賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ペテロは主に従った後、何を得たのでしょうか

2019-10-26 23:08:51 | 聖書の言葉

   主の信仰者の中に、ペテロを知らない人はいません。聖書の記録によると、ペテロは主イエス様と出会う前は漁師だったそうです。ある朝、主イエス様はゲネサレト湖にやって来られ、人々は主イエス様の説教を聞こうと主に押し迫りました。その時、ペテロとその仲間たちはガリラヤ湖で夜通し漁を行ったばかりで、舟の隣で網を洗っていました。主イエス様はペテロの舟に乗り込んで説教されました。説教をなされた後、主はシモンにこう言われました、「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた 」(ルカによる福音書 5:4)。「シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう』」 (ルカによる福音書 5:5)。ペテロは主イエス様の御言葉を信じて網を降ろしました。以外にも、彼らは大漁だったため、網が破れてしまいました。ペテロはヤコブとヨハネに手伝うよう合図しました。両方の舟は魚でいっぱいになっていたため、舟は沈み始めました。


   

   主イエス様と出会う前の日、ペテロは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、主イエス様と出会った後、彼は主の御言葉通りに網を降ろすと、舟が沈みそうになるほど魚が獲れました。ペテロは魚が獲れただけでなく、主の御恵みと祝福を授かることができてとても幸せでした。更に、主イエス様が彼にこう仰った時、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」 (マタイによる福音書 4:19)。ペテロはすぐに網と舟を後にして、兄弟のヤコブとヨハネと共に主イエス様について行ったのです。

   ペテロは躊躇せずに網と舟を後にして主イエス様について行ったことが分かります。彼は目に見える網に限らず、更には両親に対する愛、名誉と利益、主に俗界の結び付きと喜びを含む無形の網も後に残して行ったのです。

   ペテロは主イエス様に従うようになって以降、主の御業を沢山目にしたと聖書に記録されています。例えば、シモンの義理の母が高熱を出し、誰かが主イエス様に彼女のことを伺いました。主イエス様はシモンの家に行かれました。主が熱に対して叱り飛ばされると、熱は引き、彼女は回復しました。その夜、主イエス様は沢山の患者たちを治され、悪霊に取り付かれていた人たちから悪霊を追い払われました。他の例として、ペテロを除く弟子たちが海で渡航中、嵐が発生し舟が激しく横揺れたことがありました。主イエス様は風と海を叱り飛ばされ、これらはとても静かになりました。更に、主イエス様は盲人が見えるようにされたり、足が不自由な人を歩けるようにしてハンセン病患者を治されたり、死者を蘇らせる等多くの奇跡を起こされました。主イエス様はまた、からし種の寓話やパン種の寓話等、神の国にまつわる寓話も語られました。ペテロは主イエス様の御言葉より神の権威と御力を知り、主イエス様は神の御子、キリスト様であられると認知したのです。経験と知識が彼の信仰の土台となり、神を愛する原動力ともなりました。

   主イエス様が復活、そして昇天された後、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに舞い降りてきました。ペテロと11人の使徒たちは立上り、主イエス様はキリスト様であられ、復活されておられると説教しました。この結果、およそ3千人が洗礼を受けたのです。そして、ペテロは神殿に行く途中に「美し」と呼ばれる門を通り、母の胎を出た時から足の不自由な人に主イエス様の名のもとに立ち上がって歩くように言いました。これを見ようと人々が集まった時、ペテロは主イエス様はキリスト様であられ、主は既に復活されておられ、人は悔い改めて改心する必要があるともう一度説教しました。その瞬間、その言葉を聞いた人々は悔い改めて主イエス様の方を見ました。そして集まった人々の数はおよそ5千人となり、主イエス様のこの御言葉が現実となりました:「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイによる福音書 4:19)。 この体験をした彼はついに処刑に服し、最高の度合いで神を愛し、良い証言をするために十字架に逆さに張り付けられ、これは神に関する真の知識に基づいていたのです。主イエス様はこう仰りました:「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」 (マタイによる福音書 16:19)。 ペテロは主に従い、仕えることで神に認められ、価値のある有意義な人生を生きました。

