。それは、神の御導きがなければ、無知な私たち人間は人間に苦難を与えるというサタンの悪質な動機や策略を見抜くことができず、むしろ依然として名利を追い求めることは適切なことであり、前進する意欲の表れだと思い続けるからです。こうして、私たちは必然的にサタンの害を受け続けるのです。神の御言葉をもって読んでみましょう。そうすればもっと良く理解できるでしょう。『こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法がある。それは、自分の従前の生活様式や、従前における人生の目標と訣別し、従前の生活様式、哲学、追究、願望、理想を概括し、分析して、それを神の旨や人間に対する要求と比較し、そうした従前の物事すべてが、神の旨や要求と矛盾していないか、人生の適切な価値をもたらすか、自分を一層深い真理の理解へと導くものであるか、人間性と人間らしさによって生きるようにさせるものかを確認することである。人々が追究する人生の様々な目標や生活様式を繰り返し調査分析すると、創造主が人間を創った時点における創造主の元来の旨に適合するものがひとつも無いことが分かるであろう。そうした目標や生活様式は、全て人間を創造主による統治と慈しみから引き離すものであり、人間を陥れて地獄へと導く罠である。このことを確認した後の作業は、従前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神に自分の人生を采配してもらい、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、それ以外の選択肢に惑わされず、神を信仰する者となることである。』。従って、神の前に行って神の御救いを受けてこそ、私たちは生活の仕方とサタンに植え付けられた誤まった人生観と価値観を変え、サタンの引き起こす苦しい生活を一掃することができるのです。」

   姉妹の交流を聞いた後、私の悲しさは消えていき、私は義理の息子の助け方を知りました。私は、神を心から頼りにして神の御言葉に従って生活していれば、私の義理の息子はサタンの束縛と害から脱出し、うつ病からも抜け出すことができると信じました。なぜなら、神の御言葉は人間にいのちを与え、正しい道を示すことができる真理だからです。

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富と名声の沼を歩いて渡る

2019-06-14 09:51:43 | 信仰生活

   私は騒がしい道を歩きながら行き来する人たちを見ていると、激しい感情に圧倒されました:「人生は短いのに、私たちは一体何のために生きているのかしら?私たちはいわゆる理想とキャリアを求めながら家族を食べさせるために走り回っているわ。喜びと悲しみを沢山経験した後、成功を収めた人や失敗に終わった人を含め、生きる意味を理解できた人はいるのでしょうか?」

   一度私も、素晴らしい人生を手にする夢を持ちながら、自分の理想を根気強く追い求め、富みと地位の間を行ったり来たりしていたことがありました。

   思い返せば、悲嘆しか感じたことがありませんでした…

   私は二十歳だった時に貧乏だった夫と結婚しました。結婚した後、私たちは大変な生活を送りましたが、私は夫が幸せにしてくれると信じていました。他の人たちから見下されないようにと、私たちは一生懸命に働き、いつの日か名声と富を手に入れてもっといい生活が送れることを思い浮かべていました。しかし、この苦労を通じて私が本当に得たものは苦難、辛さ、虚しさ、そして無力感のみでした。

   この物質主義社会で自分たちの地位を確立するため、私の夫と私はビジネスでかなり苦労しました。長期間続いた過労と不安が原因で、私は神経性の頭痛を患い、ほとんど睡眠がとれなくなってしまいました。しかし、私の根強い努力はついに報われました、私たちは30平方メートルの家を手にしたのです。しかし、この喜びと満足感は長続きしませんでした。それは他の人たちの家と比べると、我が家は小さ過ぎたからです。こうして、私たちは更に一生懸命働いて、後に広々として明るい家に引っ越しました。その時、私はとても満足で幸せでした、なぜなら私はやっと以前のように劣等感を感じることなく胸を張って歩けるようになったからです。私はやっと夢にまでみた生活を手にしたと思っていましたが、他の人たちが大きなマンションに住んでいたり、車を運転しているのを見ると、心の中で少し気が転倒し、そのような生活のみ意義があると思いました。自分たちの欲望を満たすため、私の夫と私はビジネスに打ち込みました。しかし、私は最終的に自分たちの所持品を全て失い、良くなり始めていた私たちの生活も降り出しに戻ってしまうとは予想もしていませんでした。人々の冷たい軽蔑のまなざしを見ていると、私は悲しくなりました。そして、私は自分にこう約束しました:「私は失敗には決して屈しないわ。私は人から尊敬されるようにより良い生活を求めて努力する必要があるのよ。」私は復活を遂げるため、積極的にビジネスチャンスを求めました。私たちは眠れない夜を多く過ごし、精神的にも、肉体的にも疲れ果てていました…

