賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

職場の問題を解決する-お酒を諦める( II )

2019-08-05 19:10:38 | 職場の人間関係

 一度、私たちの会社のスタッフは祝日で休みの時がありました。私たちの部署の部門リーダーが私に電話をしてきてこう言いました、「今日は部門のメンバー全員が休みだなんて本当に素晴らしい。みんな出て来て軽く飲んでるんだ。みんな来てるのに、お前だけが来ていないじゃないか。出来るだけ早く来てくれよ。みんなで待ってるからな。」この言葉を聞いた私は心の中でこう思いました、「私はもう飲まないって決めたんだ。でも、行かないとはっきり言ってしまったら、部門リーダーは間違いなく不満になって、私は彼の面目を潰していると感じるだろう。でも彼らの言う通りにしたら、私は飲んだ後に苦しい思いをすることになる。一体どうするべきなんだろう?」そして、私は心の中で神に祈りを捧げ、私がこれまでのサタンの考えと観点を指針にして生きて行かなくてもいいように、自信と力を与えてくださるよう請いました。そして、私は彼にこう言いました、「最近私は仕事で少し疲れているので、ちゃんと体を休めたいんですよ。なので、今日は遠慮しておきます。」私の言葉を聞いた彼はがっかりしてこう言いました、「了解、でも今度飲み会をする時は、絶対来てくれよ!」

酒を飲む,人間関係,神の恵み

 電話を切った後、依然として落ち着かず、心配だった私は心の中でこう考えました、「今回は飲みに行かなくて済んだけど、次回また彼らは飲みに行こうと誘ってくるだろう。彼らと一緒に行くのをいつも断っていたら、私は彼らの面目を潰していると思われないだろうか?彼らは私のことをどう思うだろう?でも、行ってしまったら依然として酒を飲むことの苦しみから抜け出せないでいることになってしまう。」従って、私は神に祈りを捧げ、自分の心の中の考えを伝え、私を御導きくださるよう請いました。後に、私は神のこの御言葉を目にしました、「神との正常な関係を持たなければ、あなたが他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようとも、また、そのためにいかに励み、いかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学に属するものであろう。あなたは、人々が自分を賞讃するように、人間の観点と哲学により、人々の間で自らの地位を維持している。あなたは、神の言葉に従って人々との正常な関係を確立してはいない。もしあなたが、人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を進んで神に捧げ、神に従うことを学んだならば、全ての人々との関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。…正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立つのであって、人間の努力によって達成されるものではない。神なしでは、人々の間の関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常ではなく、情欲に耽溺することであり――それは神が嫌悪し、忌み嫌う関係である。」私は神の御言葉を受けてこう理解しました:「人々の関係は神の御言葉を実践することを土台に確立しています。それはお酒を飲んで維持することはできません。過去、私は昇給と昇格を手にしようと、常にお酒を飲むことを利用して同僚やマネージャーたちとの関係を維持したがっていました。しかし、私はその関係を維持すればするほど、増々疲れていきました。私は昇格できなかっただけでなく、沢山苦しい思いをしました。今、私は神を信じているので、物事を神の御言葉に従って捉え、神と適切な関係を築くべきなのです。それい、人々の関係はお酒を飲んで維持されているものではありません。人々がお互いに良い関係を持てていれば、それは一緒にお酒を飲まなくても変わらず良い関係になります。良い関係でなければ、一緒にお酒を飲んでも、悪い関係のままです。他人からどう見られようとも、私の全ては神の御手にあり、誰もそれを変えることはできないのです。」私は神の御心を理解したら、心が安心しました。

 翌日、私が仕事に行くと、皆は普段通りに挨拶してくれ、部門リーダーも私に怒ってはいませんでした。全てが普段通りに行きました。私は心の中で嬉しくなり、神の言葉に従って実践したから想像していたように皆から見下されるようなことにならなくて済んだと感じました。このようなことが数回あった後、皆が私を飲みに誘ってくることはなくなりました。

 一度、部門リーダーがまた仕事の後にお酒を飲みに行った後、車の事故を起こして2か月の療養期間を必要としたことがありました。マネージャーは私にこう言いました、「部門リーダーはいつも酒を飲みに行ってたから、仕事にいつも問題があった。それに、彼はたまに残業をした後ですら酒を飲みに行くことがあった。だから、彼が事故を起こすのは時間の問題だったんだ。お前はあまり酒を飲もうとしないし、物事にも現実的に取り組んでいる。私はお前を部門リーダーに指名する。今後一生懸命働いて、仕事の後、家に帰る道中は気を付けるんだぞ。事故は起こさないようにな。」私は繰り返し頷きました。私はマネージャーとほぼ半年近くお酒を飲んでいなかったことを思い出しました。にもかかわらず、彼は私に部門リーダーの仕事を引き継ぐように頼んできたのです。私はこれにより、人は他の人を夕食に招待したり、プレゼントを贈ったりして一時的な利益を手にすることはできるが、正直な仕事をしていなければ、将来的に周りの人たちの称賛を得ることはできないということを心から学びました。私はまた、神を信じるようになってから、何かを狙ってマネージャーの機嫌を取るのではなく、神の御言葉に従って実践するようになっていたことにも気が付きました。こうすることで、私の心が落ち着いただけでなく、他の人まで心が安らいでいたのです。

