賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書を学ぶための秘訣

2019-10-17 21:57:05 | 聖書の言葉

   聖書を読むのは各キリスト教徒にとって必須課程です。多くのキリスト教徒たちは聖書の解釈に上達して主の御心をより良く理解しようと聖書の学習方法を幾つか考えました。第1に、彼らは聖書の何バージョンを読むかを選択します。今現在、聖書は、「The Daily Study Bible」、「The Cross References of the Bible」、「Abundant Life Study Bible」等沢山のバージョンが存在しています。また、多くの霊的人物により執筆された聖書の異なるバージョンも存在しています。そして、彼らは大抵の場合、有名な、または一流の霊的人物に書かれた聖書を選びます。第2に、彼らは聖書を読む時に、自分たちが最も重要と考える章や牧師と長老たちによって頻繁に説明されている聖句を最初に選びます。第3に、彼らは聖書を毎日少しだけ読む、等です。皆が聖書の学習方法を幾つかまとめ上げることができました。神の御導きに感謝します。ついこの前、同僚の何人かと私が学習方法について話し合っていた時、私たちは最適な聖書の学習方法を見つけたので、私はそれを兄弟姉妹たちと共有したいと思います。



   聖書に精通している兄弟姉妹たちは、聖書には神の御言葉に限らず、人間の言葉も含まれていることを誰もが知っています。注意して読めば、神の御言葉は聖書の中で全て明確に示されていることが容易に分かります。例えば:旧約聖書の預言書において、ヤ―ウェ神が預言者に伝えるようにと明らかにした御言葉は、「主の御言葉は臨んで」や「主はこのように言われた」等のように明確に言及されています。聖書の他の聖句においては、ヤ―ウェ神が自ら仰った御言葉も、「神は言われる、」や「ヤ―ウェ神は言われる」等のように明確に示されています。そして、それ以外は全て人間の言葉で、当時ヤ―ウェ神の働きを体験した人間によって書かれています。新約聖書の4つの福音書は4人の著者によってそれぞれが主イエス様の働きについて聞いたことや実際に目にしたことについて書かれており、その中に出てくる主イエス様の御言葉は、「イエス様は言われる」や「イエス様は彼らに言われる」等の言い回しで明確に示されています。さらに、ヨハネの黙示録はヨハネが神の霊感の下で見た黙示であり、神が世の終わりにどのように働かれるかを預言しています。これらの御言葉は神の御啓示から直接きているもので、その全てが神の御言葉です。

   一方でそれ以外は全てパウロと他の弟子たちが当時各教会宛てに書いた手紙となっています。手紙の冒頭で、これらは、「神の御旨によるイエス・キリストの使徒パウロから誰それへ、」や「イエス・キリストの使徒ペテロから誰それへ」のような言葉で明確に示されています。これらの手紙は彼らがそれぞれの義務ゆえに当時各教会にいたキリスト教徒たちを説き、励ますために各教会宛てに書いた言葉です。そして、これらの言葉は全て彼らの経験と知識を語ったものであり、人間の心を表しているだけで、神の御言葉とは比較できません。なぜなら、神は神の本質を有しておられ、神の御言葉のみが真理であるからです。主イエス様はこう仰りました、「わたしは道であり、真理であり、命である」ヨハネによる福音書 14:6。「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネによる福音書 11:25)。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネによる福音書 6:63)。神は私たちの羊飼いであられます。神の御言葉は真理であり、権威と力を有され、神の性質を表しています。それらは私たちのいのちとなることができ、私たちが必要とするものを備えることができ、暗闇の中で私たちの行く先を導く灯火であられ、そして誰も表すことができないものなのです。しかし、人間の言葉は全てが聖霊の御啓示と御啓蒙を得た後に、その人の経験した神の働きに基づいた知識からくるもので、それらは人間の理解と考えを表現し、人間が有するものと人間そのものを表しているのです。その中には人々のいのちに有益なものや霊的成長をもたらすものがありますが、聖霊によって啓かれ啓蒙された言葉はそのいずれも神の直接的な表現を示すことはできません。それらは真理でなく、人間のいのちとなることもできません。使徒パウロはこう言っています、「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である」(コリント人への第一の手紙 3:6)。聖書に書かれた神の御言葉と人間の言葉を見分ける際、聖書の最適な学習方法は先ずはじめに神の御言葉を読むことを選択する、そして神の御要望に沿った形で正しく実践して神からいのちの備えを得ることができるよう、神の御言葉の真理を理解し、神の御言葉に込められた神の御心を捉えることであると断言できます。

   神の御言葉はその真理を理解するにはどのようにして読むべきでしょうか?聖書にはこう記されています、「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人への第二の手紙 3:6)。神の御言葉には多くの謎があるため、それは手紙からは知り得ません。代わりに、私たちはそれらの霊的な意味を熟考することに注意を払うべきです。そうしたら、これはどのようにして達成できるのでしょうか?兄弟姉妹の多くは特に、聖句をより良く理解するために「Concordance of the Bible(聖書の用語索引)」や「Bible Encyclopedia(聖書の百科事典)」等の補助的ツールを購入しています。これら補助的ツールは霊的用語や聖句の文字どおりの意味を理解するのに役立ちます。しかし、主の御言葉の真義を理解したい場合は、それよりも、神の前で心を静めて注意深く神の御言葉を読む必要があります。そうした時に私たちはようやく聖霊の御啓示と御啓蒙を授かって、神の御心を理解できるようになるのです。

   神の御言葉は真理であり、その各御言葉には神の御心が込められており、神御自身のいのちの性質を明示しています。これ故に、神の御言葉を読む時は、神が各御言葉を言われるその御旨、なぜ神はそれらの御言葉を言うことを望まれたのか、神の御言葉はどういった問題を明らかにされたのか、そして各問題においてどういった明示がなされているのかを理解するべきです。私たちはまた、神の御言葉は真理であること、そして神が明らかにされる問題は私たち全員が抱えているものであり、特定個人に限られたものではないことも理解するべきです。従って、私たちは神が明らかにされる問題に基づいて、私たちの内に関するどの明示が神の御言葉を実践しておらず、むしろ神に背いて抵抗しているのかを検討するべきです。私たちは自分たちそれぞれの短所と欠落を知るべきであるだけでなく、神が有するもの、そして神そのものも知る必要があります。神の御言葉を心で読むと、神の御言葉の言外から神の私たちに対する慈悲と御救いを知ることができます。

   主なる神様に感謝です!私は、主を信仰する兄弟姉妹たちが聖書を読む時、神の各御言葉から神の御心を知り、神が私たちに期待されることを理解し、自分たちの堕落と短所を明確に認識し、自分たちの実践の逸脱した状態を知り、そして主の御心と一致した形で行動できるように遅れをとらぬよう改心し、すぐに神の心と一致した人になることを期待しています!アーメン!


