賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

職場話題・仕事を維持する良い方法

2019-08-27 08:46:46 | 職場の人間関係

   私は最初アメリカに来た時、言葉の壁が原因で、レストランのキッチンスタッフの仕事を見つけるのにかなりの時間がかかりました。しかし、ボスはとても気性が荒い人でした。彼は新規スタッフおよび前からいるスタッフに対しても、誰かのミスを見つけた場合、またはスタッフが彼の気に入らないことをした場合には怒鳴りつけたり、その場でそのスタッフをクビにしていました。私も最初は彼によく怒鳴られました。

   私はレストランで特定の料理をいくつか担当していました。一度、ボスが私を試そうとしてこう聞いてきました、「メアリー、糖醋排骨(甘酢骨付き肉)のレシピは何だ?」私はとても緊張して、声が小さくなり、材料の1つを忘れてしまいました。すると、ボスはすかさずへらを自分の手に叩き付けて声を上げました、「何で俺はこんなバカを雇ってしまったんだ……」私はボスの厳しい言葉にとても傷つきましたが、あえて何も言いませんでした。キッチンにいた6人の中から誰かが毎日叱られ、その内3人は仕事中のミス、またはボスの気に入らないことをしてクビになってしまいました。私はそれが特に心配でした。毎日、私は職場に行くと神経が過敏になりました。そして、ミスを犯して皆の前で叱られることや、クビになることまで心配した私は全てを慎重に行いました。



   ある日、私はトレイいっぱいになった洗いたての皿を棚に置きに行ったのですが、突然足を滑らせて、抱えていた皿をトレイごと地面に落としてしまったのです。私は皿がたくさん割れたのを見て唖然としてしまいました。私はこう思いました、「これで終わりだわ、もうたくさん皿を割ってるから、ボスにばれたら間違いなくクビだわ。同僚も以前似たようなミスをしてクビになっていたわ。」私はこう考えるだけでも怖くて、どうしていいのか分かりませんでした。私のやらかしたことを他の同僚たちが聞いた時、その数人は「なんでそんなにそそっかしいのよ?いくら取られるか分からないわよ」、と言ったり、他の人たちは「もう、これで決まりね。メアリーは確実にクビだわ」、と言っていました。皆がこう言ったのを聞いて、私は、「この仕事を見つけるのは苦労したし、ボスに本当にクビにされたら、どうやって生活していけばいいの?」、と更に心配になりました。私は英語が下手だし、他のスキルもないし、他の仕事には就けないと分かっていました。その時、私の同僚がこう言いました、「ほら、これ片付けましょう。ボスにばれないようにしなきゃ。じゃないと、どんなにキツイ仕打ちを受けるか分からないわよ、メアリー。」料理長も駆けつけて来てこう言いました、「みんな、急いで、片付けを手伝うんだ。ボスに知らせる訳にはいかないぞ!」こうして私の同僚全員が片付けに取りかかってくれたのです。数人が床を掃いて、他の人たちが割れた皿の破片を拾ってくれている時、私は怖くなって、困惑ました。そして、私もできる限りごまかそうとして同僚が掃除するのを手伝いました。

   しかし、私は床にしゃがんで数分間掃除をした後、心の中がとても気まずくなりました。私はクリスチャンです。私は明らかに皿を割ってしまったにもかかわらず、ボスに嘘をつこうとしました。これは欺瞞行為です。これは神の御心に適っていません。そして、私は神のこの御言葉を思い出しました。「正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。然りは然り、否は否とだけ言いなさい。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。」「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。……当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、……」

   神の御言葉を熟考し、私はこう気が付きました。「私はクリスチャンです、そして正直であり、嘘をつかないことは神から私たちに対する要件です。何か過ちを犯したなら、私は勇気を出してその責任を取る必要があります。なぜなら、そのように生きてのみ、私は人間らしさと尊厳を手にすることができるからです。この事件は表面的には私が皿を割ってしまっただけのことであるように見えますが、今回起こったことは私に対する試験なのです。神は側で私が真理を実践して正直になれるかを見ておられ、サタンも私が何を選択するかと待ちながら私のことを見ているのです。もし私が個人的なメリットを守ろうと試み、ボスに叱られることを恐れ、または解雇されることを心配していたら、偽りを使って対応し、神の証言をし損なってしまうでしょう。サタンは神の前で私を非難し、それが神の御名を傷つけることにもなるでしょう。それは、私が神を心から信仰する者ではないことを示してしまいます。こう考えた後、私の心の中は明るく晴れました。私は断固たる姿勢で神の証言をする必要があったのです。ボスが来た時、私は自分の犯したミスを認める心構えができていました。

   この瞬間、私の手は動きが止まり始め、それを見た料理長がこう言いました。「メアリー、急いで片付けるんだ!ボスがもうすぐ来るぞ。」料理長がそう言ったのを聞いた時、私はまだ内心ビクビクしていましたが、それでも神の御言葉通りに振る舞って、正直に話す決意をしました。私はクビになっても、叱られても、文句を言わないと決めたのです。

   私たちが掃除をし終わった後、私は料理長が破片をゴミ箱の下に隠しているのを見ました。私はこう言いました。「隠さないでください。ボスが来たら、私は正直に話して、値段がいくらでも払います。」私がまだ喋っている最中に、料理長が割り込んで心配そうに言いました。「メアリー、一体どうしたんだ?ボスに話すのか?そんなのクビにしてくださいって言っているようなもんだぞ。この仕事を失ってもいいのか?今仕事を見つけるのがどれだけ大変か知らないのか?破片をボスから隠すのを手伝ってあげるから、そうすればボスはお前を困らせたりしないよ。」私はボスに話すと決めていたので返事をしませんでした。

   10分、20分と、時間はゆっくりと過ぎていきました。私は頭の中でボスの恐ろしい表情を思い描いてしまい、また緊張してビクビクし始めました。私は、神の要件は私たちが正直な人になることであると分かっていましたし、皿をたくさん割ってしまったことをボスに話したかったのですが、どうしてもクビになることが心配でした。「どうやってボスに説明するのが一番いいのかしら?」私は上手く言わないと間違いなく以前と同じくらい、またはそれ以上に叱られると確信していました。私は考えれば考えるほど、増々困惑していきました。あっと言う間に一時間が経ち、ボスが今にでも来るという時に、私はまだどうやってボスに説明するのかを決められていませんでした。私は心の中で祈ることしかできませんでした、「神様、私は怖いです。私は今日、真理を実践するために、ボスに心を開いて正直に話す必要があると分かっています。しかし、真実を話すことを考えると、どうしてもクビになることを心配してしまいます。神様、どうか私に自信と力をお与えください、そして私が自分のメリットを考慮せず、あなたを満足させるために真理を実践できるようにしてください。」こう祈りを捧げた後、神の御言葉のある節が突然私の頭に浮かびました。「人の心と霊は神の手の中にあり、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。 」神の御言葉の御導きと啓蒙を受け、私の心は明るく晴れました。そうです、神は全ての物、出来事、そして人々を支配されておられるので、ボスの考えと私の仕事もその両方が神の御手の中にあるのです。私が職場に残ることを神がお許しになるのであれば、ボスは私をクビにはしないでしょうし、私が解雇されるのであれば、神はそれをも許可されたということであるため、私は単純に神の御采配に服従するべきなのです。これに気が付いた後、私の心はとても静まり落ち着きました。

   一時間後、ボスがやって来ました。そして、私は心の中で神に祈りを捧げ、サタンの邪悪な力を打ち破って真理を実践できるような力を求めました。神に感謝します。私はボスの姿を見た時、どこから力が沸いてきたのかは分かりませんが、こう言いました、「ボス、今日、私はミスを犯してしまいました。」私の言ったことを聞いたボスは、怒らなかっただけでなく、うっすらと笑みを浮かべながら「何をやらかしたんだ?」、と言いました。私はゴミ袋を開けてこう言いました、「誤まって皿をたくさん割ってしまいました。ここに入っていますから、いくらの損失になるか確認していただいたら、私の給料から引いておいてください。」ボスは私の所にやって来て、袋の中の割れた皿を見た後に普通の口調でこう言いました、「弁償する必要はない、皿が割れただけじゃないか、どうでもいいよ。そんなことより、手を怪我してないといいけど。これからはもっと気を付けてくれよ。」そして、彼はもう一度私に怪我がないかと聞いてくれました。私はびっくりしたと同時にボスの言葉を聞いて嬉しくなりました。私がミスを犯した後に、あの気性の荒いボスがこんなこと言うなんて信じられませんでした。