 神はこう仰ります:「神の本質は聖なるものであるので、あなたは、神によってのみ、人生を通して光ある正しい道を歩むことが可能となり、神によってのみ、人生の意味を知ることが可能となり、神によってのみ、真の人生を送ることが出来るようになり、真理を獲得し、知り、真理からいのちを得ることが出来るようになる。人間が邪悪を回避するのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことが出来るのは、神のみである。神以外に、あなたが苦しまないよう、辛苦の海から救い出すことが出来る人間や物は存在しない。このことは、神の本質により決定される。」その瞬間、私は神のみが人間に対して真の愛を抱いておられるということを更に深く学びました。以前、真理を理解せず、自分の面目と将来の懸念に支配されていた私は、邪悪なトレンドに従うことを嫌がってはいても結局は大衆について行き、苦しい思いをしていたのです。神の御言葉による御啓示と御指導のおかげで、私はサタンの誤った考えによる抑制と束縛から抜け出すことができたのです。今、私は面目と将来の支配力に抵抗し、神の前で生きられるようになりました。マネージャーは私が彼らと一緒に飲みに行かなからといって私を見下さなっただけでなく、むしろ私を信頼して育ててくれたので、私は神の御恵みと祝福を心から感じることができました。

 今、私は神の御言葉を頻繁に読み、その理解を兄弟姉妹たちと共有し合うことで多くの真理を理解できているため、邪悪なトレンドから距離を置き、真の愛情の意味を理解できています。現在、私はもう人間関係に悩まされてはいません。代わりに、私は物事を神の御言葉通りに捉え、神の御指導と主権に従うことで真の解放と自由を手にしています。私は神が私を御救いくださったことにとても感謝しています!


職場の問題を解決する-お酒を諦める( I )

2019-08-04 18:08:45 | 職場の人間関係

 私たちの生活において、人々はお酒なしでは生きられないことが多々あります:人は他人から助けを求める時は、彼らをおごって一緒にお酒を飲む必要があります。部下が上司と食事をする時、彼らはお酒を飲む必要があります。友人と親戚たちもお互いの良い関係を保つためにお酒を飲みます。お酒は私たちの生活と仕事においてほぼ必需品であると言えるでしょう。

 「酒を飲まなければ人生が無駄になる」や「酒を飲まなけれは将来性は見込めない」という諺すらあるほどです。私は大人になった後、町に働きに出ました。次第に、私は次のことを知りました:「人は他の人たちから助けが欲しければ、彼らに夕食をおごってプレゼントを渡す必要がある。彼らは食事とお酒に満足してくれれば、期待通りに動いてくれる。」

酒を飲む,人間関係,神の恵み

 私の伯父はある会社のマネージャーをしていました。一度、彼に仕事を見つけるのを手伝ってもらおうと、私は両親と一緒に彼の家を訪れたことがありました。私たちが食事をしていた時、彼はお酒を取り出して私に一緒に飲もうと言ってきました。実は、私はお酒を全く飲まないし、アルコールの匂いを嗅ぐだけで気分が悪くなっていたのです。私が少しだけ飲んだのを見た彼はこう説得してきました、「お前は仕事をしに行くのに、酒を飲まなくていいわけないだろう?将来出張に行くとき、お前が酒を飲まなかったら他の人たちの顔が立たないだろ。そうしたらお前は彼らの心を傷つけることになる。後で酒を飲む練習をしないとな。考えてみろ、今日の俺があるのは全て酒を飲んで他の人たちとの関係を維持してきたからだ。」彼の説得を受けながら、私は嫌々コップを飲み干しました。

 後に、私は機械製造会社で働くようになりました。それから間もなく、私たちはマネージャーから夕食に誘われました。私の同僚がこう言いました、「マネージャーは特に酒好きだから、これは私たちが認めてもらういいチャンスだ。」これを聞いた私はこう思いました、「私は大してお酒が飲めないのに。でもマネージャーと一緒に飲まなかったら彼は私のことをどう思うだろう?」私たちが食事をしようとしていた時、まだ全員が座ってもいないのに、ある同僚が私たち全員のジョッキをリキュールでいっぱいにしました。私の他の同僚が小声で私にこう言いました、「今日はマネージャーのおごりだから。彼の面目を立てないといけないよ。飲めないんだったら、ちびちび飲んでたらいいよ。」その後、全員が私たちのマネージャーと乾杯しました。私は飲んでいなかったので、マネージャーが先に飲んで私と乾杯してくれましたが、私はとても恥ずかしくなりました。私は飲まないと彼が不満になることを恐れたので、嫌々ながら一口飲むしかありませんでした。

 次の瞬間、私の同僚が私と乾杯しにやってきました。またその次の瞬間、他の同僚が乾杯しになってきました。全員と乾杯した後、私は頭痛がするようになり、ほっぺがとても熱くなっていました。私はなんとかコップに入っていたリキュールを飲み干しました。その瞬間、ある同僚がまた私にリキュールをつごうとしました。私はコップを手でふさいで飲むことをきっぱりと拒否しました。しかし、他の同僚がこう言いました、「全員飲むんだよ。どうしてお前は飲まないんだ?酒を飲まないと人生が無駄になるぞ。俺たちはいい友達なら、一緒に一気飲みする。言葉を交わす程度の友達なら、酒はたださっと一口飲むだけ。俺たちに深い友情があるなら、いくら飲んでも飲み足らない。さあ、飲むかどうかはお前次第だ。」彼はこう言った後、私のコップにビールをつぎました。その時、私はもう断ることができませんでした。しかし、私は一口飲んだとたん吐き気がしました。私はそれを無理やり抑えながらトイレに走りました。私は数回吐こうとしましたが、何も出てきませんでした。なので、私は指を喉に差し込むと吐くことができました。私はお腹が空になるまで吐き、とても惨めな気分になりました。私がトイレを出ると、私の同僚たちは全員酔っぱらっていましたが、それでもまだ乾杯していました。私はこう思いました、「マネージャーの機嫌を取るために、この人たちは体を痛めつけてでも我慢してお酒を飲んでいる。でも私はお酒を飲まないから、私が将来成長する見込みはないとマネージャーに思われてしまうのだろうか?」こうして、私は自分のコップに残っていたビールを無理やり飲み干しました。。。