特別なクリスマスの プレゼント

2019-10-16 21:56:35 | 聖書の言葉

   福山羽生にとって今年のクリスマスは特別な意味があります。なぜなら、彼は特別なプレゼントがもらえるからです。

   クリスマス当日、教会には空席がありません。兄弟姉妹たちは聖なる食事を取ったり、パフォーマンスを行いながら祭事に参加しています。端っこに座っている福山羽生を除いて、全員が喜びで輝いています。なぜなら彼は痛ましい現象を目にしていたのです:ここ数年の間、教会はわびしい状態に陥っていたのです。兄弟姉妹の多くは世俗的な物を求め、肉の快楽にふけ、名誉と富を求めて悪戦苦闘し、富みを追い求めています。この中には世間の邪悪なトレンドに完全に吸収され、取り付かれている者もいて、名だけのキリスト教徒と化し、本質的には未信者と変わらず、主の教えを心の奥底に投げ捨ててしまっている者までいます。元々、集会に参加するのは兄弟姉妹数人ですが、祝祭がある度にしばらく集会に参加していない人たちも多く教会にやってきます。

   この瞬間、福山羽生は頭を上げて、ステージ上の兄弟姉妹たちが4列に並んで讃美歌を合唱しているのを目にします:「ああ、主なる神様、あなたを讃えます」:集会,讃美歌,教会「ああ、主なる神様、あなたを讃えます、あなたが私を選んでくださったからです。数多くいる人類の中で、あなたは私を見つけてくださりました。ああ、主なる神様、あなたを讃えます、あなたが私を愛してくださったからです、そしてあなたの愛は全宇宙、山、そして川を満たしてくださります⋯⋯」讃美歌の美しいメロディーと共に、兄弟姉妹たちは幸せそうに拍子をとっています。しかし、福山羽生は違った感情を抱いていました:「私たちは主に対する称賛を歌っているけど、主を讃える実際の行動は見られないし、通常の貫きも見られない。これは主の教えに沿っているのか?」福山羽生は主のこの御言葉について考えずにはいられません、「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」マタイによる福音書 15:8。主は私たちのことを仰っておられるのでは?⋯⋯

   ついに、司祭の宣言により、クリスマスのお祝いは無事に終了しました。信者たちがそれぞれ笑顔を浮かべながら1人ずつ帰って行く中で、福山羽生は重い足を引きずりながらバスに乗って家路につきました。ソファに横たわりながら、福山羽生は絶望と悲しみに駆られ、彼の心は混乱と困惑で満ちていました。彼は心の中でこう思います:「私たちのこのようは行いは主の承認を得られるだろうか?」その瞬間、ドアのベルが鳴り、彼の思考が途絶えました。彼はこの時間帯に誰かが訪れて来るとは思っていませんでした。ドアを開けてみると、そこには何年も会ってなかった須田兄弟がいたのです。これに驚いて興奮した福山羽生はこう言います、「どうして今ここにいるんですか?」須田さんは笑顔でこう言いました、「君に大きなクリスマスプレゼントを持って来たんだ。中に入ってもいいですか?福山羽生はこう答えました、「どうぞ、入ってください!」そして、二人は廊下に入り、ソファーの上で嬉しそうに談話しました。

   談話中、福山羽生は心に抱く混乱と困難について語ります。須田さんを大きくため息をついてこう言います、「ああ、正直言うと、私もこの問題に気付いていました。教会の現状は本当に気掛かりです。普段、教会は暗く、集会に参加する兄弟姉妹は数人しかいなくて、冷たくも暑くもないぬるま湯みたいな状態です。しかし、大切な祝祭の時期になると、それぞれが大きな愛情をもって前向きに振る舞い、大きな声で主を讃えます。表面的には、教会はとても活気があるように見えても、祝祭が終わると、信者たちの熱意は一瞬にして冷めしまい、教会も元の状態に戻ってしまいます。なので、私は、私たちの祝いは主を礼拝して讃えられているのかどうかということを疑問に思っています。後に、私は主のこの御言葉を目にしました、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書 4:23-24)。神は私たちが言葉ではなく、心から本当に神を礼拝することを求めておられます。神は私たちが形式的行為を踏んで神を礼拝することを期待されてもおられません。従って、主の御言葉に照らし合わせてみると、私はこのような形で祝うことは神を心から礼拝していることにはならず、むしろ表面的な讃えと礼拝に過ぎないと思います。これは神の御心とは一致していないのです!」

   須田さんの言葉を聞いた福山羽生は何度も頷いてこう言います、「神が求められているのは私たちが心から本当に神を礼拝することなのです。しかし、私たちは様々な催しを行ったり、祝祭を祝ったりして表面的な讃えと礼拝に集中してしまっているのです。これら全ては主の教えとは何の関係もなく、本当に主の御心とは一致していないのです!」

   須田さんは少し水を飲んでから続けてこう言いました、「その後、私は説教師の説教を聞きました。彼は神を礼拝することは主として心の底から神を讃えることだと言っていました。すなわち、神の栄光とその御姿、ならびに神の全能さを目の当たりにする時、および神の偉大さ、そして神の威厳と憤りは害することができないということを体験する時、私たちはそのように心から神に真の称賛を捧げるということなのです。これが厳密に神を礼拝するということです。同時に、彼はまた、神を信仰し礼拝する上で大切なのは神の御言葉を聞いて、神の御言葉に従いながら実践し、さらに神の道を辿ることだとも言っています。これが実際に神を礼拝することなのです。主イエス様はこう仰っておられます、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。…わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」ヨハネによる福音書 14:23-24。更に、彼は私にある書籍を渡してくれました。リスチャン,神の言葉,信仰心この本の中に、こう書かれた段落があります、「何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。」

   これらの御言葉から、私は徐々に神の御心を理解しました。私たちは神を信じ、神の御言葉を読んでいるのですから、日常生活において神の御言葉に従い、その実相を貫くべきなのです。同時に、問題に遭遇する時は、心を尽くして神を愛し満足させることを追い求めるだけでなく、神の教え通りに振る舞い、神の証言も行うべきなのです。こうしてのみ、私たちは神に認めていただけます。しかし、自分のことしか考えていない私たちは、名目上は神を信じ、主イエス様を求め、聖書を読み、集会に参加して説教を聞いていますが、私たちは主の御言葉を実践できていたのでしょうか?自分たちの利益がかかっている時、私たちはそれを脇に置いて神の御言葉通り厳密に実践できるでしょうか?困難や自分たちの観念と一致しない状況に遭遇すると、私たちの心は葛藤と不満でいっぱいになり、神が私たちのためにお作りくださる環境に対して不従順になり不満を抱いてしまいます。そして、さらに困ったことに、多くの兄弟姉妹たちは富みと様々な物質的快楽を追い求めるために世間の邪悪なトレンドを追い掛けてさえしており、心の中には神が宿れる場所がほとんどないのです。彼らはずっと主の教えを心の奥底に投げ捨ててきたのです。よく考えてみましょう:「私たちのこのような振る舞いは神の道に従っていますか?私たちはどうすれば主に認めていただけるでしょう?」

   福山羽生は窓の方に行き、外のとても賑やかな雰囲気を見て、祝祭を祝う人々の声を聞きました。福山羽生は感情を込めてこう言いました、「私たちは日常生活において主の御言葉通りに実践せず、心の中に神に宿っていただける場所を持っていなければ、このような祝祭の場でさまざまな活動を行っていても神にご満足していただくことはできません!この表面的で一時的な熱意は私たちが真理を実践して主の道に従っていることを表してはいません!主の道に従わなければ、最終的に私たちは主に見捨てられてしまうでしょう!数年に渡って、私はこの問題について困惑していましたが、私はそれとどう対応して良いのか分からなかったのです。あなたの交流を通じて、私はより明白に理解することができました。神を信仰し、神に従うにあたり、もっとも大切なことは主の御言葉を実践し、父なる神の御心通りに振る舞うことです。これこそが、心から神を礼拝し讃えるということで、こうしてのみ私たちの信仰は主に認めていただけるのです!」