   私がちょうど夢にまで見た生活を手にする間際まで来ていた時、良い時も悪い時も常に私と一緒にいてくれた夫が浮気をしたのです。この突然のショックは私の心を引き裂くものでした。私は父親に心配させたくなかったのでこのことは伝えず、兄が自分の夫を肉の成すがままに扱うことも心配になったので、このことは兄にも伝えませんでした。私はこれよりも自分の家庭内スキャンダルが人に知れたらそれが皆の間で噂になって自分の名が汚されることを心配しました。私はひどく落胆してしまい、生きていくのが嫌になりました。しかし、子供のことを考えた私は死ぬことを諦め、ただ単に憤慨と涙を静かにグッと抑えました。

   私は幾度に渡って空を見上げ、ため息まじりにこう嘆きました:どうして私はこんなに運が悪いのでしょう?どうして私は裕福であっても、貧乏であっても、苦しい思いをするのでしょう?そして、人々は何のために生きているのでしょう?

   神が表される真理が私の疑問に対する答えを明らかにされています。神はこう仰ります:「サタンは名声と利得により人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにする。人間は名声と利得のために努力し、名声と利得のために試練を乗り越え、名声と利得のために恥辱に耐え、持てる全ての物事を犠牲にし、名声と利得を獲得して維持するためにすべての判断と決断を下す。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかける。こうした足かせが人間の身体に付けられ、人間はそれを外す力も勇気も無い。したがって人間は、無意識のうちにこれらの足かせをかけられた状態で重度の困難の中を歩んでゆく。この名声と利得のために、人間は神から離れてゆき、神を裏切るようになる。人間は世代ごとに邪悪になり、陰鬱になるので、人間はこのようにして世代を追うごとにサタンの名声と利得により破壊されてゆく。」 (「唯一の神自身6」より)。「人間は、この時点になって初めて、この世に現れた時、最初に理解すべきことは、人間がどこから来るのか、何故生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に施され、それを統治するのは誰であるかを知る。こうした物事が人生における真の財産であり、人間の生存に不可欠な基盤であって、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知る事でも、人々よりも卓越した存在となる方法、一層豊かに生活する方法を知る事でもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を覚えることなどでは無い。人間が生涯をかけて覚える生存のための様々な技能により、物質的な快楽を豊富に得ることが出来るものの、そうした技能は人間の精神に真の平和と慰みをもたらすことは決して無く、むしろ継続的に人間に道を踏み誤らせ、人生の意味を知る機会を全て失わせ⋯」(「唯一の神自身3」より)。 神の御言葉を読み、私は富と名声はサタンが私を縛りつけるために利用していた単なる拘束手段であり、私はこれらを手にしようと常に奔走していたことに気が付きました。私は人々に自分を高く評価させて、より多くの、そしてより大きな物質的快楽を手にするために全力を注ぎ、多くの犠牲を払っていたのです。私の夫と私は貧しかった頃、自分たちの運命を変えようとかなりの苦労を費やしました。私たちがやっとの思いで裕福になった時、私の夫はそれでも堕落していきました。多くの浮き沈みを経験した後、私はこう理解しました:物理的な富がもたらしてくれたのは一時的な満足感と幸せであり、心で感じる真の和みではなかったのです。私は物理的な安楽を手にした時ですら、依然として虚しさと無力さを感じ、沢山苦しい思いをしました。その理由はと言うと、それはサタンが毒を用いて私を操りながら私を堕落させて痛めつけていたからなのです。神は私たち人間を創造され、今までずっと私たちを御導きくださりました。世の終わりに、受肉された神は真理を表して私たちに新たないのちを与えるために来臨されました。私たちは真理を追い求め、そして神の御言葉を貫いてのみ、サタンによる妨害と束縛から抜け出して、私たちの生きる道を見つけることができるのです。その時、私は真理を追い求めて意義のあるいのちを貫くという極めて稀なチャンスを大切にすることを決意しました。

