賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ゲームで病みつきになった息子はどのようにインタネット依存症から離れて彼女と仲間になるか

2019-08-21 23:06:04 | 子供の教育

   ある夏の夜、公園はとても賑やかでした。遊び回る子どもたち、おしゃべりを楽しむ大人たち、音楽にのって踊る人たちもいました。

   そんな中で1人、ジャオ・ファンは不安げな表情を浮かべてベンチに座り、息子のことを考え込んでいました。「この子は小さい頃、いつも私にべったりで、何でも話してくれた。でも、日に日に成長するにつれ、自分なりに関心や、趣味や生活スタイルができて、短気になってきた。それに、コンピューターゲームに病みつきになって、こっちは何度も強く注意しているけれど、全然耳を貸そうとしない。腹を割って話し合おうとしてもいつも二言三言交わすだけで意見が食い違って終わる。お互いの間にどんどん距離ができてしまっているようね。もう心も体も疲れたわ。どうしたらいいの。」



   「あの、ハンドバッグ落ちましたよ。」子どもの声に、彼女は我に返りました。

   「あら、ありがとう。」ジャオはハンドバッグを拾い、微笑んで少女の頭をなでてから、家に帰りました。

   帰宅するとジャオ・ファンは2人の子どもたちが一緒に座ってゲームをしているのを見ました。「そこよそこよ」、10歳の娘が兄に向って叫びました。「あーあ。またお兄ちゃんの負け。本当にバカなんだから。」

   その会話を聞いたジャオはますますいら立ち、ピシャリとドアを閉めます。

   すると娘が頭を上げました。「ママ、おかえり。」

   「あなたたち2人とも、1日中ゲームばっかりね。」ジャオはイライラしながら子どもたちに言いました。「もっとためになることをしたらどうなの」彼らが返事をしないのを見て、頭に血がのぼります。「あんたたちに話してるのよ、聞こえないの」。

   娘は口を結んだまま、しぶしぶ立ち上がり、その場を去りました。

   ジャオは怒りをこらえ、息子に向き直ります。「ゲームなんかしてて食べていける?学校の成績が上がるの?取りつかれたみたいに1日中ゲームばかりして。食事中だって、スマホばかり見ているでしょう。スマホがそんなに大事なの。」

   息子は一瞬面倒くさそうに彼女を見上げるとすぐに頭を下げ、またスマホで遊び続けました。これを見たジャオはスマホをつかんで叩き割りたい衝動に駆られました。

   その時、また娘がやって来ました。「ママ、怒らないで。夜ご飯作ってよ。私たち、朝も食べてないし、お腹ぺこぺこよ。」

   「今日は夜ご飯は作りません。好きなだけ遊ぶといいわ。言うことを聞かないんだから、ママはもうあなたたちの面倒はみません。」そう言うと、ジャオは寝室に入り、怒ってドアを閉めました。

   ベッドに腰を下ろしたジャオ・ファンは、次第に落ち着いてきました。「私が何を言っても、この子は絶対に耳を貸さない。今ではゲームから離れない上に、私たちの親子関係もますます気まずくなってきている。私はなぜ、こんなにこの子に腹を立てているの。単にゲーム中毒のせいなの、それとも私の言うことを聞かないからなの。他にも理由があるのかしら。いったい私はなぜ気がどうかしてるの」どうすればよいか分からないまま、ジャオ・ファンは神の御前に出て自分の悩みを告げました。そして祈りの後、神のこの言葉を思い出しました。「しかし、一部の人々が言うように、神は自分の地位について仰々しい概念を持っており、『わたしは最も偉大な存在であり、わたしがあなたがたを支配している。あなたがたは全員わたしに慈悲を請わなければならず、わたしに従わない者は死をもって罰とする』などと言うのでしょうか。神はかつて、このように人間を脅迫したことがありますか。(ありません。)神は、これまでに『人類は堕落しているので、わたしが人間をどのように好き勝手に扱ってもどうでもよい。人間に対して周到な用意を行う必要は無い』などと言ったことがありますか。神はこのように考えるでしょうか。(いいえ。)神がそのように行動したことがありますか。(ありません。)それとは反対に、神による人間それぞれに対する処遇はまじめで責任感があり、あなたが自分自身に対するよりも責任感に溢れています。そうではないですか。神は無益に言葉を述べることも、尊大に振る舞うことも、人々を欺くこともありません。その逆で、神は誠実かつ静かに、自身が行うべきことを行います。」(「唯一の神自身 6」より)

   この神の言葉について思いをめぐらせているうちに、ジャオは悟ります。「神は創造主であり、宇宙の支配者。至高にして聖なる方なのに、へりくだって地上で真理を伝え、救いの働きを行われ、大きな苦しみを受けられた。私たちは神の御心が分からないことは何度もあったし、神に反抗したこともあったけれど、神がその身分と地位を使って私たちに何かを要求したり、やみくもに怒り散らしたりすることは決してなかった。神はただ、その計画通り、ご自身のやり方で私たちの中で働きを行われただけなのね。その言葉によって私たちの魂を動かし、いつも私たちのそばにいて、私たちの救いを諦めたことはない。神の本質はとても美しく良いもので、私たち人間の誰にもない。では、私はどうだったかしら。息子をしつけようとしてカッとなって、傲慢な本性をさらけ出してしまっているじゃないの。『私はこの子の母親よ、私がやってることは全部正しいし、この子のためだし、言うことを聞いてもらって当然よ』と思いながらいつもこの子をしつけ、お説教していた。息子が耳を貸さないと、私はひどくイライラして、腹を立てることもあった。そんな私に敬虔なキリスト教徒らしさなんて残っているのかしら。私は息子を産んだけれど、神の御前では、私たちは2人とも、サタンによって深く堕落させられた創造物よ。私に息子を叱りつける資格なんてあるのかしら。母親の立場を利用して言うことを聞かせ、意のままに行動させようとするなんて、あまりにも理不尽だったわ。」そう思ったジャオ・ファンは自分の傲慢さと思い上がりがさらに恥ずかしくなり、神の聖なる善良な本質に心を動かされました。

   そしてジャオ・ファンは心を鎮め、息子と良い関係を築くにはどうすればよいか、そして、息子を神の御前に連れて行き、ゲーム中毒を直していただくにはどうすればよいかについて真理を求めました。自分には息子を正しい道に導く力はないとわかっていました。それができるのは神だけです。自分自身を脇に置いて、息子を完全に神に委ねます。もうサタンの性質によって生きたくないと思いました。それでは息子との関係が壊れて、彼女自身が狼狽し辛くなるだけだからです。

   ある日、息子がまたコンピューターゲームで遊んでいるのを見たジャオ・ファンは、以前のようにイライラするあまり、コンピューターの電源を抜いてしまいたくなります。しかし、神の御前に決意を固めたことを思い出し、怒りを抑えて、すぐに心の中で神を求めました。祈りの後、神の言葉を2つ思い出します。「自分の知識と能力を頼りにして事業に着手するならば、あなたはいつも失敗し、いつも神の祝福をのがしてしまう。」(『神は全人類の運命を支配する』より)「人の心と霊は神の手の中にあり、人の生活全ては神に見られているのである。あなたがこのことを信じようと信じまいと、生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が万物を支配する方法である。」(『神は人のいのちの源である』より)神の言葉が光のように心を照らし、彼女は悟ります。「確かにそのとおりだわ。私が自分のやり方に頼ると、いつも失敗する。息子の考え方や発想は神の手の中にあるのに。」そして静かに神に祈りました。「神よ、すべてをあなたの手に委ねます。すべてを整えていただきたいです。」不思議なことに、勢いをつけてプレイしていた息子のキーボードが動かなくなりました。彼は「変だな」と言いながら、仕方なくコンピューターを閉じます。これを見たジャオは、心の中で何度も神に感謝しました。同時に、息子と腹を割って話し合いたいと思いましたが、話をする前に息子は「宿題がある」、と言いました。そこでジャオ・ファンは、神の采配に従うことを望みながら、最適な機会が与えられるよう、神に祈りました。