   須田さんも窓の所に来ました。この時、空では花火が輝きを解き放っていました。輝く花火を見ながら須田さんはこう言いました、「私たち人間は神の御心を分かっていません、神がこういった物事についてどうお考えであられ、どう見ておられるかは決して考えないで、自分たちの考えやどうやって幸せになるかについてしか考慮していないのです。それで私たちのすることがどうやって主に認めていただけると言うのでしょう?私はこの御言葉の段落を目にしました、「神に関する真の認識なくしては、人類に真の礼拝や帰服はあり得ず、盲目的な偶像化と迷信があるのみである。神に関する真の認識なくしては、人類は神の道に従って行動することも、神を畏れることも、悪を避けることもとうてい出来ない。反対に、人間のあらゆる活動や行為は神に対する不従順や反抗、中傷的なそしりや批判、そして真理や神の言葉の真の意味に反する悪行に満ちる。」神の御心の理解と神に関する知識がなければ、私たちの神への礼拝はただ形だけのスローガンのようなものに過ぎず、実際には何の意味も持たないのです。そして、更に、私たちは決して神の教えに従わず、自分たちの古いやり方を固持しています。サタンによる誘惑と策略、そして邪悪な物事に関して言うと、私たちはそれらを真の形では識別できていないので、それを捨て去ってそれから離れることができないのです。これら基本的な問題が解決していないとなると、それは私たちが依然として神に反抗かつ抵抗しており、真理と一致していないことを証明しています。これらは全て邪悪なものでないでしょうか?これ故に、今私たちが最も集中すべきことは、神の真の知識を得ることをどのように追い求めるか、私たちの貫きをどのようにして神の御心と一致させるか、そしてどのようにして神に従い、神を愛するかということであり、そうすることで私たちは父なる神の御心通りに振る舞う人になることができ、最終的には神の国にお連れいただくことができるのです!」

   福山羽生はこう言いました、「その通りです!私たちは神の知識も神の御心の理解も持っていないから皆自分たちの好みと観念、そして想像に基づいて振る舞っているのです。ひょっとしたら、表面的には私たちの振る舞いは大きな罪を犯してはいないように見えても、本質的には真理を違反して、神の御心通りに行動できていないから、それが最も深刻な問題になっているのかもしれません!これにはこの主の御言葉を思い出させられます、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」マタイによる福音書 7:21。 信仰の秘訣は主の御心に従って追い求めることであり、それが天国に入る唯一の道なのです!兄弟ソン、私はあなたの交流は聖霊の御啓示と御啓蒙で満ちているように感じます。特に、あなたが読んでくださった言葉にはとても感動しました。私にその本を数日貸してもらえませんでしょうか?

   須田さんは笑顔でこう言いました、「これが正にあなたへの’プレゼント’ですよ!」

   こう言いながら、須田さんは福山羽生に本を手渡しました。福山羽生はその表情に大きな驚きを見せながら本のカバーを目にしました⋯⋯

 

あなたの祈りをもっと主に聞いていただくために、 正しい祈り方 を把握しましょう。


やっと少しは人間らしく生き抜けるようになりました

2019-10-15 22:30:41 | 勝利者の証し

   私は次の神の御言葉を目にする度に厳しく罰せられている気分になります。「人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。彼らは自分たちの家族や、息子や娘たちのために、また自分たちの職業や将来、地位、虚栄心、金銭のために、また衣服や、食物、肉のために働いて来た――誰の行動が真に神のためなのだろうか。神のために行動している者たちにしても、神を知る者たちはほとんどいない。自分たちの利益のために行動していない人たちは一体何人いるだろうか。自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。このように、神は数えきれないほど何度も力ずくで死の宣告を受け、数えきれないほど野蛮な裁判が神に有罪判決を下し、もう一度神を十字架に釘づけにした。……」(『言葉は肉において現れる』の「悪人は罰せられなければならない」より)私は自分が真理を求めていなかったこと、自分のパートナーと繰り返し競いながら本分を尽くそうとしていたこと、自分の評価と利益のために他者を抑圧したり、排斥したりしたこと、自分のいのちと神の家族の働きに損害を及ぼしていたことについて振り返ることがあります。神が私を救おうと多くの出来事をご用意してくださったにもかかわらず、私は感度が鈍っており、神の意図を完全に捉え損ねていました。しかし、神は止むことなく私を憐れみに思い、私を救ってくれました。そして、私は何度も繰り返し刑罰と裁きを受け、初めて目を覚まし、私達を救おうとする神の望みを理解し、評価と地位を追い求めることを止め、僅かながらも人間らしく振る舞えるようになりました。



   1999年、私は世の終わりにおける神の働きを受け入れました。当時、私の家族は兄弟姉妹を自宅で接待する本分を尽くしており、私は兄弟姉妹が上手に交流し、神の御言葉を使ってどんな質問にでも答えられている様子を見ました。私達は皆、彼らと関わりを持ちたいと思い、どの様な問題についても率直に話し合いました。私は、「いつか彼らの様になって、兄弟姉妹に囲まれながらこの人達の問題を解決することができたらきっと素晴らしいだろう」と思い、羨ましく思いました。これを目標に、私は教会で自分の本分を尽くし始めました。2007年には、神から引き上げられ、評価を受け、地域リーダーの本分を尽くすことになりました。私の兄弟姉妹は、私の働き対象者の状態が良くない場合や、彼ら自身が問題を抱えている場合、地域で問題がある場合等は私に報告してくれていました。私は働きは自分を中心に行われていて、長年働いてきた価値があったと感じました。これでやっと私は真理の交流を行い、兄弟姉妹がそれぞれ抱える問題の対応に協力できるようになったのです。仕事量は少し多かったものの、私は一生懸命働こうと思っていました。この地位を維持して、自分の虚栄心を満たすために、私は自分の本分を尽くす時は模範的に、肯定的な態度で取り組みました。リーダー達に割り当てられる仕事が何であれ、同労者達がそれを難しいと感じても、協力したがっていなくても、私は常に上手く対応していました。自分が困難を抱えていても、それを表面に出したりはせず、前向きに彼らに賛成していました。理解できないことがあっても、自分のリーダー達から称賛を得られるように理解できているふりをしていました。

