賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私は誘惑を振り払って正直になることを実践しました

2019-06-11 10:49:42 | 子供の教育

   ある日、私は体育の授業の後、空腹を満たそうと自動販売機に食べ物を買いに行きました。私はスロットに5ドル札を入れて、1ドルのスナックを購入、そして「お釣り」という印のあるボタンを押しました。その直後、沢山の小銭が落ちる音が聞こえました。私はビックリしてしばらくそこに立ち尽くしました。小銭を取り出してみると、およそ20ドル近くもあったのです。その時、私は欲張りなことを思いつきました:「この小銭を頂戴したら好きな物が買えるかもしれないな。」しかし、その時こう思いました:「いや、それは駄目だ。お金を取っても誰にもバレないだろうけど、神は全てを観察しておられる。神は正直な人を好まれるから。そんなことしたら正直で立派な人になれない。」しばらく躊躇した後、私は余分なお金を自分の先生に手渡すことにしました。その時、私の友達の1人がやって来て、このことを話すとこういって僕のことを笑いました、「お前は本当に馬鹿だなあ。お金が欲しくなかいなら俺にくれよ。」私は彼の言葉を聞いてこう思いました:「私はキリスト教徒だから、主の教えに従って行動するべきなんだ。これがキリスト教徒の行動規範だから。神に喜んでいただける限り、他人から愚か者だと思われても関係ないよ。」そして、私は余分な小銭を先生に手渡すと、先生は正直だと褒めてくれた上に感謝もしてくれました。今回正直になることを実践した私は平安と喜びを感じました。


 

   その後、私はまた他の試練に直面しました。ある夜、私の母が夕食を買うために私をファストフードレストランに連れていってくれました。私は白米と塩味のベイクドチキンを注文しましたが、白米は売り切れだと言われました。「フライドポテトか他の物はいかがでしょうか?」、とウェイトレスが私に申し訳なさそうに聞いてきました。そして私は白米をフライトポテトに変更しました。私がメニューを見ると、「白米と塩味のベイクドチキンが8ドル、塩味のベイクドチキンが5.5ドル、そしてフライドポテト一人前が3ドル」と書いてあるのを目にしました。私はこう思いました:「今白米をフライドポテトに変更したから、合計で8.5ドル、てことはウェイトレスにあと50セント渡さなきゃいけないな。でも英語上手く喋れないしなあ。途中で言葉が詰まったらどうしよう。まあとにかく、たったの50セントだから、わざわざ彼女に渡さなくてもいいだろう。それに、彼女は払うように言ってこなかったし。」こう考えた時、私は心の中で罪悪感を感じました:「これって詐欺になるのかな?それに、ファーストフードレストランで働くのは彼女にとって楽じゃないだろうしなあ。払わないわけにはいかないよ」こう考えた私は彼女にあと50セント支払うことにしました。自分の食べ物を取りに行った時、私は彼女に50セントを渡してこう言いました、「これ残りの50セントです、塩味のベイクドチキンとフライドポテト一人前の合計は白米と塩味のベイクドチキンの合計より50セント高いんで。」こう言った後、私は自分の英語の流暢さに驚きました。その瞬間、ウェイトレスは私にこう言いました、「いえ、その必要はありません。」私が彼女を説得してお金を受け取ってもらおうと口を開く前に彼女は続けてこう言いました、「申し訳ありません、私が間違っていました。」「大丈夫ですよ」、と私は返事しました。「有難うございます。」そしてウェイトレスは私に微笑みかけてくれました。

   この2つはささいな出来事でしたが、私にとってはとても有意義であり、私はこれを通じてこの理解に至りました:私たちの生活において、サタンの誘惑はいつでも私たちに降りかかってくる可能性があります。しかし、主の教えに従って正直な人を実践している限り、私たちは心の中で平安と喜びを感じるでしょう。聖書にはこう記されています、「偽りを言うくちびるは主に憎まれ、真実を行う者は彼に喜ばれる。」(箴言12:22)。主は正直な人を愛されます。私たちは主の要件に従いながら見せかけなしに喋り、行動してのみ、主に求めていただくことができます。将来、私は主の御言葉を実践することにさらなる努力を費やし、主の御名前の栄光を讃えるために正直な子になります。


「オオカミ子」が家に帰って来た

2019-06-10 23:01:40 | キリスト教ミニストーリー

   数日前、私はある本で「オオカミ子」の話を読みました。内容は次のようなものです。

   ある所に狩人がおり、彼の生まれたばかりの赤子がオオカミに連れ去られました。子供はオオカミに育てられて、だんだん成長します。ある日、狩人はこのオオカミ子を見つけました。我が子を家に連れて帰るために、狩人は自分の肉を切り取ってオオカミ子に食べさせさえもした。父親の献身により、オオカミ子はついに家に帰って来てくれます。長期に及ぶ教育の末、オオカミ子は人間性を取り戻して正常の生活を送りました。

   この話を読んで私は深く感動しました。狩人は息子が行方不明になったとき、悲嘆と苦痛を覚え、悲しみに押しつぶされそうでした。何年もの間、いつの日か息子を見つけたいと必死に願います。10数年後のある日、オオカミと一緒に暮らしている息子を見つけました。息子をオオカミの中から救い出し、普通の人の生き方をしてもらうために、父親は自身の肉を切り取ってまで家に導こうとします。最終的には、オオカミ子は人間性が戻り、狩人は息子を取り戻したのです。一家はそれから末永く幸せに暮らしました。

 

   この話から、私は今日の人類の状況を思い起こしました。人も「オオカミ子」のようではなかったか。オオカミに連れ去られたその子供のように、サタンに捕らえられた不遇な者ではなかったでしょうか。私たち人間は、サタンに誘惑されて欺かれ、堕落させられて以来、サタンを自分たちの「父」とみなし、心が神からどんどん離れていったのです。神が私たちのいのちの源であることも分からず、善と悪の見分け方も知らず、神の律法やおきてのことも何も知りませんでした。退廃して堕落し、ひどく下劣な所業に溺れます。ここまで無知な人はサタンに倣って悪事を行いながら、それを自覚せず、サタン同然になったのです。神は人を憐れ、守りたいと思われたので、人を救う働きを始められました。

