振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

岐阜城に登って信長の気分に

2017-10-04 15:09:20 | 日記
東海北陸自動車道がまだない頃、大日岳やひるがの高原でのスキー、せせらぎ街道越えの高山行きの場合、どうしても岐阜市内を通過する必要があった。そのたびに金華山のてっぺんにある岐阜城を見て、一度は登ってみようと思っていたことが今頃になってやっと実現した。


登ったと言っても山頂まではロープウェイだ。登山道も複数のルートがありハイキングがてら歩いている人も少なくない。


昔のサラリーマンとも言える城詰の役人達はわらじだけで毎日この山を登り降りしたかと思うとぞっとする。よくぞ現代に生まれけりだ。TVの健康番組で信長はふもとにある居館から毎日登っていたと言うがホントかなあ?

美濃の中心にあり斉藤道三の居城で稲葉山城と呼ばれたていたが後に織田信長が攻め落として自分の居城として名前も岐阜城と改めている。城から周りを眺めるとここを拠点としてやろうと意気込んだ気持ちがわかるような気がする。




北方の山間部は別として南方には今で言う濃尾平野がずっと見渡せて、現在でこそ住宅ばかりだが大きな山もなく当時は限りなく田畑や雑木林ぐらいだったのだろう。平野には大きな木曽川、長良川、揖斐川の三川が流れ、治水も大変だったけど農作物は豊潤だったに違いなく、為政者としては魅力的だ。

信長が天下布武を掲げて統一事業に着手することができたのもこの城を奪取したことが大きいはずだ。


山のふもとには長良川沿いに川原町と言う古い町並みがあった。長良川の水運の中心となる港町だったようで江戸時代には木材や和紙、その他工芸品の取引が盛んであったようだ。

信長が出した政策である楽市楽座の場所かと思ったがその場所は1kmくらい南になるらしい。

この後、犬山城に向かった。