   夕食時に息子が、「ママ、人生って退屈だね。学校にいる時は、のんびり好きなだけ遊びたくて、早く休みになれと思ったけど、今はよけいにつまらないや」と言い出しました。

   ジャオ・ファンは言いました。「あのね、それはなぜか分かる?この世界では、みんなそれぞれ正しくてまともだと思える趣味とか、関心とかがあるでしょ。それならなぜ、望みが満たされるともっと空しく感じるのかしら?それは、私たちの望みがサタンから来たもので、心の中の空しさや心配を解決できないからなのよ。それにわたしたちのいのちにもならない。私たちは神の御前に出て、神の言葉に従った時に初めて、心が安らいで喜べるの。後で一緒に神の言葉を読まないかしら。」

   息子は頷き、その隣に座っていた娘も、「ママ、私も神様の言葉を読みたい」と言いました。

   神の素晴らしい御業を見て、ジャオは心の中で神に感謝と賛美をささげました。「いいわ。夕食の後に一緒に神の言葉を読みましょう。」

   夕食後、ジャオは神の言葉、『若者は世界の悪しき風潮を見抜くべきである』を子どもたちに読んで聞かせました。彼女の語りを通して、コンピューターゲームはサタンが人間を傷つけるための道具であること、それで遊び続ければどんどん堕落していくことを、ジャオの息子は知るようになります。それを理解した彼は、神の言葉をもっと聞き、ゲームの時間を減らす、と言いました。しかしサタンが人間に害を及ぼす手段を見抜いていなかったので、またオンラインゲームにはまり、神の言葉を読まないことが多くなってしまいます。それを見たジャオはまた心配になり、息子が少しでも早くサタンの束縛から自由になり、普通の生活を送れるように願いました。しかし、息子の助けになることは何もできず、全くの無力感の中、神に祈ることしかできませんでした。

   何度も何度も祈り、ジャオは神の言葉から実践の道を見出だしました。それはさまざまな人々に対して、さまざまな原則とそれぞれの背丈に従って接する、という道です。彼女は考えました。「私自身が神の言葉を体験したことを、この子にもっと伝えるべきね。この子がプレッシャーをあまり感じないように。」

   ある日の夕食後、ジャオ・ファンは部屋でスマホで遊んでいる息子の隣に腰掛けます。すると息子は顔を見上げました。「ママ、どうしたの?」

   ジャオ・ファンは微笑んで、「ちょっとね、話がしたいの」と言いました。

   少し驚きながらも、息子はスマホをそばに置きます。「話って?」

   「まあ、何も特別なことじゃないの。ただ、今のあなたのことを、全然知らないような気がしたから。あなたが高校に入ってから、ママは仕事に時間をかけ過ぎて、あなたにかまっていなかった。あなたが話をしがっていても、いつも時間がなかったり、ちゃんと聞いてなかったりした。時々、あなたがトラブルに巻き込まれると、ママはいつもあなたにお説教して、自分の考えを押し付けてた。今まで本当にあなたを理解したことはなかった。だから、今日話ができたら、気持ちを伝えられたら、と思ったの。学校のこと、たとえばあなたをいじめる人がいないかとか、友だちのこと、辛い時は、どうやって乗り越えているのかを話していいのよ。プライバシーを侵害するつもりはないの。ただ、あなたのことをもっと知りたいから、正直に話し合いたいだけなのよ」と、ジャオは穏やかに言いました。

   それを聞くと、息子は喜んでクラスメートたちとのつきあいのことを彼女に話しました。ジャオは話をしっかり聞いて、自分で理解している神の言葉の一部分や、自分の体験を挙げながら根気強く息子に助言しました。どんな人と友人になるべきか、人と仲良くするにはどうしたらよいか、どのような悪い習慣を止めるべきかを教え、物事の分別がつくよう手助けをしました。その夜、息子はとりわけ幸せそうで、自分の将来や趣味のことを喜んで母親に話しました。そしてジャオは神の言葉に従って息子を導き、彼が正しい人生の展望を築けるようにしました。こうした会話により、彼ら親子はお互いの誤解が解け、距離が縮まり、再び親友同士のように何でも話し合える仲になったのです。

   その時から、何か問題が起きると、息子は一番にジャオに話し、ジャオは話をよく聞いて、神の言葉に真理を求めながら彼を助けるようになりました。

   時々、息子が強情になって腹を立てることがあっても、ジャオは即座に神に祈り、真理を求めます。そして彼が落ち着いた後で、サタンの性質のままに話したり、行動したりすると、周囲の人々を傷つけるのだということを理解させます。息子がまたゲームで遊んでいると、ジャオ・ファンは彼のために祈り、コンピューターゲームはサタンが人間に害を及ぼすための道具だということを話し合い、彼がゲームの本質を見抜き、神の言葉に基づいて行動し、ゲーム遊びを止める決心ができるようにします。知らず知らずのうちに、ジャオと息子の仲はますますよくなり、息子は進んで自分の悩みや喜びを母に打ち明けるようになりました。さらに、神の言葉を読むことを通して、ゲームの時間が次第に減り、さらに思慮深くなっていきました。この効果を目にしたジャオは心の中で神に感謝します。神の導きがなければ、2人が対等にふれあうことはできなかったでしょう。2人の関係もあまり改善せず、息子のゲーム中毒も直らなかったでしょう。すべては神の祝福なのです。


神のご加護ー大きな交通事故の裏の得たもの

2019-08-20 21:41:49 | 癒やしと恵みの証し

突然、私は植物人間になりかけた

   ある日の朝八時ごろ、妻と私は七歳になる孫娘と一緒に出かけ、薪を集めてリヤカーに乗せ、家に持ち帰る手伝いをさせました。厚さ数インチの薪をリヤカーに満載したあと、十時ごろになり、妻と一緒にリヤカーを引いていたところ下り坂にさしかかりました。私たちはゆっくり坂を下るため、リヤカーを押し戻そうとしました。しかし坂道はとても急で、リヤカーの勢いが徐々に増してゆき、猛スピードで坂を下り始めました。妻と私は全力でそれを止めようとしました。リヤカーに孫娘が乗ったままなのを思い出し、不安のあまり心臓が飛び出そうに感じられました。何としてもリヤカーを横転させてはならない!坂道を驀進したまま横転すれば、私たち全員の命はないでしょう。この危機のさなか、私は矢も楯もたまらず心の中で叫びました。「ああ神様!どうか私たちをお救いください……」リヤカーがあまりの猛スピードで坂を下り続けていたので、妻は速く走れずにハンドルを離してしまい、道ばたへ逃れざるを得ませんでした。私はハンドルに挟まれて逃げ出すことができません。そのうち転んでしまい、リヤカーの下敷きになって坂道を引きずられました。そのとき無我夢中で神様を呼び求めました。「神様、私をお救いください!私をお救いください……」妻もリヤカーのすぐあとを追いかけながら叫びました。「神様、夫と孫娘をお救いください……」二十メートルほど引きずられたあと、突然リヤカーは道ばたに積まれた薪にぶつかって横転しました。孫娘は薪の横に投げ出されましたが、そのおかげで幸いにも下を流れる水路に落ちずに済みました。口の横に小さな擦り傷ができて少し出血しただけです。しかし私はリヤカーの下敷きになって引きずられていたので、かなりの勢いで衝突しました。身体が丸まってボールのような格好になり、頭に両脚がついた姿勢です。ものすごい苦痛でした。頭を持ち上げたくても首がまったく動かず、背中も完全に硬直しています。私は耐えがたい痛みに襲われ、動くことすらできませんでした。



