物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

龍華越え

2021-01-05 | 行った所

平治物語によれば、平治元年12月27日、義朝一行は龍華越えで京都を脱出する。
六波羅での戦いは、衆寡敵せず北へと逃げるしかない。
「義朝は、相従ひし兵ども、方々へ落ち行て小勢となりて、叡山西坂本を過ぎて、小原の方へと落ち行ける。」

西坂本というのがどこかよくわからない。叡山東側の坂本に対するところで、比叡山への登り口となるところだろう。左京区一乗寺・修学院付近とされるそうだ。
小原は大原だろう。八瀬には叡山西塔の法師が手ぐすね引いて待ち構える。

川端通を北へ走る。出町柳、以前大原に行った時はここから電車、八瀬でバスに乗り換えたような。ともかく出町から大原まで十数キロはあるだろう。曲がりくねった山道である。建礼門院徳子はほんとにこんなところまで来たんかいな、と思わないでもないけれど、大原女は野菜を担いで京の町まで売り歩いたのだ。
 建礼門院徳子墓

 寂光院入口

平家物語では、徳子はここで仏像の手に掛けた紐を握って死んだことになっているけれど、どうやら晩年は京都の妹の家で過ごしていたらしい。 


後白河の大原御幸にしたところで、裏の取れない話に違いないが、灌頂巻は物語作者の真骨頂、特に六道語りはさしもの後白河も言葉を挟めず聞き入るのみだ。阿波内侍という女が出てくる、信西の娘か孫かということだが、信西の妻紀伊の二位は待賢門院に仕え雅仁親王(後白河)の乳母になった。紀伊の二位は治承三年の政変で鳥羽に幽閉された後白河に付いて行っている。阿波内侍が紀伊の二位娘かどうかはわからないが、親しい関係だったのだろう。

寂光院を出て幹線(367号線)に戻り、更に上る。高雄の方から162号線で小浜に出たことがあるが、あの辺りより山があれている感じだ。

龍華越を別名途中越という。途中トンネルがある。トンネルの上の山は廃棄物の処理場になっているようだ。
トンネルを出るとすぐ道は分かれる。花折峠へ向かう367号から別れ477号に入り、和邇川に沿って下っていく。
見かけた神社に入る。
遷来(もどろぎ)神社だ。

桓武妃の藤原百川の娘旅子の伝承を持つ神社だが、神社にあった説明板では、義朝一行はこの地に逃れ来て、還来神社に武運長久を願った。後に頼朝が感謝して土地を寄進した、ということだ。何に描いてあるのか知らない。

しかし平治物語では義朝達はこの龍華で延暦寺横川の僧兵に襲われ、後藤兵衛尉実基の奮戦でここも駆け抜けるが、義朝叔父の義隆が討ち死にする。更に次男朝長も足に矢傷を負っていた。
この神社に参ったのは、法師の襲撃を受けた後か前なのか。義朝家族に限っても義朝と三人の息子、義平・朝長・頼朝の4人のうち戻れたと言えるのは頼朝一人だけだ。あまり確率のいいご利益ではない。

更に下り、伊香立香の里資料館というのがあったので寄ってみる。
地質的の面白いところなのか、江戸時代にナウマンゾウの骨が掘り出されたそうだ。竜骨が出たと言って大騒ぎになったそうだ。

地方の小さな博物館だから民俗資料が多いのだが、藤原旅子の出身地ということが郷土の誇りでもあるらしい。
山がちながら開けた良いところに見える。

伊香立の歴史という小冊子をもらった。大津市史の内、この地方の部分の抜き書きだそうだ。文献資料もついていて、保延元年(1135)荘園に賦課がかかった時、延暦寺無動寺の僧の訴えにより賦役が免除されたというものがある。龍華の荘・伊香立の荘は延暦寺の傘下になっていたのなら、義朝達が龍華で横川の僧兵に襲われて不思議はなかったのだろう。

ほどなく161号線に出たので湖西を北上して帰る。

道の駅妹子の里駐車場より。ここらは晴れているが、比良は雪だ。

 

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京の源氏址 為義の墓 六孫王神社 牛若丸産湯井 附けたり藤原忠実

