近頃、時間の経つのが速いと思わない日がない。
毎日沢山のメールが来て読んでは消す。自分から送ることは殆どない。
ニュースは大概見出しを読むだけ。ブログに書込みをするのも間遠になった。
それだけで何時間もかかる。
歩くのが遅くなっただけでなく、万事にのろくなり、徒に時間が経つ。
夜半に目が覚め、書こうと考えた題が「光陰矢の如し」。
国語の先生が光陰は時間のことだと教えてくれたとき、何故なのか納得できなかったのを憶えている。日時計か何かに由来すると想像していたのかも。
「少年老いやすく学成り難し」と続き、先生の本意は今のうちにもっと勉強しろと言いたかったのだと思う。
こうして現に老いてみると、学は若い時に勉強したか否かに関係なく、成るものでない。
今では光より速いものがないことは皆が知っており、矢で速さを強調する格言は有り得ない。電子辞書を引いたら、光は日、陰は月とあった。
以前にも調べて納得したことが有ったような気がする。
歌の文句には「時の流れ」が出てきたりするが、時間は物体のような運動するものでないことは昔も今も変わらない。
空間と同じように数学的思考が生んだ座標系でしかない、と改めて知った次第。
それとは別に主観的時間の観念が有り得るとすれば、それは記憶が疎らになったり跳んだり歪んだりしていると云う事だろう。
かつて某先生の通夜の席で、遠方から来た甥御さんが「おじさんのブログを開いて、お元気かどうか案じていた」言っておられた。
メールにしろ、ブログにしろ、発信しなければ認知症で寝たきりになっているのも同じ。
80歳を過ぎ、キイボードでPCに入力するのは、歩くのに劣らず億劫になった。
最近はタブレットの音声検索が驚くほど容易で便利になった。
近い将来にはPCでも、どんな文章の入力も容易になるに違いない。
しかし、問題は今だ。
ガラケイからスマホへ替えて1年になるが、いまだに音声の受信が儘ならない。
気がつかなかったが、一つには耳が遠くなっていたことも原因らしい。
TVを見ていると何時の間にか眠ってしまい、散歩に出ると眼がぼやけている。
黙って本を読んでいれば、いつの間にか瞼が下がる。
これが一番気楽で好いのは違いないけれど・・・。
そんな風にして過ごしていて何時も気になるのは、高校や大学時代の常識が凄く時代遅れになっていること。
先日漸く読み終えたブルーバックスの「もうひとつの脳(講談社 2018)」でも然り。
原題は‘The Other Brain (R. Douglas Fields. Ph.D. , 2009)’。
副題は「ニューロンを支配する陰の主役“グリア細胞”」。
また表紙に「脳の8割以上を占める謎の細胞“グリア”の正体」とあり、
「知能、アルツハイマー病、発達障害、統合失調症・・・すべてに関与していた!」と強調している。
われわれが大学で学んだ心理学はパブロフによる条件反射の研究を色濃く継承しており、生理学が脳の中からニューロンだけを辿り、取り出していることが驚きだった。
昨年亡くなった先輩たちは、シナプスにおける神経伝達について論理和の法則を導いたヘッブの研究を紹介し、学習心理学、知覚心理学、基礎心理学を開拓してこられた。
グリアという名前こそ憶えているが、神経心理学ではニューロンに巻き付いて絶縁体のような働きをするミエリン髄鞘としてしか認識していなかった。
その主客が転倒しようとしている。
量子コンピュータはいざ知らず、ノイマン型コンピュータは脳の情報処理方式に倣った働き方をするようにして設計されていると指摘されたりする。
その理解がどこまで妥当か疑わしいけれど、そう云う時の脳はニューロンの脳であって、脳はデジタル・コンピュータとして機能していると想定されてきた。
グリアの脳はデジタルでない。だからと言ってアナノログだという訳でもない。
突然、大海原の前に放り出されたみたいだ。
敗戦間もない子供の頃、科学は究極の真理を解明していないのに、発明したばかりの原爆で文明が終息する筈はないと悲観論の友達に反論したのを憶えている。
足元には綺麗な小石が無限に見つかるが、それ以上に興味を引くのは、世界の果てがどうなっているかだ。
遠くの宇宙から来た光を観測したら、それは遠い過去からのものだとか。
われわれが知りたいと思っているものは、実は存在すらしないものだったりするのだろうか。
