不意の来訪者が応接間に入る時、「あ、散らかし放題ですみません。子供たち(孫たち)がまだ小さくて。」と、言い訳がましいことを口にする経験は母親・祖母のどなたでもおありではないだろうか。あるいは、私だけかもしれない。少なくとも私はそれを15年以上続けてきたし、空の巣時代に突入しても、子供たちの雛形の子供たち(孫)という戦陣が控えている。
現役の育児期には、いつか、子供たちが成長したら、親の人生は「変わる」、「変わるはずだ」、「変わるかもしれない」、やがて「おそらく無理かもしれない」という変遷を経ている。
冷蔵庫のドアに色とりどりの付箋が貼られ、「子供#3午後 2 時に小児科医」や「#2,#3, #4木曜日午後6時カブスカウト101隊のパック・ミーティング」、「#1~5水曜日ピアノレッスンは金曜日に変更」(注:#1~5は長子から末子の略)だのが、いつかは、「火曜日午後、美容院」、「土曜日午後夫婦でアート ギャラリーを閲覧」、「月曜よりヨガ レッスン開始」と書かれることを夢見たものだった。
いつか子供たちが成長したら、家から落書きが絶対になくなるはず。 壁に緑色のクレヨンで描かれた「作者」のお名前(それでも「自白」はなし)、車の後方ウィンドウの埃に、Clean Me!!!!!(綺麗にして!!!!!)と指で描かれた言葉、そして固形石鹸に刻まれたイニシャル(容疑者はイニシャルだけに上がっているが)もいつかなくなることだろう。
いつか、子供たちが大きくなったら、引きちぎられたテディベアの鼻や目、時には手足を縫い付ける緊急手術をしたり、幼児がドッグフードを食べようとしている寸前で止めたり、午餐に訪問客をお呼びしてあるので、白いテーブルクロスを広げた途端、赤いガミーベアがべっとりと貼り付いているのを発見し、大急ぎで洗濯を始めねばならなくなり、予定した文化的なこと(つまり読み始めた本を最後まで読み通す)を変更することもなかろう。
いつか子供たちが成長したとき、ベッドの下でひっそりと茶色く干からびたリンゴの芯も、トイレットペーパーがすっかりなくなって、その芯だけが、ハンガーの空のスピンドルに残っていることも、デニムジーンズのポケットにひそやかに潜むビニールのやけにリアリスティックな毛虫も見つからなくなるだろう。 そして、机の引き出しの中には削って使用準備の整った鉛筆が入れた時のままあり、冷蔵庫の中に残ったパイのスライスが入れた時から微動だにしていず、もちろん齧った歯形もなくあり、日曜新聞の漫画ページがまだ残っているのを見つけることができるだろう。
いつか、子供たちが大きくなったら、キーシュ・ロレーインやホタテ貝のアマンディーヌ、あるいはただの芽キャベツと玉ねぎを炒めただけを作っても、誰も「うへ〜!!」とは言わなくなるだろう。 「ホットドッグがあればよかったのに!」 または、「隣のブランドンは、幸運だよ。母親は夕食にチョコレートバーを食べさせてくれるんだ。」といううそぶきは聞こえないだろう。
現役の育児期には、いつか、子供たちが成長したら、親の人生は「変わる」、「変わるはずだ」、「変わるかもしれない」、やがて「おそらく無理かもしれない」という変遷を経ている。
冷蔵庫のドアに色とりどりの付箋が貼られ、「子供#3午後 2 時に小児科医」や「#2,#3, #4木曜日午後6時カブスカウト101隊のパック・ミーティング」、「#1~5水曜日ピアノレッスンは金曜日に変更」(注:#1~5は長子から末子の略)だのが、いつかは、「火曜日午後、美容院」、「土曜日午後夫婦でアート ギャラリーを閲覧」、「月曜よりヨガ レッスン開始」と書かれることを夢見たものだった。
いつか子供たちが成長したら、家から落書きが絶対になくなるはず。 壁に緑色のクレヨンで描かれた「作者」のお名前(それでも「自白」はなし)、車の後方ウィンドウの埃に、Clean Me!!!!!(綺麗にして!!!!!)と指で描かれた言葉、そして固形石鹸に刻まれたイニシャル(容疑者はイニシャルだけに上がっているが)もいつかなくなることだろう。