   リーダー達に良く思われ、同労者達の中で目立ちたかった私は、この目標を実現させる方法を考え始めました。「一番楽に注目を引き寄せ、自分の能力を証明し、リーダー達の称賛を得られるのは福音の働きにおいてだ。福音の働きさえ上手くこなしていれば、他の働きをそれほど上手く行なっていなくても大した問題にはならないだろう。リーダー達は私を刈り込んだり、取り扱ったりすることはないだろう」と思いました。そして私は働きに取り掛かりました。福音の働きの取り組み方を変え、兄弟姉妹を辛抱強く指導するもの止めました。福音の働きにおける問題を報告する者がいれば、私はその者を刈り込む、または取り扱うようにしました。私は教会リーダー達に結果を出すようにプレッシャーをかけ、しつこく要求するようになりました。結果にがっかりした時は怒ってこう言いました。「どうしてこんなに少人数なんですか。この働きを失っても構わないのですか。来月これよりましな結果が出なければ、あなたを異動させます!」私は兄弟姉妹の霊的背丈を考慮していなければ、真理を用いて彼らの直面していた問題や困難を解決しようともしていませんでした。私は単に、自分の職務を維持する目的のためだけに彼らにプレッシャーをかけて、しつこく要求を課していたのです。結果は直ぐに伸び、私はそれを喜びました。結果が伸びたということは、私が同労者達の間で一番の成績を上げている1人であることを意味し、私はそういう自分に惚れ込む様になりました。その後すぐに、ある兄弟が私達の所に配属されてきました。彼はハンサムで、喋りと交流にとても長けていました。彼は数々の教会に足を運んでおり、兄弟姉妹は誰もが彼の交流を称賛していました。私はこれに動揺しました。「皆が彼の交流を称賛しているということは、私のは良くなかったということだろうか。あの兄弟はここに配属されてこなければよかったのに。」しかし、自分を彼と比べてみると、彼は本当に私よりも優れていました。それでも、私は諦める気はありませんでした。当時、私は評価と利益を気にしていましたが、教会の抱えていた様々な問題には興味がありませんでした。私は自分の服装、喋り方、振る舞い方を気にするようになりました。集会の場では、兄弟姉妹に尊敬されようとして、わざと自分の知恵を誇示するようになりました。時には、私と働くために配属されてきた兄弟を軽くあしらい、私達が交流をしていた人達がどの様な目で自分を見ているかを確認しようとまでしました。私は誤った状態に生きて、自分を救うことができませんでした。私は全てにおいて自分をあの兄弟と比較するようになり、聖霊の働きを完全に失っていたのです。それから間もなくして、私は異動となりました。この知らせを受けた時は、まるで心臓の中をナイフでかきまわされているの様に苦しいものでした。私の面目、地位、将来はどうなってしまうのでしょうか。神は私を裁き、刑罰を与えたにもかかわらず、私は自分の本性を全く解っていなかったのです。それとは逆に、私はリーダー達が別の場所で自分をどう評価するかについて気を揉んでいました。どんな顔で人と接すればいいのでしょうか。私のことを知ってる人達はどう思うでしょうか。サタンの罠にかかっていた私は、リーダーとして本分を尽くしたことを後悔したり、その職務を受けてさえいなければこんなことは決して起らなかったのにと不平を言い始めたのです……。考えれば考えるほど、苦しみが増していきました。神の刑罰を受ける中、私は睡眠不足となり、狂気じみたことを考えるようにもなりました。最終的には、精神が崩壊しそうになり、道の真ん中に横たわって車に轢かれてしまおうと考えたことも数回あったほどでした。この時、私は危険な状態にあり、その状態から自分を解放できなかった私は、神の前に立ち、こう祈りを捧げるしかありませんでした。「ああ、神様、私は今、サタンに騙され、ひどく苦しみながら暗闇の中で生きています。私は今日自分に起こったことを受け入れたくありません。私はあなたの刑罰と裁きから自由になりたいと思います。そして私は不平を言い、あなたを裏切ってしまいました。ああ、神様!どうか私の心をお守りください、私が自分を見つめ直し、理解できるようにしてください、どうか私に情けをお与えください。」この後、私は人の交流を読みました。「神は人に特別な優しさと引き上げを与えることがあります。この者達はリーダーや働き手に昇任し、重要な働きを与えられます。しかし、この者達は神の愛に応えようとしません。この者達はそれぞれの肉のため、地位、評価のために生き、自分達の証を立て、尊敬の念を得ようとしているのです。これらの行為を善行と言えるでしょうか。言えるわけがありません。この者達は神に安らぎをもたらす方法を理解しておらず、神の希望に対する配慮が全くありません。自分達を満足させることだけを求めているのです。この者達は神の御心を傷つけ、悪事のみを働き、神の御心をひどく、ひどすぎるほどに傷つけてしまうのです。神はこの者達が完全になれるようにと、リーダーや働き手に昇任させ、育くもうとします。しかし、この者達は神の希望を全く配慮せず、自分達のためだけに働くのです。神の証を立てるために働いたり、神に選ばれた人々がいのちに入れるように働いたりはしないのです。この者達は自分達の証を立てるために、自分達の利己的な目標を達成するために、神に選ばれた人々の中で地位を獲得するために働くのです。この者達は神に最も抵抗し、神の御心を最も傷つけます。これは神に対する裏切り行為です。人の言葉で表現すると、これは自分のために成された好意に感謝できていないということで、霊的な意味としては、神に抵抗する邪悪な者達ということになります。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教II』の「善行を準備す重要な意義」より)この交流はまるで両刀の剣が私の心臓に突き刺さったかの様に辛く、私は厳しく罰せられた気分になりました。私がリーダーに昇任したのは、神の親切心であり、私を引き上げようとしてくださったからであり、それは私が完全になれるようにと、神がなされたことでした。しかし、私は神の意図に対し配慮が欠けており、神の愛に応じる必要があることも知らなかったのです。私は地位と評価のため、自分の証言をするために生きていました。そしてこの本性は神に抵抗し、神を裏切るというものでした。神は私が行なったこと全てを忌み嫌われたため、私の働きを中止させ、神の家族の内では神と真理が支配するのだということを示しました。私は以前求めていたものを振り返ってみました。私はリーダー達と良い関係を保っていれば自分の地位を維持できると思っていました。だからこそ、彼らに頭を下げて、言われること全てに賛成していました。それにもかかわらず、私は自分の兄弟姉妹に対しては厳しく、批判的でした。私はなんて卑劣だったのでしょう!私は地位のためなら何でもしていました。他の人達よりも目立ちたくて自分の兄弟姉妹を利用しようとしました。兄弟姉妹のいのちのために自分の責任を果たすことはありませんでした。私は自分の業務対象者が私を恐れて避ける様になり、心を打ち明けてくれなくなってしまう程にプレッシャーをかけ、しつこい要求をしていました。それでも、私は自省し、自分を見つめ直すことはありませんでした。神が私の元へあの兄弟を送ってくださったにもかかわらず、私はこの教訓を学ぶことに失敗しただけでなく、評価と利益のためにますます奮闘するようになり、自分の肉を露わにし、神には忌み嫌われ、聖霊の働きを失ってしまいました。私が異動となったのは、私に降りかかった神の義だったのです。私に対し実現しうる最高の裁きであり、最高の救いであり、神の偉大な愛だったのです。そうでなければ、私は無意識のうちにキリストの敵の道を歩み進んでいたことでしょう。神は私が罪深い道を歩むのを止めてくれました。私は、自分の追求していたそもそもの目的が間違っていたこと、そしてその問題の解決に集中していなかったことを深く後悔しました。その全てが今日における私の失敗につながったのです。当時、私は、自分の体験について次の讃美歌を歌う度にすすり泣き、涙が顔を流れ落ちました。「あなたの性質を犯した後、私は暗闇へ落ちて行き、サタンによる害を十分に実感しました。私は孤独さと無力さを感じ、自らの良心に非難され、死よりも辛い苦しみを味わいました。その時初めて、私は心にやましさがないことの幸福感を知りました。あなたの善良な意図を見抜けなかった私は、完全になる機会をいくつ無駄にしてきたのでしょう。私の全てを以てしても、あなたの御心を傷つけたおわびをすることはできません。ああ、神よ、実際の神よ、私は昔に戻ってやり直したいです。私の心が度の過ぎた欲望を秘めた状態で、どうして神と心を合わせることができるでしょうか。私は地位に付随する利益が欲しくてたまりません。こんな私が堕落しない訳がありません。私はあなたが望まれることに対して配慮が欠けておりました。あなたに対して消極的で、反抗的でした。あなたに仕えながら、抵抗したり、だましたりもしました。あなたの憐みを受けていなければ、今日私はここにはいないでしょう。私の犯した罪を考えると、死を以てしても私が救われることはないでしょう。私がこう息をしていられるのも、あなたの寛容さのおかげです。ああ、神よ、実際の神よ、私は、自分のためにあなたをこれほど苦しめてしまう様なことをすべきではありませんでした。あなたのいのちの御言葉が私の心に染みて感じます。私はあなたの説教から無限の力を授かり、挫折しても又奮闘することができます、いのちの価値と私を創造していただいた理由も分かりました。あなたから最後の要望を受ける時、私は逃げたりいたしません。私は実際の行動で、あなたが支払った代償の恩返しをしたいと思います。私は祝福を受けようとも、逆境に立たされようとも、見返りを求めることなく、あたなに満足していだたくこと、あなたに自分を捧げること、注意深くあなたに従うことだけを望みます」。(『子羊を従って新しい歌を歌おう』の「神の憐みに再生を授かりました」より)私のこの精錬は1年以上続き、生きたまま皮を剥がされているかのように辛く、生きるか死ぬかといった苦しみを受けたにもかかわらず、私は地位と将来性に対する自分の欲望が弱くなっていることが分かり、この精錬がどれだけ価値のあるものであったかを知りました。