   現代世界において、私たちキリスト教徒は何を追い求めているのでしょうか?多くのキリスト教徒は世間のトレンドを追いかけ、これまで以上に堕落して、下劣になっています。中には無信仰者のようにお金、名誉、利益、淫楽を追い求め、罪を犯す喜びを楽しみ、懸命に努力してそれぞれの個人的な野心と願望を満たしています。私たちは努力することで一時的には満たされますが、結局それは虚しさと苦しみに変わってしまうのです。有名人や金権政治家の多くについて考えてみてください。彼らはお金と影響力があり、どこに行っても人々から尊敬され、取り巻かれてはいますが、その全員が良い結末に至るわけではありません。。。人々の内にある欲求はお金や物では満たせないのです。人は値踏みのできない家族の財産や立派な評判を持ってこの世界で暮らしていても、それは有意義かつ価値のあるものではなく、結局は虚しいものなのです。正にソロモンがこう言った通りなのです:「そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。」(伝道の書 2:11)

   ペテロのように神の前に行き、神について行き、神に従い、神のために生きた場合に限って私たちの魂は真の平安と喜びを得ることができ、私たちは神の御気遣い、御加護そして祝福を受けることができ、永遠のいのちを授かるために神の国に入れるようになるのです。


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聖書を読む4つの原則は、あなたが把握しているのか


イサクの燔祭の逸話から神様を知る

2019-10-25 09:50:52 | 聖書の言葉

聖書の関連箇所:

   「神はまたアブラハムに言われた、『あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう』。アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」(創17:15-17)。

   「『しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう』。神はアブラハムと語り終え、彼を離れて、のぼられた」( 創17:21-22)。

   「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」(創 22:2-3)。

   「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした」(創22:9-10)。

   「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』」(創22:16-18)。

   多くの兄弟姉妹が、聖書のイサクの燔祭の逸話を好んで読みます。これを読んでいると、誰もがアブラハム自身と神様について知り、個人的な理解がもたらされます。神様への信仰の実践方法を新たにする兄弟姉妹もいます。ここから、私がこの逸話から得た神様に関する知識をいくつか皆さんと共有したいと思います。



1.神様の全能性は測り知れず、神様の御言葉はすべてを達成する

   アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、息子が誕生することを神様から約束されたことを、聖書は記録しています。しかし、そのときには彼らは年老いており、子供を産める年齢を過ぎていたため、神様の御言葉を聞いて、アブラハムはひれ伏したものの、笑って、次のように考えました。「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」(創17:17)。アブラハムにとって、それは不可能なことでした。神様は人を創造されましたが、高齢者には子供が産めないことをまるで神様はご存知ないかのようです。これは私達の目には人間には達成不可能に見えますが、神様は既にこれを達成しています。そうして、ヤーウェ神が約束した通り、サラは90歳でイサクを本当に出産しました。

   この逸話は、神様の全能性は測り知れず、神様の御言葉はすべてを達成することを私に示してくれます。神様の御口から御言葉が発せられた瞬間に、タスクは完了します。神様が天と万物を創造された初めのように、神様は御言葉によりこれを実行されました。神様は「光あれ」と言われました。すると光がありました。そうして、すべてのものが神様の御言葉により創造され、完全にされました。神様の御言葉には権威と力があり、神様の御言葉は神様と共にありました。まさに、神様の次の御言葉の通りです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハ 1:1-3)。

   神様の全能性、御権威、御力について、いくつかの知識を得ると、私達は神様への本物の信仰を持つようになるため、私達が持つ観念や想像に基づき神様を規定する代わりに、まるで、アブラハムがそうであったように、神様の御権威と御采配に服従できるようになります。これらの事実を経験した後、彼は神様の全能性と御知恵について真に理解し、知識を得ました。従って、神様がアブラハムにイサクを焼き尽くすささげものとして供えるよう求められると、アブラハムは無条件に神様に従いました。最終的に、アブラハムの誠実さと従順さにより、神様は彼を大いに祝福し、彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やすことを約束されました。