 その後すぐ、私たちの部署の部門リーダーが仕事でミスを犯し、会社がクライアントに10万元以上の補償金を支払うことになりました。従って、会社は彼を解雇するつもりでした。しかし、彼は頻繁にマネージャーと一緒にお酒を飲んでいたので、マネージャーとはとても良い関係にありました。従って、マネージャーは彼がこの問題を解決するのを手伝い、会社側もただ彼の職務内容に調整を加えただけでした。私はこう思いました、「彼は本当に大きなミスを犯したのに、マネージャーは彼がそれを解決する手助けまでした。この’人間関係’というのは極めて大切だ。どうやら私はお酒を飲む練習をきっちりと行うする必要があるみたいだ。お酒が飲めなければ私は何の将来性も見込めない!」私はお酒をもっと飲めるようになろうと、仕事の後にスーパーマーケットに行って赤ワインを1ケース購入し、毎晩それを少しずつ飲むことにしました。私は、「こうやってしばらく練習すれば、もっとお酒が飲めるようになるだろう。そうしたら、次回みんなとお酒を飲む時はそんなに苦しまないで済む」、と思いました。

 一度、私の同僚が電話で夕食に行こうと誘ってきました。彼はマネージャーも来ているからそこに早く行くようにと私に言いました。お酒を飲むテーブルで、私は自発的にマネージャーと乾杯し、彼は満足気に頷きました。そして私は小型のグラスに入ったリキュールを飲みました。私の胃はむかむかしましたが、私は心の中でとても嬉しくなりました。その後、私たちは繰り返し乾杯し、私はどれだけ飲んだか分からなくなっていました。彼らと別れた後、私は自転車に乗って遠くに出ることなく我慢できず吐き出しました、家に帰る道中でまた吐きました。帰宅してからもまた吐きました。お腹は空っぽになった感じがして、私はかなり目眩がしました。私はベッドに倒れ込み、寝返りを打っても寝られず、こう考えました、「私はまだ若いけど、このまま飲み続けたら健康を崩してしまわないだろうか?私はまるでお酒を飲んで他の人たちとの関係を保つゲームをしているかのように自分の体を扱ってしまっている。これは正に苦しみ以外の何でもないじゃないか!私は彼らの言う通りにお酒を飲まないと、本当に大した将来を手にすることができないのだろうか?」

 後に、私は神の福音を受け入れ、神のこの御言葉を見にしました:「ひどく汚れた国に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。後ろ向きの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と習慣──これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた…こうした社会動向は、心身の健全さが欠如し、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの判断が出来ない人間に、そうしたサタンに由来する社会動向や人生観、人生哲学、価値観を、次々と進んで受け入れさせる。この種の人々は、どのような人生を送るべきかに関してサタンが述べた言葉や、サタンにより『授けられた』生活の道を受け入れる。この種の人々には強さ、能力、またことさらに拒否する意識が欠乏している。」

 神の御言葉を通じて私を覚まし、自分は常に「酒を飲まなければ人生が無駄になる」や「酒を飲まなけれは将来性は見込めない」といった誤った考え方の影響を受け、お酒は他の人たちとの関係を保つために極めて重要な保証であると思っていたのです。それ故に、私は素晴らしい将来を手にしようとお酒を使ってマネージャーを喜ばせて彼に給与を上げてもらい、私を昇進してもらおうと思い、自分のレベルを上げるためにどのような努力しようかということは考えていなかったのです。私は同僚、親戚、そして友人たちと良い関係を築くために無理やりお酒を飲み、完全に疲れ果ててしまうほど自らを痛めつけていたのです。私はお酒を飲むことがもたらしたのは苦しみ意外の何でもないことは分かっており、とても止めたかったのですが、他の人たちからのけ者にされたり、見下されるのを恐れていたのです。今、私は自分が苦しい思いをしていたのは全てサタンの思考と考え方に拘束されて、増々体力を消耗していくような生活をするよう仕向けられていたからであったことが分かりました。私はこう思いました:「私の周りにいる人たちの多くは胃出血を起こしてでもリーダーにごまをすったり、顧客と商談したり、友人の気持ちを傷つけないようにしている」。さらに、彼らは、’お互いに深い愛情を持っているなら、胃から出血しても構わない’、’私たちの心を傷つけるくらいなら体を傷つけた方がましだ’ そして’私たちの関係を壊してしまうくらいなら酒を飲んで胃穿孔を起こした方がましだ’ 等ということを口にします。これら全ては、サタンが私たちに「与える」生き方は邪悪であり、私たちを傷つけ、没落させるだけであることをよりはっきりと示しているのです。神の御言葉は私にこう決意させてくださりました:「私はもうこれまでのサタンの人生観に頼って自らを痛めつけるのは止めます。」


