平治物語によれば、平治元年12月27日、義朝一行は龍華越えで京都を脱出する。
六波羅での戦いは、衆寡敵せず北へと逃げるしかない。
「義朝は、相従ひし兵ども、方々へ落ち行て小勢となりて、叡山西坂本を過ぎて、小原の方へと落ち行ける。」
西坂本というのがどこかよくわからない。叡山東側の坂本に対するところで、比叡山への登り口となるところだろう。左京区一乗寺・修学院付近とされるそうだ。
小原は大原だろう。八瀬には叡山西塔の法師が手ぐすね引いて待ち構える。
川端通を北へ走る。出町柳、以前大原に行った時はここから電車、八瀬でバスに乗り換えたような。ともかく出町から大原まで十数キロはあるだろう。曲がりくねった山道である。建礼門院徳子はほんとにこんなところまで来たんかいな、と思わないでもないけれど、大原女は野菜を担いで京の町まで売り歩いたのだ。
建礼門院徳子墓
寂光院入口
平家物語では、徳子はここで仏像の手に掛けた紐を握って死んだことになっているけれど、どうやら晩年は京都の妹の家で過ごしていたらしい。
後白河の大原御幸にしたところで、裏の取れない話に違いないが、灌頂巻は物語作者の真骨頂、特に六道語りはさしもの後白河も言葉を挟めず聞き入るのみだ。阿波内侍という女が出てくる、信西の娘か孫かということだが、信西の妻紀伊の二位は待賢門院に仕え雅仁親王(後白河)の乳母になった。紀伊の二位は治承三年の政変で鳥羽に幽閉された後白河に付いて行っている。阿波内侍が紀伊の二位娘かどうかはわからないが、親しい関係だったのだろう。
寂光院を出て幹線(367号線)に戻り、更に上る。高雄の方から162号線で小浜に出たことがあるが、あの辺りより山があれている感じだ。
龍華越を別名途中越という。途中トンネルがある。トンネルの上の山は廃棄物の処理場になっているようだ。
トンネルを出るとすぐ道は分かれる。花折峠へ向かう367号から別れ477号に入り、和邇川に沿って下っていく。
見かけた神社に入る。
遷来(もどろぎ)神社だ。
桓武妃の藤原百川の娘旅子の伝承を持つ神社だが、神社にあった説明板では、義朝一行はこの地に逃れ来て、還来神社に武運長久を願った。後に頼朝が感謝して土地を寄進した、ということだ。何に描いてあるのか知らない。
しかし平治物語では義朝達はこの龍華で延暦寺横川の僧兵に襲われ、後藤兵衛尉実基の奮戦でここも駆け抜けるが、義朝叔父の義隆が討ち死にする。更に次男朝長も足に矢傷を負っていた。
この神社に参ったのは、法師の襲撃を受けた後か前なのか。義朝家族に限っても義朝と三人の息子、義平・朝長・頼朝の4人のうち戻れたと言えるのは頼朝一人だけだ。あまり確率のいいご利益ではない。
更に下り、伊香立香の里資料館というのがあったので寄ってみる。
地質的の面白いところなのか、江戸時代にナウマンゾウの骨が掘り出されたそうだ。竜骨が出たと言って大騒ぎになったそうだ。
地方の小さな博物館だから民俗資料が多いのだが、藤原旅子の出身地ということが郷土の誇りでもあるらしい。
山がちながら開けた良いところに見える。
伊香立の歴史という小冊子をもらった。大津市史の内、この地方の部分の抜き書きだそうだ。文献資料もついていて、保延元年(1135)荘園に賦課がかかった時、延暦寺無動寺の僧の訴えにより賦役が免除されたというものがある。龍華の荘・伊香立の荘は延暦寺の傘下になっていたのなら、義朝達が龍華で横川の僧兵に襲われて不思議はなかったのだろう。
ほどなく161号線に出たので湖西を北上して帰る。
道の駅妹子の里駐車場より。ここらは晴れているが、比良は雪だ。