   初めに、神は生まれたばかりの人が地上で普通に暮らせるように、律法を用いて人類を導かれました。しかし、律法の時代の終わりには、人は神を恐れる心を失い、律法を守ることができず、律法によって断罪されて死刑を宣告される危険にさらされました。神は、ご自身の手で造られた人類が律法の下で死ぬのが見るに堪えなかったため、御自ら地上で肉となり、十字架につけられる屈辱を受け、人をサタンの手から贖って生きる機会を与えられたのです。しかし、主イエスによって贖われて罪を赦された私たちの中には、現在もサタン的な性質が残っています。神は仰せられます、「人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。

   恵みの時代に主イエスがなさったのは、人の堕落した性質を変える働きではなく、人を贖う働きでした。そのため私たちの中には罪深い性質が依然として残っており、私たちはこの根深いサタン的な本性に動かされて、思わず罪を犯してしまいます。例えば、傲慢でうぬぼれており、いつも誰よりも決定権を持ちたがり、真理であると知っていることを拒絶します。利己的で卑しく、名声と富を奪い合い、陰謀を仕掛けあい、他人を欺き、神をだまし、どんな時も神を警戒します。自分の観念と矛盾することに遭遇しても神を裁いて反抗しかねません。神を信じていながら世界の悪しき風潮に従うこともできます。試練や精錬に直面するといつも神を裏切る危険があります…自分の堕落したサタン的な性質によって支配されて踊らされている私たちは、サタンのような生き方しかしていません。この堕落したサタン的な性質が解決されなければ、いつでもどこでも神に逆らって裏切ることもはばからず、神の聖なる国に入ることもまったくできません。ですから、私たちをサタンの陣営から完全に救って神の国に招くため、神はより高次でより深い働きの段階を行う必要があるのです。

   ヘブル人への手紙第9章28節には「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」ペテロの第一の手紙第4章17節には、「さばきが神の家から始められる時がきた」とあり、ヨハネの福音書第12章48節には、「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」と述べられています。

   サタンによって深く堕落させられた人を完全に救うために、神は終わりの日に再び受肉して全能神となられ、神の家で始まる裁きの働きを行うために言葉を語られます。この段階の働きとは、人の罪の根源を完全に解決し、人からそのサタン的な性質を取り除き、人が真に神に従い、神を知って崇拝することができるようにするためのものです。私たちは終わりの日のキリストである全能神による裁きの働きを受け入れることによってのみ本当に罪から解放され、神の完全な救いを受けることができます。

   それは神が仰せられる通りです。「サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって墮落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間 の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本當に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて墮落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は墮落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉のもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。」

   終わりの日のキリストである全能神は、人々が救いを実現できるように全ての真理を表されました。これらの真理は、神に逆らう私たちのサタン的な性質と堕落の実態を明らかにし、私たちの罪の根源を暴露し、分析しています。神の威厳ある裁きを通して、私たちは自分が傲慢とうぬぼれ、利己的で卑劣、邪悪で貪欲といったサタンの堕落した性質に満ちていることを自覚します。同時に、神の裁きと刑罰の言葉から、私たちは神の聖なる本質と義にして威厳ある不可侵な性質を知り、神を本当に恐れるようになるのです。また、自分たちがサタンによって深く堕落していると悟ります。自分の堕落した性質とサタン的な性質を憎むようになり、次第に罪の束縛から脱却します。こうして堕落した性質が変化し始め、真の人らしく生きるようになります。

   神の御言葉の裁きを経験して初めて、「神が人類を贖ってその罪を許すために十字架刑を受けられたのは、神の人類への愛なのだと本当に悟ることができます。そして終わりの日に、神は再び受肉して真理を表しておられ、私たちをサタンの支配から徹底的に救うために裁きの働きをしてくださっています。これが神のより大きな愛です。神の裁きを受けて清められる者は最後には、神が人類に用意してくださった美しい終着地に連れていかれるのです。」

   この時点で、私はオオカミ子の父親のことを考えました。彼は我が子をオオカミから逃れさせ、真の人として生活させるために、自分の肉を切り取って息子を家に導くことも躊躇しませんでした。同様に、神は大きな代償を払ってまで実際的に働いて私たちを救い、サタンの害毒から完全に逃れられるようにしてくださいます。

   律法の時代には、人類が地上で正常に暮らせるように導き、罪が何であるかを教えてくださいました。恵みの時代には、主イエスが人類の罪を赦すために十字架刑を受けられました。神の国の時代には、全能神が裁きの働きを行うべく言葉を表されたおかげで、私たちは罪の束縛を捨て去り、清めと神の救いを受けることができ、神の国に連れて行って頂けるのです。神の人類経営の働きの三つの段階は、どれも私たち堕落した人類の必要に基づいて行われます。これが神の愛と救いなのです。神に感謝します。


家庭教育-クリスチャンはどのように子供の教育をするべきでしょう?

2019-06-09 22:13:24 | 子供の教育

   子供の教育のことになると、どの親も自分の子どもが真の人生を送り、立派な人になることを期待するものです。しかし、私たちはクリスチャンとして、子供たちが人間の生活における真の道を歩むには、どのような教育をするべきなのでしょう?この問題について、一緒に真理に入れるよう探求しましょう。

1.子供たちが神を信じ、神を礼拝するよう指導することは、避けられない親の責任である。

   私たちクリスチャンは誰もが神は存在する、神がこの世を創造なされた、そしてすべてのものは神の主権の下で生存すると信じています。全ての人の将来と運命も神によって制御されており、人々は最終決定権を持てません。私たちは、神を信じ、神を礼拝するよう子供たちを指導するのか、それとも、子供たちが評判、地位、そして世界の将来を追い求めることを許可するかということを、神の信者としてどのように選択するべきなのでしょうか?私たちの選択は、私たちが神を信仰する中でどのような道を歩んでいるのかを明らかにするだけでなく、私たちの子どもたちの将来と運命にも関係します。今は既に終わりの日である故に、暗く古い時代はすぐに幕を閉じ、神を心から信じ、真理を追い求めている者たちのみが生き残ります。私たちはこれをはっきりと知っておかなければなりません。私たちは、神を信仰する中で、子供たちを神の前に導くことに焦点を置かず、子供たちが立派な人に成長することを期待しているとしたら、それは神の御心に沿っているでしょうか?私たちがそうすることは、愛でしょうか、それとも彼らを傷つけているのでしょうか?

