関裕二 2014 「アメノヒボコ、謎の真相」 河出書房新社
中国の王朝交代は革命によって行われ、新しい王朝は正当性を示すために前の王朝の歴史を改竄し、新たな正史を著してきた。
日本の古代史でも同じく改竄があり、そのために隠蔽された地域や人物が有った。
ヤマト建国には近江、尾張、丹波(上古のタニハ:但馬と丹波)の貢献が大きいが、日本書紀はこれらの意義を小さくし、特に丹波についての記述がスッポリ抜けている。
丹波はアメノヒボコが活躍した地域で、日本書紀を編纂した人たちはアメノヒボコがどのようにヤマト建国に関わったかを隠さなければならなかった、と。
アメノヒボコは何者だったのか。
神話時代の名前のようだが、神ではなく、崇神天皇を慕って渡来した新羅の王子だとか、応神天皇の母である神功皇后の祖だと言われたりしている。
著者は初代神武天皇と第15代応神天皇とを同一人物だとし、アメノヒボコと神功皇后との関係はもっと近いとしている。
その推論を通して空白地域の様子が解明され、同時に讖緯思想で歪曲された時間軸が修正される。
纏向遺跡から各地由来の土器が出土し、3・4世紀の人々の交流の広さが明らかになったが、半数は東からで、九州からのものは殆どない。
アメノヒボコは日本海を股にかけて活躍し、丹波を拠点にして鉄器の過疎地帯だった近江や尾張に鉄を流した。
これがきっかけで、吉備と出雲が纏向に乗り込み、ヤマト建国につながった、と。
アメノヒボコはひとりの人物ではなく、新羅から鉄と須恵器の文化をもたらした渡来人集団の象徴だと考える説もある。
神功皇后についても実在でないとする説がある。
著者は、本居宣長の「邪馬台国偽僭説」を発展させ、神功皇后はトヨの名で卑弥呼の宗女を名乗り、九州で王位を継承して「倭国大乱」を鎮めた、と解釈する。
アメノヒボコは豊岡市の出石神社に祀られている。
豊岡盆地(但馬平野)は一面に巨大な泥海だったのをアメノヒボコが治水事業を行って瀬戸との間に水路を開き、肥沃な土地にした、と出石神社の神宮寺の勧進帳は伝えている。
「播磨風土記」によれば、アメノヒボコは「カラ国」から渡来し揖保川にやってきて、アシハラノシコホとの間で戦った、とか。
アシハラノシコホは出雲の神(オオクニヌシ?)。
播磨で出雲と但馬の勢力が土地争いをした史実の痕跡は地名として幾つも残っている。
神功皇后は仲哀天皇亡き後、新羅征伐に海を渡り、凱旋してから九州で応神天皇を生んだと言われてきた。
広開土王碑によれば、倭国が新羅を攻めたのは4世紀であり、高句麗との連合軍によって敗れている。
それが神功皇后と武内宿祢だとすると、応神天皇の父は武内宿祢を置いていない。
住吉大社の伝承は、住吉大神と神功皇后が仲哀天皇崩御の晩に夫婦の秘め事をしたと言っており、住吉大神は蘇我氏の祖となる武内宿祢に他ならない。
また、浦島伝説や山幸彦と豊玉姫の神話などを考証すると、武内宿祢こそアメノヒボコではないか、と。
そして更に、アメノヒボコはスサノヲだ、とも。
スサノヲは初め新羅に降臨し、それから出雲へやって来て、須賀の地に宮を建てる。
八岐大蛇から草薙を得て、やがて尾張の熱田神宮に収められたが、神話は出雲で鉄器がつくられ、どこへ伝播したかを伝えている。
アメノヒボコの豊岡でも、入佐山古墳などから鉄鎌や鉄斧などが発掘され、古くから丹波で製鉄が行われていたことが知られている。
播磨でアメノヒボコが出雲の勢力と戦ったのは、砂鉄の産地を巡って争だと解される。
スサノヲの八岐大蛇退治こそ丹波連合(丹波、尾張、近江、東)による出雲攻略を神話化したものだ、と。
神功皇后は日本海沿いに九州へ行き、山門県の女首長(日本書記では土蜘蛛)を退治したと言われるが、土蜘蛛とは邪馬台国の卑弥呼だと思われる。
その後、男王が立つが治まらず、宗女トヨ(台与)が継いで治まったと魏志にあるが、トヨこそ神功皇后で、降ろされた男王はアメノヒボコ=スサノヲではないか、と。
ちなみにアマテラスとスサノヲの兄弟にはヒルコとツクヨがいて、ヒルコは成長しないので海に流されたと伝えられているが、ヒミコ(女性の巫女)に対してのヒルコ(男の太陽神)だったのかも知れない。
アマテラスの地位に男性が着いたこともあり、それがスサノヲであって、しかし追放されたということだったと憶測される。