   孫娘の無事を確かめようと妻が駆け寄ったところ、孫娘は泣きながらこう言うだけでした。「おばあちゃん、私は大丈夫だからおじいちゃんの様子を見に行って」私はか細い声で言いました。「全身の骨が折れたようだ。本当に気分が悪い。なんとか頭を動かしてくれ」私がまだ話せると知った妻は、私の頭をまっすぐにしながら泣いていました。孫娘も駆け寄ってきて、泣きながら大声で私を呼びましたが、私はそれに反応できないほど痛みに襲われ、すっかり弱っていました。その時は呼吸をするのも困難で、心の中で神様に祈っていました。「ああ神様、私はいま信じられないほどの痛みに襲われ、長くもちそうにありません。どのくらい耐えられるかわからないのです。私は死ぬのでしょうか?」すると次のような神様の御言葉が頭に浮かび、私に信仰と強さを与えてくれました。

   「万物の長である全能神は、玉座から王としての権力を振るう。神は宇宙と万物を支配し、全地で私たちを導いている。私たちは頻繁に神に近づきあなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない」

   全宇宙と万物は神様の御手にあるのだから、私の命も神様の手中にあるのではないか?そうして私は神様に頼り、心の中に希望を持つことができました。その後、私は病院に運ばれ、息子と妻もそこに来ました。医師は家族にこう告げました。「怪我は深刻です。肋骨と頸椎と腰椎の二十ヵ所以上が骨折しています。麻痺状態か植物人間になるのは避けられませんし、死に至る可能性もあります。心の準備をなさったほうがいいでしょう」

   その夜、妻は私に医師の言葉を伝えました。私は動揺してこう考えました。「本当に麻痺状態だったなら、あるいは植物人間になるのなら、苦難の人生にすぎないじゃないか。それでも人生に意味があるだろうか」そう考えると泣くより他にありませんでした。その瞬間、私は心の絶望と身体の苦みを感じながら、死んだほうがましだと思いました。苦痛が極限に達していたのです。まさにその時、私は神様に祈りました。「神様、いま私は心底痛みに苦しんでいます。医師の言葉のせいで、ずっと不安で仕方ないのです。神様、このすべてに耐える信仰と勇気を持てるよう、私をお導きください」その夜、苦痛が暗雲のように私を覆い、一睡もできませんでした。やがて深夜を過ぎたころ、神様からの御言葉が頭に浮かび、一つの謎を明らかにしました。

   「宇宙で起こるすべてのことの中で、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にない存在などあるだろうか。」

   「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。誰の生と死が自分の選択で訪れているのか。人間は自分の運命を左右できるのか」

   全宇宙と万物はすべて神様の支配下にあり、私たちの命も神様の手中にある。私が麻痺状態もしくは植物人間になるかどうかにかかわらず、あるいは生きるか死ぬかにかかわらず、それはすべて神様によって経営される。神様の御言葉は私に信仰と強さを与え、心の中で寄りかかるものを授けてくださいました。

   病院のベッドで眠っていた私の全身には包帯が巻かれ、腕には点滴の針が刺さっていました。まったく動くことができません。妻はベッドのそばにいて昼も夜も私の世話をし、薬を飲ませたり食事をとらせたりしてくれました。私がつらそうにしているのを見ると、神に祈り、頼るようにさせました。私は来る日も来る日も絶えず祈り続けました。ある日のこと、私はヨブが受けた試練のことを考えました。彼はたくさんの家畜だけでなく自分の子どもまで失ってしまい、全身が腫れ物に覆われました。そして灰の中に座り、素焼きのかけらで腫れ物をかきむしりました。しかし肉体的な打撃と精神的な打撃を同時に受けていた時でも、ヨブは信仰を失ったり神様を拒絶したりはしませんでした。それはかくも見事な証しでした。「ヨブが尊いのは、彼が誘惑に遭い、皮膚が腫物に覆われ、極度の苦しみの下で、言い換えれば、ヨブは自身に降りかかる誘惑がどれほど大きくても、どれほどの苦痛や困難の中にあっても、たとえ死に直面しても、神への信仰を捨てることはなく、神を畏れ悪を避ける生き方をやめることはないのである。そうであるならば、ヨブの心の中の最も大切な位置を占めていたのは神であり、ヨブの心の中にあったのは神のみであったということである」という神様の御言葉が述べている通りです。その後、私はヨブの例にならおうと、心の中で静かに決意しました。将来、自分の健康でどんなことに直面しようと、呼吸できる限り一生神様の御言葉に頼ろう。それ以降、私は毎日欠かさず神様の御前で自らを静め、神様の御言葉を深く考えることに集中しました。自分の状態について神様にいつも祈り、それを神様に委ねました。喜んで神様に寄りかかり、神様の支配と采配に従おうとしたのです。

奇跡によって28日後に退院する

   このすべてを神様に託すと、奇跡が起きました。事故から八日後の午前九時ごろ、何人かの医師と看護師が回診に来て私に尋ねました。「調子はどうですか?」私はこう答えました。「痛みはそれほどひどくないですし、食事もできるようになりました」一同はそれを意外に感じたらしく、医師の一人がこう言いました。「あなたがこれほどまでに回復するとは思いませんでした。以前にもあなたのような患者さんを診たことがありますが、誰一人として回復しなかったんです。でもあなたの状態は徐々に改善しています。まったく信じられません!あなたの現状から判断すると、我々が以前に触れた三つの可能性(麻痺状態、植物人間、死)はどれも起きそうにないですね!」医師の言葉を聞いた私は、思わず泣いてしまいました。感謝、罪の意識、そして喜びを感じ、心から神様に祈りました。「神様、あなたに感謝いたします。私は二十ヵ所を骨折していましたから、あなたの素晴らしい行ないがなければ、医師に言われたことから判断して麻痺状態に陥るか植物人間になっていたはずです。最悪の場合は死んでいたかもしれません。しかし、そのどれも起こりませんでした。あなたのご慈悲がなければ、わたしは生き続けることすらできたでしょうか?心からの感謝と賛美をあなたに捧げます。あなたは人生の二度目のチャンスを与えてくださいました。ああ神様、あなたに感謝し、あなたを讃えます」

   祈りのあと、神様の御言葉が頭に浮かびました。「水が人間をそっくり呑み込むと、わたしは淀んだ水から救い出し、新たに生きる機会を与える。人間が生きる自信を失うと、死の瀬戸際から引き戻し、生きる勇気を与え、わたしを存在の基礎とするようにする。何度、人々はわたしの手を見ただろう。何度、人々はわたしの親切な顔、笑顔を見、人間は、けっしてわたしを知らないのだが、わたしは彼らの欠点につけ込んで無用な厄介事を引き起こしはしない。人間の困難を経験したため、わたしは人間の弱点に同情する」