   神はこう仰っておられます:「あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか … 神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。」

   神の御言葉から、神の御心が分かります。私たちは神の前に来たが故に、この世の堕落と悪をはっきりと目にしています。しかし、暗闇でもがく人々は依然として数えきれないほど存在しており、私たちの子どもたちも例外ではありません。この世のトレンドに誘惑され、騙されている子供たちはネットカフェで時間を全て費やし、若くして恋に落ち、自己顕示等をしているのです。彼らはサタンによる策略と堕落の中を生きていながら、全くそれに気付いていません。従って、私たちは、神の働きの証言をして、神は天と地と万物の支配者であること、神が万物と人類を創造なさったこと、サタンがどのようにして人類を堕落させ、神がどのようにして人間をお救いになるかを彼らに知らせる責任があります。こうすると、彼らは肯定的な事と否定的な事が分かるようになり、世の邪悪なトレンドを識別し、それぞれの人生で正しい方向性を築き上げることができるようになるのです。

   ノアが箱舟を建てた時のことを思い出します。彼は神のお召しと任務を受け入れて神の御心に従いそれを建てただけでなく、自分の子供たちを一緒にやるよう導き、彼らを神の前に導く努力もしました。ついに、ノアの8人家族は箱舟の中に入り、洪水を生き延びました。ノアは父の本分を果たしたので下。私たちは、神を心から信じるクリスチャンとしてノアの例に倣い、私たちの子供たちを神の前に導くべきであります。私たちは神を信仰する道を歩んでいながら、子供たちがサタンの道を歩み、世の邪悪なトレンドを追いかけることを許していたとしたら、子供たちが神を信仰し、神の御救いを受ける機会を台無しにしてしまい、最終的には自分たちの責任を果たせなかったことを一生後悔することになるでしょう。

 

2.神の御言葉と真理をもって人生の正しい道を歩むよう子供たちに指導しましょう

   実際、両親の多くは、自分の子供たちが神を信じ、礼拝し、人生の正しい道を歩むように指導したいと思っています。しかし、彼らは真理をほとんど知らないため、神を信じることの意味や人類がサタンに堕落させられているという真理を十分に語ることができず、子供たちを完全に確信させることができません。これ故に、彼らは自分の子供たちを神に導くことができないのです。

   初めに、私たちは神を信じ、神に従いました。それは、私たちは神の御言葉には権威と力があり、それは誰も表すことができないものであると知った時、神に征服されたからでした。従って、子供たちに神の前に行くように教育するには、私たちは神の御言葉をもっと読むよう子供たちを指導し、真理を用いて彼らの心に触れるべきなのです。そして、私たちは、神は人類を征服し、救ってくださるという事実を子供たちが完全に確信できるようにしてあげるべきなのです。

   これは主イエス様に従ったペテロの経験と同じです。彼は主イエス様の御言葉の権威と力を耳にし、その御言葉は普通の人間が話せるものではないと感じ、そして主の起こされた奇跡は人間が起こせるものではないと知りました。こうして、彼は何の躊躇もせず、全てを捨てて主イエス様に従いました。これ故に、私たちは子供たちにもっと神の御言葉を読み、神を信仰するのは良いことだと単に言葉で伝えるのではなく、神の働きの証言をするべきなのです。それに加え、私たちは実体験をもって神の御業の証言をすることもできます。私たちは、それぞれが神を信仰する生活の中で神の御気遣いと御加護を体験しています。災害の中で神に驚くような形で守っていただき、神の全能さと人間に対する愛を知った人がいれば、神の御言葉による御啓示と御導きの下で自分の堕落した本質を知り、誤まった道から立ち返り、神を信仰する正しい道を歩んだ人などもいます。これら全てが私たちの子供たちを神の前に導く教育および指導方法であります。

3.子供たちが真理を理解し人生の正しい道を歩むために、実際の知識を学ぶことを教えましょう

   今は科学とテクノロジーが急速に発展する時代です。誰もが知識を深めることで社会で生きていくための足掛かりをつかむことを望み、両親はそれぞれの子供たちが成功を収め、目覚ましい功績を立て、家族に名声をもたらすことを期待します。しかし、私たちは神の信者として、知識を深めることや人の上を行くことは真の人生ではなく、真理を得ることが最も大切なことであると知っています。それは聖書にこう記されています:「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。」(箴言9:10)「知恵を求めて得る人、悟りを得る人はさいわいである。知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、その利益は精金よりも良いからである。知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。」 (箴言3:13-15)。 上述の聖句の中で触れている智恵と理解は明らかに、私たち神の信者は神を知ることになり、神の称賛と祝福を授かることを意味しています。神を喜ばせ、かつ神に祝福されることは、神の御言葉を読み、真理を理解するために実際の知識を学ぶこと、持つエネルギーの一部を神の証言をすること、そして神の福音を伝導することに打ち込むこと、そしてキリストに従って人生の正しい道を歩むことです。