2.神様が達成されようとする御働きを誰も妨げることはできない

   洪水により世界が破壊された後、アブラハムは神様により選ばれました。神様はアブラハムを通して、人類を救済する御働きに着手することを決めました。しかし、アブラハムには当時息子がいませんでした。どうやって、この任務を担うことができたでしょうか?アブラハムが100歳の時に息子を授けると神様が約束されたとき、彼は次のように考えました:「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」(創17:17)。アブラハムの考えから、彼とサラは子供を持つには年を取り過ぎており、彼が100歳になって息子を授かるとは信じていないことが分かります。しかし、アブラハム、そして私達の観念に反した事実が訪れます。神様が設定された時間で、イサクは生まれました。

   このことから、アブラハムが全く信じていないからと言って神様の御働きが妨げられなかったことが分かります。このことは、アブラハムの考えにかかわらず、神様が計画された通りに達成されました。次の聖句の通り、「しかしわたしは来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てるであろう」(創17:21)。これは、神様の御権威と御力を表しています。神様が達成されようとする御働きは、誰にも妨げられることはできず、神様の御計画に従い正確に実行されます。これは神様の御性情であり、御権威であり、神様の全能性の現れです。

   人類の贖い働きのため主イエス様が受肉されたとき、主の平凡で普通の外見と、貧しい家に生まれたという事実は、人の観念や想像に相容れませんでした。そのため、多くの人が、主こそ救世主であることを信じず、主に従いませんでした。特に、祭司、律法学者、パリサイ人は全力で主イエス様を非難し、主イエス様に抵抗し、最終的には国を治めていた政権と組んで、主を十字架に磔にするに至りました。しかし、神様の贖いの働きは少なくとも妨げられませんでした。主イエス様が復活され、昇天されてから、神様の人を贖う福音は弟子を通して広まりました。2000年後、主イエス様の福音は全世界に広まりました。私達はこのことから、神様が達成されようとした御働きは、誰にも妨げることができないことが分かります。

   神様についてのこの知識を得た後でのみ、私達は神様の御働きが私達の観念といかに異なろうと、私達は自身の想像によりそれを推し量ったり、分析したり、調べたりすべきではないことが分かります。その代りに、私達は神様の御働きと御導きに従い、神様が言う通りにする必要があります。これは、創造物として私達が持っているべき感覚で、私達がすべきことです。

3.神様が愛されているものは、人の誠実さである

   イサクの燔祭の逸話で、アブラハムが100歳の時に息子を授けると神様が約束されたとき、アブラハムはちょっとした考えが頭に浮かび、神様を少し疑ったことが聖書に次のように記されています。「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」(創17:17)。

   しかし、事実は達成されました。その後、イサクが10代の若者へと成長すると、神はアブラハムに焼き尽くすいけにえとしてイサクをささげるように命じました。その時、アブラハムは神様に理由を尋ねたり、神様に不平を言ったり、ましてや、神様に抵抗したりすることもありませんでした。ただ、神様が命じた通りに行いました。聖書では次のように記載されています:「アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた」(創22:3)。「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時」(創22:9-10)。

   神様は、神様がアブラハムにイサクをいけにえとしてささげるように命じた最初の時点から、アブラハムが実際にナイフを振り上げ、今にも息子を殺害しようとしたその瞬間まで、すべての過程をご覧になっていました。神様はアブラハムの誠実さをご覧になりました。アブラハムの心の中で、神様は唯一無二の存在で、神様の場所はイサクの場所を遥かに凌いでいました。そのため、神様に満足していただけるよう、アブラハムは一人息子のイサクを犠牲にしました。アブラハムの神様に対する誠実さと従順さこそ、神様がお求めになっていたものでした。神様は、アブラハムが愚かであるか、かつて神様に対して憶測したり、或いは誤解したりしていたかということは気にせず、ただ、彼の誠実さをご覧になったのです。そうして、神様がイサクを犠牲にすることによりアブラハムの誠実さと従順さを見ると、彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やし、神様は大いにアブラハムを祝福しました。

