あわら市の番田(ばんでん)駅(越前鉄道)の近くの田んぼの中に、堀江氏番田館跡の碑がある。
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*裏切りの歴史には触れていない
*碑の周りの風景
すぐ南に竹田川が流れ、川を渡り少し西にある本荘小学校の脇にも碑がある。平泉某の名のある碑銘がある。古い五輪塔もある。
*本荘小学校脇の碑等
本荘小学校に隣接する春日神社も堀江氏と所縁があるらしい。
本荘とは荘園の中心的な場所であろうから、興福寺の荘園河口・坪江荘の中心となったところであろうか。
堀江氏は藤原利仁将軍の末裔、越前斎藤氏を自称する。とはいえ越前、北陸の武者の大半はそう自称しているのだけれど。長享2年(1488)加賀一向一揆が攻勢を極め、加賀守護富樫政親が敗死した時、堀江氏は同族なれば、富樫氏救援に向かおうとしたという。
現あわら市の竹田川流域に開けた本荘付近に勢力を張った豪族で、興福寺荘園の荘官を務めた一族らしい。細呂木の細呂木氏・金津の大溝氏とも関連がある。
南北朝期には斯波高経(北朝方)についた。細呂木の指中には新田義貞方の畑時能の川口城址がある。それなりの戦乱があったのだろう。1338年に新田義貞は戦死し、斯波が勝利し、斯波は越前の守護となる。堀江は勝ち組だったのだろう。
応仁・文明の乱を経て、斯波は失墜し、朝倉氏が台頭する。
その朝倉氏の盛衰を記した「朝倉始末記」から堀江氏の動向を見ていく。堀江氏は朝倉氏の家臣化したようだ。特に朝倉孝景(英林)に気に入られ側近になった者もいたようだ。主に朝倉教景(宗滴)の対加賀一向一揆戦に有力な戦力として活躍する。しかし朝倉義景の代、永禄10年(1567)に至ってその一向一揆と手を結び、朝倉氏を裏切り、越前から追われる。
朝倉滅亡後、席巻する一向一揆と共に越前に戻ってくる。しかし織田信長の越前再侵攻を前に、今度は信長に通じ、一揆方を裏切るのだ。100年ほどの歴史の中で前半と後半では一族のありようが随分と違うようだ。戦国時代末期の世相では変わらないものはないのかもしれないが。
この堀江氏の中心となる人物は、朝倉始末記でも本ごとに表記が違ったりしてよくわからない。一応、景用―景実―景忠―景実と拾える。一覧表にしてみた。
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若くして朝倉孝景(英林)に見いだされ、蓮歌の才も発揮し武将としても活躍する堀江景用は、福井市史収録の始末記では景重という名になっているのだが、エピソードはほぼ同じだし、市史の注記にも景用のこととあるので、景用と呼んでいいのだろう。景用は不思議な出生譚を持つ。父堀江景経は笛の名手、ある晩、野で笛を吹き、若い女と知り合い結婚する。出産時、女は決して見るなというのだが、異類婚姻譚のお約束通り、女は大蛇の本性を現し、去っていく。残された赤ん坊が景用で、脇に3枚の鱗があった。よくあるといえばよくある話ではあるが、何やらただならぬ人物像を示そうとしたような話でもある。
戦国時代、連歌師は諸国を巡って不自然ではない人々で、しばしば戦国大名の諜報活動もしたという。京都で連歌の修業をしたという景用は、その人脈から朝倉の諜報活動を束ねたというのは空想になるだろうか。
越前は、朝倉孝景(英林)以降、5代100年の平和があったというけれど、孝景は子供も多く、弟もたくさんいた。お家騒動めいた話は当然ある。
英林孝景の後は子の氏景が継ぎ、氏景子の貞景へと継承されるのだが、氏景の弟の中に教景(宗滴ではない)がいた。教景は代々当主の名といわれる。その教景をすぐ上の兄景総が殺した。自分より待遇のいい弟を嫉んだというが、自分にもチャンスがあるはずだと思ったからではないのか。この事件での氏景の関わりはわからない。景総は蟄居したらしいが、殺されもせず、後には越前を出て、細川政元のところへ行って元景と改名をしている。それなりの支持とコネがあったのだろう。
この景総の娘を娶っていたのが朝倉景豊、敦賀郡司である。景豊の父は景冬といい英林の弟。文明・応仁の乱で京都で活躍し朝倉の小天狗と呼ばれたという。この景冬の娘を娶った者、即ち景豊の義兄弟に当たるものの名が数名挙がっている。朝倉教景(宗滴、殺された教景同母弟)・堀江景用or景実・鳥羽馬助・正蓮華太郎である。鳥羽・正蓮華は朝倉の有力国侍だ。