人類の運命と万物の運命は創造主による統治と不可分である

2019-08-03 17:46:04 | 聖書の奥義を開く

 あなたがたは皆、成人である。あなたがたの中には、中年の者もいれば、高齢者もいる。未信者から信者となるまでの間、そして神への信仰を持ち始めてから神の言葉を受け入れ、神の業を体験するまでの間に、あなたがたには神による統治に関する認識がどの程度あったであろうか。人間の運命について、どのような識見を得たであろうか。人間は、生涯のなかで望みを全て叶えられるであろうか。あなたがたは、数十年の生活のなかで、自分の望みをいくつ叶えることが出来たであろうか。叶わなかった望みはいくつあるだろうか。思いもよらなかった喜びはいくつあるだろうか。未だに結実するのを待っていたり、好機を無意識に待っていたり、天の意を待っていたりする事柄はいくつあるだろうか。絶望的で行き詰まったと感じた事柄はいくつあるだろうか。自分の運命には、皆大きな希望を抱き、全てが思い通りになり、衣料や食料が不足せず、財産がめざましく増えることを期待する。貧しく、虐げられ、困難で、災いに苛まれる人生を望む者はいない。しかし人間は、こうした物事を予測することも、操作することも出来ない。一部の人々にとって、過去は様々な経験の無秩序な寄せ集めに過ぎず、そうした人々は天の旨を知る事も、それが何かを考えることも無い。こうした人々は、動物のように、何も考えずに毎日を過ごし、人類の運命や、人類が生きている理由、人間はどのように生きるべきかなど考えることは無い。こうした人々は人類の運命について何も理解することなく年老いてゆき、死ぬときまで人生の意味について何も知ることは無い。そうした人々は死んでおり、魂の無い獣のような生き物である。人間は万物の中で生活し、この世で人々の物質的な需要を満たす様々な方法により快楽を得、この物質世界が継続的に進歩しているのを見ているにもかかわらず、自分自身の経験、すなわち人間の心や霊が感じる事柄は、物質的な事柄と何ら関係が無く、また、物質的な事柄はそうした経験の代替ではない。そうした経験は人間の心で深く認識する物事であって、目に見えないものである。そうした認識は、人生と人間の運命に関して、その者が理解し、それを感じることの中にある。そして多くの場合、そうした認識の結果として、目に見えない支配者が人間のために万物を用意し、指揮していることの理解へと繋がる。こうした物事の中では、人間は運命の定めや指揮を受け入れざるを得ず、また同時に、人間は創造主が計画した将来の道、創造主による個人の運命の統治を受け入れざるを得ない。これは疑いの無い事実である。運命に関して人間がどのような見通しを立て、どのような姿勢であったとしても、その事実を変えられる者はいない。

人生の運命

 あなたがたが毎日どこへ行き、何をして、誰と会い、何を見て、何を言うか、あなたがたに何が起こるか、といった事柄を予測出来るであろうか。人間はそうした事柄の発生を予測することができず、ましてそれらがどのように展開してゆくかを予測することは出来ない。人生において、予期せぬ出来事は日常的に発生する。こうした日常的に起こる変化や、そうした変化の発生のしかた、発生後の展開形態は、何ら規則性無く発生する物事は無く、発生した物事の結果やその必然性は、人間の意志で変えられないということを、人類に対して継続的に喚起するものとなっている。あらゆる出来事は、人間に対する創造主の訓戒や、人間は自分自身の運命を支配できないという知らせを伝達すると同時に、自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、そして無意味な野望や願望に対する反証でもある。こうした出来事は、耳元で連続的に発生する強い衝撃音のように、人間に対して、誰が最終的に人間の運命を支配しているかを強制的に再検討させるものである。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、結果として人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主による統治を、無意識のうちに自然と受け入れる。こうした日常的な変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明示しないものは無い。すなわち、「創造主の権威は超越不可能である」という知らせを伝えないもの、「創造主の権威は至高のものである」という恒久の真理を伝えないものは存在しない。

 人類の運命と万物の運命は、創造主による統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を神の権威から引き離して翻弄することはできない。人間は、万物の法則により創造主の指揮と統治を理解するようになり、生存の法則により創造主の統治を認識し、万物の運命により創造主がその万物に対する統治と支配を行使する方法に関して結論を得る。また人間は、人間と万物のライフサイクルによって、万物やあらゆる生物に対する創造主の指揮と采配を真に経験し、そうした創造主による統治や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や威力よりも優先されるのを目の当たりにする。これに鑑みると、創造主による統治は、いかなる被造物も侵害出来ないものであり、いかなる権力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したり出来ないものであることを、人類は認めざるを得ない。人類や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われる。これは創造主の権威が真に具現化されたものではなかろうか。人間は客観的な法則の中に、あらゆる出来事や万物の創造主による統治と定めを見出すが、創造主による宇宙の統治の原理を把握できる人間は何人いるであろうか。自分自身の創造主による統治と采配を真に知り、認め、受け入れて、それに服従出来る人間は何人いるであろうか。創造主による万物統治という事実を信じて、創造主が人生の運命も支配していることを真に信じ、認めることが出来る者は、誰であろうか。人間の運命は創造主の掌中にあることを真に理解できるのは、誰であろうか。創造主が人類の運命を支配し、管理しているという事実に直面した時、創造主によるその統治に対して人類はどのような態度で向き合うべきかということは、その事実に直面する全ての者が判断すべきことである。