   これを通して、私達は神様の愛が天と海のように無限で、神様が人間への慈悲と愛の心に溢れておられることが分かります。私達がちょっとした失敗や罪を犯したからといって、または神様に対して憶測や疑念を抱いたり、誤解したりしたからといって、神様は私達を叱責されたり、非難されたりされることはありません。神様が重視されているのは、私達の誠実さ、忠誠心、そして従順さです。多くの場合、私達には神様の御働きを完全に理解することはできませんが、神様の本質が愛であり、神様が人類に対して意図されているすべての物事が善良なものであることを私達が知っていれば、私達は神様が私達に対して行われる御働きに従うでしょう。そのようにして、私達はアブラハムのように、神様から確実に祝福を受けるのです。

4.神様は原則に基づき人を祝福する

   神様がアブラハムにイサクを犠牲にするように命じられたとき、アブラハムは神様に従い、条件や言い訳を口にせず、神様が命じられる通りに行いました。アブラハムの誠実さ、忠誠心、そして無条件の従順さは、彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やすという神様のアブラハムへの祝福をもたらしました。これにより、神様が人を祝福される際に、御自身の原則があり、誰もが神様の祝福を得ることができるわけではないことが分かります。本当に神様を愛し、神様に誠実に従い、神様の証を立てられる者が神様の祝福を受けることができます。

   ヨブを例に取るならば、ヨブは試練の中で神様の証を立てた後で、祝福を得ました。神様が彼の膨大な財産と子供全員をお取り上げになったとき、ヨブは悪態をついて罪を犯すようなことはせず、それでも神の御名を称賛し続けました。その後、ヨブの全身が痛みの強い皮膚病に覆われ、耐え難い痛みがあっても、神様に従い、神様を畏れ、神様に従うことの証を立て、邪悪さを寄せ付けませんでした。最終的に神様はヨブへの祝福を倍増し、寿命を2倍に延ばしました。

   神様が人を祝福する原則について理解すると、私達は神様の義なる御性情が分かるようになります。これらの知識を持てば、私達は、自分たちが幸運であり、神様を信じる風潮に従うことにより神様の祝福を得ることができるという信念にしがみつくことはありません。むしろ、アブラハムやヨブのように神様を信じ、神様に従うことで、神様の祝福を得られることを願うようになります。


【やさしい聖書:あなたを伴い聖書を読み、主とさらに親しくなり】

2019-10-24 22:35:15 | 聖書の言葉

【毎日のディボーション】📖

【やさしい聖書:あなたを伴い聖書を読み、主とさらに親しくなり】

忙しい生活で、私たちはいつも肉体的にも精神的にも疲れて、神様の前に静まることができません。
仕事のストレスが、私たちをイライラさせて、神様の前に心を鎮めることができません。
おそらく、私たちが神様の前に静まることができない多くの理由があります...
やさしい聖書は、
あなたの毎日のディボーション生活を伴い、
いつでもどこでも主に近づくことができ、
主の豊かな愛を楽しむようにし、
私たちの心をより神様に近づけるようにします。
やさしい聖書をダウンロードし、神様の愛が毎日共にありますように!
ダウンロードアドレス:
➡️App Store:https://apps.apple.com/jp/app/id1406453265
➡️GooglePlay:https://play.google.com/store/apps/details?id=org.biblesearches.easybible&hl=ja