2021-01-05 | 行った所

七条通を千本辺りで南にすこし下り、なんとか駐車場を見つけ出すと、権源寺という寺を探す。その近くに為義の墓があるはずである。

 七条通に標識あり

七条通を探して歩く方が早かったようだ。

わずかに南にあるはずの六孫王神社に行きたいのだが、東西方向へ走る鉄路が南北の行き来を遮る。結局七条を東に行き、大宮通を南下する。


六孫王会館にびっくり、いささか古びてはいるが3階建ての建物だ。会員は源氏の子孫を名乗る人たちなのだろうか。

  楼門がある

 六孫王こ と、源経基の歌碑

経基は将門・純友の乱では狂言回しのような役回りしかしないのであるが、武門源氏の祖ということになっている。

北が右側なので見慣れない感じではあるが、六孫王神社は鉄路を挟み梅小路公園即ち西八条邸に隣接している、というよりここも西八条邸の一部に違いない。清盛の正室時子の館で、安徳と清盛が遊んだというここはかつては源氏の館と言っていいところではなかったか。

 

一気に北上し北大路へ紫野である。源義経:牛若丸の産湯井・胞衣塚。どうも眉唾だけど見ておこうかと・・・
 畑地の中にあり、柵がある。 案内板もあった。
写真を撮っていると、いきなり話しかけられた。私ら拙いことしてるやろか?と思ったら畑地の持ち主だった。入れてやる、とのありがたいお申し出、いろいろ説明してくださった。

 産湯跡の碑 別面に応永2年の文字があるとのことだが、分からなかった。

 井戸は深いようだった

 胞衣塚

義朝の別宅もこの辺にあったが今はないとのこと。
この方のお宅はこの近所で立派な蔵のあるお家だが、850年の由緒を誇るらしい。軒丸瓦に笹竜胆の紋が入る。

 

北大路を東に少し行くと常徳寺という寺がある。

義経ゆかり、との看板がある。どういうことかわからなかったが、常盤が安産を記念したとか。牛若丸の安産を祈願したなら今若、乙若の安産も祈願しただろう。牛若の産湯は今若・乙若とは違うのか。阿納全成・義円はどう思うのか。義円は義経の台頭と没落を前に死んだ。全成は全て見ただろう。

というよりここは知足院。藤原忠実の蟄居の場所。保元乱後、忠実はここに幽閉された。「忠通の十一男慈円は著書『愚管抄』の中で、祖父である忠実が死後に怨霊となって自分達(忠通の子孫)に祟りをなしていると記述している。」というのはウィキペディアだが、忠実・頼長VS忠通はどっちもどっちのひどさだった。

近くの今宮神社 今宮というと大阪の今宮戎しか思いつかなかったがたくさんあるようだ。ここは大徳寺も近い。

兎のような耳に、何故かにんまり笑っているような神馬があった。

 

 

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伏見 京橋

2021-01-05 | 行った所

 伏見京橋 上から川上方向

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鳥羽歩き

2021-01-05 | 行った所

現在の鴨川はJR線等の鉄路を過ぎると南北の流れを西南方向へと変える。京都南ICの北を流れ、桂川へと合流する。しかしかつてはもっとぐっと南によって流れたらしい。その旧鴨川と桂川との合流地点の北側に鳥羽離宮は営まれた。
以前アスニー(京都市生涯学習総合センター)で手に入れた「院政期最大の遺跡 鳥羽離宮を歩く」という60ページ余りの冊子がある。これを手に鳥羽の地をうろうろしてみようというのだ。

一号線を南下すると城南宮の近くへ出る。鳥羽作道は一号線より少し西側を走っていたらしいけれども京から鳥羽殿に向かう道としては正しいだろう。城南宮の駐車場に車を置く。

 

城南宮は鳥羽離宮の鎮守社、流鏑馬や競馬(くらべうま)が良く行われた。鳥羽と崇徳はともに競馬好き、二院で、或いは美福門院も加え、相携え観戦に赴いたものらしい(「保元平治の乱と平家の栄華」)
馬場は現参道の辺りらしいが、それを示すようなものはない。賀茂神社の馬場は見たが、あのようなものだったろうか。
下鴨神社「今昔蘇る古代祭祀の風光」から

ここは熊野詣の出発点ともなっている。

鳥羽は20回以上も熊野に出かけたらしいが、一度だけ崇徳と共に行っている。崇徳はあまり出歩きが好きではなかったらしく、熊野詣は一度だけだ。(「保元平治の乱と平家の栄華」)鳥羽で精進して出かけたというからここからだろう。