イエスキリストが受肉して再臨する意味は何か

2019-08-02 16:27:06 | 天国への道

 他国でアルバイトをするとき、彼女は数年ぶりの同郷に出会って、そして主が再来されたお知らせを知りました。主がすでに受肉して戻られたと聞いたとき、彼女の観念に衝撃を与えました。尋ね求めて考察した後、彼女は神様の受肉の意義を理解しました。


寄稿家:ウェイウェイ(アメリカ)


懐かしいふるさとの友人からの驚くべきニュース


 私の名前はウェイウェイ。2016年の終わり頃、見知らぬ国アメリカに、働くためにやってきました。クリスチャンである私は、自然に教会が唯一くつろげる場所になりました。ところが、牧師の説教は神学論を説くか、そうでなければ飲食や快楽にふける話ばかりで、一定の献金額を指定までするような有り様で、私は失望しました。私は自分のいのちが養われているようには感じられず、そのような牧師のやり方を軽蔑するようになり、徐々に教会に行かなくなりました。ジンイーとばったり再会した私は、出身地が同じであるジャン・リン姉もその街に住んでいて彼女の家で集会をしていることを知りました。それを知って私はとても嬉しく感じました。そしてその後、ジンイーと一緒にジャン・リンの家の集会に出席するようになりました。

 ある集会で、ジャン・リンが私にこう言いました。「ねえ、ウェイウェイ、主イエス様は既に受肉されて再び来られていて、ご自身の御言葉を表わされ、裁きの働きを神の家から始められているのを知ってる?」

 私は彼女の言葉に困惑し、こう言いました。「主イエス様がもう受肉されて再臨されているの?そんな筈ないわ。聖書は主の再臨をはっきりと預言しているのよ。『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。』(使徒行伝1:11)主イエス様が甦られた後、その卓越した霊が白い雲に乗って離れて行かれたわ。だから終わりの日に主が戻られる時は間違いなくご自身の霊の体で来られるのよ。どうして再び肉となられることなどあるの?」

 ジンイーは微笑んで言いました。「ウェイウェイ、神様が語られた御言葉を読むわね。『「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。』神様は全能で賢く、そのお考えは人の考えを遥かに超えているわ。私たちはサタンに堕落されられていて、神様に対する理解は観念や想像に満ちているし、霊的世界にまっすぐ入っていく能力もないのに、神様のなさることをあれこれと決めつけることなどできるはずはないわよね。それに、聖書に書かれている預言には神様の知恵と奥義があって、それは私たちが想像するような単純なものではないし、文字通りに成就されるはずなどないのよ。例えば、旧約聖書にはメシアの再臨に関して沢山の預言が書かれているわよね。それを読んだ人たちは勝手に想像を膨らませるわ。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」(イザヤ書9:6-7)この御言葉を読んだ人たちは、地を治めに来るはずのメシアは天におられる父の子で、その方は城でお生まれになり、この世のものを超越して秀でており、非常に聡明であるはずと考えて、全く事実と違う想像をめぐらすのよ。主イエス様はごく普通の体でかいばおけにお生まれになった。だから当時の人々は彼を受け入れず、彼を罪に定めて拒否し、十字架にかけたわ。結局彼らの国は征服されてしまうことになったわ。聖書を表面的に説明しただけだとどのように信仰的過ちを犯してしまうか、ここから分かるんじゃない?主が戻ってこられた時の働きって、こんな限られた理解で説明できるようなものかしら。だから、想像力や観念で神様の働きを制限などせずに、求め探る心を持って、御言葉の本当の意味を理解できるように神様に啓いて頂かなくてはならないのよ。

イエスキリスト

主が戻られる時は肉となられると聖書は預言しているか


 ジンイーが話すのを聞いて、彼女の話は理にかなっていると私は思いました。主の再臨は重大なことで、よく調べなければなりません。「主が肉となって再臨されるという今の話、聖書的な根拠はあるの?」私はジンイーに聞きました。

 ジャン・リンは微笑みながら言いました。「主が肉となって来られることを預言している聖書の箇所は沢山あるわ。『あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。』(ルカによる福音書12:40)『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。 しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』(ルカによる福音書17:24-25)『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした。』(マタイによる福音書25:6)ここに書かれている『人の子』や『花婿』はどれも受肉された神様のことなの。『人の子』は、ひとりの人から生まれた人の子を指していて、その方は普通の人間性を持っておられるの。『霊』を指すのであれば、『人の子』とは言わないわ。ヤーウェ神は霊だから、『人の子』とは呼ばれないようにね。天使たちも霊の存在だから、『人の子』とは呼ばれないわ。人の姿を持ちながら霊の存在であるならば『人の子』とは呼ばれない。肉となられた主イエス様が人の子と呼ばれ、キリストと呼ばれるのは、このお方が受肉された神の霊であられ、普通の人となられて人の間に住まれたからなの。人々が肉となられた神があまりに普通の人間だったために主イエス様を神と信じず、大工の息子に過ぎないと考えたの。だから彼を嘲り中傷し、罪に定めて拒絶し、十字架にまでかけたのよ。『人の子が来る』と主イエス様が言われたのは、終わりの日に主が肉となって戻って来られることを意味しているの。卓越した霊が白い雲に乗って降りて来られるなら、全ての人々がひざまずいてそのお方を崇めるわ。その時になっても拒否したり非難したりする者はいないわ。そうなれば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』という主の預言は成就しないわ。」