   2012年に、働きの責任者である姉妹が、私とある兄弟をある特定の地域の除去・除名作業に配属しました。私はしばらくの間教会の働きをしていなかったため、理解に欠けている原則がいくつかありました。私は、教会内の問題と、除去・除名業務の本質に影響している問題は解決が若干困難であると感じました。しかしその兄弟は今まで続けて教会の働きをしてきていたので、私の欠けている部分をカバーしてくれると同時に、私が学ぶ必要のあった事を教えてくれました。これは神の愛だったのです。神は私に重荷を課しませんでした。この兄弟は私達の働きを報告し、物事の本質を判断する場合に、ほとんどの交流も行なっていました。私達の業務対象者と対面した時、最初に交流を始めるのもこの兄弟で、時間が経つにつれて私はまるでそこにいないかの様な状態になっていました。その時、私の中の何かが現れてきました。「一緒に働いている時、あなたは交流においては私より優れているけれど、福音の働きでは私の方が上です。どれだけ交流に長けているとしても、あなたには実践面で結果を出す必要があります。除去・除名業務は福音の働きの妨げになってはいけないと兄弟が言ってたではないですか。あなたは喋りまくって、いいところを見せようとしてるだけです。私達は別々に働いた方が無難だと思います。そうしたら、私の強みを発揮することもできます。私は無能ではありません。あなたは私が交流にはあまり優れていないと思っているかもしれませんが、実践的な働きでは私の方が優れています。とにかく、福音の働きは私の強みなんです。」その時、私達は働きの責任者であるあの姉妹から1通の手紙を受け取りました。実務上の理由で、私達は別々に働くことになり、それぞれが地域を1つずつ担当することになりました。私の担当地域における全ての働きの結果は、この兄弟の担当地域の結果ほど良くはありませんでしたが、それでも私は嬉しくて、「私には自分の才能を発揮できる場所ができた。結果がそれほど良くなかったことは気にしなくてもいい。それはこれから改善して、自分の能力を証明しいこう。」と思いました。あの兄弟と別に働くようになって以来、私は自分の仕事に専念するようになり、物事をまとめたり、業務指示について兄弟姉妹と話し合ったり、神の御言葉を彼らと交流するようにまでなりました。そして、状況は改善し始めました。その時、私は、「あの兄弟はどうしているだろう。私よりも良い結果を出しているのだろうか。」と思いました。そして本人に会い、自分は福音の働きで彼よりも良い成績を出していて、自分の方が人数を多く確保できていると知った時、私は密かに嬉しくなり、「私はついにあなたを超えました。何て誇らしいことなんだ。」と思いました。そして、丁度私が喜びに浸っていた時、聖霊が私を「あなたは神の栄光を盗んではいませんか。」と叱責しました。私の心は沈みました。そうです、福音の伝導は神に選ばれた人達全員の本分であり、責任です。しかし、私はそれを評価と利益を得るための手段として捉えていたのです。そして、私達がこの人達を確保することができたのは、私の兄弟姉妹の協力と神の祝福のおかげでした。私には自慢できることなど何もなかったのです。こう考えて思わず赤面しました。私はとても卑劣な人でした。神の神聖さはこのような堕落考えを抱くことを許しませんでした。私は自分の置かれた状況に気が付いた時、正気を取り戻せたことを神に感謝しました。私はもう評価と地位を求めることは止めました。それ以降、私は神の御言葉を読むことに集中するようになり、何らかの事態に直面すれば、それは神からのものとして受け入れるようにし、評価と地位を求める衝動を徐々に弱めていきました。私は自分が持つ神への愛と同労者達の持つ愛とを比較し、お互いの強みを生かし、お互いの弱みを補うようにしました。その後間もなく、私は他の本分を尽くすために昇任したのです。これには驚きましたが、神が私を引き上げてくださったのだと思いました。私は神に満足いただけるよう自分の能力でやり得る全てのことをしようと思いながら、この本分を大切にしました。

   2012年8月、私達の働きの責任者である姉妹と話しをした結果、彼女は私に他の地域で本分を尽くす様に任命しました。その時、私は前向きな姿勢で合意したのですが、私がそこを去る前に彼女は私に、「あの兄弟を送り込んであなたと一緒に働いてもらった方がいいわね。神の家族の働きにとってもその方が良いでしょう…….。」と言いました。彼女に意見を聞かれたので、「それで構いません。彼と一緒に働きます。」と答えました。その後、集会の場で彼と顔を合わせた時、彼は率直に、「私は姉妹達があなたを選んだことに納得していません。あなたは私ほど上手く交流できないくせに!」と言ってきました。この不作法な発言を聞いて、私は非常に動揺しました。この兄弟に対する偏見は振り払ったつもりでいましたが、この発言を聞いた私は、心の中で思わず、「これは本当に残念だ。彼と働くことに合意なんかしなければよかった。彼は私の欠陥を全部知っている。新しい配属部署に着いたら、新人としてもっと歓迎されるものだ。」と思っていました。しかしどうする事もできません。私は苦笑いをして平然を装いながら、「私は交流能力に長けていないかもしれないけど、私はあなたより優れているから最初に選ばれたんだ。信じたくなくても、見ていれば分かる!」と思いました。私達は新しい働きの場へと異動し、私達の本分に専念しました。最初に、業務対象者と対面した時、私は肉に背けるように、調和のとれたパートナーシップを築くために自分を抑制できるようにと祈りを捧げました。私は彼がこの人達とそれぞれの状態について会話しているのを注意深く聞いて、彼のために祈りを捧げました。福音の働きの際は、私が彼らと会話しました。しばらく経った後、私は彼の方が自分よりも分かりやすく会話できていることに気が付きました。業務対象者との集会の際、私は交流の最中は一言も喋りたくなくなってしまいました。私はこの集会が早く終わって欲しくて、どこかへ行ってしまいたくなりました。当時、私達は広い範囲を担当していたので、「別々に働けば、そんなに嫌な思いをしなくて済むだろう」という考えが頭に浮かびました。これを兄弟に打ち明けたところ、彼はこう言って賛成しました。「この地域は広いから仕事が難しい。手分けしても問題ないだろう。」私が業務対象者と単独で対面した時、私は長々と喋り、会話したり、取りまとめたりして、彼らの大きな「重荷」を背負うことができたのです。直ぐに、私は自分の担当業務全てにおいて結果を出すことができました。一方、兄弟はそれほどの好成績を出してはいませんでした。私は自分の知ったことではないと言わんばかりに、何の対応もしませんでした。集会で、私達のリーダーは私達が別々に働いていたことを知り、私達の働きにおける責任と調和のとれたパートナーシップの真理について話をしてくれました。私はこれを受け入れ、別々に働くのを止めても構わなかったのですが、私達はお互いに自分の方が仕事を良く分かっているという口実を使いながら、別々に働き続けました。リーダーから批判されることを恐れた私は、兄弟の担当地域に行って、彼の業務対象者と話をしようともしましたが、自分の担当地域外に足を踏み入れているような気がしてなりませんでした。また、私が上手に交流すれば、それが兄弟の手柄になってしまうように思えました。なので私は、働いているふりだけをして、管理業務があると言い訳をしながら急いでその場を後にしました。兄弟は依然として結果を出せていませんでしたが、私は自分を責めたり、不安に感じたりもしませんでした。私は神を全く畏れておらず、リーダーからの連絡を何度か無視することまでありました。この状況は私達が業務報告書を提出する時期まで続き、それを見た時、私は唖然としました。私の担当地域では多くの人を得ることができていたのですが、私達の担当地域両方を合計した数がとても低かったのです。さすがにこの時は、私も不安になりました。私は自分の能力を示そうと、自分がどれだけ効果的に仕事ができるか、そして自分が福音の働きでは彼より優れていることを示そうとしました。しかし彼の担当地域では、福音の働きが休止してしまいそうな状態にあり、それはどういう状況でも起こしてはいけないと兄弟が言っていました。私は神の御心が現実化されるのを邪魔する障害となっていたのです。私は、この事態の根本原因を見つけ出すために神の御言葉に目を向けざるを得なくなりました。そこで私は神の次の御言葉を目にしました。