ご覧なさい。福音の種はふわふわと飛び、大地に蒔かれている最中です – タンポポの綿毛の種を通して送られた愛をあなたは受け取りましたか

2019-10-23 20:42:34 | 聖書の言葉

   太陽のような黄色い花が芝生の上に点在しています。これらの花はバラのように華やかでもなければ、百合のような上品さもありません。これらの花は美しいドレスも、豊かな果実も身に着けず、注目もされません。その姿は、丘でも、空き地でも、道端でも、街角でも、いたる所で見受けられます。秋が来ると、これらの花は徐々に熟して、命の種を付けた無数の小さな傘のふわふわの白ボールとなり、風に乗って、命の種をいつまでも遠くまで飛び続けます。それがタンポポです!子供たちはタンポポの綿毛にとても執着しているようです。彼らは誰もが綿毛を摘み取り、種の傘を吹き飛ばします。小さな傘がふわふわと飛んでいくのを見ると、彼らの優しくあどけない顔が決まって幸せそうな笑顔になります。これが、タンポポが人々にもたらす喜びです⋯⋯



   私はタンポポが私たちにもたらすこの喜びも好きですが、本当に好きなのは、それが私たちにもたらす利益です。神様がそれを創造されました。それは医薬品としても優れた薬草であるだけではなく、その生命力は特に粘り強いものがあります:風に乗って移動し、種が着陸した所で根を張り、花を咲かせます。何年も何年も、命を地球のすべての片隅にもたらすという独特の使命を厳密に守っています。タンポポの綿毛が風に乗ってふわふわと飛んでいるのを見る度、主イエス様の次の御言葉について考えずにはいられません:「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書12:24)。そうです。種は死にますが、それは10倍ないし100倍の果実をもたらします。まるでタンポポの種のように、神様の福音は、愛といのちにより、世界中のあらゆる場所に行き渡っています。

   私は聖書に次の記述を思い出します:「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネによる福音書3:16-17)。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:7-8)。聖書のこれらの聖句から、私は神様の愛が広大であることを深く感じました。当時、神様は、33年と6ヶ月の間、人の息子として、食べ、眠り、人々と暮らすことで、ユダヤでその御働きを行われました。神様は人々が罪にまみれて生活する惨めさを目の当たりにされ、正しい道を歩けるよう、彼らを導く御言葉を発せられました。最終的に、彼らが罪に苦しむいのちを排除できるよう、神様は十字架にかけられ、罪深い肉のようになり、人々の罪を引き受け、彼らの罪が贖われるようにしました。神様の御知恵と全能性が人類の罪を贖う御働きを達成された後、神様はその福音を世界の果てまで説くよう、弟子達に委ねました。神様に運命づけられ、使命を委ねられた多くの敬虔なクリスチャンは、聖霊により動かされ、その使命を担い、布教の旅に出ました。彼らに待ち受ける旅が過酷で困難なものであっても、彼らは、より多くの魂が神様の側に帰依できるよう、自らの命を賭して、海を渡って行きました。神様の御導きのもと、神様の福音は世界の隅々まで広まり、神様の御名は誰もが知り、既に日常語となっています。

   私はため息をつかずにはいられません:何世代にも渡り存在した数多くの宣教師は目立つことなく、名前すら知られていませんが、私は彼らの信仰と特異な経験に強く感心しました。彼らは計り知れない苦しみに耐え、笑われ、バカにされ、多くの人々に叩かれ叱責され、迫害され、投獄されました。中には命を落とす人もいましたが、躊躇せずに前進し続けました。躊躇せずに福音を広める道を歩むことを可能にしたのは、どのような力なのでしょうか?私は主イエス様の御言葉を思い出しました:「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコによる福音書16:15)。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカによる福音書9:23)。主の御言葉から、私は次のことを理解しました:時代を超えた聖人達は、神様の御激励により福音を説くことができたのです。彼らは、人類の罪を贖うという神様の福音を世俗的な人々に説くのだという使命を掲げて、これを行いました。より多くの人が神様の御心を理解し、十字架を背負い、主についていき、主と力を合わせて魂を救う重荷を引き受け、有意義ないのちを生きていけるようになることを神様が強く望んでおられると、私は感じます。