   神はこう仰っておられます:「正常な人、神への愛を求める人として、神の国に入り神の民の一人になることは、あなたがたの真の未来であり、最高の価値と意義を持つ生涯である。あなたがたより祝福されている人はいない。なぜわたしはこう言うのか。神を信じない人々は肉のために生き、サタンのために生きるが、今日あなたがたは神のために生き、神の心を実行するために生きるからである。あなたがたの生涯が最大の意味を持つとわたしが言うのはこのためである。神によって選ばれた人々のこの集まりだけが、最も意味のある生涯を生きることができる。地上の誰もそのような価値と意味のある生涯を生きることはできない。」(「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より)。3年間の苦労と失敗の末、私は自分の虚しさ、名声、そして富を欲する利己的な欲望を脇に置き、自分の運命を神の御手に委ね、これ以上それを自らの手で変えるということに大それた期待を沿えるのを止めることを学びました。そして、私はかつてない安堵を感じ、長年悩まされてきた病気も治療せずに完治したのです。さらに、神の御言葉の備えを受け、私は普通の人間性を貫き、寛容であり許す気持を持つべきであると理解し、それ故に私は自分の夫を許してあげました。私はまた、実生活において遭遇するものは神が用意してくださっているもので、私が自分の性質を変えて、神を知るための機会であることも知りました。私は神に頼りながら真理を実践する度に、穏やかな気持ちと平安を感じ、神のみが私たちのいのちの源であることに気が付きました。神は、私が普通の人間性を貫き、そして神の高潔さと温厚さを知ることができるようにしてくださっているのです。神への信仰において、私は真理の探求と実践を通じ、もはや虚しく感じることはなくなりました。なぜなら、私は真理を実践することはサタンに背くことであり、創造主からの要求を満たしているということであり、神の基準に沿った人間になれているということだと知っているからです。私はこのように探究すればするほど、増々確信を持って平安を感じられるようになり、このように生きれば生きるほど、増々気骨と尊厳を持てるようになります。私は神に立ち返る道を歩んでいるように感じています。私は肉やサタンのために生きるのを止め、その代りに全能神に注意深く従い、全能神のために生きて行きます。なぜなら、全能神の本質は神性で、美しく、誠実で、永遠に愛して礼拝するに値するからです。

   私は依然として群衆と交わってはいますが、今は開放感と平安を感じており、私はまた、真理を求め神を知る、自分の創造物としての本分を尽くす、そして真のいのちを貫くといった違った目的を持ってもいます。これは私が心で感じる最高の幸せです。人生を通して起こった詳細を全て思い返すと、私は神に対する心からの感謝の意と称賛を口に出さずにはいられません。

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3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2019-06-13 22:28:36 | 信仰生活

ケム姉妹へ:

こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ


こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

   あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

   今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。

   では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

   神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

   そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう

   賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです

   私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

   例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう

   通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

   私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより

 

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3つの原則を理解すれば、多忙にしながらも主の前で静まることができるようになります

2019-06-13 22:28:36 | 信仰生活

ケム姉妹へ:

こんにちは!私は毎日自分の仕事をし、教会で仕え、そして自分の家族と子供たちの面倒を見ながら忙しくしています。こうして、私は毎日、気が付いたらこういったことで頭がいっぱいになっています。私は沢山のことに対応してきましたが、心の中ではいつも空しい思いをしています。私は祈りを捧げている最中、主に伝えたいことが無いだけでなく、私の霊的に乾いている感じ、不毛な状態になってしまいます。それに、私は聖書を読むときでも、心を鎮めることもできなかった。なぜなら、私は常にこういった回りの出来事に気をそらされているからです。私はとても動揺した気分になり、この問題をどのように解決すればよいのか全く分かりません。

ヂュウチウ


こんにちは、ヂュウチウ姉妹:

   あなたがされた質問は多くの兄弟姉妹たちが抱えているものです。私たちは回りのことで忙しくしていると、どうして主と普通の関係を持つことができないのか?主な理由は、私たちは物事の対応でいつも忙しくしていると、神の前で心を静めることができないからです。全てにおいて神の前で自らを静めるということを実践するための原則を理解できれば、私たちはどのような環境に直面しても、心の中で平安と喜びを感じながら神の御前で暮らすことができるようになります。そうすれば、私たちはそれほど悩んだり、落胆することはないでしょう。

   今日は、「神の前で静まるとはどういうことか?そして、それを実践する道とは」について一緒に調査しましょう。

   では、「神の前で静まる」とはどういう意味か?