   「各自が奉仕する者として、自分が成すあらゆる事で、自己の利益を考えるのではなく、教会の益を守ることができなければならない。互いに密かに攻撃し合い、自分ひとりで行動するようなことは受け入れられない。このように行動する人々は、神への奉仕に相応しくない。このような人の性質はあまりにひどい。人間性のかけらも残っていない。100%サタンである。けだものである。今でさえ、あなた方の間でこのようなことが起こっている。交わりの最中にお互いを攻撃し、意図的にもっともらしい言い訳を探し、顔を真っ赤にして些細なことで言い争う。どちらの者も引こうとしない。お互い相手に心中を隠し、ひたすら相手を観察し、身構えている。このような性質が神への奉仕に相応しいだろうか。あなた方のこのような働きが兄弟姉妹への施しとなり得るだろうか。あなた方は正しいいのちの道に人々を導くことができないだけではなく、実際には兄弟姉妹に自分の堕落した性質を注ぎ込んでいる。あなたは他者を傷つけていないか。あなた方の良心はあまりにひどく、心底腐っている。現実において成長しておらず、真理を実践していない。更に、恥も外聞もなく他の人々に悪魔のような性質を晒しているあなたは、まさに恥知らずである。あなた方に兄弟姉妹を任せているのに、あなた方は彼らを地獄に連れていくのだ。あなたは良心が腐った人間ではないのか。本当に恥知らずである。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)神の厳しい御言葉が私の本性を明らかにし、私は恥ずかしい思いをしました。私があの本分を尽くすことができたのは神による引き上げと、神の優しさがあったおかげで、神は兄弟姉妹を神の元へ導くことを私に任せていました。それにもかかわらず、私は实际に入らず、真理を実践せず、評価と地位のために神の家族にとって大切なことを無視していたのです。私は1人で働きながら、あからさまに、そして秘かに兄弟と争っていました。今こそ、福音を伝道する時です。神はそれを心から求める人達がすぐにでも神の家族の元に戻ってくることを望んでいます。しかし、私は自分の責任を逃れ、神を愛さず、神の最も切なる希望も配慮せず、真の道を求める人達を神の元へ導いてもいませんでした。私は人々を助けるためではなく、自分の能力を示すために評価や地位といったつまらないものを追い求めていました。私は兄弟が私から遅れを取ることを期待して自分達の仕事における問題を明らかにせずにいました。私はこの兄弟が仕事で自分より優れていた部分があったことを羨望したり、それを無視することすらありました。私は自分を誇示をしたり、自慢したり、兄弟を小さく見せるためのゲームの様に仕事を扱っていたのです。私はあまりにも邪悪で、人間性に欠けていました。神は私の様な人を嫌悪します。私は自らを変えずにどうして神に仕えることができるでしょうか。自分が实际に入れていないのに、どうして兄弟姉妹を神の元へ導くことができるでしょうか。私は泣きながら、神に祈りを捧げました。「ああ、神様!私は間違っていました。これら全ては私の反抗的行為でした。私はあなたの希望を配慮することができず、自分の能力を証明するために兄弟と争い、彼を倒すために自分の良心を無視し、結果的に自分の責任を果たすことができていませんでした。そして、今、福音の働きに支障が起き、私はあなたの前で罪を犯してしまいました。しかし、私はこれを悔い改め、自分を変え、兄弟と共に仲良く働き、福音の働きをより活発にしていくことを望んでいます。もし私が、又しても地位を得ようとすることがあれば、罰をお与えください。どうか私を監視してください、アーメン!」この祈りを捧げた後、私はバスに乗って兄弟の所へ行きました。私は彼と率直に話し合い、自分が神の前で反抗的に振る舞っていたこと、そして自分を良くしていくつもりであることを認めました。私達はそれぞれの見解についても話し合いました。その後、私達は一丸となって神と共に協力し合い、見落としていたことや過失を探し、私自身が収めた成功の経験をまとめ上げ、業務指示に厳密に従いながら私達の仕事上の欠陥を改善しようと取り組み始めました。私達の福音の働きはすぐに改善しました。この経験より、私は神の義なる性情を見ることができました。神の神聖さは、私の内にいかなる腐敗や堕落があることも許しません。私がサタンに欺かれ、自分を救うことが出来なかった時、神は救いの手を指し伸ばし、死にかけていた私を引き戻し、サタンの支配から解放し、私を変えさせてくださいました。私は真理を求め、これ以上反抗せずに、神が私にお任せになる事すべてにおいて完全に忠実でありたいと思います。

   私は神の次の御言葉を目にしました。「あなた方が他の者たちとともに奉仕している中で、あなた方の中の一人でも、『真理のこの側面について、あなたの話が聞きたい。なぜなら、私にははっきりわかっていないから。』とか、『あなたはこの件に関して私より経験豊富です。私になにかアドバイスをいただけませんか』などということは稀であるが、そのようにできれば良いのではないか。他の者たちよりも上の地位にあるあなた方は、多くの真理に触れ、奉仕に関して多くを知っている。教会で協力して働くあなた方がお互いから学び、意思疎通を計り、お互いの欠点を補い合わなければ、どこから学ぶというのだろうか。何か事が起きたならば、お互いに交わり、いのちの益となるものを得るようにすべきである。そしてどのような決定を下す際にも慎重にし、事前に良く話し合うべきである。このようにして初めて、形だけのものではなく、きちんと教会に対する責任を果たせるのである。あちこちの教会を訪問した後は、一同が集まり、気づいた全事項、仕事で遭遇した問題について語り合い、自分が受けた啓きと照らしを分かち合うべきである。このように実践することは奉仕する上で必要不可欠なことである。あなた方は神の働きを目的として、教会の益のために、そして兄弟姉妹を励まして前進させるために、調和をもって協力しなければならない。あなたは相手と協力し、相手もあなたと協力し、互いに誤りを正し、働きが更に良い結果をもたらすようにし、そのようにして神の旨に配慮すべきである。そうすることのみが真の協力であり、このような人々のみが真に霊的に成長することができる。」(『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より)私は、神の御言葉中に、真理に入ることを実践する方法を見い出し、他者と共に神に仕える方法を見出しました。私は、「皆がそれぞれに強みを持ち、神は皆が神の家族の働きにおいてそれぞれの強みを発揮することを望んでいる。そうすることで皆の弱みを補うことができる」という神の希望を理解することができました。あの兄弟と働くことは正に私が必要としていたことでした。私の弱みは真理について語ることにありました。だからこそ、彼の強みを以て私の弱みを補えるよう、神の愛が私と彼とを連携させてくださったのです。しかし、私にはこれが見えていませんでした。兄弟と一緒に働いていた時に、何か分からないことがあっても、私は彼の助けを求めることができませんでした。彼が私と話しをしようとしても、話を聞きたくない時もありました。私は自分のいのちと福音の働きに支障をきたしながら彼とこの地位を争い合っていました。その後、私は理解できないことや、はっきりと分からないことがあれば、「この真理の意味がはっきりしないのですが、これについて一緒に話し合ってもらえますか。」と彼に相談し、真理のこの部分に入ることを実践するようになりました。自分の働きで難しい事があった時も、「これが良く分からないのですが、アドバイスをもらえませんか。」と相談に乗ってもらうようになりました。それ以来、私達は教会に足を運んだ時はお互いから学び、お互いを補い合うようになりました。そして、問題に直面した時は、一緒に話し合い、一丸となって神の御言葉を見つけ、教会の問題解決に取り組みました。私達は霊的なレベルでパートナーとなり、互いを受け入れ、互いのことを大切に思い、互いを理解し合いました。時には、意見の不一致がありますが、兄弟姉妹の命と、神の家族の働きにとって益となることであれば、互いに賛成することができました。面目を失ってしまう様な状況でも、自分達の希望は後回しにすることができるようになりました。私達は共に、幸せに働ける様になり、私達の働きは全ての面において改善を遂げました。