主が戻られる時に肉となられるのはなぜか


 ジャン・リンの話を聞きながら、彼女が示してくれた御言葉を読み、私は彼女の言う通りだと思いました。ジャン・リンは言いました。「終わりの日に、人間の必要に応じて神様は肉となられて御言葉を示し、裁きの働きを神の家から始めるの。それによって人間の堕落と反抗を露わにして神に逆らう人間のサタン的な本質を裁き、最終的に人間を清め、救い、完全にされるのよ。もし神様が肉として来られなかったなら、そのような結果は望めないわ。神様の言葉の別の一節を見てみましょう。」

 ジャン・リンに渡された神様の御言葉の本を開き、読みました。「神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。」「人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救済が必要だ。神の救済の対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救済と、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。」

 ジャン・リンは言いました。「神様が肉となられたのは、唯一、堕落した私たちがそれを必要としていたからだということが神様の御言葉から分かるわ。主イエス様によって贖われ、罪赦されているけれども、罪の本質は残っていて深く根付き、自力で罪に勝利して肉から解放されることはできないのよ。私たちの肉はサタンによって堕落させられていて、サタンは私たちの肉を利用して神様の働きを妨害し破壊するの。だから私たちもサタンと同じで神様に敵対してしまうのよ。もし神様が霊として直接来られたなら、私たちは皆汚れと堕落ゆえに打たれて死んでしまうでしょう。ひとりとして生き残るものはなく、救われる者は無論いないでしょう。旧約聖書にあるように、ダビデがイスラエル人をバアレ・ユダから導き出して神様の契約の箱を持ち帰った時、牛の足下がふらついた為にウザはとっさに手を伸ばして箱に触れ、神の霊により打たれて死んだわ。当時「契約の箱」は神を現わしていたの。神は聖なるお方で、汚れた人間が触れることなどできるはずがなかった。ウザは善良な心の持ち主だったけれど、神様を怒らせてしまい打たれて死んだの。一方新約聖書では、結婚している女が姦淫の罪で捕えられて主の前に連れて来られた時、主はその女を罪に定めなかったばかりか、女を赦し、罪を告白して悔い改め、再び罪を犯すことのないようにと言ったわ。これらの二つの出来事から、律法の時代に神様は霊として働かれ、霊は汚れた人間が存在することを許すことも神様を怒らせることを許すこともなかったことが分かるわ。神様を怒らせることは死を意味していたの。恵みの時代になると、神様は肉となって別の働き方をされたわ。人々に対してそれまでとは違ったアプローチの仕方で、実際の状況や現実的な問題に応じて働きかけることができたの。つまり、肉となられた神様は人の弱さへの理解を示すことができ、それによって人は悔い改めの機会を得たの。それだから、肉となられた神様の働きは、堕落した人間に対して霊としての直接的な働きに比べてずっと有益なものなの。それに、私たちの罪も律法の時代末期の人々の罪を越えてしまい、ソドムの時代の人々の罪をも越えてしまったわ。人間のふしだらさと邪悪さ、反抗は頂点に達してしまった。主にある兄弟姉妹である私たち自身を考えてみれば分かるように、たとえ主イエス様によって贖われていても、罪の本質は根深く残っているので、日中罪を犯しては夜悔い改めるという生活をしているわ。謙虚で寛容に見える人もいるけれど、実際には互いに企み、策略を練り、嫉妬や争いを引き起こし、互いの裏をかきあい、だまし合うの。否定的で霊的に弱い兄弟姉妹もいるわ。そのような人たちの信仰と思いやりは徐々に薄れてきているの。考えてみて。それほど人間が堕落してしまっていて、もし神様が終わりの日に霊によって直接裁きと清めの働きをされたなら、私たちはとっくに滅ぼされているんじゃない?だから、神様はもう一度肉となって来られ、私たち堕落した人間の必要に応じて働かれ、堕落の程度に応じて働かれるのよ。というのは、神様が肉となって働かれることによってだけ、私たちの弱さに対して理解を示すことができ、悔い改めの機会を与えて完全に救われる機会を与えられるから。」

 ジャン・リンがこのように話すのを聞いて、私はとても感動しました。神の働きのひとつひとつに神の愛があるのです。私は言いました。「神様が肉となって働かれるとき、霊として直接働かれるよりずっと人に益をもたらすということが分かったわ。あまりに堕落しているからと神様の霊に打たれて死んでしまうことはないのね。」

 そう言った途端、ジンイーは嬉しそうにジャン・リンに言いました。「ウェイウェイが理解したわ。神様に感謝します!」

受肉のもうひとつの意味


 ジャン・リンは嬉しそうにこうも言いました。「そうよ。ウェイウェイ、神様が肉となられた意味はもうひとつあるの。神様の別の言葉を読んでみましょう。

イエスキリストが受肉して再臨する意味は何か

 私は次の言葉を読みました。「人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだ…。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、『山から虎をおびき出す』、『洞窟から狼をおびき出す』と言う。」

