物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

朝倉孝景(英林)像・義景像

2024-08-11 | 行った所

*福井市郷土歴史博物館のXポスト画像
両方とも名高い絵でいろいろな本に載っているおなじみの肖像であるが、実物を見たのは初めてで、しかも両方並べて見れる機会がそうそうあったとは思えない。
義景像は孝景(英林)像を意識して画いているのだろうが、絵師の力量が劣るのか、筆は些か荒くなっている。その分モデルの人物も品下がって見える。もっとも朝倉家中興の祖、戦国大名としての祖と仰がれる孝景と、義景とでは先入観の差もあるが。
品格の違いはともかく、二人は似ている。頭のかっこう、鼻などそっくりである。
系図によれば、孝景(英林)-氏景-貞景-孝景(宗淳)-義景、であり、孝景は義景の祖父の祖父、曽曽祖父とでもいうのだろうか、5代前の人物である。それにしては似すぎているような気がする。似ていない父子もいる。父には似ていないが祖父にはそっくりの孫もいる。しかし5代前の人物の遺伝子は単純に考えると16分の1に過ぎなくなる。
おそらく絵師は義景像をできる限り孝景によせたのであろう。しかし全く違った面貌をしていたとも思えない。今川義元・武田信玄・織田信長・羽柴秀吉・柴田勝家・前田利家などの肖像はそれなりの個性を写しているように見える。信長の肖像は複数あっても丸顔の信長像はない。
義景は文化的素養のあった人物らしいのだが、この像からは教養がに染み出るという風には見えない。大変気難しく、癇癪持ちでもありそうだ。朝倉孝景(英林)像に感じられる威厳、知性は感じにくい。

二つの肖像画は軸装で足羽山麓の心月寺所蔵だが、ここに収まるまでいくつかの変遷があったと、解説にあった。

Xユーザーの福井市立郷土歴史博物館さん: 「【朝倉孝景・義景像の伝来をめぐる謎】 おはようございます! #郷土歴史博物館 では、重要文化財 #朝倉孝景(敏景)・ #義景 像を約15年ぶりに同時公開しています。昨日に引き続き、今回の調査で新た判明した研究成果を紹介します。(つづく3 ※訂正 解説B)の著者名に誤りがありました。 ✕竹内→武内 https://t.co/3ihkcuaM9g」 / X


奥琵琶湖 木ノ本 塩津

2024-08-11 | 行った所

木之本は言うまでもなく北陸道の宿場町だ。市もたった。
*JR木ノ本駅前、見える山は田上山という。賤ケ岳合戦時、秀吉方の砦が築かれた。
ここに江北図書館という滋賀県で一番古いという私設図書館がある。
*江北図書館
*江北図書館案内板
木ノ本駅近くの古い木造洋館だ。全然別のところだが、子供の頃行った図書館で覚えのあるワックス塗りの板張り、軋む階段。
規模は小さい。明治35年(1902)に杉本文弥という余呉出身の弁護士が青少年の勉学にと私財を投じた文庫だ。
現建物は昭和12年に建てられた郡農会庁舎だそうだ。1Fは現役の図書館だ。2Fが資料室になっている。
江戸時代の絵図が平台のガラスケースのに収まっているほか、多くの木製の本棚が並んでいる。特別の稀覯本や古書はなさそうだ。昭和の本が多いようだ。私自身が子供のころ読んだ児童書も多い。
洋館らしいラウンドもついた窓辺の下には木箱が並んでいる。小さな引き出しのついた箱は図書カードが入っていたに違いない。群書類従と書かれた木箱がある。その脇に渡岸寺観音堂現場事務所と書かれた木箱もある。十一面観音で名高い渡岸寺観音堂だが何が入っているのか。

  

木之本から西へ湖岸に出る。
山梨集落には一般車は入れない。
*山梨集落
*広屋の大石
*広屋の大石案内

北へ塩津に行く
*塩津神社
*塩津神社由緒
由緒にはこうあるが、塩津はやはり塩の集散地だから塩津だろう。

塩津の道の駅に丸小舟があった。大浦の丸小舟の館は優れた資料館で、丸子船の実物も展示してあった。この道の駅の船は屋外に屋掛けしただけの展示なので近々と周りから見れる。
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塩津港遺跡や琵琶湖運河計画の資料もあった。


佐和山と彦根

2024-08-08 | 行った所

中山道は京都から東に向かい草津で東海道と分かれ、守山・武佐・愛知川・高宮・鳥居本と近江を東北に進む。鳥居本を過ぎて、北陸道と分かれ摺針峠を越え、番場・醒ヶ井と関ケ原に向かっていく。
鳥居本の西には琵琶湖があるのだが、その間に独立丘陵状の山がある。佐和山だ。その向こうに琵琶湖に向かって彦根の街が広がっている。
*彦根周辺地図
彦根城は佐和山の城を移した城だ。佐和山城は街道に面した城か、琵琶湖に面した城かが問題とされるが、そんな基本的な城のありようが不明になるほどに破壊された城だ。
*佐和山 彦根城下町側から
この写真の看板辺りまでは車道があるが、城址まではここからは登れない。龍譚寺の境内から徒歩で上がる道がある。
*佐和山城看板付近から彦根城が見える。
龍譚寺の前には広い駐車場や案内板がある。
*佐和山城案内
*佐和山城図
*石田三成説明版
*光成年表
*龍譚寺
*龍譚寺説明
*光成像
*でかい蜂の巣発見

