振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

篠山の旅館で昼食

2018-11-23 16:57:59 | 旅行
篠山城跡や城下町を回る前に腹ごしらえをした。篠山に近づいたあたりで、助手席に座った同行のT氏がスマホで店の検索を始めた。

歴史美術館の斜交いにあった店に決め、駐車場は向かい側にコインパーキングがあったのでそこに停めた。



料理旅館とのことだが、外装はどこかの高原にあるロッジ風。しかし、入ってみると玄関脇の小さな間取りの応接室らしき部屋には瀟洒なテーブルとイスが置いてあった。和服を着るか、正装でないと絵にならない感じだ。



食事処は5卓ぐらいで満席だったのでカメラは控えたが、落ち着いた和風モダンな感じか。どじょうと思われるメタルのオブジェの置かれた籐のムシロの下は井戸のようだ。



昼食メニューはセット物が5~6種類あったので、ステーキ丼を選んだ。地元産なら丹波牛か?



山椒味噌仕立てで、山の芋の角切りが散らしてある。蕎麦にしようか迷ったが、こちらで正解だった。

旅館なので宿泊も可能だが、その場合の夕食にはボタン鍋を選びたいところだ。



帰宅して公式ホームページをのぞいて見たが、落ち着いた和風の部屋の雰囲気がよさそうが。家具や調度品を見るだけでも楽しそうだ。

秋晴れの日、篠山の街のたたずまいが気に入った

2018-11-21 14:23:24 | 旅行
篠山と言えば先週末の市民投票で、市の名前を篠山市から丹波篠山市へ来年度から変更することが決まったばかりだ。篠山は以前からバイク仲間でツーリング先の候補に挙がっているのに天候不良などで実現できていないが、今回はマイカーで行ってきた。

神戸で用事を済ませた後、六甲山を越えて丹波に向かったが篠山に近づくにつれて山々の紅葉が深まっていった。



下調べをほとんどしていなくて、先ずは篠山城跡に行った。笹山と呼ばれていた小高い丘に築城された城跡で、ここは大手門の跡になるようだ。



徳川家康が築城を命じて1609年に完成したが、目的は豊臣家のある大坂や西国の諸大名を抑えることのようだ。当然ながら城主は譜代大名が務めることになる。城郭は明治新政府の廃城令で解体され、その際に大書院だけが残されたが1944年1月に失火により焼失。そして2000年に大書院が再建されたとある。



大書院の手前の広い場所が本丸の跡。天守閣は築城の際に土台だけは作ったが、家康からの役に立たない天守閣より城主の力量が大事との指示で建てなかったとか。

南門から歩いて出て外堀まで行こうと思ったが通行止めだった。外堀の西側にあった下級武士や足軽たちの住居街に行きたかったが諦めた。



城跡を出て周囲の城下町を歩いて見ると、今はお土産屋や飲食店になっているが古い町屋が残っている。レストランや売店が入っている大正ロマン館は、旧篠山町役場の建物を保存利用。



現在は篠山歴史美術館として利用されている明治初期に建てられた古い木造建築は、篠山地方裁判所として昭和56年まで使われていたとか。





現存する木造の裁判所としては日本最古のものらしい。屋根瓦には菊の紋章が使われていた。



篠山は古い街並みがよく保存整備され、市役所などの新たな建築物も城下町の雰囲気に合わせてある感じだ。隣国但馬の出石の街のたたずまいに似ていると思った。








複葉機がいいなあやっぱり、航空宇宙博物館

2018-11-12 14:31:05 | 旅行
鉄道博物館ならSLばかり見るように、飛行機ならやはり複葉機がかっこよく見える。飛行機は全般に好きなので、街を歩いていても爆音が聞こえると立ち止まって空を見上げる癖が今もってあるが、さすがに複葉機は見当たらない。

関ケ原に行った翌日、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に行ったのだが、そこにある複葉機を長時間眺めていた。



乙式Ⅰ型と呼ばれる複座機体で、第1次世界大戦で使われたフランスのサルムソン2A2を戦後に日本でライセンス生産したものだ。展示機は平成になって川崎重工が製作したモノで、飛ぶのは無理なようだ。自宅にある日本の航空史という写真集で見たことはあったが、ここに再現されているのは知らなかった。



エンジンやコックピット部分の展示もあったが、空冷式が当たり前と思っていた星型エンジンなのにこいつは水冷だったのにはビックリ。9気筒の排気管もシリンダーの前部に円形に集合されている。どんなエンジン音がしたのか想像しながら見ていると楽しい。



飛行機を自分で操縦できるものなら、こんな機体に乗ってみたいと思う。You Tubeでもヨーロッパで復元や保存されているフォッカーの三葉機やSE5Aの模擬空戦などが視られるが、自分で飛ばせたらどんなに楽しいだろうと思う。

20年前だか、仕事でニューヨークに行った時にイントレピット博物館に寄ってきた。日本海軍の特攻機の攻撃を受けたこともある航空母艦イントレピットを、退役後にハドソン川に係留して航空機の博物館として利用されている。確かここでも複葉機のグラマンF2Fを見たと思うが、ジェット機やヘリコプターなどよりもF2Fやワイルドキャットなどを見ている方が楽しかった。一緒に係留されていた巡行ミサイル潜水艦グロウラーの艦内にも入った。