 この言葉を思い巡らしながら、私は静かに言いました。「『山から虎をおびき出す』、『洞窟から狼をおびき出す』?」

 ジャン・リンは笑いながら言いました。「良く分かる表現ね。神様ご自身が普通の人間の体で地上に来られたの。私たちが神様を知らないばかりに、多くの観念や勝手な想像、反抗と反逆を露わにするの。もし終わりの日に神様がこの時代を終わらせるために偉大で人間の理解を超えた霊として来られるならば、全ての人は倒れ、地に伏すでしょう。その時に神様に反抗したり反逆したりする人はいないでしょうから。善悪はどう区別できるのかしら。だから、もし神様が霊を用いて働かれるならば、人間の観念、反抗心、反逆は露わにされないのよ。神様ご自身が普通の人間の体をとって地上に来られ、人間の中にある観念、反抗心、反逆を露わにし、それによって裁き罰することによってだけ、神様は人々を納得させることができるの。神様に従い、受け入れる人は救いを得、反抗して反逆する人は罰せられるの。肉となられた神様が普通で現実的で、人間の観念と一致しないからこそ、人間の反抗心や反逆が露わにされるの。そして神様は事実を把握され、善悪を区別され、最終的にご自身の目的である、一人ひとりを分類するという作業をされ、善に報いて悪を罰するの。だから、私たちはこれが神様の働きの知恵であり、義であるということが分かるわ。神様が肉となられてご自身の働きを直接行うことによってのみ、人々を完全に露わにすることができ、人を征服するという目的を達成できるのよ。受肉された神の働きは、終わりの日の裁きの働きに対して、霊の働き以上の益をもたらすの。

 その時私の目と心が開かれました。私は喜びながら言いました。「やっと分かったわ!神様が肉となって働かれたのは、私たち堕落した人間の必要のためで、神様の受肉があって初めて、人間の反抗心や反逆が露わにされ、善に報いて悪を罰するという目的が達成されるのね。神様に感謝します。すべて神様だけが現わすことのできる奥義ね。神様が本当に戻って来られたと信じます。ああ、こんなに素晴らしいことを何一つ知らなかったなんて。何て未熟な信仰だったのかしら⋯」

 ジャン・リンは言いました。「感謝なことに、神様の働きを受け入れるのにまだ遅くないわ。」

 私は喜びのうちにうなずきました。

 しばらくしてから、集会に出席して福音のビデオを観るうちに、私は神様の終わりの日の働きを完全に確信し、主の現われを迎えるようになりました。私の心は喜びに満たされました。全能神教会では兄弟姉妹が皆真理を求めて神様の言葉によって生活しており、この大家族の中で、私は神様の愛と家族に属することの温かさを理解するようになりました。本当に感謝しています!


どんな祈りは効果に達することができるか

2019-08-01 15:11:12 | 信仰生活

 信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

 こんにちは!少し前、姉が私に主イエスの福音を説いてくれました。教会に加わったあと、毎日主に祈る必要があると言われたのです。そのとき、私は混乱しました。どうして毎日主に祈る必要があるのでしょうか?神様は私の祈りをお聞きになるでしょうか?こうした疑問を私と分かち合ってくれませんか?

 林麗

 姉妹林麗:

 こんにちは!主のお恵みとご慈悲のおかげで、私たちは主の家へと戻るために世界から選ばれました。私たちは主の新しい信者なので、なぜ祈る必要があるのか、神様が私たちの祈りをお聞きになるかどうか、理解していないのは当然です。私も最初はあなたと同じように混乱していました。その後、兄弟姉妹とのやりとりや助けを通じて、祈りの意義を理解し、神様の御心にかなうためにどう祈るべきかを知りました。それからというもの、私の困惑はきれいになくなりました。ここで私自身の理解を少しお話ししましょう。それがあなたの助けになることを願っています。

 最初に、なぜ神の信者は祈らなければならないのかをお話ししましょう。私はインターネットで一つの文章を読みました。

 「神が人類を創造し、霊を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの『衛星テレビ放送』は地上で受信できないように神が定めた。神がもはや人々の霊の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に『住む』ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って『遊ぶ』ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。」

 その文章から、神様の信者が祈らなければならないのは、神様を呼び求め、神様との正常な関係を築くにあたって、祈りがそれを実現する方法の一つだからだ、ということがわかります。私たちが心から神様に祈り、心を開いて自分たちの困難や困惑を神様に訴えるとき、神様は私たちの真の心をご覧になり、私たちの欠点や求めに応じて私たちを啓発し、困難から導いてくださいます。サタンは普通、神様と私たちの関係を破壊するため、様々な環境や人々を利用して私たちの心をかき乱し、私たちを悪い状態に陥れ、霊的に無力感を覚えさせます。こうしたとき、私たちが真心を込めて神様に祈り呼び求めるなら、神様は私たちを導いてサタンの罠を見破り、神様の御心を理解できるようにしてくださいます。こうして、サタンは私たちに影響を及ぼす機会を持たなくなります。そして私たちは正常な状態に戻り、聖霊の働きを獲得し、神様の存在を享受するのです。加えて、祈りは私たちの信仰を高めることができます。とりわけ、試練や苦難が降りかかるとき、私たちは祈りを通じて神様への完全な信仰を持ち、神様の慈愛と素晴らしさを感じ、かくして神様を愛し満足させる心を生み出せます。たとえば、無神論者の中国共産党による逮捕や拷問に直面したとき、真に主を信じる多くの兄弟姉妹はまったく無力感を覚えたでしょう。しかし、信仰と強さを求めて神様に祈ることで、ついに中国共産党の拷問に打ち勝ち、神様の証しをしました。ゆえに、私たちキリスト教徒一人一人が祈りを学ぶことはとても重要なのです。一定の期間祈らなければ、私たちは心の中に神様の居場所を持たず、そのことは私たちが神様との関係を断ち切ったことを意味します。結果として私たちは聖霊のご指導とお導きを失い、サタンの領域に戻り、暗闇に陥ることになるでしょう。神様が私たちを祈らせるのは、私たちがいかなる時も神様のご配慮と保護の下で暮らせるようにするためです。これが私たちに対する神様の愛なのです。