   その瞬間、私の同僚全員が唖然とした表情で私を見ました。彼らは私が本当に進んで自分のミスをボスに認めるとは想像もしておらず、私もボスが私に罰を与えないだけでなく、優しく話してくれるなんて全くの予想外でした。料理長は私と一緒にゴミ出しをしていた時、歩きながら私にこう言いました。「お前は一体何を考えていたんだ。このことはボスに言わなくてよかったのに。俺たちはボスがお前に冷たいことを知ってるから、助けてやるつもりだったのに。俺たちがボスに喋ってしまうって心配してたのか?」私は真剣な口調でこう言いました、「いいえ、あなたが本当に私を助けようとしてくれていたことは分かってました。でも、私はクリスチャンだし、神は私たちに正直になり、現実的に物事を行い、決して人を欺いてはならないと仰ったのです。私たちは過ちを犯したら、勇気を出してそれと向かい合って、それに耐える必要があるのです。それは、クリスチャンが生活の指針とする原則なんです。」料理長は驚いてこう言いました、「お前はクリスチャンなのか。どうりで、お前とは長い付き合いだけど、お前は他の人と違っていい人だなあっていつも思っていたんだ。お前のこと、本当に尊敬するよ。神を信仰することはいいことだな、俺も将来それについてお前からもっと勉強したいよ。」料理長がこう言ったのを聞いて、私はとても嬉しくなり、心から神に感謝しました。これは私が善良な人である故のことではなく、神の御言葉が私にもたらしてくださった効果なのです。

   私が更に驚いたのは、あれ以降、ボスは私に怒鳴らなくなった上に、店が新しいスタッフを採用しようとする度に、私と相談して私の意見を考慮してくれるようになったのです。彼は更に私の給料を上げてくれました。今回の事件は、私が直面する全ての状況、そして私が遭遇する全ての人、出来事、そして物には神の御心が込められており、神はこれらの状況を使って私たちに更なる真理を御啓示くださるということを私は理解することができました。私たちは神の御要件に従って行動すれば、神の御導きと祝福を目の当たりにすることができるのです。神様に感謝します!


夫に裏切られた彼女を、神は苦痛のもやから救われた

2019-08-26 22:07:41 | 婚姻・家庭

   光陰矢のごとしです。泓(ホン)児(アル)はあどけない少女から優美な若い女性に成長し、恋愛に興味が芽生え、やがて目覚めます。富や地位はどうでもよかったのです。彼女が求めていたのは、どんな嵐を乗り切るときも慈しみと愛があり、困ったときには助け合い、ともに歳を重ねていくような関係だけでした。時が来るのを彼女は静かに待っていました…

   彼は突然泓(ホン)児(アル)の世界に現れました。彼女は彼の端正な顔立ちと澄み切った瞳に胸がときめき、彼もまた彼女に特別な感情を抱いたのでした。そのときから、彼女の穏やかで刺激のない日々は陽光で満ちあふれました。やがて二人の距離は縮まり、彼の優しさと思いやりは、泓(ホン)児(アル)にとって外見の良さよりもいっそう愛しいものでした。

   「この人こそ人生を委ねて一緒に歳を重ねたいと思っていた人だわ」と彼女は確信します。また、彼も「一生幸せにするよ」と誓ってくれました。しかし、彼女の両親は彼の家庭が貧しいことに不満を漏らし、彼女に「別れてほしい」と言います。泓(ホン)児(アル)はそれをまったく意に介さずただひたすら「心から愛し合っているし、絶対に一生連れ添えるわ」という気持ちで、両親の反対もむなしく、二人で遠くに引っ越しました。

   やがて子宝に恵まれ、愛らしくぽっちゃりした息子が不自由なく暮らせるように夫婦は疲れを覚えることなく働きました。泓(ホン)児(アル)にとって大変で疲れることでしたが、愛する人と協力して一生懸命働き、家庭を育むことはとても甘美な喜びでした。

   彼女の誕生日には特別に、彼は半月分の給料をかけて、ラジオで彼女のために「風雨に耐えて」というラブソングをかけさせ、曲が始まるなり、泓児(ホンアル)は感極まって涙を流します。その曲の中に、1つになった2人の心の声が聞こえたのです。

   末永く結ばれ、お互いを大切に思い、愛し合っている夫婦よりも尊いものなどあるでしょうか?彼女が求めていたのは莫大な富ではなく、このように仲のいい夫婦生活でした。円満な家庭があれば十分だったのです。

   月日がたち、瞬く間に20年が過ぎました。一人息子はすっかり成長し、2人はかなりの規模の家業を始めるために二人三脚で一生懸命働きました。しかしある時点で、泓(ホン)児(アル)は夫の帰宅が次第に減り、「接待がある」という言い訳が増えたことに気づきました。かつて温かく幸せだった家庭がだんだん冷えていくようで、泓(ホン)児(アル)は気を揉んでいました。会社の建築を準備をしていたときは夫自ら対処しなければならないことがたくさんあり、当時は目が回る忙しさだったけど、いつもできる限り早く家に帰ってくれていた。今は会社の経営がどの面でも軌道に乗って、前ほど忙しくないはずなのに、どうして前よりも家に帰ってこなくなったのかしら」。

   彼女は不安で落ち着きません。顧客の趣向は当然理解していました、「フットマッサージや、サウナ、カラオケ、ナイトクラブとか色んな娯楽のワンストップサービスが業界の暗黙のルールになっているし、色んな娯楽の場に行って一夜限りの関係を持ったり、浮気をしたりすることは男の人の間では流行っている。夫は来る日も来る日も客を接待し、このような誘惑だらけの娯楽施設に出入りしているということは、まさか…?いえ、そんなはずはないわ!」

   この20年間、彼女と夫はどんな嵐も乗り越えて手に手を取って歩んできました。その間に起きたことはどんなにささいなでも夫婦の愛の証だったのです。これほどしっかりした愛の土台がどうしてちょっとした誘惑で崩れるのでしょう。「私たちの愛ならどのような試練も耐えられるはずよ」、泓(ホン)児(アル)は自分を慰めるためにそう考えましたが、現実と直面してみるとそれでも気が気ではありませんでした。

   現実は、泓(ホン)児(アル)が「きっとそうよ」と思った通りにはなってくれなかったのです。夫は高額な使途不明金が続き、家に帰らないことがさらに頻繁になり、言い訳も非常にあいまいになります。こうしたことが重なって打撃を受けた彼女はますます不安で心が押しつぶされそうでした。

   夫の普段と違う行動から、「多分浮気ね」と感じていましたが、その現実を受け入れて認めようとはしませんでした。「一生幸せにするよ」と誓い、20年間もともに嵐を乗り越えてきた夫が、突然自分を裏切るなど認める勇気がなかったのです。「死が二人を分かつまで」という誓いは気休めの嘘にすぎなかったのでしょうか。