   神はこう仰ります:「神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、日常の全ての状況において、神の前で自分の心を静めることができること、自分の心の中に神の居場所を確保出来ることを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を食し飲むことができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。」御言葉から、神の前で静まるということは、私たちの心を常に神の前に置き、心から神に祈りを捧げ、神と会話をし、通常は神に近づき、そして神から離れないでいることを意味していることが分かります。言い換えると、私たちが何をして忙しくしていようとも、私たちの心はそれら回りの出来事で埋め尽くされるべきではないのです。むしろ、私たちは心の中で主に近づき、御言葉と神の愛を熟考することを実践するべきなのです。そうすれば、私たちは神の前で暮らすことができるようになります。どちらにしろ、これは心の中で神のことを考える以外は何もしないという意味ではありません。大切なことは、私生活において、私たちが神の前で自分の心を静められるということです。この訓練および実践をすることができれば、私たちは常に聖霊に動かされ、私生活における出来事や困難に対応するために実践すべき道を持つことができるでしょう。そうすれば、私たちがどれだけ多忙であろうとも、心の中には平安と喜びがあり、私たちが空しくなることもなくなるでしょう。

   そうしたら、どのようにして神の前で心を静めたらいいですか?

1.その場ですぐ、可能な限り、主に祈りを捧げて心を開きましょう

   賛美してに感動したら、神に感謝の意と称賛を捧げましょう:「神様!今日、私は賛美して心の中で非常に感動しました。私はこれが聖霊の働きの結果であると分かっています、そしてこれはあなたの私たち人類に対する愛情を感じさせてくれます。神様!私はあなたにもっと近づいて、あなたの前で暮らしていきたいと思います。」このように祈りを捧げれば、神の前で心を静めるのがもっと簡単になります。時と場所に関係なく、可能な状況であれば、その時にすぐ、神の前で心を静めることを実践できるようになるのです。例えば、台所で手を使って何かをしている最中、私たちは賛美して、神に祈りを捧げ、または御言葉を熟考することで自分たちの心を静めることを実践できます。さらに、公共の場でバスを待っている時、バスの中にいる時、または自分たちが本分を尽くす場にいる時なども、私たちは神の前で心を静めることを実践することができます。私たちは、規則や規定、状況から抑制を受けることなく、祈りを捧げ、神に近づき、神の御言葉を理解するのです。何時でも何処でもできるのです。例えば:朝にデボーションを行う最中、静かな環境であれば、私たちは跪き、神に祈りを捧げ、そして御言葉を読むべきです。公共の場で、路上で、または職場で、私たちは神に心を開き、神の御言葉をじっくりと考えることができます。実際には、神に近づき祈りを捧げることは環境のような要因の影響を受けずにできるのです。神に近づく意思を持ってさえいれば、私たちは何処にいても神と普通の関係を持つことができます。このようにして、私たちは常に神の前で暮らすことができるのです。これもまた、神の前で心を静めることを実践する道における側面の1つであります。

2.私たちは常に御言葉を読み、それを熟考し、私たちの生きる基盤とすべきです

   私たちは聖書を読む際、頻繁にその表面的な形だけの行為をとるだけで満足し、御言葉を熟考するということには全く注意を払っていないことがあります。実生活において御言葉を心の中に抱いていなければ、私たちは主の前で自らを静めることが困難になります。実際のところ、私たちは毎日聖書を読む時には純粋な心で御言葉を熟考し、祈りを捧げ、そして可能な限り御言葉の中を探求するべきなのです。私たちがこのように振る舞っていれば、神は私たちが真理を切望する心を持っていることを知ってくださり、神の御心を理解できるよう私たちをお啓きくださり、指導くださります。これ故に、私たちは毎日のように新しい何かを得て、知らぬうちに神の前で自分の心を静められるようになるのです。