 

   その神様の御言葉から、神様の本質は愛であると気づきました。私が苦しみ弱っていたとき、神様は私に信仰と勇気を授け、その御手で私を見事に守り、生き続けることを許してくださったのです。リヤカーが横転したときのことを振り返ると、一メートルほどの深さがあったあの水路にリヤカーが突っ込んでいたら、小さな孫娘はどれほどひどい怪我を負っていたでしょう。それに私も命を失っていたはずです。しかしリヤカーは、近所の人が積んであった薪のすぐそばで横転しました。その薪の山があったおかげで、孫娘は水路に放り出されずに済んだのです。それに、私もゴムボールのように弾みながら、長く引きずられずに済みました。さもなければ本当に生き残れなかったでしょう。私たち、私、そして孫娘が死との接触から逃れられたのは神様の愛情に満ちた御手のおかげであり、私は心の中で深く感動しました。また神様に対する途方もない恩義も感じました。その時、自分はそれまで自身の信仰を真剣に考えたことがなく、心の中に神様がいらっしゃればそれで十分だと思っていたことに気づきました。私は集会に出かけることがほとんどありませんでした。働いて金を稼ぐ時間がとられると思ったからです。兄弟姉妹は何度も私に説教を語ってくれ、金銭に重きを置きすぎることなく、テーブルにある食事と身につけている衣服で満足し、信仰と真理の探究に集中すべきだと促してくれました。しかし私は、彼らが言うことに耳を傾けませんでした。自分のやり方で物事を行ない、より多くの金を稼ごうとし続けたのです。ところが、私が深刻な危険にさらされたとき、神様は私の反抗的な振る舞いにふさわしい対処をなさいませんでした。その代わりに私を守り、死の銃弾から身をかわすのをお許しになったのです。神様の私への愛に対して、私は十分な感謝を捧げられそうにありません。そのことはまた、災難に遭遇したとき、金銭が私を救うことは絶対にできず、神様だけが私をお救いになれるということを気づかせてくれました。

   事故から九日後、医師が私の包帯をすべてはがし、身体の痛みも日を追うごとに軽くなっていきました。二十日目の午前九時、十人以上の医師と看護師が診察に来たとき、医師の一人がこう言いました。「ずいぶん元気になりましたね。顔色もずっといいですよ。こんなに早く、ここまで回復できたのはもちろん、これほど深刻な怪我から生還できたのは本当に奇跡です。いつでも退院できますよ。帰宅して回復に努めてください」しかし子どもたちがもっと長く病院にいるべきだと言い張るので、私はさらに八日間入院を続け、二十八日目に退院手続きを行ないました。帰宅して程なく、何名かの兄弟姉妹が私に会いに来ました。彼らは真理についての説教を私に伝え、神様の御言葉をもっと読み、神様と正常な関係を築き、何事においても神様に祈って頼り、自分の信仰を真に実践するよう言いました。兄弟姉妹による説教を通じて神様の愛と憐れみをよりよく理解できたことについて、神様の愛に感謝を捧げました。それ以降、私は自宅で快方に向かうとともに、集会にも出席するようになりました。正常な教会の生活を送り始めたのです。

ある日、私は神様の御言葉を読みました。

   「神が精神的な支えであると考えている人々が居るが、こうした人々は大部分を占めている。」「もし人々がこうした信仰を続けたとしたら、こうした人々にはどのような結末が待ち受けているであろうか。こうした人々は、このような形態の信仰によって神の要求を少しでも満たすことが出来るだろうか。それとは反対に、そうした人々は概念や想像が原因となって、神の道から遠ざかってゆくだけであろう。なぜなら、そうした人々の方向性は神が求める方向性とは正反対のものだからである。……神への信仰から利益を得ることができるのは、食糧や衣服などよりも、なによりも大切なものとして神の信仰に取り組んだ場合のみであろう」

   神様によるそれらの御言葉が明らかにしたことは、私に恥と罪の感覚を残しました。神様の御言葉の中で暴露された人間とまったく同類だったのです。私は神様に対する信仰を、自分自身の精神的な必要性を満足させるものとして扱い、助けが必要なときには神様を探し求めるものの、必要ないときには神様を脇にのけるだけで、今まさに呼吸している空気と同じように神様の存在を当然だと考えていました。そのような信仰の見方は実際の神様への信仰ではなく、漠然とした神様への信仰です。そのような信仰を抱いていれば、最後に真理は得られなかったでしょう。この経験は、私が何年もの間抱えていた誤った信仰の見方をすっかり変えました。神様への信仰を、自分に精神的な支えを与えるものとして捉えることも、金銭に縛られることもなくなりました。私は喜んで神様のご命令に従い、自分の信仰を人生を前進させる上で最も重要なものとして扱うようになり、神様の御言葉を読み、信仰を実践し、真理を探し求めることにより多くの時間を費やしました。テーブルに食事があり、衣服を身につけている限り、私は満足です。現在、私は歩き回れるようになり、私を見た隣人は口を揃えてこのように言います。「あれだけひどい怪我をしたのに、回復するとは思わなかった。天にいらっしゃる神様があなたを救ってくださったんだ!」また、あなたはとても幸運だったと言う人もいますが、私を守り、生きることを許してくださったのは神様だと、私は心の中で知っています。私が今日ここにいるのは、それが唯一の理由です。


聖書のメッセージ:一つの集会が聖書の新たな認識を私にもたらした

2019-08-19 22:26:13 | 神に帰す証

寄稿家:彩虹(マレーシア)

   私の霊は暗闇の中でしおれていたが、偶然のきっかけから聖書学習特別クラスに出会った

   「ママ、ママ、どうしてまた寝ちゃったの」

   娘に目を覚まされて、またも祈りの途中で眠りに落ちたことを思い出し、私は大いに罪の意識を感じました。長く正座していたせいで感覚が麻痺していた両脚を叩いて立ち上がり、窓際に歩きました。夜空にかかる澄んだ明るい月を眺めていると、過去を思い出さずにはいられませんでした。

   私は若いころに神様を信じ始めてもう三十五年になっていました。聖書に熱中するあまり日曜学校の教師を務めるだけでなく、自分が所属する教会のクリスチャン青年団で管理者にもなり、いつも熱心に主に仕えていました。しかしこの数年間、自分の霊がどんどんしおれるのを感じ、聖書からもそれほど明るい光を感じられず、聖書学習クラスで兄弟姉妹を導くときも力を大いに奮い起こすことができませんでした。牧師が説教を通じて私に栄養を与えてくれるのを切望しましたが、いつも同じ古いことを説教するばかりで新たな光はまったくありませんでした。私は聞いた話に喜びを感じず、霊も供給を受けていませんでした。牧師の説教を聞きに来た信心深い人たちの大半は、単に宗教的な儀式を守って動作を繰り返すだけです。心から誠実に神様を崇拝していた人はほとんどおらず、教会の状態は一層悪化していきました。こうした状況に直面した私は、信仰を取り戻す道を見つけようと聖書の学習を続けましたが、何も発見できないままでした。当時、私はよくこう考えました。「私の霊はいま沈んでしまって、お祈りの途中で眠りに落ちる有様だわ。私はいまでも主の信者なのかしら。主は私をお見捨てになったのかしら」私は心の中で大いに苦痛を感じ、主を呼び求めて自分を導いてくださるようお願いし続けることしかできませんでした。