   現実が現実だけにこれ以上自分自身を偽ることができなくなった泓児(ホンアル)は夫を尾行し始めます。ある日、尾行するうちに高級住宅街にたどり着き、そこには彼が別の女性と建てた家があることを知りました。その女性が小さな子供を腕に抱いてあやしているのを見た瞬間、凄まじいショックを受け、自分の目を疑います。「夫が他の女性とホテルに出入りしたり、親密な関係ぐらいにはなったりしているかもね」という疑いは何度か抱きましたが、まさか別の家庭を築き、別の女性との間に子供をつくっているとは夢にも思いませんでした。その厳しい事実を前に、それまで彼女の中にあったわずかばかりの慰めも砕け散り、崩れ去りました。瞬く間に、2人の誓いも20数年にわたる支え合いも跡形もなくバラバラに崩れ落ちたのです。なんて薄情な人なのでしょうか。一生幸せにするという約束を忘れることなどできるのでしょうか「風雨に耐えて」の歌で表した気持ちを忘れてしまったのでしょうか。妻が夫のためにすべてを投げ出したたことも、夫婦で様々なことを乗り越えてきたことを忘れてしまったのでしょうか。どうして忘れることなどできるのか。どうして妻にそのような仕打ちをするのでしょう。20年間育んだ愛が、見知らぬ人の誘惑に負けるなどありえるでしょうか。

   その瞬間、泓児(ホンアル)は怒りと悲しみに心をかき乱されて震え、不意に涙がこぼれました。そしてかすれた声で夫に「本気で私と息子を捨てて、この女を選ぶっていうの」と叫びます。

   夫の顔に罪悪感が浮かび、「すまないことをした。家族は今でも大切だよ」と答えてくれることを彼女は期待しましたが、夫は涙を流して問いかける妻を前にしてもすっかり黙り込んでいました。夫の態度を見て、泓児(ホンアル)は打ちひしがれました。どうしてこれほど薄情に裏切ることができるのか、見当もつきません。心の中の憤りを抑えきれず、夫の顔を強く平手打ちしました。

   泓(ホン)児(アル)はその場を去った記憶がありませんでした。すべてが吸い取られてしまったような感じです。黄昏が濃くなる中、海岸に立ちつくす彼女のそばに見られたのは、夕日とその色あせた残光だけでした。



   苦痛の波が、絶え間なく心にこみ上げてきました。共に過ごした20年の場面が次々と目に浮かびます。彼のために家族の反対を押し切り、毅然として2人で遠くに移り住みました。ともに必死で働き、金に不自由することがあってもお互いの気持ちがそげるは少しもありませんでした。手に手を取って酸いも甘いも噛み分け、雨にも風にもめげずここまで来たのです。

   暮らしが豊かになり、子供が成長したというのに、夫は幸せな家庭を捨てて別の女と巣を作るなどということができたのです。泓(ホン)児(アル)は夫の不貞を憎み、薄情さを憎みましたが、「せっかく一生懸命働いて築いた幸せな家庭が消えてしまうなんて」と思うととても諦めきれず、「取り戻すためにできることなら何でもするわ」と思います。どんな幸福も託していた夫であるだけに、戻ってきてくれさえすれば、過去の過ちは赦せたのです。

   帰宅すると、泓(ホン)児(アル)は夫婦仲を救うための計画を立て始めますが、ある友人から、「男は生活のために仕事に行く所で、冷たい表情に嫌というほど出会う」ので、「家に帰ってくる旦那に必要なのは、家庭の温かさ」でそれさえあれば幸せを感じられるという助言を聞きました。また、「男の心をつかむには先ず胃袋から」だと友人は言います。

   泓(ホン)児(アル)は、夫の好物がギョーザであると知っていたので、毎日手間暇かけて何種類ものギョーザを手作りし、さりげなく夫のことを調べる方法を色々考えました。息子を使って帰宅してもらう理由も思いつけるだけ思いつきましたが、どんなにうまいことを言ってもいつも気乗りしないようでした。泓(ホン)児(アル)は「私が年を取って見た目も悪くなったから気持ちが冷めたのかしら」と考え、若く見せることに多大な精力を費やすようになります。夫の心を取り戻すために様々な方法を考えましたが、すべて無駄でした。その時期は本当に大変で疲れ果て、ひどい無力感を覚えていました。

   毎日、涙を流しながら顔を洗い、夜もよく眠れませんでした。壊れた家庭を修復しようとどれほど多くのことを試したかわかりません。万策が尽きた彼女にできたことは、夫が改心してくれるのを苦しみながら待つことだけでした。

   泓(ホン)児(アル)はそのまま3年待ち、その長い日々の間幾度となく自問しました、「20数年もの愛情が、こんなにあっさりなくなってしまうなんて。こんなに苦労してるのにどうして幸せで完璧な家庭を取り戻せないの」

   何度も問いましたが、答えは見つかりません。来る日も来る日も待ちましたが、何も変わりませんでした。それは間違いなく彼女たちの夫婦生活に対する「死刑宣告」でした。悲嘆にくれた泓児(ホンアル)には、そんなショックに耐える気力もありませんでした。もううんざりしており、前進する勇気も精力もなくなった彼女は40錠のジアゼパムを一気に飲みました…

   翌日目が覚めると、病院にいました。息子と夫もいました。悔し涙がとめどなく流れ、心はボロボロで、泣きたいだけ泣きました。このような状況で家族が揃うとは何とも皮肉ですが、彼女にはどうしようもありません。空を見上げてため息をつきました、「夫婦がともに辛いことを乗り越えられるのに、豊かさに負けてしまう理由なんて誰にわかるかしら。20数年愛がこんなにもろいなんて。」

   それから間もなく、息子の姑が神の終わりの日の福音を泓(ホン)児(アル)に伝え、「あなたを救い、苦しみを全部取ってくださるのは神だけよ」と言い添えました。これは、人が神によって創造されたためです。人類は、始めは神の配慮と保護のもとにとても幸せに暮らしましたが、サタンによって堕落させられたために神から離れてしまい、神の存在を否定し、サタンの害毒の中で暮らすようになったのです。人の不満と苦痛は大きくなるばかりです。神御自身が受肉されたのは、真理を表し人類を救い、サタンの手から奪い返すためなのです。

   人は神の御前に立ち、神の御言葉を読み、そこから真理を理解することで初めて、社会にはびこる諸悪の根源を見抜き、サタンの害毒から離れて、神の配慮と保護のもとに暮らすことができます。息子の姑は神の御言葉の一節を読みました。「全能者は、深い悲しみの中にあるこのような人々に慈しみを抱く。同時に、神は何の自覚もしていないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、神は人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならないからである。神は探したいと、あなたの心や霊を探したいと、願っている。神は、あなたに食べ物や水をもってきたい、あなたを目覚めさせたいと思っている――そうしてもはやあなたが渇きを感じないように、もはや空腹でなくなるように。あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。全能者は苦しげに切望している、そして答えのない応答を待っている。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)

   今まで聞いたこともなかったこれらの言葉に耳を傾けた泓(ホン)児(アル)は大変心を打たれ、暖流が心の中で沸き上がって心身が温まるような気分でした。ここ数年、彼女には、心の深い悲しみを分かってくれる人も、苦しみの重荷をともに背負ってくれる人もいませんでした。また、理解して慰めることができる人もいなかったのです。寂しく眠れない夜を何度となく過ごし、明け方まで一人静かに涙を流していました。心の傷が影のように付きまとい、決して忘れることも、振り払うこともできず、「もうずっとこのまま孤独で辛い人生しかないのね」と思っていました。

   しかしその日、その一節が心の扉を叩き、「私が辛くて苦しんで涙を流しているとき、神はそれを御存じでいつもそばにいて、私が気を持ち直すのを待ってくださっている」と悟ったのです。神の親心ある言葉を聞いて、泓児(ホンアル)は涙が止まらず、「神がそばにいてくださる。一人じゃないんだ」と感じました。

   彼女はそれまで神について聞いたことはなく、何も知りませんでしたが、神はいつもそばで見守ってくださっていたのです。間一髪の時に彼女を救い、自殺を決意した彼女の生命を守られただけでなく、人生にすっかり絶望していた彼女に、息子の姑を通して神の声を聴かせてくださいました。

   御自身の言葉を用いて泓児(ホンアル)の心を動かし、温もりを与え、希望をもたらし、絶望と苦痛の人生を好転させてくださったのです。その瞬間、泓児(ホンアル)は神の愛と救いを感じ、傷ついた心が癒されました。心の拠り所を得たのです。

