昔、新宿に五味八珍と言う串カツ屋さんがありました。
経典から取った名前だったかも知れません。
食通の先生に薦められて、雀の脳の串カツを食しました。
残念と言うべきか、コレという特徴は僕には分かりませんでした。
豆腐のカケラを串に刺して揚げても区別付かなかったでしょう。
雀は縁故疎開した信州で従兄弟が仕掛けて捕まえ焼いたのをお裾分けして貰ったことがあります。
小さくて、味も何もありませんでした。
豆腐は好きですが、ある程度大きくてスルッと口に入らないと旨くありません。
官能検査法sensory testの統計処理の講義で聞いた話ですが、豆腐の嫌いな人はクチャと食べているとか。
旨い不味い、好き嫌いは、その食べ物ごとに、どんな食べ方をするかが効いてくるようです。
味わい方とは食べ方だと。
脳はサルぐらいの大きさになると、これは台湾からの留学生で大金持ちのお嬢さんから聞いた話ですが、中華料理では極上の珍味だそうです。
また、これは院生のころ西片町にお住まいの先生の家に転がり込んでいて、農閑期に越後からお手伝いに出てくる御爺さんの夜話で聞いたことですが、ヒトの脳こそ不二の薬膳、万能にして効果覿面なのだそうです。
八は嘘八百、末広がり、八百万の神、ついでに無限大記号など、多様性を意味し、
珍はその広がりからピックアップした品で、その広さの特徴を表現する代表点です。
何が代表点になるかは、人、時、所によって流動します。
五はそうした多様性を分析して到達する元素の数です。
東洋の五行はその例です。
西洋でもピタゴラス学派が五に特別な意味を与えたように、元素の数は五でなければならないという考え方があります。
陰陽説に始まって二を基底にする考え方、三原色説や四純色説のような技法との関係で展開している要素論、マジカル・ナンバー・セブン流の分類法などなど。
元素の数を幾つとするかは趣味の問題だといっても否定できません。
西洋の心理学では辛甘酸鹹を味覚の四要素とし、正四面体の頂点に配して感覚尺度を作っています。
これに苦味を加え五要素とする説もあります。
味の素(株)はこれに倣ったのか、旨味をもうひとつの元素だと主張しました。
やがてグルタミン酸系の旨味の他にコハク酸系の旨味があることになり、和製の五元素説は怪しくなりました。
味覚の成立は触覚、嗅覚、温度感覚と不可分であることは周知の通りですし、
いわゆる要素をしかじかの比率で混ぜても平生の体験から程遠いものにしかならないことも疑えません。
同じ品を食しても食べ方は様々で、味はヒトによって異なります。
そのような味覚体験を理解するには、古臭いけれど仏教の五味という評価法の方が適っているのではないかと思われます。
仏教では醍醐味を最高位とした味覚の評価を五段階に順位づけ、五味としているとか。
醍醐の対極をどう考え、何と言うのか知りません。
中間の三つのランクについても述べているものについても知りません。
古臭くて、誰も拘っていないだけに、融通無碍にモデル化し、
最近のアプローチに繋げることが出来ます。
中間カテゴリーは、まさか松・竹・梅でないでしょうが、仮に名づけました。
具の種類・手間の掛け方・値段の高低などで一次元的にランクを付けるのでなく、
味覚を評価する次元の広がりを示すものであれば何でも良いかと思います。
モデルはツリー構造が好いか、立体構造が好いか。
これも趣味の問題でしょうか。
経典から取った名前だったかも知れません。
食通の先生に薦められて、雀の脳の串カツを食しました。
残念と言うべきか、コレという特徴は僕には分かりませんでした。
豆腐のカケラを串に刺して揚げても区別付かなかったでしょう。
雀は縁故疎開した信州で従兄弟が仕掛けて捕まえ焼いたのをお裾分けして貰ったことがあります。
小さくて、味も何もありませんでした。
豆腐は好きですが、ある程度大きくてスルッと口に入らないと旨くありません。
官能検査法sensory testの統計処理の講義で聞いた話ですが、豆腐の嫌いな人はクチャと食べているとか。
旨い不味い、好き嫌いは、その食べ物ごとに、どんな食べ方をするかが効いてくるようです。
味わい方とは食べ方だと。
脳はサルぐらいの大きさになると、これは台湾からの留学生で大金持ちのお嬢さんから聞いた話ですが、中華料理では極上の珍味だそうです。
また、これは院生のころ西片町にお住まいの先生の家に転がり込んでいて、農閑期に越後からお手伝いに出てくる御爺さんの夜話で聞いたことですが、ヒトの脳こそ不二の薬膳、万能にして効果覿面なのだそうです。
八は嘘八百、末広がり、八百万の神、ついでに無限大記号など、多様性を意味し、
珍はその広がりからピックアップした品で、その広さの特徴を表現する代表点です。
何が代表点になるかは、人、時、所によって流動します。
五はそうした多様性を分析して到達する元素の数です。
東洋の五行はその例です。
西洋でもピタゴラス学派が五に特別な意味を与えたように、元素の数は五でなければならないという考え方があります。
陰陽説に始まって二を基底にする考え方、三原色説や四純色説のような技法との関係で展開している要素論、マジカル・ナンバー・セブン流の分類法などなど。
元素の数を幾つとするかは趣味の問題だといっても否定できません。
西洋の心理学では辛甘酸鹹を味覚の四要素とし、正四面体の頂点に配して感覚尺度を作っています。
これに苦味を加え五要素とする説もあります。
味の素(株)はこれに倣ったのか、旨味をもうひとつの元素だと主張しました。
やがてグルタミン酸系の旨味の他にコハク酸系の旨味があることになり、和製の五元素説は怪しくなりました。
味覚の成立は触覚、嗅覚、温度感覚と不可分であることは周知の通りですし、
いわゆる要素をしかじかの比率で混ぜても平生の体験から程遠いものにしかならないことも疑えません。
同じ品を食しても食べ方は様々で、味はヒトによって異なります。
そのような味覚体験を理解するには、古臭いけれど仏教の五味という評価法の方が適っているのではないかと思われます。
仏教では醍醐味を最高位とした味覚の評価を五段階に順位づけ、五味としているとか。
醍醐の対極をどう考え、何と言うのか知りません。
中間の三つのランクについても述べているものについても知りません。
古臭くて、誰も拘っていないだけに、融通無碍にモデル化し、
最近のアプローチに繋げることが出来ます。
中間カテゴリーは、まさか松・竹・梅でないでしょうが、仮に名づけました。
具の種類・手間の掛け方・値段の高低などで一次元的にランクを付けるのでなく、
味覚を評価する次元の広がりを示すものであれば何でも良いかと思います。
モデルはツリー構造が好いか、立体構造が好いか。
これも趣味の問題でしょうか。
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