   例えば、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」(マルコによる福音書10:15), という主イエス様の御言葉を読むとき、私たちは、「主イエス様はどうして子供のようにならない者は誰も天国に入ることはない」と仰ったのかを理解するべきです。主は何を意図されているのでしょう?幼い子供の具体的な明示とはどういったものなのでしょう?そして、私たちはどのようにして幼い子供らしさを貫くべきなのでしょう?私たちが神に祈りを捧げる責任を背負い、幾度に渡って御言葉を理解しようと試みる時、神はこの御言葉の意味を理解できるよう私たちを御啓きくださります。幼い子供とはどういうことかと言うと、彼らは純粋で、誠実で、正直で、何かを偽ったり、隠したりせずに、言いたいことを何でも口にします。彼らは喋るとき、嘘をつかなければ、騙したりもしません。彼れらの言葉から、彼らの心の奥には何の陰険さや狡猾さも無いことが分かります。これ故に、私たちは彼らと仲良くしていると、何の心配もすることなく、安心することができるのです。幼い子供のようになることができず、代わりに狡猾さで満ちた心の中をもって、神に対する奉仕において祝福を得て、自分たちの野心と欲望を全うし、それらを満たす目的で神と取引を行い、自分たちの心がこういった不純さで満ちているとしたら、私たちは創造物としての本分を尽くしてはおらず、むしろ神を利用していることになるのです。このような働きと奉仕をしていて神の称賛を得られるはずがないのです。これについて熟考すれば、神はどうして私たちが幼い子供のようになることを御求めになるのかが分かります。神は正直な人々がお好きです。なぜなら、彼らは神と心を1つにし、反抗や抵抗もせず、神と一致しているからです。そのような人々のみが神の御国に入ることができます。なぜなら、神の本質は聖なるものであり、神は不正直な、かつ狡猾な性質をお持ちではないからです。サタンの堕落した性質を持つ者が神の御国に入ることは許されておらず、それは神の本質によって定められています。従って、神は私たち全員が真理を追い求めること、こういったサタンの堕落した性質を捨てること、そして神の前で誠実で生き生きとした幼い子供のように生きることを望んでおられます。こうしてのみ、私たちは神の祝福を授かることができます。私たちはこのように熟考すればするほど、増々御言葉を理解できるようになり、実生活において御言葉を実践する方法を増々知るようになるのです。そして、神と私たちとの関係は増々親密になります。これもまた、神の前で心を静めることから得られる結果なのです。

3.常に神の愛について黙考し、神が私たちのためになさった救いの働き、ならびに神の私たちに対する善良な御旨について熟考しましょう

   通常、私たちは常に主の愛情について考え、主が私たちのためになさった働きを思い起こし、主の私たちに対する救いと善良な御旨について熟考するべきです。こうすることで、私たちは常に聖霊によって動かされ、心の中で主に近づいて主を満足させたくなるでしょう。例えば、私たちは夜にベッドで横になる間、心の中でその日、または過去に体験した神の御加護や愛情について理解するべきです。例えば、私たちが主に仕える中で遭遇した困難と苦難を切り抜けるために、主はどのようにして私たちを導きくださったかを理解するべきです。これを理解しようとすればするほど、増々神の御旨を理解することができます。さらに、私たちは、神はこの困難を通じて私たちを完全にして、私たちが真理を得られるようにすることを望んでおられると気が付くのです。このような体験をすればするほど、私たちの神への信仰は増々断固たるものになるでしょう。さらには、神が私たちのためになさる救いの働きに関する知識も増えていくでしょう。また、私たちは神が私たちを救おうとされる善良な御旨をさらに体験することになるでしょう。時に、私たちは、神が私たち堕落した人々を救うために謙虚に隠れながら私たち人間の中にお越しになり、私たちの罪を贖ってくださり、そして十字架に釘付けにされた事実について考えることがあるかもしれません。神が私たちのためにしてくださったことを振り返れば、私たちは常に神の愛に感動するでしょう。この時、私たちは心の中で尽きることのない力を手にし、肉に背き、困難の中を生きるのを拒み、そして神を満足させるために出来ること全てをする意思を持つようになるでしょう。私たちはまた、主の愛について熟考する間、神は私たちのすぐ側におられ、私たちに付き添ってくださっていることを実感するでしょう。私たちはこのように熟考し、実践すればするほど、増々神の前で心を静められるようになるでしょう。また、私たちは神についてもっと知り、神を恐れる心を抱くようにもなるでしょう。

   私はこの交流があなたのお役に立ち、そしてあなたが神と普通の関係を維持できることを願っています。私は、上述した内容に従って神の前で心を静めることを実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じながら、神の指導と祝福を受けることができると信じています。あなたに神の加護がありますように!