毎日沢山のメールが来て読んでは消す。自分から送ることは殆どない。
ニュースは大概見出しを読むだけ。ブログに書込みをするのも間遠になった。
それだけで何時間もかかる。
歩くのが遅くなっただけでなく、万事にのろくなり、徒に時間が経つ。
夜半に目が覚め、書こうと考えた題が「光陰矢の如し」。
国語の先生が光陰は時間のことだと教えてくれたとき、何故なのか納得できなかったのを憶えている。日時計か何かに由来すると想像していたのかも。
「少年老いやすく学成り難し」と続き、先生の本意は今のうちにもっと勉強しろと言いたかったのだと思う。
こうして現に老いてみると、学は若い時に勉強したか否かに関係なく、成るものでない。
今では光より速いものがないことは皆が知っており、矢で速さを強調する格言は有り得ない。電子辞書を引いたら、光は日、陰は月とあった。
以前にも調べて納得したことが有ったような気がする。
歌の文句には「時の流れ」が出てきたりするが、時間は物体のような運動するものでないことは昔も今も変わらない。
空間と同じように数学的思考が生んだ座標系でしかない、と改めて知った次第。
それとは別に主観的時間の観念が有り得るとすれば、それは記憶が疎らになったり跳んだり歪んだりしていると云う事だろう。
かつて某先生の通夜の席で、遠方から来た甥御さんが「おじさんのブログを開いて、お元気かどうか案じていた」言っておられた。
メールにしろ、ブログにしろ、発信しなければ認知症で寝たきりになっているのも同じ。
80歳を過ぎ、キイボードでPCに入力するのは、歩くのに劣らず億劫になった。
最近はタブレットの音声検索が驚くほど容易で便利になった。
近い将来にはPCでも、どんな文章の入力も容易になるに違いない。
しかし、問題は今だ。
ガラケイからスマホへ替えて1年になるが、いまだに音声の受信が儘ならない。
気がつかなかったが、一つには耳が遠くなっていたことも原因らしい。
TVを見ていると何時の間にか眠ってしまい、散歩に出ると眼がぼやけている。
黙って本を読んでいれば、いつの間にか瞼が下がる。
これが一番気楽で好いのは違いないけれど・・・。
そんな風にして過ごしていて何時も気になるのは、高校や大学時代の常識が凄く時代遅れになっていること。
先日漸く読み終えたブルーバックスの「もうひとつの脳(講談社 2018)」でも然り。
原題は‘The Other Brain (R. Douglas Fields. Ph.D. , 2009)’。
副題は「ニューロンを支配する陰の主役“グリア細胞”」。
また表紙に「脳の8割以上を占める謎の細胞“グリア”の正体」とあり、
「知能、アルツハイマー病、発達障害、統合失調症・・・すべてに関与していた!」と強調している。
われわれが大学で学んだ心理学はパブロフによる条件反射の研究を色濃く継承しており、生理学が脳の中からニューロンだけを辿り、取り出していることが驚きだった。
昨年亡くなった先輩たちは、シナプスにおける神経伝達について論理和の法則を導いたヘッブの研究を紹介し、学習心理学、知覚心理学、基礎心理学を開拓してこられた。
グリアという名前こそ憶えているが、神経心理学ではニューロンに巻き付いて絶縁体のような働きをするミエリン髄鞘としてしか認識していなかった。
その主客が転倒しようとしている。
量子コンピュータはいざ知らず、ノイマン型コンピュータは脳の情報処理方式に倣った働き方をするようにして設計されていると指摘されたりする。
その理解がどこまで妥当か疑わしいけれど、そう云う時の脳はニューロンの脳であって、脳はデジタル・コンピュータとして機能していると想定されてきた。
グリアの脳はデジタルでない。だからと言ってアナノログだという訳でもない。
突然、大海原の前に放り出されたみたいだ。
敗戦間もない子供の頃、科学は究極の真理を解明していないのに、発明したばかりの原爆で文明が終息する筈はないと悲観論の友達に反論したのを憶えている。
足元には綺麗な小石が無限に見つかるが、それ以上に興味を引くのは、世界の果てがどうなっているかだ。
遠くの宇宙から来た光を観測したら、それは遠い過去からのものだとか。
われわれが知りたいと思っているものは、実は存在すらしないものだったりするのだろうか。