*彦根城
彦根城は国宝でありなかなかの観光地だ。
特筆すべきは城下を巡る堀のほとんどが埋め立てられずに残っており、広い城域があることだ。現代の都市の真ん中に1キロ四方はあろうかという城域があることは、都市機能を規制してしまうともいえる。現にちょっと裏通りに入ると車で通行不能に見える路地が入り組んでいる。城下町の地割を残したところに今の彦根の街がある。
彦根藩は譜代筆頭の家格を誇り、赤備えの陣立、井伊直弼など歴史に名を遺した人物も出た。禄高30万石を数えるとはいえ、その程度の藩はいくらもあった。もっと立派な城下町を数え上げることはできるが、それらの城下の多くは堀を埋め立てていった。なくなった天守閣を模擬的に復元したところは多いが、城下を復元した都市はない。
意図的だったのかは知らないが、明治の廃城でも破壊されなかった彦根城は埋められなかった多くの堀と共に観光都市彦根の中核として残った。
*堀絵図
*屋形船
屋形船に乗ってみた
*蔵出し
*堀の終わり、堰になっている
*玄宮園
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*夕暮れの彦根城

彦根港から多景(たけ)島へのクルーズ船がある
小さな岩島だ。
*多景島
上空をハヤブサが威嚇の声を上げながら猛スピードで飛び回っていた。島に巣があり、雛もいるのだろう。


朝妻湊址と干拓資料館

2024-08-05 | 行った所

古来の港は潟湖を利用したものであったという。縄文時代の丸木舟の頃から使われていたのだろう。船が大型化し、船底が深くなると水深の深い港が必要になる。
琵琶湖でも事情は同じだ。無数にあった内湖は潟湖に同じだ。
琵琶湖岸には内湖の数だけ港があったことだろう。織田信長の安土城は西湖(にしのうみ)という内湖のほとりに建つ。内湖は干拓で縮小したが、琵琶湖へ通じる大きな内湖であったという。
米原市朝妻筑後の朝妻湊はそんな港の中でもよく知られたものだった。
*朝妻湊址碑
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天野川河口にあるように見えるが、もう少し南にあった内湖に面した湊ではないかといわれる。
*天野川河口の砂州
*河口付近から伊吹が見える。
朝妻湊は主に美濃以東の物資が集まった。北陸道の物資の集散地は今津か塩津が中心であったろうが、東山道の物資は朝妻にに集まる。
10世紀の東大寺文書に朝妻の名があるそうだ。
15世紀後半には一条兼良が、16世紀には山科言継が朝妻経由で美濃と行き来し、それを書き残した。
やがて琵琶湖東岸の港は長浜が、そして彦根が台頭する。朝妻は主要港の位置から滑り落ちるが、江戸時代にはむしろそのロマンティック「朝妻」の名が文人達を引き付けたようだ。

朝妻湊址から湖岸を南に降れば米原市の干拓資料館がある。
入江内湖の干拓の歴史をメインにしているが、周辺遺跡の発掘調査のの考古資料も展示されている。
*資料館入口のポンプ*
*内湖のでき方
*琵琶湖周辺内湖地図
*入江内湖と周辺遺跡
*入江内湖と佐和山
入江内湖の南に松原内湖があり、その東が佐和山である。
松原内湖は彦根城の外堀と繋がり、そこから琵琶湖と繋がっていた。

 


飛騨千光寺 美濃高賀神社

2024-08-03 | 行った所

高山市内を流れる宮川は、北に向かい神通川と合流し富山湾に注ぐのである。宮川の支流で東から合流してくる川に丹生川がある。丹生川の流域を丹生地域というらしい。盆地の風景であるが、北に穂高、東に乗鞍、南東に御岳が望める。
その盆地の東に千光寺という真言宗の寺がある。ここに円空がいたことがあり、多くの円空仏がある。
*千光寺門
*円空資料館
両面宿儺像はここにある。

*千光寺本堂
*千光寺鐘楼
*鐘楼案内板
永禄7(1565)武田勢により焼き討ちにあったということだが、御岳が見えると、あちらの方角から来たのか、と思うのである。
*千光寺から御岳

美濃羽島の長良川近くに生まれ、やはり長良川のほとり関市池尻に死んだ円空は、東日本の各地に足跡と円空仏を残したが、その足跡は美濃飛騨に濃い。
関市の高賀洞戸にもたびたび訪れ滞在したということで、高賀神社脇に円空の資料館がある。
*高賀神社
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*資料館