ケムより

 

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どんな人が神の救いを得られるか

2019-06-12 21:54:29 | 信仰生活

   日曜日の午前、日がさんさんと照っていて、庭の花がすがすがしい香りを放っていました。「天の上におられるわたしたちの父よ、あなたの御名が聖とされますように。あなたの国が来ますように。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。……アーメン!」と兄弟姉妹たちの祈りの声が集会所から伝わってきました。

   説教者山下兄弟は説教壇に立て、微笑んで皆さんに言いました。「今日、わたしたちは別のやり方で集会しましょう。皆さんに何かの問題や分からないことがあったら質問してください。わたしたちは一緒に真理を求め、話し合いましょう。そうすれば、雰囲気を盛り上げることができるし、皆さんも負担を持って積極的に交流することができます。そうしてこそ、もっと多くの真理を理解できます。主が準備してくださいますように。アーメン!」。

   すると、席のほうで兄弟姉妹たちは論じ始めました。信徒Aさんは喜んで言いました。「山下兄弟のこのやり方はいいですね。そうすれば、皆さんが互いに交流し合うことができるし、兄弟姉妹の真理を求める心を起こすこともできます。以後毎回このように集会すれば、もっとよい効果を収められるとわたしは思います」。

   この時、井上姉妹は微笑んで言いました。「では、わたしはまず一つ質問を出しましょう! 主イエスが働いている間に、多くのしるしや奇跡を行われました。それはユダヤ全地にセンセーションを巻き起こしました。当時、一部の人は主イエスに従いました。しかし主イエスの働きに逆らい、主イエスの働きを罪定めする人もいました。例えば、神殿の中で神に仕えている祭司長、律法学者、パリサイ人は主イエスの宣べ伝えられた福音を聞いた後、探究せず、調べないばかりか、かえって至る所で主イエスを訴える口実を探し、主イエスの働きを誹謗し、罪定めし、最終的に主イエスを十字架につけました。同様に主イエスの働いた時代で生きていましたが、一部の人は主イエスにつき従うことができ、また一部の人は主に逆らう人になりました。これはなぜですか。一体どんな人が主の救いを得られますか」。

   山下兄弟は少し考えてから言いました。「あなたの質問は非常に重要です。もしわたしたちがどのように神を信じれば成功の道をたどることができるかを知らず、失敗した人の失敗の教訓を総括し、汲み取ることができないなら、いとも容易に、神に逆らう滅亡の道をたどります。兄弟姉妹たち、この質問について交流する前に、わたしは皆さんに一つ質問したいです。主イエスが働いている間に、だれがまず主イエスにつき従うべきですか」。

   すべての信徒はちょっと顔を見合わせてから、「聖書に精通する祭司長、律法学者とパリサイ人です」と答えました。

   山下兄弟はこう言いました。「わたしたちの観念、想像のとおりだとすれば、主イエスは働かれた時、まず祭司長、律法学者、パリサイ人に啓示すべきでした。彼らが神殿の中で神に仕える人であり、しかも聖書に詳しく、毎日人に律法、戒めを教えたから、彼らは主の追随者のはずでした。あなたたちはそう思いませんか」。すべての信徒は「はい」と答えました。彼は続けて言いました。「しかし、事実はどうですか。彼らは主イエスの働きを見た後、探究せず、調べないばかりか、かえって攻撃し、罪定めし、逆らいました。最終的にローマ政府と結託して主イエスを十字架につけました。だが意外にも、なんらの名望、地位もなく、また聖書に詳しくないペテロ、ヨハネ、マタイたちは主イエスの召しを聞くと、すべてを捨てて主イエスに従い、最終的に主の救いを得ました。これで分かるように、神の性質は義で信実で、いかなる人も偏り見ないことです。神が人を救うのは、人の地位の高さ、資格の有無、神を信じている時間の長さによってではなく、人が真理を渇仰し、求める心を持つかどうかによってです」。