   主イエス様の弟子であったペテロは文化に関する深い知識は持っておらず、他人の上に行こうともしませんでした。代わりに、彼は人生を通して真理を追い求め、主の道に従い、主のために労力を費やしました。彼は世俗的な富を手にすることはありませんでしたが、主イエス様から好意的に評価されたことで天からの栄光を授かり、主は彼に天国への鍵を与えたのでした。これに反し、世の中で名声と地位を得るために他人の上を行き、先祖に名誉をもたらし、盲目に知識を深めるよう子供たちを教育してしまったら、私たちはとんでもない愚か者になるのです。神はこう仰っておられます:「人間は、神を知り、真理を備えいる場合のみ、光の中で生きる。また人間は、自分の世界観と人生観が変わった場合のみ、その者は根本的に変化する。その者に人生の目標があり、真理に従って行動し、神に対して完全に服従して神の御言葉に従って生活し、確信し、照らされていることを霊の深遠で感じ、自分の心に闇が無く、神の御前で完全に自由に、かつ制限されること無く生きて初めて、その者は真の人間の生活を送り⋯」

   私たちは、真理を理解し、真理を修得し、真理に従って振る舞う時、初めて真の人生を手にできるということが分かります。地位がどれだけ高くても、知識がどれだけ豊富にあっても、それは私たちに真の人生をもたらすことはできないのです。神が終わりの日にこの邪悪で堕落した世の中を終わらせる時、お金、名声、富、地位、そしてその他いずれの世俗的な物も災害の中で価値の無いものと化すでしょう。これ故に、私たちクリスチャンは、自分たちの子供が成功を収めるという夢が叶ったとしても、その結末は中身の無いものであるということをはっきりと知っておかなければなりません。私たちは子供たちが神を信仰し、真理を追い求める人生の正しい道を歩み、そして神の称賛と祝福を得られるように、実際の知識を学ぶことを教えるべきであり、それこそが真の、そして永遠の栄光なのです。

   上述したことを実践する3つのアプローチについて交流することで、私たち全員が人生の正しい道を歩むことの理解と、それを子供たちに教える方法を修得することができると思います。この交流を用意してくださった神に感謝します。


罪から逃れる道を見つけた

2019-06-08 22:08:35 | 神に帰す証

   何年も主を信じてきたクリスチャンである私は、牧師が説教でこのように言うのをしばしば聞いてきました。「私たち信者はすでに罪を贖われ、赦されています。主はお戻りになるとき、私たちを天の国へと直接引き上げてくださいます」しかし主イエスがお戻りになって私たちを天の国へと引き上げてくださるのを辛抱強く待つ間、とりわけ苦しく、私を戸惑わせることが起きたのです。

   私は信者になったあと、頻繁に聖書を読み、祈り、集会に出席したものの、日常生活で主の教えを守れていないことにしばしば気づき、当惑していました。自分を愛するように隣人を愛し、他人を七十七回赦すよう、主が私たちに命じられたことはよく知っていましたが、夫が私の言うことを聞かなかったり、周りの誰かが私の気に入らないことをしたりするたび、私はどうしても腹を立てずにはいられませんでした。罪の意識を感じて後悔し、頻繁に主に祈って告白するものの、別の状況に出会うといつも自分を制御できなくなってしまうのです。さらに、世間の流行に魅了され、引き込まれる誘惑を乗り越えることができませんでした。私はいつも世間の流行を追い求めていたのです。美しい服や化粧に夢中になり、物を買ったりウインドウショッピングしたりすることをいつも考えていました。私の心は物質的な喜びにすっかり取り憑かれ、ディボーションや聖書を読むことよりもそうしたことのほうにより多くの時間を費やしていました。しばらくすると、ますます聖書を読もうと思わず、教会の礼拝にもまったく行きたくなくなるまでになってしまいました。そのような振る舞いを主が好まれないのは知っていたので、私は堕落への道をこのまま進んでいかないよう努力する中で、聖書を読みインターネットで説教を探すことを自分に課しました。しかし自分の計画をきちんと守ってはいても、心からそれを楽しんでいたわけではなく、私の生活は主のお言葉からどんどん離れていきました。教会の友人に連絡をとってこのことを話しもしたのですが、もっと祈る限り主はご慈悲と愛を見せてくださるとか、主は私たちの罪を赦してくださるなどと言うばかりでした。私はそうした答えから何の安堵も感じませんでした。聖書にはっきりとこう書かれているからです。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙10:26)。みんなが言うように主が私たちを限りなく赦してくださるなら、主に祈る限り私たちの罪は赦されます。それなら、「真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」と聖書には書かれているのでしょう。罪のためのいけにえがなければ、私たちはどうして天の国に入れるでしょうか。私は心の中でこれらの疑問が理解できませんでした。しばしばこのことで悩み、主に祈りました。「ああ主よ、私は罪を犯しては、その罪を告白する状態の中で暮らしています。とても困っています。罪から逃れるために何ができるでしょうか。どこで答えを見つけられるでしょうか。主よ、このことについての御心をお教えください。アーメン」

罪から逃れる道を見つけた

   その後2018年1月、私はインターネットで中国の姉妹二人と出会い、チャットを通じて彼女たちがとても敬虔なクリスチャンであることを知りました。私たちは信仰についてあらゆることを話し合ったのですが、交流がしばらく続いたあと、私は二人と本当に近づいたような気がして、互いに心を打ち明けられると感じ始めました。二人は生活においても実に信心深く、聖書について独自の理解と洞察を有していました。彼女たちとの交わりは本当に光に満ちていて楽しく、二人と聖書を掘り下げるのが心から好きでした。

   一度、スーザン姉妹がとても真剣にこう言ったことがあります。「主はすでにお戻りになっていて、人類を裁き、清め、救うという終わりの日の働きをなさっています」

   それを聞いて私は驚き、こう言いました。「主イエスはもう十字架にかけられて私たちの罪を贖われ、ご自分の働きを終わらせたのよ。主はお戻りになるとき、私たちを直接天の国へお連れになるんじゃないかしら。どうして裁きの働きもなさるの。主の働きはまだ終わっていないということなの」

   姉妹ルーシーはその返事として次の話をしてくれました。「十字架にかけられるという主イエスの働きが終わり、私たちが罪を贖われ赦されたというのは確かに本当です。でも贖いというのは、私たちが天の国に入れることを意味しているのでしょうか。神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。『罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。』