   その後、泓児(ホンアル)は全能神教会に通い、神の御言葉を読み、真理について交わり、兄弟姉妹とともに神を称えて讃美歌を歌うようになりました。彼らが皆親切で、誠実さをもって人に接しているのを彼女は目の当たりにしました。彼らは自分たちの暴かれた堕落について単純明快かつ率直に打ち明け、神の御言葉に従って堕落を分析し、神が好む正直者を目指すことができていました。

   誰も他人を嘲ったりせず、皆互いに助け合い、糧を与え合いました。誰もが幸せそうな、あふれんばかりの笑顔を見せていました。泓児(ホンアル)はこの誠実でうれしい雰囲気が自分にも移っていると感じ、その大家族の中で、今まで経験したことのないような安らぎと自由を得ました。

   久しぶりの温かさと、我が家に帰って来たような気持ちを再発見したのです。苦痛は日ごとに和らぎ、徐々に笑顔が出てきました。長いこと困惑してきた事柄に対する答えを神の御言葉の中に見出し、自分の苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉には次のようなものがあります。「実は、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない墮落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より)「こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)「あなたがたは皆、「裏切り」という言葉を知っている。なぜなら、ほとんどの者たちが、これまでに何かしら他人を裏切ることをしたからである。例えば、夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切る。息子が父を裏切り、娘が母を裏切る。奴隷が主人を裏切り、友達同士が互いに裏切り合う。親戚同士が裏切り合い、売り主が買い主を裏切る等である。こうした例には、すべて裏切りの本質が含まれている。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)「人間の本性とは、その者のいのちであり、それは、生き残るために人間が依存する原則であり、人間はそれを変えることが出來ない。ちょうど裏切りの本性のように――もしあなたが、何か親戚や友人を裏切ることが出来るのであれば、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、あなたの生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定出来ないことである。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)

   神の御言葉を通して、泓児(ホンアル)は「人間の苦しみは全部サタンによる堕落に端を発しているのね。人々は皆いわば大だるの中で暮らし、邪悪に染まっているのだわ」と理解しました。私たちはサタンの悪しきささやきを浴びています。例えば、「屋敷をしっかり保ちながら自分はその傍らで楽しめ」、「人生は短い。楽しめるうちに楽しめ」、「人生は短いのだから今を楽しめ」、「男は10人中9人は女と馬鹿騒ぎし、残りの1人はただの馬鹿だ」といった格言があります。

   これらは、男性が他の女性と浮気をして、愛人を囲うことは容認できることであり、地位の印であると説いてします。さらに、誘惑が多い娯楽の場は大通りから小さな路地まで至るところにあり、人々が悪しき肉体的快楽にふけるのにとても便利です。多くの人々は恥ずかしげもなく一夜限りの関係を持ち、浮気に興じます。彼らはあまりにも邪悪で堕落しており、あまりにも下劣なため人間らしさを欠いています。

   真理を理解していなければ、人は善悪も美醜も見分けることができず、ポジティブな事柄とネガティブな事柄の区別もできません。そのような人は、物の見方がねじれ、悪事を公正かつ立派な事とみなします。人間が備えるべき人間性も理性も、倫理観も、尊厳も手放し、肉欲を満たすためだけに誓いを破り、配偶者を裏切ります。サタンの支配下で生き、すっかり肉欲に溺れ、悦楽を追求し、自身の見苦しい欲望を満たしているのです。

   泓児(ホンアル)はこの邪悪な社会について一考しました。夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切ることはよくあることです。悪しき風潮で腐敗し、真理を欠く人はこのような行為に何の抵抗もありません。知らず知らずのうちに邪悪な考えの影響を受け、つかの間の肉体的欲求を満たすためだけに責任も道徳も正義も良心も無視します。配偶者を見捨て、家族に途方もない心の傷を与えます。それで一生苦しむ人もいるでしょう。

   泓児(ホンアル)は夫もこのような邪悪なサタン的風潮の被害者であったのだと悟り、夫がかつてとても思いやりと愛情をかけてくれた時のことや、2人とも自分たちのためだけに物質的な富を求めたりはしなかったことを思い出しました。ただ互いへの愛と慈しみ、幸福と円満さだけを求めていたのです。

   しかし裕福になった途端、夫は頻繁に顧客を接待し、あちこちで娯楽の場を飛び回るようになりました。悪しき風潮の魅惑に勝てず、放蕩生活を送るようになったのです。肉欲を満たすことだけを考えて、不倫をし、見苦しい欲望のままに生きま、妻の気持ちも、ましてや家族のことも全く考えていません。こうして家庭が壊れ、2人は離別してしまったのです。

   20数年も分かち合ってきた愛も、悪しき風潮の前では、実にもろく見えました。わずかな衝撃にも耐えられなかったのです。それはすべて、サタンが人間を堕落させた結果ではないでしょうか。

   泓児(ホンアル)は、サタンによってひどく害されたことを自覚しました。彼女がいつも求めていた夫婦生活は、円満で愛し合い、「死が二人を分かつまで」ともに歳を重ねるというもので、そのような夫婦生活だけが、人生の幸福だと考えていたのです。

   夫が道を誤った後、彼女は壊された愛を取り戻すために百方手を尽くし、望みが叶わないと苦痛のもやの中に暮らし、抜け出すこともできず、死んで楽になろうとさえしました。それはすべてサタンが人間に吹き込んだ間違った考えや物の見方に過ぎず、彼女をもてあそび、害するものではなかったでしょうか。

   泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を読んで初めて、「人間は皆自分勝手で、、自分の都合のために、自分の主義に従って行動するんだわ」と理解しました。2人の人間の間に真実の愛はありません。ロマンティックな愛など存在しないのです。しかしサタンは人が悪を崇め、何よりもロマンティックな愛を追求し、完全な幻想の中に生きるように、あらゆる馬鹿げた観念を利用して堕落させ、そそのかします。人はますます堕落し、下劣になり、神からどんどん離れます。

   そのことから泓児は、「人は真理がなければ善悪や美醜を見分けることができず、ポジティブな事柄についても判断できない」ことを実感しました。これではただサタンにもてあそばれ、害され、終いには飲みこまれてしまいます。神の救いのおかげで、泓(ホン)児(アル)はサタンによる人間の堕落の実態を知り、苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉のおかげでずいぶんと心が明るくなり、とても気持ちが安らぎました。

   それから泓(ホン)児(アル)はこの神の御言葉の次の節を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)

   泓(ホン)児(アル)は神の御言葉から、「神だけが人をサタンの堕落から救うことができる人は神の御言葉を通して真理を理解することで初めて、人間を堕落させるサタンの戦術や方法を見極められる」と理解しました。それだけが、サタンの策略を見抜き、害を逃れ、自由に生きる道なのです。彼女は「何年も間違った考えに支配されていたのね。結婚して幸せになろうなんて幻想に過ぎなかったんだわ」と嘆き、ため息をつきました。思えば、夫もサタンによって堕落させられた人であり、ネガティブな悪事ばかり追求してきました。そのため彼女には苦しみと傷しかもたらせず、何の幸福ももたらせなかったのです。

   人に対する神の愛だけが無私無欲であり、神だけがサタンの支配から人を救いたいと心から願ってくださるのです。人を清め、変えるために神はあらゆる真理を表し、あらゆる環境を采配されます。それはすべて人がサタンの悪影響から逃れるように導き、幸福な人生をもたらすためです。しかし堕落した人類というものは、自分の個人的な興味を引くものに出会うとすぐに裏切るのです。神のみがいつでもどこでも人のそばにおられ、あらゆる逆境を切り抜けられるように助けてくださいます。神のみが本当に頼れる存在であり、神の家だけが人の心と霊にとって本当の避難場所なのです。

   以前の泓(ホン)児(アル)はサタンから生じた悪しき風潮を理解しておらず、ただ夫へ憤りを抱きながら、幸福も喜びもない暮らしをしていました。サタンに縛られて害され、惨めな日々を過ごした苦痛は言い表せないほどでした。今では苦しみの根源がわかったため、夫が憎くなくなったのです。