   2017年9月のある日、私はフェイスブックで王兄弟と出会い、その後聖書の認識についてしばしば話し合いました。王兄弟は聖書に関して特に純粋な認識を持っており、彼の交わりは光に満ちていました。それまで私を悩ませていた多くの問題を解決してくれた上、彼の言葉に耳を傾けていると自分の心が光で一杯になるように感じられました。私はさらに理解することができるよう、オンラインの聖書学習クラスに参加してほしいと率先して彼にお願いしました。オンラインのやりとりを一ヵ月あまり続けたころ、自分の霊が大いに供給を受けたように感じられ、聖書の預言と主の御心についてかなり理解するようになりました。また清水の泉のごとく私の心に流れ込み、私の干上がった霊を潤すような言葉もいくつか送られてきました。私はその集会を心から待ち望むようになりました。

聖書に記されていること以外に神様の発した新たな御言葉はあるのか

   ある日、兄弟姉妹が私のためにビデオを再生してくれましたが、その途中で出演者の全員が一冊の本を手にしているのに気づきました。しかしその本が聖書ではなかったので、私は驚かずにはいられませんでした。私は考えました。「聖書を手にしていないなんてどういうこと。主を信じるクリスチャンは聖書を読まなければならないのに。だって、聖書に記されている以外に神様の御言葉はないのだから。聖書を読んでいないのは、彼らが道に迷ってしまったということなのかしら」私の心は即座に疑いで一杯になりましたが、兄弟姉妹に恥ずかしい思いをさせないように異議を唱えることはしませんでした。オンラインでの集会が終わったあと、私は王兄弟にメッセージを送って自分の疑いを打ち明けるとともに、この聖書学習クラスに参加するのはもうやめようと決心しました。

   王兄弟からの返信にはこう記されていました。「姉妹、あの本は神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』です。そこには終わりの日のキリスト、つまり全能神が表現なさる新しい御言葉しか記されておらず、それは『御霊が諸教会に言うこと』とヨハネの黙示録で預言されているものです。全能神は終わりの日に姿をお見せになって働きを行なわれますが、すでに何百万もの御言葉を表現なさっていて、聖書の中にある数多くの真理や奥義だけでなく、神様の六千年にわたる経営(救いの)計画の奥義をもあらわされてきました。それらの真理は、長年にわたって主を信じてきたにもかかわらず、私たちがいまだに理解していないものです」王兄弟のメッセージを読んだ私はとても混乱してこう考えました。「私は三十五年間も主を信じてきたけれど、聖書に書かれている以外に神様の御言葉があるなんて聞いたことがない。それなのに、この『言葉は肉において現れる』という本には神様の発する新しい御言葉しか記されていないと言っている。そんなことがどうしてあり得るの」

   ちょうどそのとき、王兄弟がもう一つのメッセージを送信しました。「姉妹、私たちは三十年以上も主の再来を心待ちにしてきましたが、いま主イエスは全能神として本当にお戻りになりました。現在、主は全世界に御言葉を語られています。ならば私たちもそれを探し求めて考察すべきではないでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書25:6)主の再来の知らせを聞いた私たちが賢い乙女になって積極的に主を探し求めることを、主は望んでおられます。そうすることでのみ主をお迎えすることができるからです。主の再来の知らせを聞きながら、自分の観念に合致しないからといってそれを調べるのを拒むなら、私たちは主の到来をお迎えする機会を逃すことになるでしょう。そうすれば主の救いを失うことにはならないでしょうか」

   兄弟の言葉は私を目覚めさせました。私はこう考えました。「そうだわ。私は何年間も主を信じてきたけれど、その間ずっと主がお戻りになるのを待っていたんじゃなかったの。いま、主がお戻りになって再び御言葉をお語りになっていると誰かが証しをしている。それならきっと、まずそれに耳を傾けて考察すべきだわ。そうすることでのみ、主をお迎えすることができるのよ」

   その後、王兄弟が別のメッセージを送信しました。「『ヨハネによる福音書』第16章12-13節で主イエスはこうおっしゃいました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』ヨハネの黙示録でも数カ所でこう預言されています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録第2章、第3章)このことから、主はお戻りになるとき新たな御言葉をお語りになり、私たちがそれまで決して理解することのなかったすべての真理と奥義をお話しになることがわかります。これらの真理は聖書に記されていません。主が終わりの日にお戻りになったときに成し遂げられ、実現されることになっているのです。聖書に記されている以外に神様の御言葉や働きはあり得ないと考えるなら、どうしてこれらの預言が実現されるでしょうか。終わりの日に神様が発する御言葉が聖書に自動的にあらわれるなど、どうしてあり得るでしょうか。したがって、主をお迎えしたければ自分の観念を捨てて、何よりもまず終わりの日にお戻りになった神様の発する御言葉を読み、注意を払って神様の御言葉を聞かなければなりません。相変わらず聖書にしがみついて聖霊が諸教会におっしゃることを聞かないなら、かなりの確率で主をお迎えする機会を逃してしまうでしょう」

   このメッセージを読んだあと、私は突然理解し始めたように感じてこう考えました。「ああ、私はこれらの聖句を以前に何度も読んできたけれど、神様の御心がわからなかったのはどういうことかしら。主は『耳のある者は……聞くがよい』とおっしゃることで、私たちに要求をされているんじゃないかしら。お戻りになった主は私たちに御言葉をお話しになり、私たちは神様のお声を聞くことに集中して初めて、主をお迎えしてその足跡にしたがうことができるのよ」このように考えた私は王兄弟に急いで返信を送り、全能神の御言葉をもっと送ってくれるようにお願いしました。

   すると王兄弟は全能神が表現なされた御言葉をいくつも送ってくれましたが、その中には『あなたは人類全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである』や『神を知らない者はすべて神に反対する人々である』の各章もありました。私は神様の御言葉を読んで神様の働きについていくらか認識を持つとともに、人間の堕落の根源と、サタンがいかにして人間を堕落させるか、そして神様が人間を救うべくいかにして働きをなさるかを知るようになりました。また私たちが自分の観念や想像に頼ることで神様の働きを常に定めていることや、それが神様に抵抗する振る舞いであることも認識するようになりました。神様の御言葉を読めば読むほど心が明るくなり、全能神の御言葉には権威と力があって本当に神様のお声のようだと感じました。私はそれを考察し続ける決心をしました。



