

昨年の5月に出雲地方のたたら遺跡を巡った後、図書館の書物やインターネットで製鉄の歴史を調べている内に、郷里の山口県にもたたら遺跡があることを知った。須佐のホルンフェルスに行った翌朝、レンタカーを大板山たたら製鉄遺跡まで走らせた。
場所は萩市の中心部から県道11号線を東北に向かい1時間弱、住所は萩市紫福(しぶき)になるが、14年前の平成の大合併以前は阿武郡福栄村だった。タブレットのグーグルMAPに表示された電話番号をカーナビに入力したが市役所にある部署だったようでナビの役にはたたず、タブレットを見ながら運転した。遺跡や城跡をカーナビで探すとよくある事だ。
紫福地区まで来ると流石に世界遺産、わかりやすい案内標識やノボリが随時現れて迷うことはなかった。30数年前に造られた山の口ダムのダム湖に沿って上流に進むと遺跡の管理棟があった。

スタッフの女性が二人いて、遺跡を紹介するビデオのスイッチを入れてくれた。

ビデオは東京大学が所蔵している「先大津阿川村山砂鉄洗取之図」にテロップを入れて作成した10分くらいのモノだが分かりやすくて良い。この絵図はNETで視たことがあるが江戸時代末期に描かれたそうで長さが46メートルもあるそうだ。18~19世紀の長門の国での砂鉄の採取からたたらによる製鉄、針金の製造過程などが描かれ、出雲地方のたたら製鉄の模様が描かれた「玉鋼縁起」同様、鉄の製造過程をよく伝えていると思う。

ヒノキ林の向こうに遺跡が保存されているが、遺跡があったと思われる南半分はダム湖に水没してしまったようだ。

元小屋と呼ばれる製鉄作業全体を管理する事務所があった場所だが、パネルを通して遺跡を見ると建物が浮かび上がる仕掛けがあった。

高殿と呼ばれる製鉄炉があった場所で、左右にある2ヶ所の木枠が天秤ふいごの跡で、中央が炉の跡。炉の下には地中の水分を逃がし、炉の熱をキープするための地下構造物があるはずだ。

高殿の回りには川の水を引き込んで砂鉄を洗浄したり製鉄炉から引き出された鉧を冷却するための池がある。敷地の向こう側に川が流れているが、ふいごを動かしたり鉧を砕くために水力を利用した水車などの形跡はないようだ。

少し高台に炭焼き窯の跡があったが、周辺の山中にもたくさんあるのだろう。
記録ではここのたたら場では1751年~64年、1812年~1822年、1855年~1867年の3度操業していたそうだ。燃料の木炭を調達するために周辺の山々の木材を切り尽くす度にたたら場を他の地域に移動して、山林資源が復活した頃に再び戻って来たと思われる。
原材料の砂鉄は石見から海路で奈古まで運ばれ、そこから人馬によって山道を越えて来ている。製品の鉄はその山道を逆に運ばれ、海路で萩や下関に出荷されたと想像できる。
ここ大板山でたたら製鉄が始まる以前にも、ここから更に東北方向の津和野や日原に近い山中の白須山や鈴野川などでたたら製鉄は行われたようで、遺跡も見つかっている。絵図の名前にもなっている大津阿川はここからは西にあるが、砂鉄の採取やたたら製鉄の遺跡があり、鉄の産地は出雲から石見、長門と山陰地方の広範囲に渡っていることになる。
操業を終わってから150年以上経過しているが、当時はかなりの数の人々がここで働いていたと思われる。ふいごを踏む音や木炭の燃焼音、真っ赤に焼けた鉧に冷却水が触れ瞬間的に蒸発して広がる蒸気の音、鉧を割る大きな槌の音。静寂の中で遺跡を見ているとそれらの音が谷間の方からこだましてくるような気がした。