   私は、全能神が裁きと刑罰によって私を変えてくださったこと、そしてサタンの毒と害に気付かせてくださったことに感謝しています。今私は、適切なことを求め、人間らしく生き抜くことができるようになりました。私の内には依然として清めを必要とする堕落した部分が多く存在しおり、私は更なる裁きと刑罰を受ける必要がありますが、神の裁きと刑罰は人類にとって最高の救いであり、神が人類に対して持っておられる真の愛であることが分かりました。私はこういう経験をもっと積んで行きたいと思います。私は、これからの成長を通して、最終的に神に仕えるにふさわしい者になるまで、神の裁きと刑罰を受け続けられることを望んでいます。


主イエス様はどうしてトマスの信仰を称賛されなかったのか?

2019-10-14 18:14:34 | 聖書の言葉

   聖書にはこう記述されています、「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」(ヨハネによる福音書 20:26-29)。

   私はこの聖句を目にする度にこう思いました:「主イエス様はどうしてトマスの信仰を称賛されなかったのでしょう?それは単に彼が主イエス様の復活を信じなかったからなのでしょうか?そうだとしたら、トマスはそれ以前は神に対して疑念を抱いていなかったのでしょうか?それとも、それは主イエス様が以前は彼の疑念を見抜いておられなかったからだったのでしょうか?私はこれらの疑問にとても困惑しました。



   ある日、私は初めてこの御言葉の節を目にしました:「主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。…また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。」

   この節を読んで、私の心は突然明るくなりました。これらの御言葉より、私はトマスの疑念は主イエス様が既に復活されておられたことに対する不信感だけでなく、主イエス様に従っていた間、彼は主を常に疑い、主のことを確信していなかった事実にも言及していたことを知りました。主に従っていた間、彼は主イエス様の御言葉をその耳で聞き、主の御業をその目で見ましたが、彼はそれでも主イエス様の御言葉と働きから主の本質や神の主権と御力を知ろうとはしなかったのです。彼は主イエス様がキリストであられたことや主が受肉された神であられたことを露程も信じていませんでした。彼は天におられる神しか信じていませんでした。トマスの神への信仰は自分の目で見れること、および自分の手で触れるものに基づいていたのです - 彼は実際の神を信じるのではなく、自分の観念に沿った神を信じていたのです。神は全能であられ、神は人々の心の奥底まで覗かれるので、神は既にトマスが心に抱く疑念のことを完全にご存じであられたのです。従って、主イエス様は復活されてトマスの前に現れた時、彼に脇腹と御手にあった釘の傷跡を触らせて、主イエス様は既に復活されておられたこと、主イエス様は本当にキリストであられ受肉された神であられたことを見させてくださったのです。トマスが主の傷跡を触った後、主イエス様は彼にこう仰りました、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。 この話を例に、主イエス様はトマスのような者たちに対してこう言っておられました:「神はトマスのような信仰は称賛されません、このような人たちを神の信者として御認めにはなられません。このような信仰を続けていても、彼らはいずれ神から見放され、排除されてしまうでしょう。」

   私は思わず聖書に記録されているカナン人の女性のストーリーについて考えてしまいました。主イエス様の行いを耳にしたばかりの彼女は主イエス様を信頼して娘の病気を治してくださるよう請いました。彼女は主イエス様から無視されたり、犬扱いされたり、どのような態度を受けても主イエス様が神であられることを全く決して疑いませんでした。彼女は心の底から主イエス様を自分の主、自分の神であられると断言しました。従って、彼女は何の不満も抱かず、とても合理的な様子でもあり、これは彼女が持っていた稀で貴重なものでした。最終的に、主イエス様は彼女の信仰を完全にしてくださり、彼女の娘をお救いくださり、彼女に御恵みと祝福をお与えになられました。

   主イエス様に対する信仰と態度において、トマスはカナン人の女性とは全く違っていたので、主イエス様は彼らに異なる結末をお定めになりました:真の信仰を持っていなかった者は神から祝福されず、真の信仰を持っていた者は神の祝福を受けました。神は忠実であられ、神の本質は神性かつ純粋であられるため、神は神に対して疑念を抱いていない正直な人々を好まれます。そうしたら、私たちは受肉された神をどのように扱うべきでしょうか?私たちは天におられる漠然とした神を信じ、受肉された神の実際の働きに注意を払わず、地上におられたキリストを信じなかったたトマスのようになるべきでしょうか?それとも、私たちはカナン人の女性に習って受肉された神はキリストであられると信じ、キリストを神として扱い、神への真の信仰を持つべきでしょうか?これらの疑問は全てが沈思するに値する事柄であります!


五つのパンと二匹の魚の奇跡は主イエス様のどういった御旨を伝えたのか?

2019-10-13 23:09:16 | 聖書の言葉

   伊藤兄弟へ

   私たちが最後に会ってからもうすぐ2年になります。すべて順調ですか?2年前にあなたが私に主イエス様の福音を説いてくださって以降、私は敬虔に聖書を読み、スケジュール通りに集会に参加し、ある程度は結果を出せている気がしています。特に、私が最近読んだ聖句で、主が5つのパンと2匹の魚で5000人を食べさせたということからは、神の比類なき権威と御力が分かり、私の神に対する信念が大きく強まり、私が信仰する神は唯一なる真の神であられるとより固く信じるようになりました。しかし、私はこれについて熟考していると、こう疑問に思いました:「主イエス様がこの奇跡を起こされたのは私たちが神の権威を目にすることだけが目的だったのでしょうか?神が成さることには神の御旨が込められているのだから、この奇跡には探求すべき真理があるはずです。」そして、私は回りにいる兄弟姉妹たちからそれを探求しましたが、満足な答えを出せる人はいませんでした。今日、私はこの件について新たな見識をお持ちでないかとお伺いしたくて手紙を書かせていただきました。もしおありでしたら、私たちがお互いから学び合えるよう、どうか私までご連絡ください。お返事お待ちしております。

   主を信仰するあなたの和也兄弟より

   2018年3月1日



   返信:

   和也兄弟

   お手紙ありがとうございます。最後に会ってからもう2年、あなたがいなくてとても寂しいです。主が側にいてくださっておられますから、すべてが順調ですので私のことはご心配なく。ここ2年間、私はいつも教会の業務に従事して、主の御導きを幾度となく経験しました。主に感謝です!あなたの質問から、あなたのいのちが成長しているのが分かります。あなたは真理に対してとても真剣ですね。これは正に主からの祝福です。主はこう仰っておられます、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」(ルカによる福音書 11:10)。 私たちが主の御心をより深く理解できるよう、主が私たちの交流を御導きくださりますように。

   先ずはヨハネ6:10–13を読みましょう:「イエスは『人々をすわらせなさい』と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。 そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった」(ヨハネによる福音書 6:10-13)。