私の困惑は一掃され、聖書について新たな認識に達した

   次の集会のとき、私は兄弟姉妹に自分の困惑を話しました。「林姉妹、王兄弟、あなたたちは、神様は新たな働きをなさり、新たな御言葉を表現なさっていると言っています。でも私は、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つけることができ、クリスチャンは神様への信仰において聖書から離れることはできない、そうすることは真の道から外れることだからだと、牧師が言うのを小さいころからずっと聞いてきました。この問題についてあなたたちの意見を知りたいと思います。これについて私と交わってくださいませんか」すると林姉妹が次のように言って交わりをしてくれました。「姉妹、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることだという信仰において、私たちは宗教界の牧師や長老とともに歩んでいます。それは宗教界全体が抱いている信仰ですが、その見方は事実と一致しているでしょうか。神様の御言葉と一致しているでしょうか。主イエスがそのようなことをおっしゃったことはなく、聖霊がそれらの言葉をおっしゃったこともありません。ではその見方はいったい何を基にしているのでしょう。私たち自身の観念と想像から生じたのではないですか。私たち全員が知っているとおり、聖書は神様の働きにおける以前の二段階の記録に過ぎず、神様がいったん働きを終わらせてから神様に従った人たちの記憶を基にした、神様の御言葉と働きの記録です。それらの人たちがあらゆることを記録したのは絶対に間違いないと、あえて言うことができるでしょうか。さらに、聖書が編集されているあいだ、編者は互いに論争し、内容の遺漏もありました。そのせいで預言者によって伝えられた神様の御言葉の一部が旧約聖書に記されず、むしろ第二正典に収載されることになったのです。そのことは、漏れてしまったそれらの預言者による預言が神様の御言葉ではなかったことを意味するでしょうか。『ヨハネによる福音書』第21章25節にはっきりとこう記されています。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」主イエスは三年半にわたって働きをなされ、弟子を率いて行く先々で教えを宣べ伝えられ、働きをなされました。では、その間に主はどれほど多くの御言葉を語られたでしょうか。どれほど多くの働きをなさったでしょうか。したがって、聖書に記されなかった主イエスの働きや御言葉は数多くあると言えます。聖書に記されている主イエスの御言葉は氷山の一角に過ぎません。ならば、神様の御言葉と働きはすべて聖書に記されていると、宗教界の牧師や長老はどうして言えるのでしょう。そのように言うことは事実と真っ向から反していませんか。牧師や長老の言うことにしたがうなら、預言者によって伝えられながら聖書に記されていない神様の御言葉や、聖書に記されなかった主イエスの御言葉と働きを否定していることになりませんか。さらに、主イエスが働きをなさるべくおいでになった当時、新約聖書はまだ存在しておらず、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)というイエスによって表現された道も旧約聖書に記されませんでした。ゆえに、主イエスによる御言葉と働きは当時聖書から超えていたと言えます。よって、聖書から超えることは真の道から外れることだと、さも断罪するように言うことで、宗教界は主イエスの御言葉と働きをも断罪しているのではないでしょうか」

   そう言ったあと、林姉妹は神様の御言葉の一節を送信しました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。……これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奧義(1)」)

   そして林姉妹は交わりを続けました。「聖書に記されている内容はとても限られています。旧約聖書はヤーウェ神の働きの一部を記しているに過ぎず、新約聖書は主イエスの働きの一部を記しているに過ぎません。終わりの日における神様の働きについて言えば、聖書にはそれに関するいくつかの預言があるだけで、詳細な記録はそこにありません。神様はそれぞれの時代においてその時代の働きをなさるだけであり、次なる段階の働きを前もってなさることはありません。例えば律法の時代、ヤーウェ神は戒めと律法を守るよう人間に教えられ、神様を崇拝するよう命じられただけでした。恵みの時代になさろうとしている働きを前もって当時の人にお告げになることはなかったのです。同様に、主イエスは終わりの日である現在すでに戻られ、恵みの時代の贖いの働きを土台として御言葉を表現なさり、神様の家に始まる裁きの働きを行なわれ、私たちの堕落した性質を裁いてお清めになり、私たちが罪の束縛を完全に捨て去って神様によって清められ救われるようになさっています。この働きの詳細が、聖書の中に前もって記されていたはずはありません。したがって、「神様の御言葉と働きはすべて聖書の中にあり、聖書から離れることは真の道から外れることである」という宗教界の牧師や長老による発言は、神様の働きの事実と完全に真っ向から反しています。それは人間の観念と想像から生じたものであり、人々を欺くことが目的の嘘であり、馬鹿げた理論なのです」

   全能神の御言葉と姉妹の交わりは私を完全に納得させ、それを論破するのは不可能でした。私はこう考えざるを得ませんでした。「本当にそうだわ。神様は万物を包含なさり、神様の知恵は豊かで豊富にある。それなら、神様のすべての御言葉と働きがどうして聖書に制限されるでしょう。神様は聖書を超えて働きをなさる権利があります。つまり私たちの以前の認識は確かに間違いだったのよ」

   すると王兄弟が聖書の一節を送信しました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書5:39-40)そしてこう言いました。「聖書は歴史の記録であり、神様の働きにおける以前の二段階の証しに過ぎません。聖書に永遠のいのちはなく、いのちの源でもありません。聖書を信じることで真理やいのちが得られることは決してなく、聖霊の働きも獲得できず、まして真の救いを獲得するなど不可能です。神様だけが真理であり、道であり、いのちであって、神様だけが私たちのいのちの源なのです。神様への信仰において真理といのちを得たいと望むなら、神様の御前に出て、神様の現在の働きと御言葉を受け入れてそれに服従し、子羊の足跡につき従わなければなりません。そのとき初めて神様の救いを獲得できるからです。

   王兄弟の交わりを聞いたあと、私は突然光を目にしてこう考えました。「以前にこの一節を読んだとき、聖書には神様の証しとしての働きがあると理解しただけで、神様への信仰において聖書から離れてはならないと信じていたけれど、神様は真理であり、道であり、いのちであるという事実を見落としていた。いまようやく、聖書は単に神様の過去の働きの証しであって、神様をあらわすことはできず、中にいのちを含んでいないと理解したわ。真理といのちを得たいと思うなら、神様の足跡に丹念にしたがう必要がある。そのとき初めて神様の救いを獲得できるから。ああ、神様の新たな働きに対する自分の態度を振り返ると、探し求める心がこれっぽっちもなく、自分の観念にしがみついて神様の働きを拒むなんて、どれほど盲目で無知だったかいまようやくわかったわ。あくまでこのまま聖書にしがみつくなら、神様の救いを拒んでいることにならないかしら。私は終わりの日における全能神の働きを真剣に考察しなければならないのよ」



   神様の働きを理解して主の再来を喜んでお迎えする

   その後、林姉妹が『聖書から出てくる』というタイトルの福音動画を見せてくれました。それは神様の御言葉の二節が主題であり、動画に登場する姉妹の交わりに私は引き込まれました。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。だ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)「過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」より)

   動画の姉妹はこう語りました。「終わりの日における神様の働きは聖書で預言されているだけで、その実際の記録はありませんでしたが、それは人類が実際に必要としているものを基にしており、聖書という基礎を土台としてより深くなり、より高められる働きです。それはちょうど、おいでになった主イエスが旧約聖書にしたがって働きをなさったわけではなく、人類が求めるものと神様ご自身の計画にしたがって働きをなさったのと同じです。主は律法の働きを基に贖いの働きの一段階を終わらせましたが、言い換えれば旧約聖書を基に新たなより高次の働きの段階を終わらせたのです。働きのその段階において、主は旧約の律法を無効にされたのではなく、それを完全になさいました。そして同じように、神様は今日の終わりの日において、人類が必要とするものと神様の経営(救いの)計画を基にした主イエスの贖いの働きを土台として、別の段階のより新たな、より高次の働きをなさっていて、人類を清めて救うことができる数多くの御言葉をお発しになっています。神様はまた神様の経営計画の奥義をすべてあらわされています。これらは律法の時代や恵みの時代に神様が決しておっしゃらなかったことです。それらはまた、終わりの日に神様がお開きになっている巻物、お解きになっている七つの封印でもあります。これは黙示録に記された次の預言を実現しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:17)また黙示録第5章1節から5節にもこう記されています。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」これらの預言は主イエスが働きを終わらせるまで存在しませんでした。これらの預言が神様の成し遂げようとされていること、終わりの日に神様がなさろうとしている救いの働きに違いないことは言うまでもありません。現在、神様は肉となられ、御言葉を発するべくおいでになりました。神様は裁きと清めの働きの一段階をすでになされ、人々を救われるようにする数多くの御言葉をお発しになってきました。それらの御言葉は聖書に記されておらず、聖書の外にある御言葉です。これらの豊富ないのちの御言葉は、終わりの日に神様が人類に授けられたいのちの道であり、人類の救いの唯一の道です。私たちがそれを受け入れるのを拒むなら、神様のいのちの生きた水によって真に潤されることはできず、神様から真理もいのちも得られません」