   福音を説く兄弟姉妹は目を引くような外見をしてませんでしたが、彼らの口から伝えたのはすべて、偽りのない言葉でした。彼らは親切な心で、神様の御言葉を記載した本を次から次へと人々に渡していましたが、彼らが得たものは拒絶やからかいでした。他者から侮辱や中傷を受けることさえありました。一方で、時には神様の福音を人々が受け入れるという喜びを味わうこともありました。結果がどうであれ、彼らには神様の愛に報いたいという敬虔なクリスチャンの心根を変えることができませんでした。これを目にする度、私の心は感動し、創造主を満足させるための働きを行う機会が得られたことはとても恵まれたことなのだと感じました。現在、神様の御前に来ていない人々が未だに数多くいます。私は全力を尽くし、神様と協力して、神様の福音を周りの人々に説き、神様の御前により多くの魂をお連れしたいと思います。それにより、より多くの人々が世俗的な快楽の害を断ち切り、神様を知り、神様を賛美し、 神様の注意深い御目のもとで守られるようになることを望むからです。これは、創造物である私の使命です。

   タンポポの綿毛が運ぶ種は、まだふわふわと飛び、大地に蒔かれている最中です。使命、期待、深い愛により、これらは、世界のいたる所まで飛んでいきます⋯⋯


生と死の戦い

2019-10-22 22:33:02 | 勝利者の証し

   全能神の御言葉にこうあります。「あなたが肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンはあなたを肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする――しかし、神の言葉はあなたの目を開き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人々に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の問題に焦点を当て、神の心に従っていない考えや観念を取り扱うためである。聖霊は人々の心の内部に触れ、彼らの心の中で神の働きを実行するので、起こることすべての背後には戦いがある。人々が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体と折り合いを付けているように見えるかもしれないが、実のところ、彼らの心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり――この激し戦いの後、膨大な量の熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)この神様の御言葉を読むたびに、次のように考えたものです。「真理を実践することは本当にそんなに難しいものだろうか。人々が真理を理解していない時は、それを実践することはできない。一度理解したら、神様の御心に則して行動するだけで十分ではないのか。本当に『心の奥底では生死を分ける闘いが起こる』と言うほど深刻なものだろうか。」後に実際に体験するまで、真理を実践することが簡単ではないということを実感できませんでした。神様が言われたことは、事実に完全に則しています。誇張は少しもありません。



 