   これら神様の御言葉を読んだあと、姉妹スーザンはこう語りました。「神様の御言葉から、主イエスがなされたのは贖いの働きだということがわかります。主は私たちの罪を贖われ、私たちを罪から救ってくださいました。救われるということは、私たちが律法を守れないからといってもはや罪に定められることがなく、主の救いのお恵みを受け入れることを指しているに過ぎません。それは、主の御前に出て祈り、告白して悔い改め、主が私たちに授けられたお恵みと祝福を享受できるようになったことを指しています。ですが、私たちの罪深い本性は取り除かれていません。私たちはいまだに罪を犯しては告白するという状態の中で暮らしているのです。例えば、私たちは日常生活において他人と交わる中で、しばしば傲慢な性質を露わにし、他人が自分の言うことに耳を傾け、従うようになってほしいといつも願っています。私たちが主を信じているとしても、主は私たちの心に居場所を持っておられないのです。私たちはいつものようにこの世のものをむやみに欲しがり、世俗の流行を追いかけます。中にはこの世の栄光と富、そして肉の喜びを求めて神を完全に見捨てる人さえいます。罪の中で暮らす私たちのような人間に、どうして神様の国に入る価値があるでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書8:34-35)。主の御言葉はとてもはっきりしていました。罪の奴隷は神様の国にいることができません。だから、私たちは今なお頻繁に罪を犯しているので、神様の国に入る資格がないのです。私たちが罪を清められ、神様と相容れることができるようになるために、神様の救いの働きがいまだにもう一段階必要なのは、それが理由です。さもなければ、私たちは天の国に入る神様の承認を得られません」

   神様の御言葉の一言一言と、姉妹が語ってくれたこの話は、私に深く鳴り響きました。つまり主イエスの働きは、主が私たちの罪を赦す贖いの働きに他ならず、もはや私たちのことを罪人として見ないという、私たちに対する主のご慈悲だったのです。けれどそれは、私たちに罪がなく、汚されていないことを意味していたのではありません。私たちは今なお自分の意思に反して頻繁に罪を犯しますし、それは私たちが今も罪深い本性を持っているからに他なりません。私は夫にどう接していたかを思い浮かべました。何事においても夫が耳を傾けてくれるよう望み、そうしなければ腹を立てていました。また世俗の流行を追いかけ、心は物質的な物事で占められていました。そのうえ集会にちゃんと出席したり聖書を読んだりすることすらできませんでした。何度も主に祈り、告白したものの、止まることなく罪を犯し続けたのです。それはすべて、自分のサタン的な本性に支配されているからでした。パウロがこのように言ったのも不思議ではありません。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである(ローマ人への手紙7:18)。私たちの中には罪深い本性が深く根を下ろしており、真理を実践して神様に満足していただきたいと思っても、罪を犯して神様に抵抗せずにはいられません。私たちは汚れで満ちており、神様の国に入る価値はまったくありません。それに気づいたとき、私は急いでこう尋ねました。「主イエスは贖いの働きをなさり、終わりの日に来られたとき、私たちから罪を取り除く働きの一段階をなさるだろうと、あなたは言っています。それなら、主はどのようにしてその働きをなさるのでしょうか」

   姉妹スーザンは微笑んでこう言いました。「姉妹、あなたはとても大事な質問をしました。事実、聖書にはこの点について書かれた次のような預言があります。たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書12:47-48)。さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうかペテロの第一の手紙4:17)。これらの聖句から、主は終わりの日に来られるとき、私たちが真理を理解して入れるようにするため、必要とするすべての真理を表現なさることがわかります。それは主イエスによる贖いの働きの続きであり、人間を清め完全にするための、神様の家から始まる裁きの働きの一段階です。全能神の御言葉に関する次の二つの文章を読めば、それがはっきりするでしょう。神様の御言葉はこうおっしゃっています。神がこの時代に実行する働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性の実質と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的観念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことである。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならない。』『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

   姉妹スーザンは話を続けました。「終わりの日、神様は言葉を用いて裁きの働きをなさると、神様の御言葉は私たちに示しています。神様によって表現された言葉のすべてには、神様の義なる性質とともに、神様が所有するものと神様そのもの、神様の経営計画の奥義、そして人類の救いにおける神様の意図と御心が含まれています。それに加えて、それらは人々の罪深さと神様への反抗の根源、人間の堕落の真相、そして人類の最終的な終着点と結末を表現しています。真理のそうした側面がすべて含まれているのです。それらはいずれも、私たちのいのちに糧を提供する言葉です。終わりの日における神様の裁きと刑罰の働きを経た人はみな、自分の心の奥深くで神様の吟味を体験します。神様の御言葉は鋭い剣であり、神様を裏切るという私たちのサタン的な本性や、私たちの心に潜む卑劣な動機を切り裂き、露わにします。それは私たちの心の奥底に隠れた誰も知らないサタン的な考えさえも暴露します。そのことは、生活における振る舞いや他人の扱いといった小さなことから、信仰に対する視点、あるいは私たちが歩んでいる道はサタンの世俗的な哲学と生存法則にすっかり依存しているという事実といった大きなことに至るまで、私たちがどれだけサタンによって堕落させられてきたかを示しています。私たちは神様の御言葉を通じて、自分が本質的に傲慢、不正、欺瞞、貪欲、邪悪、自己中心、そして卑劣に満ちていること、また私たちのうち神様を信じる者でさえも祝福を得て報われるためにそうするのだということがわかります。それが真理を追求するためでも、いのちを獲得するためでも、本当の人間らしさを生きるためでもまったくなく、神様の御前で生きる価値がこれっぽっちもないことに私たちは気づきます。そうして心の中から悔い改め、自分を憎むことを始めるのです。それと同時に、私たちは神様の御言葉の権威と力だけでなく、神様の正しく聖なる性質、侵すことのできない性質について、とても深く経験しています。私たちは神様の御前でひれ伏し、神様に悔い改めて自分の方法を変え、自分自身のサタン的な本性を憎まずにはいられません。このようにして、私たちは喜んで神様の裁きと刑罰を受け入れるようになり、真理を実践に移し、神様に満足していただく新しい人になることを決意するのです」