   肩の荷が下りたようで、かつてなかったような霊の安らぎと安心と自由を感じました。真理の理解を通してあらゆる人や出来事や物事を見分けるという経験を得て、ついに苦しみとサタンの害悪という責め苦を逃れることができたのです。

   神の御言葉の啓きと導きを得た泓(ホン)児(アル)は、以前のようにふさぎ込まなくなります。夫が夫婦愛を裏切ったことの執着を手放し、安らぎを得たのです。ついにもやに覆われた日々に別れを告げました。彼女を知っている人たちは、「人が変わったね。もっと頭がさえて快活になってる」と口をそろえて言います。神の御言葉のおかげでこのように変わることができたため彼女は神への感謝の気持ちでいっぱいでした。

   そして数年が経ちました。泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を常に読み、教会生活を送り、兄弟姉妹と神の御言葉について交わり、創造物の一つとして本分を尽くすことに全力を注ぎ、とても充実した日々を過ごしています。真理をある程度理解し、「人が地上で生きるのは配偶者や子供のためだけではなく、創造物としてしかるべき本分を尽くすためであり、そのように生きることで初めて神に喜んで頂ける」とはっきり認識しました。ついに人生の正しい道を見つけたのです。それは神に従い、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、神の働きを経験し、真理を理解して得るように励むことです。神を畏れ悪を避けることであり、神に従って神を崇拝する者になることです。これが最も有意義で幸せな人生なのです。

   泓(ホン)児(アル)の願いは、神の導きと指導の下でこのような人生の道を歩み、真理といのちを得て、サタンの害から完全に逃れ、意義のある人生を送ること、即ち、真理の現実を生きて神に栄光を帰すことなのです。


「万物の主権を握るお方」NO.9 イスラエルの民への神の約束

2019-08-25 23:23:46 | キリスト教映画

 

音楽ドキュメンタリー 「万物の主権を握るお方」抜粋シーン(9)イスラエルの民への神の約束 何百年もの間、律法の下にあったイスラエルの民は、自らの罪ゆえに、律法により有罪と宣告され、死に処せられる危機に直面する。必死に呼び求める彼らに、神は約束を与える。彼らの運命と存在を変える、その約束とは?本キリスト教大作映画クリップ「イスラエルの民への神の約束」がその答えを明らかにする。

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聖書には永遠のいのちの道が含まれているか

2019-08-23 23:24:43 | 聖書と神

   ある夜、高兄弟は聖書を手に桂兄弟の家へと急ぎました。

   高兄弟がそこに着くと、二人はソファに座りました。

   高兄弟は聖書を開いて言いました。「桂兄弟、聖書を読んでいる途中で一つの問題に突き当たったんだけど、どう解決すればいいかわからないんだ。この問題は、僕らが主への信仰を通じて永遠のいのちを得る鍵のような気がする。だから君と一緒に答えを探し求めようと急いだんだ」

   桂兄弟は笑みを浮かべて言いました。「わかった。じゃあそれを話してくれ」

   すると高兄弟は言いました。「聖書はキリスト教の正典で、クリスチャン全員が読まなければならないものだと、僕らはみんな知っている。集会に参加していようと、ディボーションをしていようと、福音を宣べ伝えていようと、あるいは説教をしていようと、いつも聖書に従う必要があるんだ。だから、聖書は欠かすことのできない僕らのいのちの一部だと言えるだろう。聖書には神様の以前の働きだけでなく、多くの人による証しも記されている。聖書の中にはいのちがあって、じっと聖書を読み続けていれば永遠のいのちを得られると、僕らは堅く信じている。でも今晩聖書を学んでいたら、主イエスが「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった一節を目にしたんだ。そのせいで僕はすっかり混乱した。と言うのも、聖書に神様の御言葉と人間の証しが含まれているなら、聖書を読むことで永遠のいのちを得られるはずだからだ。ならどうして、主イエスは聖書の中に永遠のいのちはないとおっしゃったんだろう。その御言葉をどう理解すべきだろう。これが本当にはっきりと理解できなくて、君の認識はどうなのかと思ったんだ」



   桂兄弟は言いました。「高兄弟、君が話したこの問題は本当に鍵を握っているよ。何人かの他の同労者と僕も、最近この問題のせいで混乱したんだ。そのあと、町の外で行なわれた集会に出かけたとき、数名の兄弟姉妹と一緒に答えを探し求めてようやくこの問題を理解したんだよ」

   高兄弟は喜んで言いました。「本当かい。主よ、感謝いたします。さあ、早くそれを教えてくれないか」

   桂兄弟は言いました。「いいとも。実を言うと、この問題を理解したければ、まずは聖書に記されている、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きの内幕と、それらの働きによる結果とを理解する必要があるんだ。そうすれば、なぜ主イエスがそのようなことをおっしゃったのかが理解できる。まず最初に、旧約聖書に記された律法の時代にヤーウェ神がお語りになった御言葉は、律法とヤーウェ神の戒めを布告することと、地上におけるイスラエル人の生活を導くことがおもな目的だった。どう正常に生きるべきか、どのように捧げ物をして神様を讃えるべきか、罪とは何かなどを人間が知るようお教えになったことが、ヤーウェ神の成し遂げられた結果だった。しかしそれらは単純な真理に過ぎず、人間がいのちを得られるようにするにはほど遠く、まして永遠のいのちを得られるようにするなど不可能だった。新約聖書には主イエスの御言葉と働きが記録されているけれど、それはおもに人類を贖う主の働きであり、悔い改めの道を人間に与えるとともに、天国が近づいていることと、誰もが悔い改めなければならないことを人間に伝えている。人々が告白して悔い改められるようにし、それによってその人の罪が赦されるとともに、盗みや強盗をしないとか、他人と争わないとか、他人を罵ったりしないとか、酒を飲まないとかいう、いくらかの外面的な良い振る舞いをできるようになったというのが、主の成し遂げられた結果だった。また一部の人たちは、強い熱意をもって働いたり、主のために自分自身を費やしたり、主に従って主の福音を広めるためにすべてを捨てたりすることさえできるようになった。

   「よって、天地万物は神様によって造られたこと、律法の時代に神様が律法と戒めを布告なさったこと、そして神様のお求めに従って地上で暮らすにはどうすればいいか人類が知るようになったことを、僕らは聖書を読むことで知るようになる。そして神様の性質が鮮明で本物だったことや、神様は僕らに憐れみをお示しになるだけでなく、人を呪い罰することもありうるとわかった。さらに、神様に自分の罪を告白して悔い改め、他人を許して自分の敵を愛し、塩と光になるべきだということもわかるようになった。僕らは自分の十字架を背負って福音を広めるべきであり、また主イエスが自分のように隣人を愛されたこと、人間に果てしない憐れみと愛情をお授けになったこと、そして主の救いを受け入れることでのみ僕らは神様のお恵みと祝福を豊富に享受できることを理解するようになった。だから、聖書に記されている律法の時代と恵みの時代における神様の御言葉と働きはすべて、人類の堕落の度合いと当時の人間が必要としていたものを土台にしていた。律法の時代におけるヤーウェ神の御言葉は、人間が地上で正常な生活を送れるように語られたものであり、恵みの時代に主イエスがお話しになった御言葉は、人間が悔い改められるようにする道としか呼べず、永遠のいのちの道とは呼べないんだ。

