記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

サスペンス・ドラマと方程式

2016年05月17日 05時45分46秒 | Weblog
方程式と言えば未知数が有って、それを解くこと。
アインシュタインは子供の頃、おじさんから分からない数をxとすることを教わり、算数が得意科目になったという逸話を読んだことがあります。
子供の頃は、文章題で方程式を立て、式を変形していくと解が得られるというのが結構面白かったような気がします。
俗に、「勝利の方程式」などの言葉を見かけると、何のことか戸惑ったものでした。
解に至るまでの手順は決まったものがあるというニュアンスがあって、そう言うのでしょうか。

東野圭吾の「真夏の方程式」は表題の印象が強烈だが、本文中に方程式がでてきたかどうか。
湯川(通称ガリレオ)と少年が海岸で手作りのロケットを飛ばし、仰角を測り乍ら飛んだ距離を伸ばし、最適値を求め、その実験レポートを少年の夏休みの宿題としていました。
方程式そのものは述べられていなくても、ロケットが近似的に放物線を描いて飛んだと見做し2次方程式を想定できるとしてのことらしい。
実験も式も解も、犯人探しとは直接関係ないようです。

逆に「聖女の救済」では題名から方程式に類することを想像できませんが、本文の中には「虚数解」などという過激なまでの数学用語が出てきます。
犯人には確実なアリバイがあり、解くことが難しい完全犯罪だというのです。
読み終わった印象としては、殺害に至る幾つもの現実的過程の解明があり、何が虚数だったのかと疑問が残りました。

虚数は元来想像上の数で、2次方程式の解の公式を導く過程に間違いはないのだからと公認されただけ。グラフが実数の座標軸と交差しないことに変わりない。
学校では最初にそのようなものとして学びました。
それが、例えば電気と云う実在する物理過程の特性を表すのだ、と教えられ戸惑ったのを憶えています。

今では文系の人でも、ポピュラー・サイエンスの知識から虚数が想像上の数でなく、実数に劣らず現実世界の数だと知っているつもりです。
そして湯川が「・・・虚数解だ。・・・現実的にはありえない、という意味だ。・・・トリックは可能だが、実行することは不可能だということなんだ」というとき、薫(刑事)も読者も初めて虚数に出会った時と同じ戸惑いを覚えることでしょう。
小説としては、そのような戸惑いを募らせれば十分だったのでしょうか。

方程とは元々どんな言葉だったのか、辞書やネットで少し調べてみました。
中国の古書「九章算術」の第8章の表題が「方程」で、多元1次方程式の消去法による解法がさだめられている、とあります。
「方」の字義は左右に等しいものを並べ比べることだそうで、この1文字だけでも方程式を立てる意になるのかと思われます。
消去法はガウスの解法に相当するものだそうですが、いったい漢数字でどんな風に式を表記するのか、さぞかし面倒な感じだろうと思われます。
式を書くことより、どうゆう手順で解に辿り着くか、に重きが有り、それを「方程」と言ったのかも知れません。

孝徳天皇の詔(大化2年、646年)に「書算に工なる者を主政主張とせよ」とあり、中国から行政を目的とした算術が早くから輸入されていたようです。
中国には既に算木が有り、単純な加減乗除だけでなく、2次方程式や3次方程式も解いていたとか。
和漢の方程は初めから算木の表記法によっていたようです。
方程は実学であって、純理論的な興味で研究されていた訳でなかったと思われます。

江戸時代の和算になると関孝和流の和算家によって「方程両式」という書が刊行されたりしています。
算術の一つとして天元術があり、未知数を立てることを「天元の一を立てる」と言い、算木を使って2次方程式や3次方程式を解いたりしたとのことです。
算木に代わって5玉のソロバンが登場したが、これは専ら四則演算に用いられた。
ソロバンが普及して算木の使用が衰えると、天元術への関心は衰えたとか。

明治5年に学制が施行されたとき、政府の和算を廃する方針に多少の反発があったものの、洋算の教育を担ったのは和算家でした。
和算の伝統はソロバンによる計算力に残ったけれど、高度に発達した和算の研究は歴史遺物として評価するのみになってしまいました。
道具として表記法がどんなに重要かを示していると思います。

菊池大麓や藤沢利喜太郎が帝国大学の数学教授になり、equationに対する訳として「方程式」と言う語がさだめられた、とありました。

われわれの中学時代には、まだ職業科の授業でソロバンを教わりましたが、既に加算とその暗算のみで、掛算すらありませんでした。
最近はソロバンも見ることが無く、計算は必要なら電卓か、パソコンで行います。
手元に電卓が無ければ、携帯やタブレットなどにも電卓機能があります。

少し厄介な問題ならタブレットやパソコンに表計算ソフトなどがあります。
これで解がどこにあるか求めるとき、計算は方程式を解いているのですが、導いているのはグラフと不等式。
実学では等式より不等式の方が肝心です。

サスペンスが映像化されてドラマになると、犯行の手口の解明が固まるとき湯川は儀式のように積分・偏微分・差分などの記号を交え、どこかで見たような方程式を無秩序に書きまくります。
推理に間違えがないことを確かめる儀式なのかも知れません。
あるいは普通の人と違うという印象を与えたいのでしょう。
方程式とは式を順に展開していくべきものと云うイメージがそこにはありません。
今日の方程式は、思考や研究の結論として得られた等式、あるいは公式や法則を表現するものというイメージになっているかのようです。

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