いつか、子供たちが大きくなったら、引きちぎられたテディベアの鼻や目、時には手足を縫い付ける緊急手術をしたり、幼児がドッグフードを食べようとしている寸前で止めたり、午餐に訪問客をお呼びしてあるので、白いテーブルクロスを広げた途端、赤いガミーベアがべっとりと貼り付いているのを発見し、大急ぎで洗濯を始めねばならなくなり、予定した文化的なこと(つまり読み始めた本を最後まで読み通す)を変更することもなかろう。
いつか子供たちが成長したとき、ベッドの下でひっそりと茶色く干からびたリンゴの芯も、トイレットペーパーがすっかりなくなって、その芯だけが、ハンガーの空のスピンドルに残っていることも、デニムジーンズのポケットにひそやかに潜むビニールのやけにリアリスティックな毛虫も見つからなくなるだろう。 そして、机の引き出しの中には削って使用準備の整った鉛筆が入れた時のままあり、冷蔵庫の中に残ったパイのスライスが入れた時から微動だにしていず、もちろん齧った歯形もなくあり、日曜新聞の漫画ページがまだ残っているのを見つけることができるだろう。
いつか、子供たちが大きくなったら、キーシュ・ロレーインやホタテ貝のアマンディーヌ、あるいはただの芽キャベツと玉ねぎを炒めただけを作っても、誰も「うへ〜!!」とは言わなくなるだろう。 「ホットドッグがあればよかったのに!」 または、「隣のブランドンは、幸運だよ。母親は夕食にチョコレートバーを食べさせてくれるんだ。」といううそぶきは聞こえないだろう。
そして、私たちが文化的に、たまには、と、蝋燭の明かりで食事をしていても、誰も「もっとおいしくするために」エンドウ豆やにんじんをフォークにさして、その蝋燭の火で焼こうとしたり、食べ終わったら誰が、その蝋燭の火を吹き消すかについて一大論議・紛争が勃発したりすることはないだろう。
いつか、子供たちが成長したら、何艘もの赤や緑や青のプラスティックのボート、ゴムのワニ3匹、湯によって色の変わる金魚のおもちゃを数種、そして濡れたテニスボールを浴槽へ、放り入れなくても、お風呂の準備ができるようになるだろう。いつか 私自身は丸一時間、熱い湯気と微かな芳香のある泡のバスタブで贅沢に過ごせるはずだ。#1から#5の誰かが、あるいは5人全員に、ドアを拳で叩かれることも、「ママ、早くして!お手洗い行きたいから。」と叫ばれ、「他の二つのバスルームへ早く行きなさい!」と叫び返す必要はないだろう。
そう、いつか、子供たちが成長したら、人生は変わるだろう。
そして子供たちはいつの間にか私たちの巣を離れ、家は静かになり、穏やかになり、夫が逝去し、私には未亡人というタイトルがつき、下の応接間でピンを落とせば、2階の寝室でその音を聞けるほどの静寂だけが残された。
いつか、子供たちが成長したら、何艘もの赤や緑や青のプラスティックのボート、ゴムのワニ3匹、湯によって色の変わる金魚のおもちゃを数種、そして濡れたテニスボールを浴槽へ、放り入れなくても、お風呂の準備ができるようになるだろう。いつか 私自身は丸一時間、熱い湯気と微かな芳香のある泡のバスタブで贅沢に過ごせるはずだ。#1から#5の誰かが、あるいは5人全員に、ドアを拳で叩かれることも、「ママ、早くして!お手洗い行きたいから。」と叫ばれ、「他の二つのバスルームへ早く行きなさい!」と叫び返す必要はないだろう。
そう、いつか、子供たちが成長したら、人生は変わるだろう。
そして子供たちはいつの間にか私たちの巣を離れ、家は静かになり、穏やかになり、夫が逝去し、私には未亡人というタイトルがつき、下の応接間でピンを落とせば、2階の寝室でその音を聞けるほどの静寂だけが残された。
そして、私はそれがまったく気に入らなかった!
...この先「いつか」ではなく「かつて」を振り返りながら過ごしていくのだろう、と感傷的になっているうちに、ほぼ1歳と5歳のヤンチャな孫息子たちが見事に花咲爺さんの如く, おもちゃをばら撒きながら、一歳児は一歳児言語で、そうすることの正当性を理論付ける。
これでいいのだ、と、ワセダの隣のバカタ大学出身のバカボンパパは、きっとそう言うだろう。私もそれに同感する。
夫や私の周りにいたのは、訓練中の天使たちだと認識したら、それが「いつか」なのだろう。
夫や私の周りにいたのは、訓練中の天使たちだと認識したら、それが「いつか」なのだろう。
もちろん、おもちゃ箱はこれだけではない。
これだけの筈はない。決してない。
お蔵がいるほど。
孫#10。
毎日今が一番と感じています。