中国の王朝交代は革命によって行われ、新しい王朝は正当性を示すために前の王朝の歴史を改竄し、新たな正史を著してきた。
日本の古代史でも同じく改竄があり、そのために隠蔽された地域や人物が有った。
ヤマト建国には近江、尾張、丹波(上古のタニハ:但馬と丹波)の貢献が大きいが、日本書紀はこれらの意義を小さくし、特に丹波についての記述がスッポリ抜けている。
丹波はアメノヒボコが活躍した地域で、日本書紀を編纂した人たちはアメノヒボコがどのようにヤマト建国に関わったかを隠さなければならなかった、と。
アメノヒボコは何者だったのか。
神話時代の名前のようだが、神ではなく、崇神天皇を慕って渡来した新羅の王子だとか、応神天皇の母である神功皇后の祖だと言われたりしている。
著者は初代神武天皇と第15代応神天皇とを同一人物だとし、アメノヒボコと神功皇后との関係はもっと近いとしている。
その推論を通して空白地域の様子が解明され、同時に讖緯思想で歪曲された時間軸が修正される。
纏向遺跡から各地由来の土器が出土し、3・4世紀の人々の交流の広さが明らかになったが、半数は東からで、九州からのものは殆どない。
アメノヒボコは日本海を股にかけて活躍し、丹波を拠点にして鉄器の過疎地帯だった近江や尾張に鉄を流した。
これがきっかけで、吉備と出雲が纏向に乗り込み、ヤマト建国につながった、と。
アメノヒボコはひとりの人物ではなく、新羅から鉄と須恵器の文化をもたらした渡来人集団の象徴だと考える説もある。
神功皇后についても実在でないとする説がある。
著者は、本居宣長の「邪馬台国偽僭説」を発展させ、神功皇后はトヨの名で卑弥呼の宗女を名乗り、九州で王位を継承して「倭国大乱」を鎮めた、と解釈する。
アメノヒボコは豊岡市の出石神社に祀られている。
豊岡盆地(但馬平野)は一面に巨大な泥海だったのをアメノヒボコが治水事業を行って瀬戸との間に水路を開き、肥沃な土地にした、と出石神社の神宮寺の勧進帳は伝えている。
「播磨風土記」によれば、アメノヒボコは「カラ国」から渡来し揖保川にやってきて、アシハラノシコホとの間で戦った、とか。
アシハラノシコホは出雲の神(オオクニヌシ?)。
播磨で出雲と但馬の勢力が土地争いをした史実の痕跡は地名として幾つも残っている。
神功皇后は仲哀天皇亡き後、新羅征伐に海を渡り、凱旋してから九州で応神天皇を生んだと言われてきた。
広開土王碑によれば、倭国が新羅を攻めたのは4世紀であり、高句麗との連合軍によって敗れている。
それが神功皇后と武内宿祢だとすると、応神天皇の父は武内宿祢を置いていない。
住吉大社の伝承は、住吉大神と神功皇后が仲哀天皇崩御の晩に夫婦の秘め事をしたと言っており、住吉大神は蘇我氏の祖となる武内宿祢に他ならない。
また、浦島伝説や山幸彦と豊玉姫の神話などを考証すると、武内宿祢こそアメノヒボコではないか、と。
そして更に、アメノヒボコはスサノヲだ、とも。
スサノヲは初め新羅に降臨し、それから出雲へやって来て、須賀の地に宮を建てる。
八岐大蛇から草薙を得て、やがて尾張の熱田神宮に収められたが、神話は出雲で鉄器がつくられ、どこへ伝播したかを伝えている。
アメノヒボコの豊岡でも、入佐山古墳などから鉄鎌や鉄斧などが発掘され、古くから丹波で製鉄が行われていたことが知られている。
播磨でアメノヒボコが出雲の勢力と戦ったのは、砂鉄の産地を巡って争だと解される。
スサノヲの八岐大蛇退治こそ丹波連合(丹波、尾張、近江、東)による出雲攻略を神話化したものだ、と。
神功皇后は日本海沿いに九州へ行き、山門県の女首長(日本書記では土蜘蛛)を退治したと言われるが、土蜘蛛とは邪馬台国の卑弥呼だと思われる。
その後、男王が立つが治まらず、宗女トヨ(台与)が継いで治まったと魏志にあるが、トヨこそ神功皇后で、降ろされた男王はアメノヒボコ=スサノヲではないか、と。
ちなみにアマテラスとスサノヲの兄弟にはヒルコとツクヨがいて、ヒルコは成長しないので海に流されたと伝えられているが、ヒミコ(女性の巫女)に対してのヒルコ(男の太陽神)だったのかも知れない。
アマテラスの地位に男性が着いたこともあり、それがスサノヲであって、しかし追放されたということだったと憶測される。