   この奇跡から、主イエス様は比類なき権威を御持ちであられ、全能であられることがよく分かります。これは主イエス様の本性と地位を更に裏付けています:主イエス様は肉となられた神御自身であられるのです。しかし、この奇跡の裏には実際に主イエス様のどのような御考えが込められていたのでしょうか?私はこの疑問を理解するのに役立つ聖句をある本で幾つか読んだことがあります。

   その言葉はこう書かれています:「主イエスがこの五千人を見た時、この者達は空腹で、お腹いっぱい食べることしか考えられなかったので、主イエスはこうした背景から、この者達の望みを満足させた。主イエスがこの人々の望みを叶えた時、主の心には何があったであろうか。空腹を満たしたいとしか考えていなかった人々に対する主の態度は、どのようなものであったであろうか。この時、主イエスの考えと態度は、神の性質と真髄に関連するものであった。空腹を満たすことだけを望む五千人がイエスの目の前にいた。この人々は、イエスに対する好奇心と希望に満ちていた。この五千人に対し、主イエスはこの奇跡でこの者達に恵みを与えることだけを考えた。しかし、イエスには、この者達が自身に付き従う者となるであろうという期待はなかった。なぜなら、この者達は単に楽しく食事を摂って空腹を満たしたいと望んでいただけであったことを知っていたからである。そこで、イエスはそこにあった五つのパンと二匹の魚を最大限に活用して五千人に食事を与えたのである。イエスは、もてなしを受け、奇跡を見たいと望んでいたこの者達の目を開き、この者達は受肉した神が実現可能な物事を、自らの目で見た。…この者達は、パンと魚を食べた後でさえも、イエスが誰であるかを知らず、またイエスのことを理解しておらず、イエスに関する何らかの具体的な印象も感謝の念も持っていなかったにもかかわらず、それは神が問題とされることではなかった。神はこの者達に対し、単に神の恵みを受ける素晴らしい機会を与えた。」

   「それでは、イエスはこの者達に何か要求したであろうか。その時、嫌悪感があったであろうか。その時、要求も嫌悪感もなかった。イエスは、ただ単に、主に付き従うことの出来ないこの者達のことを、それ以上気遣うことを望まず、この時にイエスの心には痛みがあった。神は人間の堕落を見、また人間から拒否されていると感じたので、神がこのような人間を見、共にあった時、主は人間の愚鈍さと無知のために悲しみ、心を傷め、こうした人々から出来るだけ早く立ち去ることを望んだ。主の心には、こうした人々に対する要求はなく、こうした人々を気遣うことを望まず、特にこうした人々に労力を費やすことを望まず、また主はこうした人々が神に付き従うことが出来ないことを知っていた。それにもかかわらず、こうした人々に対するイエスの態度は、極めて明瞭であった。イエスは単にこうした人々に対して親切に接し、恵みを授けることを望んだ。このように、神が支配する被造物すべてに対する神の姿勢は、親切に接し、与え、養うというものであった。主イエスは受肉した神であったため、イエスは全く自然に神の真髄を示し、こうした人々に親切であった。イエスは、憐れみと寛容さの心をもって、こうした人々を扱った。」

   これらの言葉から、思う存分に食べた5000人の人々は主を心から従っても、主を知ろうともしていなかったことが分かります。彼らは単に、主イエス様のなされた事柄を耳にした後、好奇心から目を向けて見たかっただけだったのです。主イエス様は彼らが思う存分に食べた後も主の真の信者にはならないと分かっておられました、しかし、主イエス様は彼らが従わないからといって彼らのことを嫌い、拒否し、備えるのをやめるのではなく、むしろ彼らをやさしく扱われました:主は主から距離があった者たちを慈悲の心をもって扱われたのです。これより、神の本質は愛であることが分かります。人々が神に従うか従わないかに関係なく、神は彼らに対する御慈悲と御恵みで満ちておられ、神が創造された世界で生きられるよう彼らに食べ物をお与えになられたのです。

   更に、この奇跡から、主イエス様の心は苦しんでおられたことがわかります。主が思う存分に食事をする者たちの中に来られた時、その中には主の御心を理解する者も、主の心の御声を知る者もいなかったのです。彼らは単に主の御力を見て、主から御恵みを請いたかっただけだったのです。主イエス様は人間の哀れな状態と堕落、そして主に対する拒絶を目の当たりにされました。その時、主の心はとても苦しい思いをされました。これ故に、主はそこに留まることを好まれず、彼らには自分に心から従う弟子たちに行った時とは違ってそれ以上御言葉を発することも、神の御心を表すこともされたくなかったのです。こうして、この人々が思う存分に食べた後、主イエス様はすぐさまその場を去られ、人類がもたらした苦しみを御一人で耐えられたのでした。これらが主イエス様の御気持であったことが分かります。

   これら5000人の人々は思う存分に食べた者たちでした。そうしたら、今日、主に従う私たちの中にそれぞれ思う存分に食べている人たちはいるでしょうか?じっくり観察してみれば、多く存在していることが分かるでしょう。私たち主の信仰者の中には、主を信じることを心の支えとみなし、それをそれぞれの霊的な空虚さを埋めるために利用している人たちがいます。中には順調に仕事ができるように、家族が安全でいられるように等の理由で主から御恵みを授かるためだけに主を信仰している人たちもいます。中には聖書を毎日読んでいても、その実践において主の御言葉を決して遵守していない人たちもいます。彼らは単に今まで通り主に従い、不合理なまでに永遠のいのちと天国に入ることを切望していたいだけなのです⋯このような人々は思う存分食べて御恵みに頼って救われようとしている人々なのではないでしょうか?主に対してこのような信仰をしていて主から称賛を得ることなどできるのでしょうか?それは主イエス様に食べさせていただいた5000人のものと違うのでしょうか?

   そして、主イエス様は当時、どうして主に従っていた弟子たちには多くの御言葉を話されたのでしょうか?これは彼らの大多数が主に心から従い、主を知ることを求めていたからです。使徒ペテロは特にそうでした、彼は神を愛することにおける模範かつ先駆者でした。彼は主イエス様の御言葉に注意を払い、主の御言葉の中で自分の欠陥を知り、真理にはいることを自ら求めたのです。こうして、彼は神から更なる御啓示を受け、更なる真理を理解し、そして神に従う、神を知る、神を愛する者となり、最終的には神のために頭を下にして磔にされました。これ故に、主はペテロに特に注目されました:主は神の羊たちを導くことをペテロに託され、天国への鍵をペテロに手渡されたのです。これより、神を心から信仰して真理を追い求める人たちは神の称賛、真理、そしていのちを授かることができると分かります。どちらかと言えば、思う存分に食べる者たちは神の御慈悲のおかげである程度の御恵みを授かることはできても、神の称賛を得ることまではできません。彼らは真理を全く愛しておらず、神を知ろうとも、愛そうともしないので、このような人々は最終的に真理またはいのちを得るということもありません。これより、次のことが分かります:「神は主義に基づいて異なる人々をお扱いになり、これは神の義によって決定されている。」これ故に、主の称賛を得たければ、私たちは神を信仰するにあたってただ単に思う存分に食べるだけで満足したり、神に対して大それた欲望を抱くわけにはいかないのです。代わりに、私たちは自分たちの心を神に委ね、主の御言葉を理解すること、そしてそれを実践することにもっと努力を注ぐべきなのです。私たちがそう続けていれば、神は私たちがもっと得られるように必ず私たちを御導きくださるでしょう。

   兄弟和也さん、このような交流で5つのパンと2匹の魚の奇跡の裏に隠れた神の御旨を少しでも理解できましたか?

   主を信仰する伊藤兄弟

   2018年3月16日