   この言葉を聞いた後、すべての信徒は論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「神は本当に義なる方です。神の働きは本当に人の観念、想像にかなわないですね! 人が真理を渇仰し、求める心を持つなら、神はきっと人を救われます!」。

   この時、井上姉妹は何か分かったように言いました。「わたしの想像のとおりだとすれば、祭司長、律法学者、パリサイ人はまず主イエスに従うべきでした。思いがけずそれらの漁師、取税人が主イエスの働きについて行けました。主は本当に義なる方で、いかなる人も偏り見ません!」。

   「では、なぜそれらの人が神の足跡に従うことができたのですか」と山下兄弟は言いました。

   すべての信徒はこの問題が分からず、困惑の表情を浮かべて、互いに顔を見合わせていました……。

   山下兄弟は聖書をざっとめくってみてから、落ち着いて言いまいた。「聖書の物語はわたしたちに答えを教えることができます。例えば、漁をするペテロとアンデレは主イエスの召しを聞くと、網を残して主イエスに従って行きました。同様に漁をすることで生計を立てているヤコブとヨハネは主イエスの召しを聞くと、漁船を残し、父親と別れて、主イエスに従って行きました。収税人マタイは主イエスの召しを聞くと、手元の仕事を捨てて主イエスに従って行きました。主のこれらの弟子たちはみな主イエスの召しを聞いた後、単純に主に従いました。また、サマリアの女は主イエスが彼女の行ったことをすべて言い当てたのを聞いてびっくりし、そして町に行ってすべての人に主イエスがキリスト、来たるべきメシアだと言いました。ニコデモは真理を求める心を持っていたので、夜イエスのところを訪れて、主イエスの教えを聞きました。そのため、神の啓きを得て、主イエスが神から来られた方だと分かりました。これらの人は謙遜な心をもって、虚心に主イエスの言葉、働きを探究し、調べたので、神の啓きを得、神の声を聞き、主イエスが神から来られた方、キリスト、預言されている来たるべきメシアだと分かりました。事実上、主イエスは道を説き、働く前に、だれにも前もって啓示しませんでした。彼は道を説き、働いた後、すべての人が彼の言葉を聞き、彼の働きを見るようにされました。彼がそうするのは、どんな人が虚心に真理を求め、神の出現、働きを渇望する人かを明らかにするためでした。それは主イエスが言われたとおりです。『わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている』(ヨハ10:14)。『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う』(ヨハ10:27)。『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』(マタ7:7-8)」。

   この時、井上姉妹は笑顔を浮かべて言いました。「ああ、あなたの言葉を聞いた後、わたしはすっかり分かりました。以前、わたしは地位、名望、賜物のある人たちが最初に神の啓きを得、神の働きの歩みについて行くことができると思っていました。しかし事実はわたしの観念、想像に反撃しました。神は地位、名望、賜物を問題にせず、人の神を渇仰する心を問題にするのです。これはわたしに主イエスの次の言葉を思い出させました。『心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである』(マタ5:3)。『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる』(マタ5:6)。『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』(マタ5:8)。主に従う弟子ペテロ、ヨハネ、マタイたちは高い身分、地位を持たず、また聖書に精通しないが、主の召しを聞くと、主に従うことができました。彼らは虚心に主の言葉、働きを探究し、調べ、パリサイ人に束縛されず、すべての暗やみの権威を突破し、すべてを捨てて主イエスに従い、そのため神の救いを得ました。わたしたちは以後ペテロ、ヨハネたちに倣うべきです。主の到来に関しては、観念、想像によらず主の言葉によって判断し、謙遜な心をもって探究し、調べるべきです。そうしてこそ聖霊の啓き、導きを得、神の働きの歩みについて行くことができます!」。

   信徒たちはこの言葉を聞いた後、論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そうですね。わたしたちの以前のそれらの考えは確かに真理にかなわないです。主の弟子ペテロ、ヨハネは確かにわたしたちの倣うべき者です。神は義で信実です。わたしたちが観念を捨てて、真心をもって調べるなら、神は同様にわたしたちに啓いてくださいます。こうして、わたしたちもペテロ、ヨハネ、マタイたちのように主の出現と働きを迎えることができます」。

