記憶のスクラップ・アンド・ビルド

当然ながら、その間にタイムラグがあり、
それを無視できなくなることこそ残念です。

推敲、リハーサル、反芻

2008年07月25日 09時09分49秒 | Weblog
推敲は分かり易い文章を書くために誰でもすることである。
余程優れている人や書き慣れている人は殆ど書き直さないで一気に書き上げるかも知れない。
それでも頭の中では素早く文章を練っているのだろう。

日常、人ととりとめなく話をしているときにも推敲は行われている。
一旦口を出た言葉は消して改める訳にいかない。
同じことを何度も言ったり言い替えたりするのは発してしまった文章が自分の頭の中で座り良くなるまで推敲しているからである。
聞き手には迷惑である。
考え考え、言葉を選んで、ボソボソ話すのも聞き苦しい。
話上手は、意識してかしないでか、良く整理した文章で聞かせてくれる。

文章を読む側の人も、聞く側の人も、実は書き手・話し手と一緒に「推敲」をしている。
うっかり字面を追っていて何を読んでいるのか分からなくなることがあるが、書き手のテンポと読み手のテンポが合わなかったのである。
会話なら聞き直したりする。小説などを読んでいたのなら、前に戻って読み直す。
作家の構想のテンポと書くテンポとが合わないのは常のことである。その隙間に推敲が入っている。
読者も読み慣れれば速読とか飛ばし読みをする。
いつもの話なら聞き流しても通じる。

小説を読まなくなって何年にもなり、歳をとり暇ができて、また小説を読んでみようかとなると、子供の時のような速読が出来なくなっていることに気がつく。
毎日のこととして人と話をしていても聞き洩らしが多くなったことに気がつく。
「スミマセン」とか「エ?」とか言って聞き直すのは重症である。
そうでなくても聴覚系のどこかに一時的な記憶のバッファがあって、自分の中で何度も聞き直している。

機械的に暗記しなければならないような場合、口の中で何回もリハーサルする。ワーキング・メモリとか短期記憶とかに滞留している時間が長ければ、それだけコピーが出来て正しく長期記憶へ保存され、忘れ難くなると解釈されている。
憶えるためでなく、分かろうとするためにも、われわれはワーキング・メモリでリハーサルし、聞き直しを繰り返しているのである。

「噛み締める」ということがある。
読んだり聞いたりした大切な言葉を心の中で反芻することであるが、特別な言葉でなくても、何時でも、われわれは自分で気づかずに反芻している。

歳をとるとバッファの機能だか容量だかが落ちくる。
頻繁に意識して反芻しなければならなくなる。

高齢者が人を早口だと思ったり、話の展開に飛躍があると思ったりするとき、大部分はバッファで反芻できないうちに相手の話が過ぎ去ってしまうためかも知れない。

こういう高齢者のために優れた器械を考案し、市販までしてくれた人がいる筈だが、何故か流通していない。
頭の中のバッファに代わって、早口の話の時間軸を伸ばし、ゆっくりと、しかしリアルタイムに耳に伝えてくれる器械である。

耳に入ってくるのがゆっくりでも、聞き手が一区切りの言葉を一区切りとして纏めて捉え、次の区切りが入ってくる前に何度も反芻するということが難しいのかも知れない。


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