   「では、永遠のいのちの道とは正確には何だろうか。永遠のいのちの道とは、僕らがもはや罪の束縛や制約を受けないようにし、自分のいのちの性質が変化できるようにする道であり、僕らが永遠に生きるようにする真理の道だ。より具体的に言えば、それは僕らを罪から救い、僕らが真理を自分のいのちとして獲得することと、サタンの影響を完全に振り払うことを可能にするとともに、真に神様を知り、神様に従い、神様を崇拝し、これ以上罪を犯さず、神様に抵抗したり神様を裏切ったりしないようにすることができる。これらの成果を挙げることでのみ、僕らは永遠のいのちの道を見つけられるんだ。でも自分自身を振り返ってみると、僕らは聖書に詳しく、外面的な良い振る舞いをいくらかしているかもしれないけれど、罪深い本性が自分の中に深く根ざしたままで、いまだに思わず罪を犯しかねないことがわかる。たとえば、僕らはいまだ傲慢になったりうぬぼれたりしかねないし、親類や友人や教会の兄弟姉妹とうまくやっていくことができず、そのせいで他人を見下したり、見くびったり、排除したり、裁いたりするかもしれない。金銭関係の問題や、自分の個人的な利益に関する問題に直面したとき、僕らは互いに謀り合ったり欺瞞を行なったりしかねない。神様に仕えながら、他人が自分を仰ぎ見て偶像化するよう、自分の証しをして自身を高く掲げる可能性もある。何らかの地位に昇ると、他人を罠にはめて支配し、教会の中で派閥に分かれ、自分自身の王国を打ち立てるかもしれない。災害が起きたとき、それが人災だろうと天災だろうと、僕らはしばしば神様を責めて神様のことを誤解し、神様を裏切りさえする。これはいくつかの例に過ぎない。だから、律法の時代と恵みの時代に神様がなされた働きは、人々が自分の罪に気づけるようにし、それを悔い改めて告白できるようになったという成果を挙げたのは明らかだけど、僕らのいのちの性質を清めて変えるという働きはまだなされていなかった。主イエスは『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)とおっしゃった。僕らがいまも頻繁に罪を犯しかねず、堕落した性質がまだ清められていないことは、僕らを罪の奴隷も同然にしているんだ。僕らはいまだに永遠のいのちの道を見つけていないし、神様にお会いする価値もない」

   桂兄弟の話を聞いたあと、高兄弟は考え込むように言いました。「桂兄弟、君の話は本当にその通りだ。律法の時代にヤーウェ神がなされた働きは、律法と戒めを布告し、人の生活を導き、神様をどう崇拝すべきか教える働きだった。恵みの時代、主イエスは僕らを贖われ、悔い改めの道をお与えになった。主への信仰を持ったあと、僕らの罪は赦されるけれど、罪深い本性が深く根ざしたままで、なおも思わず罪を犯したり、時々腹を立てたり嘘をついたり、神様に反逆したりしかねない。僕らはいまだに清められていないんだ。桂兄弟、もしそうなら、律法の時代と恵みの時代の働きを受け入れるだけでは、罪を振り払えず永遠のいのちも得られないということにはならないか。僕は正しく理解しただろうか」

   桂兄弟は言いました。「君は間違っていないよ」

   高兄弟は続けました。「じゃあ、聖書を読んでも永遠のいのちを得られないとすると、どうすれば永遠のいのちを得られるんだろう」

   桂兄弟は眼鏡を外して拭いました。そしてしばらく考え込んでからこう言いました。「僕が出席したその集会でのみんなとの交わりから、人類が死ぬべき運命にあるのはひとえに神様から離れてしまったこと、神様の御言葉を自分のいのちとして受け取っていないこと、そして罪の中で暮らしていることが理由だと僕はついに理解した。罪に関するこの問題を解決して真理が自分のいのちとなるようにすることができる限り、神様は僕らが決して死なないように永遠のいのちをもって祝福してくださる。だから永遠のいのちの道を見つける人は、傲慢や欺瞞や利己心や悪意といったサタン的な堕落した性質にもはや支配されず、真理を自分のいのちとして受け取ったあとは決して罪を犯したり神様に抵抗したりせず、キリストと相容れるようになる。神様だけが永遠のいのちの道を有しておられ、それを僕らにお授けになれる。では、神様はいったいいつ、僕らに永遠のいのちの道をお授けになるのか。それは終わりの日だということでみんな一致しているし、聖書もその考えを支持している。主イエスがこう預言なさった通りだ。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。またヘブル人への手紙第9章28節にはこう記されている。『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』。また黙示録の第2章と第3章でも『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』と7回も預言されている。さらにそこでは、神様のパラダイスにあるいのちの木の実と隠されているマナが人間に与えられるとも述べられている。だから主イエスは終わりの日にお戻りになるとき、聖書を乗り越えて、僕たちが永遠のいのちを得られるようにするすべての真理を表現なさることがわかるんだ。終わりの日のキリストが表現なさる真理を受け入れ、いのちの性質が変化し、罪が清められて真理を自分のいのちとして受け取るとき、僕らは永遠のいのちを得て、そのとき初めて天国へ引き上げられるのにふさわしくなるんだ」

   桂兄弟はそこでお茶をすすり、話を続けました。「僕は福音のウェブサイトでこのような神様の御言葉の一節を読んだ。『終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない』(『終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる』より)。永遠のいのちの道は終わりの日のキリストから生じるのであって、聖書から生じるものじゃない。聖書は神様の働きにおける以前の二段階を記録しているだけで、神様の証しに過ぎない。それは神様の権威や力や永遠のいのちを表わしているわけじゃないんだ。キリストだけが聖書の主でありすべてのいのちの源だ。まさに主イエスが『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』(ヨハネによる福音書5:39-40)とおっしゃった通りだ。聖書にしがみつくだけで、お戻りになった主の働きを探し求めたり追究したりしないなら、僕らは決して主の出現をお迎えすることができず、永遠のいのちを得るのも不可能になってしまう。こうしたことを理解することが、永遠のいのちを得て、主への信仰を通じて天国へ入るのに不可欠なんだよ」

   高兄弟は喜びで顔を輝かせ、興奮した口調でこう言いました。「主よ、啓きとお導きに感謝いたします。聖書は神様の証しに過ぎず、永遠のいのちを含んでいないことをようやく理解しました。終わりの日のキリストだけが永遠のいのちの道を有しておられ、終わりの日のキリストが表現なさる真理を得て、自分の堕落した性質が清められて初めて、私たちは永遠のいのちを得て天国に入れるのです。そうだろう、桂兄弟」

   すると桂兄弟は言いました。「その通りさ。僕らは終わりの日のキリストの働きを受け入れなければならない。そうして初めて、永遠のいのちを得る機会がもたらされるんだ。主よ、感謝いたします」

   高兄弟も言いました。「主よ、感謝いたします」


結婚の物語ー彼女はいかに自分の伴侶を選んだか

2019-08-22 22:21:47 | 婚姻・家庭

   誰の人生でも結婚は一大事ですが、幸せを確かなものにするには、どうやってパートナーを選べばいいでしょうか。あなたの伴侶を選ぶ基準は何ですか。最近ではますます多くの女性が長身で裕福でハンサムな人との結婚を望み、ますます多くの男性が美しい女性との結婚を望んでいます。お金があって贅沢な物質的生活を楽しめる限り自分は幸せになれると、人は考えます。しかし結婚に関するそうした見方は正しいでしょうか。本物の幸福とはいったい何でしょうか。私たちの賞賛に値する一組のカップル、喬茵と祁正が、幸福とはいったい何かをここで解き明かします。

   喬茵は大学一年生のときに祁正と出会いました。祁正は貧しい家庭の出身でしたが、知り合ってから最初の一年間で、彼が本当に優しい男性だと喬茵は知りました。そして二人は恋に落ちました。喬茵は祁正に自分がクリスチャンであることを伝え、終わりの日の神様の福音を彼と分かち合いました。すると祁正は喜んで神様の働きを受け入れました。二人はたびたび集会に参加して一緒に神様の御言葉を読み、あらゆることを語り合いました。喬茵が祁正と一緒に過ごす日々は幸せに満ちていて、彼と出会ったことについて何度も心から神様に感謝を捧げました。