   この時、何か考えている様子の井上姉妹は言いました。「わたしはやはり分からないところがあります。あの時、そんなにたくさんの民は主イエスの道を聞き、主イエスの行われたしるしや奇跡を見、しかも道の両側に並んで主イエスの到来を歓迎しました。だが、後で大部分の民はパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。これはなぜですか」。

   山下兄弟はきっぱりした口調で、落ち着いて言いました。「あなたの出したこの問題はとても実際的です。わたしたちが知っているように、祭司長、律法学者、パリサイ人はみな宗教のリーダー、宗教の上層部の人です。彼らは神を信じている時間が長く、聖書を熟読し、地位、賜物を持っているから、大部分の民は彼らを仰ぎ見、崇拝し、彼らの聖書の知識と神学理論を真理として扱っていました。これらの民は神を信じているが、主イエスの言葉と働きが神から出たものかどうか、人のためになるかどうかについて探究したり、調べたりせず、盲目的に聖書の知識と地位、権勢を崇拝していました。パリサイ人が至る所で主イエスを訴える口実を探し、律法によって主イエスを罪定めした時、大部分の民は弁別力がなかったので、パリサイ人に惑わされてパリサイ人のうそを信じてしまい、しかもパリサイ人と一緒に主イエスに逆らいました。こうして、彼らはパリサイ人の共犯者になりました。その上、彼らは主イエスが彼らの王にならず、彼らを導いてローマ政府の支配を翻さず、また宗教のリーダーたちに罪定めされ、逆らわれるのを見た時、主イエスの言葉と働きを否定しました。当時、彼らがこう思っていました。イエスがキリスト、メシアであれば、彼は王になって、あらゆる人から推戴されるはずだ、彼がキリスト、メシアなら、どうして罪定めされ、見捨てられることがあろうか、と。だから、主イエスの働きが彼らの観念にかなわない時、彼らはパリサイ人の側に立ってパリサイ人のお先棒を担ぎ、主に逆らい、主を罪定めしました」。

   井上姉妹はこれらの言葉を聞いた後、興奮して言いました。「神に感謝します。あなたのこれらの言葉によって、わたしはこういうことが分かりました。すなわち、大部分の民がパリサイ人と一緒に主イエスを罪定めし、逆らうのは、彼らが人を仰ぎ見、崇拝し、権力、地位に束縛され、しかも真理を求めず、全然弁別力を持たず、自分の観念と想像だけによって主イエスの働きを扱ったからです。だから、主を迎える上で、わたしたちは神を畏れる心を持たなければならず、牧師、長老の言葉だけを信じてはなりません。そうすれば、いとも容易に惑わされ、騙されて神に逆らうようなことをしでかします。そうなると、神に懲罰されます」。

   この時、山下兄弟はこう言いました。「そうですね。再来される主の働きかどうかを判断する時、わたしたちは意のままに論断したり、罪定めしたりすることなく、神を畏れる心をもって、虚心に探究し、調べるべきです。こうしてこそ、聖霊の啓き、照らしを得られます。そうなったら、わたしたちは神の働きの歩みについて行き、神の救いを得ることができます!」。

   この言葉を聞いた後、信徒たちは微笑みながら論じ合っていました。ある信徒はこう言いました。「そのとおりですね。今日このように交流しなければ、戻ってくる主を迎えることにおいて、わたしたちもあの時の弁別力を持たない民のように、地位と権威がある牧師、長老たちを崇拝し、自分の観念と想像によって神の働きを扱うはずです! 神は義なる方であって、へりくだり、真理を求める人が好きです。ペテロのような人こそ神に良しとされることができます。そうですね。もしわたしたちがひたすら牧師、長老の言葉に聞き従って、弁別はしないなら、いとも容易に惑われます。わたしたちはペテロ、ヨハネたちに倣って、神を畏れる心をもって真理を求めなければならず、ことに当たっては多く祈り、神の意志を求め、神の声に留意しなければなりません。そうしてこそ、神の足跡に従い、神の救いを得ることができます!」。

   すると、すべての信徒は「神に感謝します。アーメン!」と言いました。