  少し前のことですが、私は一緒に働いている教会の姉妹が傲慢で、私を見下していると感じ、自分自身が正しくない状態に陥るのを止めることができませんでした。彼女のせいで、あれこれと自分を束縛するようになり、働きにおいてもそれを払拭することができませんでした。何かを言うときにはおとなしくし、何かをするときは慎重にし、しばらくすると、私の言動への彼女の反応を見ずにはいられなくなるほどで、もはや私は自分の働きを担っておらず、完全に暗闇の中で生きていたのです。自分の状態が危険なものであると知りつつも、そこから抜け出すことができないでいました。苦しみの最中、神様に何度も祈り、そのうち私の中に神様の照らしと導きを得ました。それは、「その姉妹と心を割って話し、光の道を見つけなさい」というものでした。しかし、姉妹の部屋の前まで行くと、別の考えが浮かびました。「私の話を聞いて、彼女は何と思うだろうか。私がつまらないことをあれこれ考える人間で、やっかいで、扱いにくい人間だと言うだろうか。」そう思った途端、彼女の何とも言えない目つき、軽蔑したような態度が目に浮かびました。その瞬間に私の勇気は失せて力が抜け、まるで全身が締め付けられたようになってしまいました。神様の言葉によって、再び次のように啓かれました。「話し合えないような私的な問題を沢山抱えているのであれば、暗闇から抜け出すのは困難です。このままの状態を続けたいのですか。」私は静かに自分を奮い立たせました。「勇気を出して、難しく考えず、ありのままを話せばいい。真理を実践することは恥ずべきことでも何でもないのだから。」けれども同時に、別の思いも浮かびました。「何も言わないほうがいい。彼女以外の人達は恐らく私は問題ないと考えている。敢えて話せば、他の人達も私があれこれと考える人間だと考えて、嫌われてしまう。ああ!それなら何も言わない方がきっと良い。」私の心が再び揺らぐと、神様は再び私を導いてくださいました。「誠実な人間であるなら、恥ずかしがったり、恐れたりしていてはなりません。」神様のこの啓示に私は奮い立たされましたが、驚いたことに、僅かばかりの力を得た途端、サタンの考えが再び浮かんだのです。「そんな話をすれば、他の人達もあなたの本性を知ることになり、惨めになるだけだ。」私の心は瞬時に握りつぶされたようになってしまいました。このように、私の心は肯定と否定、白と黒の間で揺れ続けました。私には、はっきりと分かっていました。自分のメンツを守りたいという虚栄心から、話したくないのだ、と。かと言って今のままでは自分の状態は変わらず、自分の働きにも何の益ももたらしません。話してこの問題を解決することのみが私の働きにとって益となり、神様の御心にかないます。けれども彼女が私の気持ちを知った途端に私をもっと見下すようになるかもしれないという考えが浮かんだ瞬間、私は真理を実践する勇気を失ってしまいました。私が自身の醜さについて話したら、もう生きていられない!一瞬、私はひどく動揺し、まるで火に焼かれているかのように心に強い痛みを感じました。これは、まるで生か死かの選択に直面しているかのように難しく、気付かないうちに涙が溢れてきて、できることといえば心の中で神様に助けを叫び求める以外にありませんでした。そして、まさにその瞬間に、神様の言葉が再び私の心に浮かびました。「真理を失うことなく、あるいは偽善や不義を隠すことなく、……若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。」(『言葉は肉において現れる』の「若者と老人に向けた言葉」より)。神様の言葉により、ようやく動揺する心を落ち着かせることができました。「何があろうと、私はこれ以上、サタンの嘲りの対象ではいられない。これ以上、神様に反抗することはできない。自分自身を捨て、真理を実践しなければならない。」私が勇気を奮い起こし、彼女に会い、心を割って話すと、結果は期待した以上でした。姉妹は私を見下さなかっただけでなく、彼女自身の堕落を告白し、欠点を反省して認め、私に謝ってくれました。そして、これからは問題に遭遇したなら真理について話し合い、互いに理解し合い、真理に従うことを自分たちの原則として、互いの強さから学びあい、弱さを補い合い、ともに教会の仕事をしていこう、と言ってくれたのです。このようにして武器なき闘いが終わりました。問題が解決し、私の心も軽くなりました。あの時の心の中の激しい葛藤と、生か死かの闘いのような苦しみを味わったことを思い返すと、初めて自分のメンツを保つという無意味な問題がいかに深刻だったかが分かりました。私は闇の中を生き、神様に幾度となく呼びかけられていたにも関わらず、自分をそこから解放することができないほど、この問題は私の生き方に染みついていたのです。真理を理解しながらも実践することができませんでした。私は本当に、あまりにも深くサタンにより堕落させられていました。また、真理を実践し誠実な人でいることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

   この経験があって初めて、神様の次の御言葉を理解することができました。「真理を実践し、神を愛することを実践する度……心の奥深くで生死を分ける闘いが起こる。」この言葉が人類の堕落した本性について言及しているのは、人間のサタン的な本性が肉体にあまりに深く根付いているからです。人間はその本性にがんじがらめになってしまっており、それが私たちのいのちになってしまっています。私たちが真理を実践する時、そして肉の生活を捨てる時、そのプロセスは生まれ変わるのと同じであり、一度死んで復活するのと同じなのです。それは本当に生か死かの闘いであり、辛い痛みを伴うプロセスなのです。自分自身の本性をよく知らず、苦しんだり対価を払ったりする意志がない時、私たちは決して真理を実践することはできません。かつて私は、真理を実践するのは簡単だと考えていました。それは、自分の堕落した本性について理解しておらず、自分がいかに深く堕落しているかを知らなかったためです。今後、経験を通じてさらに自分自身を深く知り、あらゆることにおいて真理を実践し、自らを捨てていきたいと思います。