記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

八幡の藪知らず

2018年05月01日 10時46分49秒 | Weblog
都営地下鉄新宿線の東の終点は本八幡。江戸川の下をくぐって千葉県に入っているが東京都のシルバーパスが通用します。
駅の両端に京成線とJRの駅が有り、中央から地上へ出ると千葉街道。千葉方面に10分ほど歩くと左に葛飾八幡宮の大鳥居があり、右に「藪知らず」の石塀が80メートルほど。
竹はビッシリ茂っているが、裏は直ぐ住宅地。
人が踏み入ると迷って出られなくなるという伝説で「藪知らず」の名が付けられたらしい。つい覗きたくなるが、正面からは奥が見えない。内田康夫の「中央構造帯」の挿絵に八幡宮と藪知らずの界隈を描いた江戸名所絵図があり行ってみたいと思っていました。
中央構造線は日本列島を縦断しますが、小説の中央構造帯は列島を横断し平将門ゆかりの地域に重なって事件が生じています。
太平洋戦争敗戦の夜、自決した将校たちがあったが、実は腐敗した将校に苦しめられていた部下たちによる殺害だったというのがプロローグ。
新制中学の時、兵役から戻ったという教師がいて、将校たちの自決を見たという話をしてくれたのを思い出しました。自分も自決するつもりで付いて行ったけれども怖くなって止めたのだとか。
鳥居をくぐると京成の踏切が有り直ぐ八幡宮の境内。大きな銀杏の樹や、頼朝が平家の討伐に失敗して逃げてきて馬をとめたという石などがあります。あまり広くなく、良く掃き清められている感じでした。それにしても頼朝は負けてばかりいたのに義経を追い払い、だから三代と続かなかったのでは・・・。あるいはそれも将門の祟りでしょうか。
高校で日本史を学んだ頃は、将門はまだ朝廷に謀反した逆賊でしかなく、京都から首が空を飛んで東京は大手町辺へ落ちたぐらいのことしか覚えていません。将門の評価は時代によっていろいろ変化してきたようで、圧政に苦しめられた庶民にとって悪い為政者と戦う英雄だったという見方もあるようです。
江戸の守護神として将門は神田明神などに広く祀られていたが、明治政府は逆賊として信仰を禁じ、われわれが学校で教わったのはそうした考え方の続きだったかも知れません。戦後に天皇制が少し変わったためか、神田明神は将門を復活させ今日に至っているようです。何度か立ち寄ったことが有りますが、うかつにも誰を祀っているのか気にかけませんでした。
内田康夫の小説は、将門の首塚を壊した大蔵省の官僚や首塚に背を向けた椅子に座ったエリート銀行員たちに異変が生じたと言って、ストーリーの雰囲気作りをしています。日本経済のバブル時やバブルがはじけてからの銀行の行動は、太平洋戦争時における軍部の行動と変わらないという風刺になっていると思います。


最新の画像もっと見る