堀名銀山址

2024-08-02 | 行った所

勝山街道、今は恐竜街道などといっている県道416号線を東に走る。勝山市荒土町、信号に堀名と表示のある交差点がある。堀名は「ほりめ」と読む。そこから左折、北へ曲がり日吉神社を探す。田舎の小さな神社の佇まいだが、ここは江戸時代の鉱山の作業場だったらしい。

*日吉神社
*大きな案内板と城址の碑
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この鉱山には橘曙覧が知人を訪ねてきている。採掘場も見学したらしい。足羽山の曙覧の資料館で知ったが、案内板にもある。
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採掘坑と城址への登山道はあるにはあるが、ほとんど整備されず危険らしい
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*登り口から南方面
壇ケ城は一向一揆がこもったと伝わる。
天正2年、朝倉家臣・平泉寺に勝利し、勝山の地名のもととなった一揆軍の主体がこもった村岡(むろこ)山はここから一里ほど東に行ったところになる。

 


石徹白(いとしろ)

2024-07-25 | 行った所

難読地名である。地元民以外ですっと読める人は少ないのではないか。美濃の奥も奥、越前との国境、白山南麓の山深い所である。
白山禅定道の白山中居神社を抱え、住民すべて白山神社の社人として不輸の権を主張してきた。
しかし近世に入ると税金はともかく、何らかの形で幕藩体制の支配に組み込まれなければならなかった。宝暦年間には美濃の郡上藩の行政的支配を受けた。
老人・女・子供を含む500人以上もの住民が集落を追い出され、3年も彷徨い、結果として70人以上が死亡したという石徹白騒動の悲劇は、郡上藩の無能で強欲な体質、杉本豊前という一神官の私利私欲、石徹白に掛所を持った東本願寺の思惑などが一体になって起こったようだ。なかなか複雑でうまく呑み込めないところもあるがそのようだ。追放された社人の代表が江戸の幕府に訴え出て、最終的には郡上藩の金森家の改易、杉本豊前の死罪などで決着した。
金森家は織田信長に仕えた金森長近を祖とするが、長近には実子はなく養子でつないだようだ。
山間の集落といっても貧しいとは限らない。山の中に驚くような寺院があることがある。多くは立派な僧が都会のパトロンを得て、俗を離れ庵を結んでいたわけではない。地域の富が寺院に集積するのだ。山持とはすなわち金持の事だった。更に石徹白には白山信仰を背景にした利権があった。御師として白山牛王の御札・薬草を売り歩いた。
杉本豊前は自分の持山でもない山の木を切り出し、材木として出荷し巨利を得た。その利の一部を郡上藩役人に渡した。更に税金も払うというのだ。郡上藩は豊前の言い分を丸呑みする。郡上藩は豊前からの賄賂を幕府要人に回す。追放された側の訴えがなかなか通らなかったのはその所為だろう。
当時郡上藩が抱えていた問題は石徹白だけではなかった。宝暦年間(1751-1764)は財政悪化に悩む藩が多くなるが、郡上藩も例外ではなく、税収アップを狙い定免法を検見法に変えようとして、農民の猛反発を食らう。郡上藩の対応の拙さもあって、大一揆に発展し、農民代表は江戸での直訴に及ぶ。

石徹白は越前大野郡になっていたこともあるらしい。石徹白川は西に流れ下る。九頭竜水系になる。しかし現在福井県側からのアクセスは悪い。まず冬場は通行止めである。158号線というか中部縦貫道の九頭竜ICの東から北に曲がっていくのだが、スキー場への道と分かれてからは石徹白川に沿う道となる。これが路肩の崩れが目立つ悪路なのだ。対向車が来たらどうしようと思うのである。渓流釣りの人を見かけ、人がいると安心する。
石徹白まで出ると開けた感じになる。
*石徹白案内板
中居神社は趣あるところだ
*中居神社鳥居
*鳥居前案内板
*鳥居前案内板拡大
*鳥居前案内板
*境内
*境内
*拝殿への道
*拝殿への道
*宮川(石徹白川に合流か)
杉木立を抜け、石徹白川を渡り、拝殿に向かうのである

*中居神社絵図
*泰澄堂址

 中居神社 階段を上がったところが本殿
*由緒
*由緒
*本殿説明版
*本殿欄間
*本殿の右わきから美濃禅定の路が伸びる。

石徹白から白鳥方面へ向かう。
越美南線が第三セクター長良川鉄道になっていて、その最北端の駅「北濃」に可愛い電車が停まっていた。
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道の駅白鳥に隣接して白山文化博物館がある。白山そのものと白山信仰にフォーカスした施設だ。
かつては中居神社にあり、明治の廃仏毀釈で移されたという虚空蔵菩薩像がある。これは優品だ。藤原秀衡が寄贈したという伝承がある。
最古の年号の入った陶磁器という長瀧神社から出た正和の壺がある。加藤藤九郎の永仁の壺のモデルとなったものだ。

長瀧神社境内には宝暦の一揆の碑がある
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