ハワイはメレメイ。
いろんなところで音楽が流れている。
週末にはホテルやイベントホールなどで、
ハワイアンをはじめ、いろんなジャンルの
音楽が演奏される。
そのキックオフイベントに取材に行った。
ナホクハノハノというハワイ版アカデミー賞に
ノミネートされた若者たちが登場し、
そのレベルの高さに感動していた。
ふと見ると、stage managerをしている
Janetさんがさかんに拍手を送っている。
その慈愛に満ちた表情に、じーんときてしまった。
スタニスラフスキー・メソッドで舞台監督をつとめる
アニシモフさんを思い出した。
もう、なんというか「愛」が大放出されているのだ。
「愛」は意図して放出することは難しい。
関心のないものを「愛せ」と言われたって出てこない。
spontaneous 自発的なものだ。
内側、内面が動いている。
「ねばならない」ではなく、
「そうしたい」「やりたい」「しないではいられない」
こういった心の動き。
慈愛に満ちた表情は先日の大江千里さんプロデュースによる
チャリティイベントの影の立役者カズサさんにもいえる。
ステージを見つめる彼女の表情は慈愛に満ちている。
ものすごいエネルギーを使っただろうに、疲れた顔ではない。
愛が大放出されている。
表現しないではいられない、
出さずにいられないというものが、
周りの人々と共有される形になり、
伝える場が用意さる。
「表出したくてしょうがないもの」が無事に出てくるのを
支える、そこまでにもっていく産婆さんのような役割。
その役割を担うとき、愛の大放出が起こるのかもしれない。
だれかのspontaneityが表現される場には
どこかに「愛」が関係している気配。
ああ、そういえばジャネットさんやカズサさんの
「慈愛」の表情は
ファーマーズマーケットで卵を売っている
アンティにも言える。卵について語るとき、
彼女の表情はなんともいえない「愛」が満ちている。
何かの仕事をするとき、
何かにかかわるとき、
この自分のなかのspontaneousな感覚や
それに伴う「愛」の感覚があるかないかが
その場に携わっている自分へのOKな感覚と
とっても大きく関連しているのだと思う。
世で言われている「自分へのOK」は順番が逆なようにも思う。
「自分にOK」を感じるというのはspontaneousなものだから、
「自分はOKだ」と言い聞かせるというのは遠回り。
自分の内側から湧き出てくるものに注目すること。
ここから始める。
どんなときにspontaneousな感覚が出てくるか、
何をしているときに、
何を考えているときに
「愛」の大放出がおこるのか。
それに目を向けて、大切にしてみる。
そんな中で「自分はOK」の感じがでてくる。
昔、「愛するということ」
というとんでもないテーマを金子書房の担当者さんからもらって、
悪戦苦闘しながら「児童心理」に連載したことがあった。
「愛」なるものは、とっても苦手なジャンルなのだ。
どんなことを書いたのかすっかり忘れてしまって
相変わらず、「愛」って全然、わからんなぁとか、
ハートフルすぎることに疑念を持ってはいるのだけれど、
そのころわかっていた「愛」からは、また、
ちょっと「愛」について理解が進化した気がする。
いろんなところで音楽が流れている。
週末にはホテルやイベントホールなどで、
ハワイアンをはじめ、いろんなジャンルの
音楽が演奏される。
そのキックオフイベントに取材に行った。
ナホクハノハノというハワイ版アカデミー賞に
ノミネートされた若者たちが登場し、
そのレベルの高さに感動していた。
ふと見ると、stage managerをしている
Janetさんがさかんに拍手を送っている。
その慈愛に満ちた表情に、じーんときてしまった。
スタニスラフスキー・メソッドで舞台監督をつとめる
アニシモフさんを思い出した。
もう、なんというか「愛」が大放出されているのだ。
「愛」は意図して放出することは難しい。
関心のないものを「愛せ」と言われたって出てこない。
spontaneous 自発的なものだ。
内側、内面が動いている。
「ねばならない」ではなく、
「そうしたい」「やりたい」「しないではいられない」
こういった心の動き。
慈愛に満ちた表情は先日の大江千里さんプロデュースによる
チャリティイベントの影の立役者カズサさんにもいえる。
ステージを見つめる彼女の表情は慈愛に満ちている。
ものすごいエネルギーを使っただろうに、疲れた顔ではない。
愛が大放出されている。
表現しないではいられない、
出さずにいられないというものが、
周りの人々と共有される形になり、
伝える場が用意さる。
「表出したくてしょうがないもの」が無事に出てくるのを
支える、そこまでにもっていく産婆さんのような役割。
その役割を担うとき、愛の大放出が起こるのかもしれない。
だれかのspontaneityが表現される場には
どこかに「愛」が関係している気配。
ああ、そういえばジャネットさんやカズサさんの
「慈愛」の表情は
ファーマーズマーケットで卵を売っている
アンティにも言える。卵について語るとき、
彼女の表情はなんともいえない「愛」が満ちている。
何かの仕事をするとき、
何かにかかわるとき、
この自分のなかのspontaneousな感覚や
それに伴う「愛」の感覚があるかないかが
その場に携わっている自分へのOKな感覚と
とっても大きく関連しているのだと思う。
世で言われている「自分へのOK」は順番が逆なようにも思う。
「自分にOK」を感じるというのはspontaneousなものだから、
「自分はOKだ」と言い聞かせるというのは遠回り。
自分の内側から湧き出てくるものに注目すること。
ここから始める。
どんなときにspontaneousな感覚が出てくるか、
何をしているときに、
何を考えているときに
「愛」の大放出がおこるのか。
それに目を向けて、大切にしてみる。
そんな中で「自分はOK」の感じがでてくる。
昔、「愛するということ」
というとんでもないテーマを金子書房の担当者さんからもらって、
悪戦苦闘しながら「児童心理」に連載したことがあった。
「愛」なるものは、とっても苦手なジャンルなのだ。
どんなことを書いたのかすっかり忘れてしまって
相変わらず、「愛」って全然、わからんなぁとか、
ハートフルすぎることに疑念を持ってはいるのだけれど、
そのころわかっていた「愛」からは、また、
ちょっと「愛」について理解が進化した気がする。