   そうした感情は間違っていたのか

   いったん二人の関係について話が広まると、喬茵の家族は交際に強く反対し、二人を引き離そうとできる限りのことをしました。それに彼女のルームメイトでさえも見通しは暗いと考えていました。しかし喬茵は他人の反対にかまわず、祁正と一緒にいる決意をしていました。彼女が本当に彼と共に人生を送るつもりだと知った周囲の人々は、「親切な」忠告を彼女に与えました。

   「いいかい、君の家庭環境は悪くないし、君は美人だ。どうして貧乏人なんかとデートするんだ。今後の人生がどのようなものになるか、考えたことはあるのか。今の我々の社会状況では、強力なコネがない限り卒業してもいい仕事には就けない。お金もコネもない人間が、どうして役に立つ人脈を持っているというんだ。あいつと一緒にいれば、君は間違いなく楽な人生を送れない。私には背が高くて裕福でハンサムな友人がいるから、君に紹介しよう。祁正と別れる気があるのなら、君たち二人には絶対チャンスがある」

   「よきパートナーを見つけることは、女性にとって一生の望みじゃないかしら。いま家や車の値段がどれくらいするか、考えてごらんなさい。着るものしか持っていない人と一緒になれば、家や車を手に入れるのに何年も苦労しなきゃならないわ。それに子どもがいればもっと苦しくなるわよ」

   「君は現実的になる必要がある。祁正は確かに君に好意を抱いているが、君たちの感情でいま飯が食えるのか。彼は君に快適な暮らしをさせられるのか。

   『食料庫が空っぽなら愛はあなたを幸せにできない』という言葉は君も知っているだろう。まだ若いうちに裕福な家庭の誰かを見つけるんだ」

   喬茵はそうした話を何度も聞いて、表向きはそのすべてを拒否して祁正と別れることを拒んだものの、心の中に疑いの種が植え付けられていました。さらに、ルームメイトの瑶瑶と小雯が入学後に何人かのボーイフレンドと付き合っていて、二人とも付き合う相手がますますお金持ちでカリスマ的な男性になっていることに気づきました。デートの場所は素敵なレストランで、たとえ特別な日でなくても、ボーイフレンドは青薔薇の大きなブーケや携帯電話やブランドものの財布といった贅沢品をプレゼントし、ときには車で送り迎えすることさえありました。それは本当にロマンチックで印象的で、嫉妬と羨望の入り混じった奇妙な感情を喬茵に強く残しました。それに気づく前から、喬茵は祁正に不満を感じ始めていました。とても親切でまったく献身的ではあるものの、日常生活があまりに堅実で質素だったのです。二人は無料の公園に出かけたり、路上の屋台で軽食を買ったりするなど、お金のかからないデートしかしたことがありませんでした。豪華な贈り物や高級レストランもありません。喬茵はそういったことに無縁でした。彼を友だちとの食事に連れて行ったときも、決まって友だちのボーイフレンドより一段劣っていました。そうしたことを考えていると、喬茵の不満はますます募っていきました。

   その間、喬茵の友だちはいつも、結婚したら家や車を買ってあげるとボーイフレンドが約束したことを話していましたが、中でも本当に気になったのが、彼女のいとこがすでに二軒の家を持っているボーイフレンドと付き合っていることでした。自分の家族がいとこのボーイフレンドと祁正を比べるたび、彼女の心は大いにかき乱されました。その後喬茵は、祁正の両親にどのくらい貯金があるかや、結婚したとして家や車が買えるかどうかを探り出そうとしました。彼女がこの話題を持ち出すたび、祁正はまったく困った立場に置かれました。そこで、両親にはまったくお金がないと小声で説明したあと、今度は大声で、将来は自分が一生懸命働いて金を稼ぐと言うのです。それを聞くたびに喬茵は説明できない怒りを感じ、彼を無視することさえたびたびありました。少なくとも数時間は腹を立て、ときにはそれが一日二日と続くこともありました。周りの人に言われたことがいつも心にあって、裕福な家庭のボーイフレンドを見つければずっと快適な暮らしを送れるのに、貧乏人と結婚して何もないところから始めるなんて損じゃないかと考えるようになりました。

   いつしか、それまで幸せだった二人の交際はとても気まずいものになり、たびたび口論になることもありました。喬茵がつまらないことで腹を立てるたび、祁正は驚くほど我慢してなんとかなだめようとするのですが、嘆いたりうめいたりして憂鬱な顔になることもありました。喬茵にはわかっていました。祁正は自分に優しいし、その彼が心を乱して何も言わずにいると、本当に申し訳なくて思わず自分にこう尋ねてしまう。こんな素敵なボーイフレンドなのに、それでも満足できないなんてどういうこと。喬茵は祁正をこれ以上傷つけたくありませんでしたが、かと言って平凡な暮らしを送る気もありませんでした。

   神様の御言葉が人間の苦しみの根源を明らかにする

   苦しみにとらわれた喬茵は神様の御前に出て、心中の悩みを神様に打ち明けました。そして彼女は神様からのこのような御言葉を読みました。「『地獄の沙汰も金次第』はサタンの哲学であり、人類全体に、あらゆる人間社会に浸透しています。この格言は人間一人ひとりに伝えられ、今や一人ひとりの心の中に固定しているので、社会動向であると言うことができます。人はこの格言を受け入れない状態から、それに慣れ親しんでいく状態に移行したので、現実生活を知るようになったとき、格言を暗黙のうちに徐々に認め、その存在を認知し、最終的には一人ひとりが格言に承認印を押したのです。この過程は、サタンが人間を堕落させる過程ではありませんか。……この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人が金を稼ぐことは、あらゆる犠牲を払う価値があると考えていませんか。人々はもっと金を得るために自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。」「こうした社会動向で、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別が出来ない人間は、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、価値観を次々と進んで受け入れてしまいます。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが教えることや、サタンにより『授けられた』生活の道を受け入れます。彼らには強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏しているのです。」

   神様の御言葉は喬茵にとって突然の目覚めでした。サタンは金銭を使って人を束縛し堕落させ、「地獄の沙汰も金次第」とか「先立つものは金」といった考えや観念を人に植え付けるのだと気づいたのです。これは人生の見方と結婚への価値観を完全に歪めるものです。かつて人々は夫婦の調和を追い求め、一緒に歳をとることを願っていましたが、サタンによる人間の堕落がますますひどくなり、「自転車の上で笑うよりもBMWの中で泣いたほうがいい」とか「食料庫が空っぽなら愛はあなたを幸せにできない」といったサタンの考えを受け入れるにつれ、ますます多くの人が富を崇拝して物質的な喜びに貪欲になってきました。そうした人はパートナー探しの中で相手に金銭やコネがあるかどうかを重視し、相手が金持ちでなければ幸せな結婚はできないと考えます。そうした思考に支配された人たちはますます薄っぺらで貪欲になり、女性が金持ちなら誰とでも一緒になる一方、男性は美人なら誰とでも一緒になります。そして二人の関係が破綻すると他の誰かを探し、離婚したら再婚するだけなのです。人々のあいだにもはや本物の愛はなく、つかの間の激情や新鮮感があるだけで、そのうえ互いに利用したりだまし合ったりします。少なくない人が心破れ、自殺したり他人を殺したりすることさえまったく珍しくはありません。それはすべてサタンに堕落させられた結果ではないでしょうか。そんな形でどうやって幸せを見つけられるでしょうか。喬茵は瑶瑶というルームメイトのことを考えました。彼女は快適な暮らしを追い求める中で、デートの相手となる金持ちの男子を見つけたいといつも思っていましたが、何人かの金持ちの男子と出会い、無限の銀行口座を持つ生活がどのようなものかを経験したものの、幸せとはほど遠い状態でした。夜、意識がなくなるまで酒を飲み、あの人たちは自分をもてあそんでいるだけで誰も私を本当に愛していないと、泣きわめきながら寄宿舎に帰ってきたことも数え切れないほどありました。そしてもう一人、小雯という女子がいました。彼女は本当にきれいで、またお金持ちを見つけたいと考えていました。この何年か、彼女は多くの男子とデートしましたが、自分の望む生活を与えられないという理由でいつも別れていました。安定した関係を築くことなく、いつだって周囲の人に自分の問題を話していました。友だちの人生がどれほど苦痛に満ちているかに気づいた喬茵は、サタンの哲学を人生の土台にしたところで、幸福をもたらすことは決してなく、自分はますます堕落して悪の深淵により近づくだけだということがわかりました。