友人のT氏も飛行機が好きで、ハワイやオーストラリアの航空博物館に行って画像をLINEで送ってくれる。戦勝国だけに古い機体も残っているようで展示機の種類も多いが、日本にはほとんど残っていないのは残念だ。

他には米国から返還された機体を修復した飛燕や、実物大模型の十二試艦戦がある。





多くの展示機は第二次大戦後、米国からの供与やライセンス生産された機種や、それらを基に独自開発されたり、実験機として開発された飛行機になる。





館外には大型の機体が何機か並んでいる。実際に自分も乗った経験のある飛行機が1機だけあった。地方出張で何度か世話になったYS11だが、40年位前の早春の頃、伊丹から飛んで仙台に近づくにつれて無茶苦茶に揺れ怖かった記憶がある。








姉妹古戦場協定の関ケ原、ワーテルロー、ゲティスバーグ

2018-11-10 11:37:31 | チェンマイステイ
関ケ原町歴史民俗資料館と言うのがあり、行ってみた。カメラNGとあったので画像はない。

1階の展示室では石田三成の兜や金吾中納言の陣羽織などの展示があるが、複製品が多い。「関ケ原合戦図屏風」の細部をフォーカスして参戦した大名や武将の戦いぶりが説明されているのと、合戦当日の時間の推移と各軍の進退状況がわかるようになっていた。

2階の展示室に上がると、そこは世界三大古戦場として関ケ原とワーテルローとゲティスバーグの紹介があった。説明するまでもなく、ワーテルローはナポレオン率いる仏軍と英国のウェリントン公率いる英国とプロイセンの軍を中心とする対仏連合軍が1815年に戦火を交えた戦場で、ゲティスバーグは米国南北戦争で1863年に北軍が勝利して南北対立に決着をつけた戦場だ。

関ケ原町はワーテルローのあるベルギーの地元自治体と2017年に姉妹古戦場協定なるものを締結したらしい。ゲティスバーグのあるペンシルベニア州の地元自治体とも、2016年に姉妹古戦場協定、そして姉妹都市の縁組をしている。

展示室にはそれぞれの自治体から贈られた当時の軍服やサーベル、銃器などの展示がある。

以前にTVかNETで視たが、彼の地では毎年記念行事として地元の人たちが当時の軍服に身を包み、銃やサーベルまで持ち出して当時の戦いを再現していた。一種のお祭りで、京都の時代祭もその類と言えそうだ。1600年の関ケ原の再現は・・・・・ちょっと無理かな。

関ケ原から帰宅した翌週、TVで映画「ワーテルロー」を放送していたので視た。関ケ原でワーテルローのことを見た直後にこんな映画が視れるなんて、偶然にしても何かスゴイ。

1970年に製作されたイタリアとソ連の合作映画で、総兵力20万人の戦争を映画にすると言うスケールのデカさに呆れる思いがする。CGのない時代にエキストラはソ連兵だと思われるが、仏軍、連合軍の大軍が映し出されている。騎兵の乗る馬の数も半端ではない。

仏軍騎兵の大軍の突撃に方陣を組んで防戦する英軍歩兵、泥沼にはまった英軍騎兵を襲う仏軍鎗騎兵、包囲した英軍からの降伏勧告を拒否して玉砕する仏軍近衛軍団、それぞれのシーンは残酷だが以前にナポレオン関係の書物で読んで想像した様とあまり違わない。ロッド・スタイガー演ずるナポレオンも、支配者としての絶頂期を過ぎて判断や指示が少しずつ的をはずれてゆく様が実におもしろい。

ゲティスバーグも劇場公開はされていないが映画化されているようだ。AMAZONで探してみよう。


島津軍の陣跡で知った日置市の関ケ原戦跡踏破隊

2018-11-07 08:50:30 | 旅行
秋晴れの良い天気で、色付いた柿が青空に映えていた。



関ケ原の小池と言う集落に約千名の薩摩兵を率いた島津義弘の陣跡がある。神明神社前に駐車場があり、陣跡は神社の裏にある。





敗走を始めた西軍と共に行動せず、逆に家康の本陣に向かって敵中突破を図り、伊勢街道から大坂へ退却した話は有名。本国に生還できたのは島津義弘を含めて数十名だけで、多くの犠牲を出した退却戦だ。

陣跡の石碑の後方に百人くらいの名前が刻まれた石板が5~6枚並んでいた。何かと思い説明を読み、甚く感激してしまった。



島津家と縁が深く、島津義弘の出生地でもある鹿児島県日置市が主催して、毎年夏休みを利用して20名前後の小中高生が郷土の先人達が歩んだ退却路を踏破しているようだ。昭和35年から始まり、今年は第59回の踏破隊が結成され、行軍途中で三重県いなべ市や滋賀県多賀町との交流もしているようだ。

石板は5年毎に名前が刻まれ、隊に複数回参加した人もいるそうだが暑い中での行軍は大変だと思う。それでも得難い経験ができ、自分は薩摩隼人の子孫であると思えるのはうらやましい気がする。薩摩ナショナリズム健在だな。

余計なことながら日置市のホームページで踏破隊の募集要項をのぞいてみた。参加資格小学5年~高校2年、参加費用3万円、別途石板刻銘費用5千円、事前研修あり、とあった。市からの補助も当然あると思われる。どこかの市議団の海外研修より、よほど有意義だ。