   姉妹ルーシーは感動してこう言いました。「本当ね!神様の御言葉による暴きと裁きがなければ、私たちは自分自身の堕落した性質、本性、そして本質を本当に知ることはないでしょう。私たちは明らかに堕落しきっているけれど、それでも自分を立派だと思っているし、主によって天の国に引き上げられる資格があると考えています。私も以前は、自分のことを温かく優しい人間だといつも考えていて、誰かと口論することは絶対にありませんでした。それに、信者になってからは本当に行儀がよく、多くのよいことをしたから、自分はよい人で、主が来られたとき天の国に直接引き上げられるだろうと考えていました。でも終わりの日における全能神の働きを受け入れてからは、神様の御言葉が暴露することを通じて、自分が『よい」というのは単なる見せかけで、本当はよくないのだということがはっきりわかりました。それらのことを行なったのは、他人の賞賛を得て、人々が自分を見上げるようにすることが動機でした。私は、他人の目に完璧な像を見せるように振る舞っていたんです。しかも、事あるごとに主の教えを破り、神に反抗的で苦痛をもたらしただけでなく、傲慢で、人の言うことに耳を傾けるのが嫌でした。そのうえ嘘をつき、自分の利益のために不正なことをしました。頻繁に自分を讃え、自分の証をし、人々の心の中の地位を求めて神様と争いました。私は大天使の道を歩いていたのです。そのことを考えたとき、心から恥ずかしくなって罪の意識を感じました。私は自分を嫌い憎みました。それからはもう、自分がどれだけ優れているかを自慢することはなく、神の国に入る資格があるとも考えませんでした。その代わりに、神様の御言葉の裁きと刑罰を心から本当に受け入れ、自分の堕落した性質を捨て去ったんです。私を自分の観念や想像から目覚めさせ、自分の本当の状態に気づかせ、真理と性質の変化を追い求める道に踏み出させてくれたのは、神様の御言葉です。それはすべて、終わりの日における神様の働きの果実なんです」

   私は姉妹の話に心から感動しました。私が自分自身の観念と想像にしがみつき、いつも明らかに罪を犯しながらも、主がお戻りになって自分を天の国へ引き上げてくださるのを待っていたことを、その話は示していたのです。それは本当に現実からかけ離れています。神様の裁きの働きに関する姉妹たちの証言と、彼女たち自身の経験を通じて、罪を振り払う実際の道を示してくださったことに対し、私は神様に感謝します。私はもはや、罪から逃れられないせいで苦しんだり無力に感じたりしなくても済むようになりました。神様の裁きの働きを受け入れて経験する限り、罪深さから解放され、神の国に入る機会を得られるのだと、私は信じています。

   私は嬉しくてこう言いました。「主に感謝します。私はまだ全能神による裁きの働きを経験していませんが、あなたの経験を通じて私たちに対する神様の愛と救いを実感できます。これからはあなたたちお二人ともっと交流して、全能神の働きや、あなたたちの経験と証言をもっと理解できるようになりたいと思います」二人はそれを聞いて感激しました。

   しばらくの間、探し求めたり、調べたり、二人の姉妹たちと集まったりして、私は真理をさらに理解するようになりました。全能神は実はお戻りになった主イエスだと確信し、終わりの日の働きを喜んで受け入れました。心の中がとても暖まるのを感じました。神様は私にとても優しくしてくださったと、私は信じています。神様は私の祈りにお答えになっただけでなく、その御声を聞いて賢い乙女の一人になるよう、私を導いてくださったのです。ありがとうございます、神様!すべての栄光は全能神にあれ!アーメン!


キリスト教徒の証言–いのちの奇跡

2019-06-07 23:25:54 | 癒やしと恵みの証し

悪い知らせに耐えがたい苦しみを受けました

   「あなたの弟はどこにいるの?もう数日も見てないし、電話もつながらないわ」、と私は夕食後に何かおかしいと感じながら長男に聞きました。彼は躊躇して、重々しい口調でこう言いました;「お母さん、シャオ・ウェイは交通事故に遭って、先週から治療のために入院してるんだ。お母さんは凄いショックを受けると思って、言わなかったんだ…」突然、私は全てが終わったような気分になりました。私は何も言えないまま、くずれるように椅子に座りこみました。精神的にまいってしまった私を見た長男はこう言ってすぐに私を慰めてくれました:「お母さん、しっかりして…」私は息子の言ったことははっきり聞こえませんでしたが、下の息子にすぐ会いたいとだけ思いました。

   私はこう思いました:「私はもう72歳。若かった時に一生懸命働いたから、今は体中が痛いわ。一度、沢山の名医たちに診てもらったことがあったけど、全部効果が無かったわ。長年に渡って痛みと苦しみを経験したから、もう人生に大きな期待は持たなくなった。ただ単に残りの人生を平和に暮らしたいだけなの。でも、下の息子が交通事故に巻き込まれるなんて予想もしていなかったわ。何か悪いことでも起こったら、私はこの先どう生きて行けばいいのよ!」

キリスト教徒の証言 - いのちの奇跡

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   病院に行くと、私は息子が意識不明であったのと、両側開頭術を受けたばかりの彼の頭がメロンのように腫れ上がっていたのを目にしました。彼は39度ほどの熱があり、体温を下げるために角氷に包まれていました。彼を見ていると、私の脚はグラグラしました。私はこう考えました:「私の息子はもうこんな容態になってしまった。また目を覚ますことはあるのかしら?目を覚ましても、普通に生活ができるのかしら?息子と家族は将来どうやって暮らして行くの?私の孫息子と孫娘はどうなるの?」 私はとても惨めな気持ちになり、悲しさのあまり泣き出してしまいました。そこの病棟にいた人たち全員も泣いていた私とベッドの上でチューブだらけになって死の瀬戸際をさまよっていた息子を見て涙を流しました。