   喬茵は少し前の祁正との交際を振り返りました。二人はお互いを気遣い、信頼し合っていました。他人より優位に立とうと頑張ることもありませんでした。こうした純粋な交際は彼女に本当の気楽さと幸福を感じさせました。しかし彼女は真理を理解しておらず、サタンが人を洗脳する際に用いるこうした視点について認識力を欠いていました。周囲の人たちの言葉が彼女の金銭欲と物欲を呼び覚まし、夫は金持ちであるべきだという基準を徐々に持ち始めるとともに、そうした人を見つけることが唯一の賢いやり方だと感じるようになったのです。そうすれば必死に働く必要がないだけでなく、本当に快適な人生を送れるようになるはずです。また自分の虚栄心を満足させることができるし、周囲の人たちはみんな自分を尊敬するでしょう。祁正が自分のこうした願望を満足させられないせいで、彼女は自分が不当に扱われたかのように心を乱し、その結果、たびたび彼に腹を立てたりきつく当たったりしたのです。しかも心の中で揺れ動き、このまま交際を続けるべきかどうか確信できない有様でした。そうしたことをすべて考えたとき、喬茵は恐ろしさを感じました。サタン的な哲学に従うことで自分が苦しんだだけでなく、祁正をも傷つけていたのです。自分は愚かで薄っぺらだと感じましたが、その一方で神様の御前に出られたこと、そして神様の御言葉を読んで、サタンが人々を堕落させる手段や戦術を識別できるようになったことを喜びました。さもなければ試練と誘惑に耐えられず、結婚に関する悪しき風潮や間違った考えに従っていたでしょう。そして富や形ある物を追い求める渦に巻き込まれ、サタンによってますます堕落させられ、もてあそばれ、傷つけられていたに違いありません。

   幸せはずっとそこにあった

   神様の御言葉を読むことで、喬茵は人類を堕落させるためにサタンが用いる戦術について識別力を得ました。そしてパートナー選びにおいては神様の御心を探し求めるべきで、サタンの悪しき考えや物の見方に従ってはならないと自分に言い聞かせました。彼女はいのちの入りに関する説教の中で次の一文を目にしました。「あなたの人生観と価値観が神様の御心と一致し、真理を基にしているなら、あなたがたどる道は真の人生の道であり、あなたの人生は幸せなものになります。あなたの選んだ伴侶がサタンに属し、サタンの道を歩いているなら、そのような結婚は成立しません。それは同床異夢の結婚であり、二人とも苦しむことになります。そうではありませんか。したがって、人がどのような人生観と価値観を持っているかはとても重要なのです」

彼女はその説教から、パートナー探しにおける第一の原則は同じ価値観を持ち同じ道を歩んでいる人を探すことだと理解しました。重要なのはそれだけで、聖書に「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」(コリント人への第二の手紙6:14)と記されている通りです。その言葉は、信者と不信者は別の道を歩んでおり、不信者と一緒になればその人から影響を受けるのは避けられず、いのちの前進が妨げられることを彼女に示しました。パートナーを選ぶにあたっては、その人の人間性と品性、その人との交際が自分の信仰に有益かどうか、二人が同じ「言語」を話して同じ道を歩んでいるかどうかを考える必要があったのです。これらのすべてを考慮に入れず、相手の外見や家庭環境にしか目を向けないのであれば、結婚したところで共通点がないために苦しむことになるでしょう。神様はいかにして無数の人から祁正を選んで自分の人生に送り込まれたのかと、彼女は考えました。祁正は有力な家庭に生まれたわけではなく、自分に豪華な生活をもたらすこともできませんが、とても親切で、神様への信仰を支えてくれただけでなく、自分自身も喜んで信者になって神様に従おうとしてくれました。サタンによる人類の堕落を明らかにする神様の御言葉を読んだあと、祁正は否定的な物事に関する識別力をいくらか持ち始め、神様を畏れる心をわずかに得ました。クラスメイトとナイトクラブに行ったりせず、機会があれば彼女と一緒に時間を過ごしました。また二人は神様の御言葉を一緒に読みました。それが同じ価値観を持ち、同じ道を歩んでいるということではないでしょうか。そのことを考えると満足の笑みが喬茵の顔に広がり、神様が自分のために采配なさったことは本当に最善なのだとわかりました。こうした幸せはどんなにお金があっても買えるものではなく、絶対に大切にしなければならないと彼女にはわかっていました。喬茵は感動しました。創造主によって選ばれ救われ、サタンによる数多くの危害と操作を神様のお導きで逃れたのは、信じがたいほどの幸運だったのです。自分は祁正と手を携えて信仰の道を歩きたい、彼女はそれを知っていました。

   喬茵が四年生のとき、父親がとても真剣な口調でこう話しました。「おまえは本当に祁正と人生を送るつもりなのか。金がすべてじゃないが、金がなければ何もない。愛情のせいで目が見えなくなってはだめだ」

   喬茵は静かに反論しました。「パパ、わたしたちの社会がいまどのようなものかは、パパのほうがよく知ってるわ。お金持ちのボーイフレンドを見つけることが本当の幸せをもたらすと多くの人は考えているけれど、そうした関係は本当の愛がまったくない富という土台の上に築かれているだけよ。そんな愛情や結婚が人を幸せにできるかしら。離婚率はものすごい勢いで上昇しているし、交際する中でお互い誠実な人なんてもう誰もいない。みんな互いにだまし合って、多くの人が空虚でつらい人生を送っているわ。お金を持つことが幸せを意味するだなんて、パパは本気で考えていないわよね。パパは私にお金持ちと結婚してほしいの、それとも私のことを本当に想ってくれる人と結婚してほしいの」

   「わかった。おまえには自分の人生がある。わたしが何をしろとは言えない」自分にできることはないと知った父親は立ち上がってその場をあとにしました。その後、喬茵の父親は二度と彼女が祁正と一緒にいるのを止めようとしませんでした。二人の関係は最初のころと同じくらい素晴らしいものになり、彼女の顔にはいつも幸せそうな笑みが浮かんでいました。ある日、彼女は祁正と真剣に話し合いました。「以前、私は真理を理解していなくて、自分に植え付けられたサタンの考えを受け入れていたわ。背が高くてお金持ちでハンサムな人を見つけることが本当の幸せだと考えていたの。神様の御言葉はそれが馬鹿げていることを私に気づかせてくれて、本当の幸せは物とか富とかを土台にしているんじゃないとわかったわ。食べ物と着る物がある限り、私には十分なの。私たちが神様に清められるように真理と性質の変化を追い求めて、心と精神を一つにして信仰の道を歩いていれば、それだけが私の望む幸せなのよ」祁正はそれを聞いて大いに感動し、安堵の笑みを浮かべました。

   その後、二人はよく神様の御言葉を一緒に読み、自分の考えや抱えている困難について打ち明け合い、自分の奥深くにある考えを共にしました。二人は人もうらやむカップルとなり、喬茵の周囲の人たちは彼女によくこう尋ねました。「喬茵、あなたと祁正の関係がとてもうらやましいわ。いつでも彼の携帯電話を見られるし、チャットのパスワードまで教えてくれたんだから。お互いに秘密がないのね。どうしたらそこまで信じ合えるの」喬茵はそれを聞くたび、二人が神様の救いを受け入れられるようご自身の家へ連れて来てくださったことに対し、神様に感謝を捧げました。また二人が誠実に打ち明け合い、正直な人となるように導いてくださったことについても感謝しました。さらに、神様が時宜を得た導きと手助けをなさったおかげで、愛と結婚について正しい見方を得たことについても感謝しました。そして今、彼女は幸せな生活を送っています。