文亀3年(1503)教景(宗滴)は、突然出家した後、一乗谷の貞景を訪ね、敦賀郡司景豊の謀意を告げる。貞景は敦賀へ出兵し景豊を討つ。教景はもちろん、堀江・鳥羽・正蓮華、誰も景豊に与しなかったが、景豊と元景(景総)とは連携し貞景を討つ計画があったが、国外の元景は間に合わなかった。
元景は加賀から越前侵攻を謀るが、追い払われる。元景と共に戦い討ち死にしたものに堀江兵庫というものがいるが、景用・景実との関係はわからない。
永正3年(1506)加賀の一向一揆が大挙して越前を攻める。朝倉は九頭竜川の南に陣を敷く。東西10キロメートルにも渡る防衛線であった。教景(宗滴)率いる朝倉勢が川を押し渡って、一揆を加賀へ追い払っているのだが、この時高木に陣を敷いた中に堀江景実がいる。朝倉は海上交通の点でも一揆の通行を禁じ、海上に関を設けた。その警固役にも景実の名が挙がっている。
享禄4年(1531)加賀では享禄の錯乱とも呼ばれる大小一揆、一揆内部の争いがおこるが、それに乗じ、朝倉は加賀へ大規模出兵をする。教景(宗滴)に率いられた朝倉勢は手取川付近までも攻め込む。この中にいるのは堀江景忠だ。永正3年から25年、堀江家も代替わりしたのだろう。
加賀への大規模出兵は弘治元年(1555)にも行われ、やはり景忠が活躍している。
この頃までは堀江氏は朝倉勢の有力な戦力であった。
その堀江氏は、永禄10年(1567)には一向宗に通じての謀反が噂される。懲罰に来た軍と合戦に及び、能登へと退去する。朝倉始末記には朝倉景鏡の陰謀だとあるのだが、本願寺から堀江に宛てた文書があり、内通は事実のようだ。長年戦ってきた一揆勢と手を結んだの何故なのだろうか。
朝倉義景に命じられた魚住景固・山崎吉家は手勢を率い、金津の溝江と共に堀江を攻める。*溝江館跡
堀江は激しく抵抗するも一族の最期かと思われたが、ここで仲裁が入る。
堀江景忠は、武田義統の娘を娶っていた。若狭武田は内紛もあって弱体化し、朝倉を頼らざるを得ない有様ではあったが名門ではある。武田義統の娘は他に、朝倉孝景(宗淳)の妻即ち義景の母・高田派本流院真孝の妻がいる。
*三国町加戸本流院
真孝の仲裁・母の嘆願あって、義景は堀江に追放を命じる。堀江氏はいったん真孝のいる加戸へ入り、それから加賀へ、更に能登へ向かう。
高田派本流院真孝を永正3年(1506)九頭竜川の戦いに高田派を率いて参戦した同名の者とするならば、既に高齢であろう。朝倉義景は天正元年(1573)に死んだ時41歳というから、永禄10年(1567)には30代半ばのはずで、その母は50歳以下ではないだろう。姉妹の年の差は測りがたいが、景忠は60代とみていいだろう。
堀江の乱で出てくる名前は、堀江中務丞景忠・左衛門三郎景実・堀江父子、更に左衛門三郎利義とある。この景実は永正3年(1506)に出てきた景実と同一人物ではないだろう。祖父の名を名乗ったのだろうか。利義は景実が朝倉の通じを使った名を捨て改名したのだろう。乱の中心は景忠・景実父子だろう。
堀江氏は能登のどの辺に行ったのだろう。どうやって暮らしたのか、本願寺から扶持のようなものは出たのだろうか。
天正元年(1573)朝倉氏のあっけない崩壊の後、一年とたたぬ間に越前は一向一揆が席巻する。
加賀の一向一揆と共に、堀江氏が越前に戻ってくる。やはり本荘の堀江館付近に入ったのだろうか。
天正3年(1575)織田信長の再侵攻を前に、一揆勢は木の芽峠を中心に防衛の陣を配置する。その頃には一揆はすでにその団結力を失っていたのだけれど。
堀江氏は杉津の守りを任されていた。敦賀半島を押さた織田勢の上陸を阻むはずだった。しかし、堀江は既に内通の使者を信長に送っている。
そして織田勢を迎え入れ、一揆に攻撃を始めたのだった。
*杉津 北陸高速道路下り杉津PAから 敦賀湾を挟んで敦賀半島
この時の堀江の名は中務丞景実とか、左衛門三郎景実とか、左衛門三郎利義とか定まらないが景忠はいないようだ。
堀江は内通の恩賞に本領安堵の他、加賀の2郡を要求したようだが、ずいぶん強気すぎる要求に見える。信長は朝倉滅亡後、朝倉から織田へ走った前波吉継(改名し桂田長俊)を守護にしているのでそれくらいは、と思ったか。
堀江景実は加賀大聖寺の津葉城におさまったとか。
朝倉始末記には見えないが、その後恩賞に不平を言って殺されたとか。