   1か月の治療を受けた後、私の息子はついに目を覚ましましたが、息子は誰の顔も覚えておらず、話すことも動くこともできなかったのです。最終的に、医師はどうすることもできずこう言いました:「私たちは最善を尽くしました。家に戻って彼にゆっくり回復させてあげてください。」 私は医師の言葉を聞いた後こう思いました:「医師がこう言っておられるんだから、息子はもう恐らく普通の状態に回復することはないのね。息子はもう死にかかっているんだわ!」 息子を自宅に連れて帰った後、私は将来の生活のことを考えると頻繁に涙を流しました。

   私の義理の娘が彼らの子供たちを育てるために働く必要があったため、息子の面倒をみる負担は私と私の夫に回ってきました。私は息子が早く回復できるようにと、彼を毎日脳のリハビリテーション療法に送りました。また、息子は自分で食べることも、飲み込むこともできなかったので、私が違う種類のお粥を作って彼に食べさせました。お粥はしょっちゅう残ってしまいました。しかし、私は諦めませんでした。私はいつか奇跡が起こることを期待して息子の面倒を見続けました。しばらくした後、息子は知覚を少し取り戻し、手足も少しだけ動かせるようになりました。私の夫と私は彼を支えてゆっくり歩かせようとしましたが、彼の脳は体の動きをコントロールすることができませんでした。彼は無意識のうちに私の頭を頻繁に叩きました。私の義理の娘が仕事から帰宅した時も、彼は彼女の髪の毛を引っ張って、彼女の頭を叩きました。彼女は10万元の対外債務と医療費の借金を支払う必要があり、夫の理性に欠ける暴力に耐える必要もあったので苦しい生活を強いられていました。彼女は何度も離婚を求めました。最終的に、彼女は工場の中で暮らすようになり、もう帰って来たがらなくなってしまいました。この状況を見た私は息子の容態だけでなく、両親のいない孫息子と孫娘の生活も心配になりました。私はこう思いました:「私はもう年寄りだから、私がいなくなったらこの子たちはどうやって生きていけばいいのかしら?」

絶望する寸前で神の御気遣いを授かりました

   2012年3月、私の親戚の1人が私を説得しにやってきました:「お姉さん、お姉さんの家族は大変な状態だわ。お姉さんの息子はまだ病気だし、お姉さんだって病気持ちなんだから、神を信仰しましょう。神は万物の創造主なのよ。神は全世界を管理されていて、全人類の運命を支配されておられるのよ。だから、神を心から信仰すれば、神は困難を通して私たちを御助けくださるわ。」私は心の中でこう思いました:「こんな状況になってしまった中で期待できることなんて何もないわ。。。」私の親戚が神への信仰について話していた時、私はそれをぼんやりとしか聞いていませんでした。私はそれを漠然としたものだと思いました。私は自分の重篤な息子のことしか考えていなかったのです。私は彼女の言葉は考慮しませんでした。それから4、5日経った後、私は親戚が又してもやってくるとは思っていませんでした。彼女はこう言いました:「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」 (マタイによる福音書 11:28)。神の祝福を受けていない私たちがどれだけ無力な状態で苦しみながら生きているかが分かるでしょ?神は私たちの拠り所なのよ。私たちは神の前に行くことによってのみ心の中で平安と安心を得ることができるの。。。」私は彼女の言葉に心が少しだけ動かされてこう思いました:「神は本当にそんな大きな力を持っておられるのかしら?神は本当に私を不幸から救ってくれるのかしら?」哀れで無力な私はこの唯一の希望にすがることにしました。

   その後、私は時間があればいつでも兄弟姉妹たちとの集会に参加するようになりました。私たちは神を讃えるために頻繁に祈りを捧げ、讃美歌を歌いました。集会に参加した時、最初の数回は庭で一人で座っている息子のことが気がかりで、転んでしまわないかと心配していたので、私はいつも気持が落ち着きませんでした。そして、ある姉妹が私にこう言って交流してくれました;「私たちは神の信仰を始めたばかりで、実際には神の御主権を体験していないので神への真の信仰は抱けていません。神はこう仰っておられます:『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』 (マルコによる福音書 9:23)。 神は全能であられます。いずれの人も、いずれの物も、全てが神の手中にあるのです。私たちはシャオ・ウェイを神に託し、神を信じて頼るべきです。そうしたら神が全てを支配されておられるという事実を目撃できるでしょう⋯」この姉妹の言葉を聞いた後、私は深く考えすぎないようにして、彼女が読んでいた神の御言葉を聞こうと心を落ち着かせました。集会が終わった後、私は様子を見に庭に行ってみると、息子が無事に椅子に座っているのが見えました。私は少し興奮してこう思いました:「神は本当に私の息子を守ってくださっているわ。」私はこれをあと数回経験した後、次第に神を信じるようになりました。

静かに祈りを捧げると奇跡が起きました

   一度、私は神のこの御言葉を目にしました:「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイによる福音書 21:22)。 私が神への信仰を始めたため、息子の病は本当に改善していたのです。神の御言葉は信頼できるように思えました。その後、私はいつも息子のために祈り、彼を神の御手に委ねました。私は奇跡が起こることを期待しました。これと同時に、私は休むことなく彼の世話をし続けました。ある日、私が2階で集会をしていた時、突然私の息子が私の所へやって来たのです。私は驚いたと同時にこれを嬉しく思いました。私は慌ててこう聞きました:「どうやって一人で上がってきたの?転げ落ちるのが怖くないの?」彼はこう言って答えました:「心配ないよ!」こう言って彼は下に降りて行ったのです。私は感極まってこう思いました:「姉妹が初めて私に福音を伝導してくれた時はまだ完全に神を信仰していなかったけれど、息子の病が毎日良くなっていくにつれて、それは神の驚くべき御業だということが分かったわ!神の御言葉は正に真実であって、とても強力なものなのよ!」更に信じられなかったのは、彼は少しずつ物を食べれるようになり、頭もさえてきていたのです。私の家族は誰もがこれに大喜びし、私は涙が出るほどに興奮しました。私は神が自分の拠り所であると心から感じたのです。私は息子を安心して神に委ね、神の御言葉を読み、心に余裕を持ちながら教会生活を送るべきなのです。後に、私の息子は完全に記憶を取り戻し、硬直していた手足も自由に動くようになりました。彼は電動自転車に乗れるようにもなったのです。これらの出来事を目の当たりにして、私は圧倒されてしまいました。私はこう思いました:「真の神は本当に私たちの側にいてくださって、必要な時にいつでも私たちの拠り所となってくださっておられるんだわ。」この瞬間、私は心の底から神に感謝して、神を讃えずにはいられなくなりました。