どんな祈りは効果に達することができるか

 神様は本当に私たちの祈りをお聞きになるでしょうか。それは、私たちが心を込めて誠実に神様を崇めているかどうかによります。主イエスはかつて言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:23-24)。この御言葉から、主が信実の本質を持っておられること、神様が誠実な人を好まれることがわかります。よって、私たちは祈るときに心から話し、自分の本当の考えや困難を神様に伝え、神様の御心と啓発を探し求めるべきなのです。こうすることでのみ、神様は私たちの祈りをお聞きになります。これとは対照的に、神様を騙すためにきれい事を言ったり、祈りのたびに同じ決まり文句を繰り返すだけなら、あるの言葉を暗唱するためだけに神様の御前へ赴くのと一緒です。そのように祈るなら、私たちは不誠実であり、神様への畏れを持っていません。たとえとても素晴らしい言葉を述べたとしても、それらは本音ではありません。神様は私たちの祈りを受け入れず、ましてお答えになることはないでしょう。例として、最初期のファリサイ人による祈りを取り上げましょう。彼らは、神様に忠実に仕え、ユダヤの人々を神様の前に連れてきますと祈りましたが、実際には自分自身のたくらみを実行し、自分たちを崇めさせるためにユダヤの人々を連れてきました。このことから、ファリサイ人が完全に偽善者であることがわかります。よって、私たちは正直な心をもって神様に祈り、自分の心の中にあることを神様に語らなければなりません。そうすることでのみ、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。

 一方、私たちの祈りの内容が神様の御心にかなっていれば、神様は私たちの祈りに答えてくださいます。例として、聖書に記録されているソロモン王の話を取り上げましょう。ソロモン王が各時代を通じて最も賢明な王になれたのは神様の祝福のおかげです。国家の王として、ソロモン王は自分の肉体のためにお恵みや祝福を求めたり、祈るときに神様と取引したりはしませんでした。その代わり、神様に祈り、神様の民を統治する助けを求めたのです。ソロモン王の祈りは神様への配慮からなされたものであり、神様を満足させるためのものでした。こうした祈りは神様に受け入れられ、認められます。神様はソロモン王に十分な知恵を授け、最も豊かで賢明な王となされました。

 今日、私たちの祈りも同じようであるべきです。私たちの祈りが神様の御心とお求めにかなっていれば、神様は聞いてくださいます。主イエスはこう言われました。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイによる福音書6:33)。神様はご自身の御心にかなう祈り、心から神様に服従する聡明な人々の祈りをお聞きになります。では、どのような祈りが神様の御心にかなっていて、どのような祈りがかなっていないのでしょうか。ここでいくつかの例を簡単に取り上げます。神様の御言葉が理解できないとき、私たちは神様の御心とお求めを理解できるよう、聖霊の啓発とお導きを探し求めるべく祈り、神様の御言葉の真理を理解するよう努めるべきです。教会で真に神様を信じる兄弟姉妹が消極的になったり弱くなったりすれば、神様の御心を理解して消極的な状態を克服するよう、私たちは祈ります。こうした祈りは神様の御心にもかなっています。兄弟姉妹の誰かが迫害などの困難に直面しているとき、私たちは神様に祈り、彼らが神様の証しをするようお導きになることを求めます。それは、神様が彼らを通じて栄光を得られるようにするためです。こうした祈りは神様に認められます。私たちは様々な苦難や試練に見舞われたとき、真心を込めて神様に祈り、私たちをお導きになり、不満を言わせないよう神様に求めるべきです。それは、 私たちが神様の証しをできるようにするためです。私たちは、被造物として自分の本分を尽くし、神様の福音の働きを広める能力を求めて祈るべきです。神様の御心を知るため、神様を満足させるべく真理を実践するため、そして神様の御心を実行するために行なわれるこれらの祈りはすべて神様に認められ、答えられます。

 神様のお答えを得られない祈りはどのようなものでしょうか。たとえば、大金を稼げるように祈る人がいます。よい仕事を見つけられるよう神様に手助けを求める人もいれば、ふさわしい結婚相手を用意してくださるよう神様に祈る人もいます。こうした祈りは自分自身の利益のため、あるいは自分の肉体を満足させるために行なわれるものなので、どれも神様の御心にかなっていません。神様の働きは人間をお救いになることに集中しています。祈ることが私たちの救いと矛盾し、何ら役立つものでなければ、神様に認められません。例を挙げると、私たちはこの世でより多くの金を得るために、自分を祝福してくださるよう神様に祈ります。こうした時、神様が私たちの祈りを聞き入れて百万長者にしてくださるなら、私たちの心は金で占められるでしょう。私たちはそれでも神様を信じる心を持つでしょうか。しまいには金のために神様を裏切るでしょう。ゆえに、神様はこうした祈りをお聞きになりません。

 姉妹林麗、私たちの神様は信実です。私たちの祈ることが神様に受け入れられる限り、神様は答えを与えてくださいます。はるか昔、神様はこうおっしゃったからです。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(マタイによる福音書7:8)。神様の御言葉のこの一節から、神様の信実と素晴らしさがわかります。私たち全員が神様のお約束と祝福を得られるよう、神様は望んでおられます。

 他に質問やわからないことがあれば、いつでも私たちに連絡してください。一緒に神様を探し求めましょう。神様の御言葉のお導きがあれば私たちの問題はすべて簡単に解決できると、私は信じています。