Greg Olsen
先祖を大切に思うのは、仏教徒や日本人だけではない。近年の趣味リストの最高位に収まる「系図探求」あるいは「家族の歴史探し」は、欧米諸国に先祖を知ることの素晴らしさを人々にもたらした。
系図番組や系図大会があり、有名・無名を問わず自分のルーツを知ると、多くの方々は涙する。遠い日に存在したが、今でも自分にはそのDNAが受け継がれ、血も流れている、と気づく。そしてその祖先の生活をしばし思うと、不思議な感動が起こる。飢饉、戦争、疫病、悪政、貧困などありとあらゆる人生の挑戦に先祖は命を失うかもしれなかった辛苦を乗り越えてきたから、自分は今ここにいるのだ、と実感する。
夫の系図では、メイフラワー号でプリモスロックを踏んでアメリカに上陸した清教徒がいる。1598年のフランス・ナントで出されたプロテスタント(特にユグノー教徒)の自由を認める勅令が1685年廃止され、信仰の自由を否定するフォンテーヌブロー勅令が出されるや否や迫害を逃れて、最初はオランダ、それからアメリカへ渡ったユグノー教徒の祖先がいる。英国政治家・宗教家であったウィリアム・ペンと共にペンシルバニアに入植したクエーカー教徒の先祖もいる。
そして夫の父方の祖先には、1700年頃英国はサマセットからアメリカへやってきたIndentured servant(インデンチャード・サーヴァント)がいる。それは白人年季奉公人と呼ばれている。
1600年代アメリカに植民地が造られはじめ、その労働力不足を補うためにヨーロッパから多くの白人年季奉公人が大西洋を渡って送られた。英国では植民地経営会社が渡航者を募り、応募者は多くが貧困層で、時には受刑記録のある者などもいた。船賃や途中の食費、さらに新大陸での当面の生活費や土地の開拓に要する費用と引き換えに契約年限7年の年季奉公の契約をすることが多かった。
そんな事情で年季奉公人移民となったその祖先は、7年の契約満了に伴い、晴れて自由の身となり、その前から勉強していた測量で身を立てた。農場を持ち、同じ測量士でもあった初代大統領ジョージ・ワシントンと見識があったとされ、居住していた土地柄、当時の移民人口、そしてその特殊な職柄から、プロフェッショナルの系図家や歴史学者間では、両者は知己であったとされている。
現在でもその先祖の年季奉公時の契約書や渡航記録などは、アメリカ国立公文書記録管理局に保存されている。この祖先は、自身や妻や子供達は英国国教会に属していたが、アメリカで居を構えた地域はクエーカー教徒の開いた土地で、そこには夫の母方の先祖の一家族ビーソン家も入植していた。両家の家長同士は隣人であると同時にお互いに非常に厚い信頼を持ち、300年前のそれぞれの遺書にお互いが証人署名をしている。
夫に大学で初めて出会った時、柔和でいながら真摯で、信仰が深く、親切に溢れる言動が、どこから来ているのだろうかと思った。結婚して夫の系図を始めた時、夫の背後に信仰深い先祖の影が見え始めた。
さらに夫の4代前の祖父もそうした先祖と同様に宗教的迫害を逃れて西部へ家族を連れて移ったとわかった。4代前の祖父はその地で温厚な傑出した存在だったが、ある宗派の伝道集会で感銘を受け、バプテスト教会から改宗した。それを不快に思い、やがてその宗派への偏見に凝り固まり始めた地域住民は暴徒化し、彼や家族の命を狙うようになったからである。宗教間の対立は新大陸でも開拓者時代からしばし流血の惨事を起こした。
転出しなければならなかった土地の大きな土地台帳を裁判所地下の資料室で埃を払いながらその4代前の祖父について検索した時、短期間でこの彼は広大な農地や所有地を売り払い、命を狙われているという逼迫した中で、着々と西へ逃れる準備を重ねていたのが伺えた。実際にこの祖父一家のバプテスマ(洗礼)を施した伝道師は、バプテスマ直後に森を同僚伝道師と横切ろうとした折、暴徒に襲われ殺された。責任を逃れるために、誰が致命傷を与えたか判断し難くするために、暴徒全員が顔を狙い打った。案の定裁判では誰が犯人だか確定できず全員無罪となっている。その記事はニューヨーク・タイムスに載った。
この祖父一家は無事西部へと逃れたが、チャタヌガ駅から鉄道で移動した時はおそらく追っ手がくるかもしれない恐怖におののいていたに違いない。だが、西部へ逃れてからのその先祖一家の信仰はますます固く、4代目となる夫に至っても変わらない。
こんな先祖の宗教背景を持つ夫の系図は、始めてから何十年になっても未だ私を魅了し、感心もさせる。夫と私には孫までいるが、こうして滔々と家族という川は流れていく。私も私の先祖から続いて一筋の川として夫の川と一緒に流れているのだ。思えば遠くへ来たものだ。
このクリスマス、そんなファミリツリー(家系という木)を飾ってみようか。
インターネットで同じアイデアの方の壁のクリスマスツリー