   姉妹の交わりを通じ、神様の働きがずっと前進し続けていることを私はようやく認識するようになりました。律法の時代、ヤーウェ神は人類の生活を導き、いかに神様を崇拝するかや罪とは何かを人々に知らしめるべく、律法と戒めを公布なさいました。恵みの時代、主イエスは十字架につけられることによって人類を律法の束縛から贖われました。そして人は主イエスの救いを受け入れる限り、主の豊富な恵みと祝福を享受することができました。しかし、私たちがいまなお何度も罪を犯しては告白するという状況の中で生き、罪の束縛と足かせを振り払えないでいるのは否定できません。現在、再来なされた主イエス、すなわち終わりの日のキリストである全能神は裁きの働きをなさっており、私たちの罪深い本性が解決されるよう、また私たちが罪深い本性を自分から完全に取り除き、最後に神様の約束を獲得して美しい終着点へと入るのにふさわしくなれるよう、ご自身の御言葉を表現なさいます。終わりの日における全能神の働きは聖書を否定するものではありません。むしろ神様は、律法の時代と恵みの時代の働きを土台としてより新たな、より高次の段階の働きをなさるのであって、それがまさに私たち堕落した人類が必要としているものです。神の国の時代の聖書―『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に神様から私たちに与えられたいのちの道であり、終わりの日の神様の働きを受け入れることでのみ、いのちの生きた水の供給を得られるのです。私はいまようやく、私たちが神様からいのちの供給を得られない理由と、暗闇に陥って聖霊の働きを失ってしまった理由を理解しています。それは私たちが聖書にしがみつき、神様の働きと御言葉はすべて聖書の中に見つかると考えているから、また終わりの日の神様の働きを受け入れるのを拒んでいるからなのです。

   全能神教会と接触するようになってから二ヶ月しか経っていませんが、全能神の御言葉が真理であること、私の混乱と疑問を解決できること、そして私の霊を供給してくださることを知りました。全能神は再来なされた主イエスであると私は確信するようになり、終わりの日の神様の働きを喜んで受け入れました。聖書にしがみついていたせいで神様の働きを拒絶していたことを振り返ると、深い後悔を感じます。私はそれほど傲慢で愚かだったのです。しかし神様が私を憐れんでくださり、兄弟姉妹が私にメッセージを送り、私と会って何度も何度も交わってくれたことを通じて、私が聖書の内幕とその実体を理解できるように、また神様が人類を救うべく一歩一歩働いておられることを理解できるようにしてくださり、私はついに自分の観念を捨てて終わりの日の神様の働きを受け入れ、神様の足跡にしたがい始めました。私を愛し、救ってくださったことに対して神様に感謝いたします。


私は神様の性別に対して、新たな認識がありました

2019-08-17 21:03:59 | 神に帰す証

   【編集者メモ】神は男性か、女性か。神には固定された性別があるのでしょうか。これは多くのキリスト教徒を混乱させる問題ですが、誰もそれをはっきり説明できません。本稿は神の性別の奥義を明らかにします。

寄稿家:シンユアン(オーストラリア)

   神には果たして固定された性別があるのか。主イエスは男性として肉となられましたが、それは神が男性であることを示しているのでしょうか。これは誰もそれをはっきり説明できないという問題です。そして、私は神についての認識がなく、神の性別について多くの観念を抱いていたので、主をお迎えする機会を逃すところでした。そこで、皆さんのお役に立てればと思い、これから自分の体験をお話します。

   東方閃電が私たちの観念に準拠していないからといって学ぶのを拒むべきではない



   私は幼い頃、母と共に地元の家庭教会に通って集会に出ていました。私たちが神の性別に関する真理を語っていたとき、おじである牧師がよく聖書のこれらの節について私たちに説教しました。「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」(コリント人への第一の手紙11:3)

   おじは言いました、「主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神は主イエスを息子と呼ばれた。御二方は父と息子だった。ということは神は男性だということだ。それに、女は人類の罪の源であり、呪われている。女のかしらは男だ。だから神は男性だ。」

   そのため私は心の中で、神は男性であり、男性として戻られると確信していましたが、それはある日、姉妹の李さんと出会うまでのことでした。…

   2018年4月のある日、私はフェイスブックで王さんと李さんという姉妹と知り合いました。私たちは頻繁にネット上で集会を開きました。ある時李さんが、主イエスがすでに全能神として受肉として戻られ、私たちの間で暮らしておられると証ししました。この知らせを聞いて、私は驚きつつ喜びました。喜んだのは主イエスが戻って来られたからで、驚いたのは、私が主の再臨をお迎えする準備ができる前に戻られたからでした。

   その晩、集会の後、私はベッドに横になりましたが、興奮のあまり眠れなかったので、起きてインターネットで全能神教会について調べました。その結果、李さんが説いたのは東方閃電の教えであることがわかりました。私は唖然としました。というのも、子供の頃におじから「東方閃電は主の再臨のお姿が女性だなどと証しするが、信じてはいけない」と聞かされたのを思い出したからです。

   その時、私は心に葛藤を抱え、こう考えました。「ここ数日間、李さんの説教を聞いて、私は真のキリストと偽キリストとの区別や、人類がサタンに堕落させられている実態、主の到来の預言の成就や、どうすれば主の再臨をお迎えする賢いおとめになれるかなど、多くの真理を理解した。これらの真理のおかげで、神の働きについて新しい認識を持ち、聖書イエスの再臨の中の奥義も多く理解することができた。このまま学び続けるべきなの、それとも李さんとまた集まるのを断るべきなのかしら。」一晩中何度も何度もこのことを考えていました。

   ついに朝が来ました。ヨーロッパにいて一緒に学んでくれている王さんに、私はすぐに電話して、自分の混乱について話しました。私の話を聞くと、彼女は言いました。「私も疑問をいくつか抱えていますが、私たちは学び始めたからには、問題をはっきり理解すべきです。李さんの説教が真理と一致するなら、学び続けましょう。一致しないなら、今学ぶのをやめても遅くありません。」 私はしばらく考えて、彼女の言う通りだと感じました。それで私たちは一緒に主に祈り、「正しいことと間違ったことを区別できるように、知恵をお与えください」とお願いしたのです。

   神は女性として受肉することもできる。

   皆で集まった夜、私は李さんに自分の混乱を打ち明けました。「夕べネットで『全能神』という名前を検索すると、神がまた肉となられたという話や、神は女性であるという話を見つけました。でも私は神が主イエスのように男性だと信じています。聖書には、主イエスがこう仰ったと記されています、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)と。 主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神はイエス・キリストを息子と呼ばれました。御二方は父と息子です。ということは神は男性ではないでしょうか。なので私は、神は戻られたときは男性であるはずだと思います。どうして女性でありえるのでしょう。」

   これを聞いて、李さんは根気よく教えてくれました。「シンユアンさん、主イエスが発せられたこの文章をどう理解すべきかに関しては、全能神の御言葉を見てみましょう。全能神はこう仰せられます、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした」