   その後すぐ、私の息子は術後の検査を受けに一人で自転車に乗って病院まで行きました。彼は帰宅して、医師は彼を見た時に自分の目を疑っていたと私に話してくれました。彼は私の息子の手をとって、興奮しながら他の医師と患者の元へ彼を連れて行き、驚きと共にこう言ったのです:「奇跡だ!これは本当に奇跡だ!私たちはこの患者がこんなに回復するとは予想していませんでした!これは驚きだ!」 私は彼の言葉を聞いた後、抑えがきかないほど神に感謝しました:「私の息子が早く回復できたのは、全て神の御言葉と権威の御力、そして神の憐みと御加護のおかげです!」私は医師が息子の手術を施行中に息子は植物状態に陥ると断言していたのを思い出しました。神から私への憐みがなければ、私の息子の容態は悪化していただろうし、私もどれだけ長く息子の面倒を見続けることができたかは定かではありません。神はあの姉妹を御遣いになって私に福音を伝導され、私を神の元へ御導きくださったのです。私は神の御言葉を読み、兄弟姉妹たちの交流を聞いて、神に頼ることを学びました。これは全て神の憐みだったのです。私は自分が奇跡的に授かった御救いによって神の御力を目の当たりにし、神の人間に対する愛を体験できたことを、心から神に感謝しています。後ほど、私の息子が少しずつ回復しているということもあり、義理の娘が自宅に戻ってきました。私たちはこれまでのように円満な家庭となりました。この瞬間、私の神への信仰はさらに強まりました。私は神の善良な信仰者となり、適切に神に従っていく決心をしました。

キリスト教徒の証言 - いのちの奇跡

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病にむしばれ、又しても奇跡が起こりました

   私は息子の世話と付き添いに自分の全エネルギーと力を注ぎ込み、体が弱かったにもかかわらず休むことなく働いた結果、病気に罹ってしまいました。2013年9月、私は働き過ぎで心不全を起こして病院に運ばれました。医師は、私を冠動脈性心疾患、心房細動、そして心房期外収縮と診断しました。医師は私の容態を監視し続けるために私が入院することを必要とされました。後に、私の妹も心臓病を患い、私と同じ病院に来ていました。彼女は精神的に私よりも良い状態にあったため、いつも下の階にいた私の所にきてくれました。ある日、彼女は私と談話しにやってきました。彼女がちょうど戻ろうとしていたその時、彼女は突然発作を起こしたのです。彼女は救ってもらえず、ついには死亡が確認されました。私は悲嘆に暮れていた時、自分のことが心配になり始めました:妹はまだ若かったのに、病を乗り切ることができなかったわ。早かれ遅かれ、私も彼女と同じようになってしまうのかしら?この瞬間、私は集会で兄弟姉妹たちが読んでいた内容を思い出しました:「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイによる福音書 17:20)。 神は全能であられます。神は私たちの運命を支配かつコントロールされておられます。私の息子の運命は神の主権にあるのだから、私の運命も同じなのではないでしょうか?神の御言葉は最も信頼できるものであるので、私は全てを神に委ねて神の御采配に従うべきなのです。従って、私は自分の恐怖心と臆病さの全てについて神に祈りを捧げました。祈りを捧げた後、私は落ち着きを取り戻し以前ほどの恐怖心は感じませんでした。

   後に、私は心臓のステント留置術を受けました。私の容態が安定した後、医師は病の発生頻度を下げるために心房細動の手術を受けることを推薦されました。私はこう思いました:「私はもう70代を超えてるのよ。医療費だった高額だわ。」なので、私は手術を受けるのをやめ、自分のいのちを神に委ねることにしました。私は退院した後、毎日のように容態が改善していきました。

   私はイエス様が仰ったことを思い出しました:「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14:6)。 私は今日まで神を信仰してきて、「神の御言葉を信じれば、私たちの生活に奇跡が起こる!神の御言葉は私の行き先に明かりを照らしてくださるランプのようで、生き続ける信念と勇気を与えてくださる」、という事実を幾度に渡って目撃してきました。後に、私は頻繁に神にこう祈りを捧げました:「ああ、神様!私は体が辛いですが、またあなたの御言葉の御力を目撃しました。私はヨブを見習いたいと思います。私は病が治らなくてもあなたの文句を言ったりはいたしません。私はあなたの御主権と御采配に従います。」

神の御言葉を授かり、神の愛を浴びる

   その後、兄弟姉妹たちはいつも私に会いにきてくれました。私たちは一緒に神の御言葉を読み、お互いの知識と見解を共有し合いました。私は依然として薬を飲む必要があり、たまには気分が悪くなったり、取り乱したりすることがありましたが、心の奥底では落ち着いて平安を感じていました。私はもう死を恐れていませんでした。私の体は神の御気遣いと御加護の下で順調に回復しました。私は今、エネルギーで満ち溢れています。私は料理、家事、そして畑仕事もできるようになりました。私は心房細動の手術は受けませんでしたが、それが私のいのちに影響することはありませんでした。私の下の息子もまた働き始めました。私の家族は幸せで仲良くやっています。私は今までこれほどの平安と幸せを感じたことはありませんでした。神は本当に私の家族の運命を変えて下さったのです!

   私は今回の体験で神が実際に存在されておられることを知りました。神は全人類の運命を支配されておられるのです。神は私たちの人生において、何度でも奇跡を起こすことがおできになるのです。神は本当に全能であられるのです!