城南宮を西へ歩くとほどなく第二京阪が頭上を走る広い道に出る。通り名は油小路となっていた。その道を少し北上すると白河陵だ。

 

 周濠が作ってある

白河はこの時代の人としてはたいそう長命で、死の直前まで治天の君として君臨した。院政を開き、これまでの社会さえ大きく変わる原動力ともなった人だけにひとかどの人間ではあったのだろうが、いったん好きと思い込んだ人間に対する愛着は狂乱と思しく、愛娘の死にの嘆き著しく、菩提を弔いましょうなどと云ってくる者には脇も甘くなる。平家が台頭のきっかけをつかんだのはこれだ。仏教への傾倒も著しく、せめて鎮護国家を願えよと云いたいが、祈ったのは死後の極楽往生だ。この人の頭がもう少し違った風に働けば、藤原忠実・待賢門院・崇徳帝はもっと違った人生を送っただろう。

天皇陵と云われるものは皆同じような設えがみられる。だから天皇家の墓は大昔から連綿と同じような形式で作られていたと思う人がいて驚くこともある。たいてい明治時代の仕業だ。百何十代かの天皇の墓を片っ端から当て嵌めあるいは作ったのだ。しかも宮内庁はいったん決めたら間違いを認めないし、陵墓となったものは調査が不可能となる。陵墓だけではなく陵墓参考地もそうだ。

白河陵から第二京阪を挟んで東に北向不動があり、その奥が安楽寿院・近衛の墓となる。

 安楽寿院

 鳥羽陵

 近衛陵

川の合流地点だから当然湿地が多い。各殿を行き交うのには船を用いた。久安2年(1146)鳥羽と崇徳は同船で桂殿から馬場へ向かったという(前掲書)桂殿というのはどこかわからないのだけれど。

 


安楽寿院近くで猫さんを3匹見かけた。

油忠という不動産屋の看板が多かった。元はここらしい

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平清盛死亡推定地

2021-01-05 | 行った所

平盛国は清盛の股肱の郎党だ。伊勢平氏で一族だろうが、郎党化したのだろう。平家物語によれば、一の谷で猪俣範綱に騙し討ち同様討ち取られた盛俊は嫡男だ。盛国は平家滅亡後鎌倉に送られるが、自死したという。すでに老齢であっただろう。
その屋敷は八条の末とも九条の末ともいうが、ここでは八条説を取っている。


清盛は福原へ移動したのち、京都では西八条の時子の所より盛国屋敷に宿泊することが多かったようだ。そしてここで熱病により死亡する。
更にここは高倉天皇の出生地だと言われる。母は平滋子、後の建春門院である。
それが清盛の郎党の屋敷で子を産んだ。
おそらく清盛は妻時子の腹違いの妹の美貌に目をつけ、後白河に薦めたのだろう。同じ堂上平家平時信の娘とは言っても、時子と時忠の母は二条大宮の半者とか、一人前扱いされないものだったのに対し、滋子の母は中納言・藤原顕頼の娘というから、こちらは立派な公家の娘である。上西門院の女房から後白河の愛妃へ、更に皇子を産み国母となった。清盛の思惑もよく理解し、後白河との間を取り持った。彼女の死後、清盛と後白河はさまざまに対立していく。



清盛死亡推定地の近くにあった碑

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草津宿

2021-01-05 | 行った所

京都に入る前に草津に寄る。

草津は東海道・中山道の分岐点だ。京都から東に向かえば大津の次が草津、草津から東海道に入れば次は石部、中山道なら守山になる。

  草津宿本陣 

草津宿街道資料館

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大笹原神社・三上神社 

2021-01-05 | 行った所

竜王アウトレットで使い勝手のよさそうなリュックを手に入れ、8号線(旧中山道・東山道)へ出て西に向かう。
おなじみになった鏡の里を通り、宗盛の墓を過ぎ、大篠原から大笹原神社というのにも寄ってみる。

 大笹原神社入口

 

 大笹原神社拝殿

 大笹原神社本殿

 

 三上神社付近図 

  三上神社楼門


 三上神社本殿

 

端正な三上山のふもとにある。

 

 

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