   これらの御言葉から、主イエスは祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたことが分かります。それは私たちが主の祈りを唱えるとき、天の神を父と呼ぶのと同じです。これは主イエスの謙虚さと従順を明らかにしますが、神が男性であることを意味しません。創世記第1章27節を思い出してください。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。

   ここから、神が男と女をご自身のかたちに創造されたことがわかります。もし私たちが自分の観念に固執して、神が男として受肉しなければならないと考えるなら、神が女をご自身の形に造られたことはどう説明するのですか。創世記と矛盾していませんか。実のところ、神は男だけでなく女もご自身のかたちに創造することができます。それゆえに神は男と女のどちらかに受肉できるのです。ですから、神が男性だと断定することはできません。」

   彼女の説教を聞いた後、私の心を縛っていた枷がいくつか解かれました。主イエスが祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたということを知りました。しかし、だからといって神が男性であるわけではないのです。さらに、神は男と女をご自身のかたちに造られました。したがって、神は男と女のどちらかに受肉できるのです。

   「女のかしらは男」という言葉は、神が男であることを証明しているか。

   寝る前に、私はベッドに横になって、李さんが説教したことを思い出しす。それが十分に根拠があると感じましたが、聖書の次の節のことを考えるとまた疑問を抱きました。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)、「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(コリント人への第一の手紙11:3)。

   私はこう考えました。「これらの聖句では、女性が呪われているとはっきり述べられている。受肉された神が女性なら、どうして権威を持つことができるでのかしら。それに、過去において、主の弟子のほとんどは男性だった。今では、基本的に説教者や牧師も皆男性だわ。それでどうして神の再臨のお姿が女性でありえるのかしら。」またこれらの問いを何度も思案し始め、その夜は眠りにつけませんでした。

   翌晩、私は李さんから電話を受けたので、自分の疑問を伝えました。その話を聞いた後、彼女はこう言います。「実際には、ヤーウェ神がエバに『それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう』と仰せられたのは彼女が善悪の知識の木の実を食べた後でした。神の目的は人類を調和の中に生かすことです。これは、地上に住む全ての創造された人類に対する神の要求ですから、私たちが従うべきものではありますが、受肉された神とは全く関係ありません。それは律法の時代に、ヤーウェ神が人類に安息日を守るように求められたのと同じです。こうした要求を遵守しなければならなかったのは人類であって、神ではありません。ですから私たちは、主イエスにはそれに従えと言うことはできません。また、マルコによる福音書第2章27節と28節で、主イエスは、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』と仰いました。同様に、『女のかしらは男』という言葉は、罪を犯した人類に向けられていました。ですから私たちはこの聖句を使って、神が女性として受肉することはできないと決めつけることはできません。」


神が女性として人々の前に出現される意義とは

   彼女の説教を聞いて、私はこれらの言葉が私たち人間を対象としているのであり、これらの聖句を使って神の受肉の性別を限定すべきではないことを知りました。しかし、なぜ神が今私たちに女性として出現されたのか私にはまだわかりませんでした。もし神が男性として出現されたら、それは私たちにとってもっと受け入れやすくないでしょうか。それに神の働きがもっと行いやすくないでしょうか。それで私はこの疑問を述べました。すると李さんは私に全能神の言葉の二つの節を読んでくれたのです。

   「イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。」「もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」

   神の言葉を読んだ後、彼女は私にこう説教してくれました。「神は本質的に霊であり、性別がありません。肉となられて私たちに男か女として出現されるのは、働きの必要条件のために過ぎません。受肉された神の働きが終わったとき、神は霊の領域に戻られます。その時点では性別の区別はありません。ですから、神の受肉が男性であろうと女性であろうと、神はなおも人類の救いの働きを行うことができます。終わりの日の間には、神が女性として働きに来られるのには、実際的な意味があります。主イエスが当時男性として働きをしに来られたので、人々は皆、神が男性だと信じていました。もし神が今度は女として働きをしに来られなければ、人々は神が男性だといつまで思い込み、神が男たちの神であり、男はいつまでも女よりも偉いと考えるでしょう。神が終わりの日に女性として受肉されたのは、私たちの観念や想像に対抗し、『神は男としてしか受肉できない』という誤った考えを覆し、『神が全人類の神であり、男と女のどちらかに受肉できる』ことが私たちに分かるようにするためだったのです。

   神の言葉と姉妹の説教を聞いた後、私は何らかの啓きを感じました。結局のところ、神には性別がないのです。神の受肉が男であっても女であっても、神はご自身の霊がまとう肉体である限り、神ご自身であられます。終わりの日に神が女性として出現して働かれているのは、私たちの神に対する観念を覆し、「神が公正で義であり、男と女が神の前で平等であり、神は男だけでなく女も救われる」ことが私たちに分かるようにするためです。

   もし神がそうなさらなければ、私たちは神に対して真の認識を持たないでしょう。神がなさることはとても意味があります。私は自分がいつも自分の観念や想像で生きて、神を男性に限定していたことを思い出しました。神が女性として出現して働きを行われていると聞いたとき、私は疑ってばかりいました。もし全能神の言葉によって私の混乱が少しずつ解消されなければ、私は確実に全能神の働きを拒み、主を迎える機会を逃したでしょう。そう思うと鼻が引きつって涙が止まりませんでした。神の恵みと救いに心から感謝しました。

   兄弟姉妹の皆さん、以上が私の体験です。終わりの日の全能神の働きを学んだ時期のことを思い起こすと、いつも深く感動します。私は神に対する認識がなかったため、主を迎える機会を逃すところでした。しかし、神は私に憐れみをかけてくださったのです。姉妹を采配して私に説教させ、御言葉で啓いて導いてくださったおかげで、私は神の性別についての真理を理解し神の御前に立ち返ることができました。神に感謝します。


英語の賛美歌「甘美なる愛の歌」日本語字幕

2019-08-16 23:58:16 | 讃美歌

 

英語の賛美歌「甘美なる愛の歌」日本語字幕


私の心の奥深くあなたの愛が宿っている
あなたと親しくなることは、蜜のように甘い
心を尽くしてあなたに仕え@あなたの御心に沿って働くことは
私の心をさらに良くした
あなたの言葉は私の心を導き
私はあなたの愛の足跡を辿る
私はあなたの御心に従って行動して
あなたを満足させることは最高だ
あなたは私をより良い所へと導き
只あなただけが私と共にいて、何の心配もない
あなたの言葉は私の堕落を清め、私の心を満たす
あなたは私を愛し、私はあなたを愛しています
あなたの言葉は私のいのちの最も大きな支え
あなたに救われることは何という幸い
永遠にあなたを愛し、あなたへの賛美を歌います
ハレルヤ! ハレルヤ!
ハレルヤ!神をたたえよ!


愛の中であなたに従い、あなたに近づき@あなたと私は幸せに満たされる
あなたの御心を理解し、絶対服従する
決してあなたに逆らったり@あなたから離れたりはしない
今にもまして神の前で私は生きて行きたい
あなたの言葉に思いをめぐらし味わう
私はあなたの持つものを愛しています
あなたの言葉は私の堕落を清め、私の心を満たす
あなたを愛しています。私はあなたを愛しています
あなたの言葉は私のいのちの最も大きな支え
あなたに救われることは何という幸い
永遠にあなたを愛し、あなたへの賛美を歌います
ハレルヤ! ハレルヤ!
ハレルヤ!神をたたえよ!
ハレルヤ! ハレルヤ!
ハレルヤ!神をたたえよ!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より