物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

石徹白(いとしろ)

2024-07-25 | 行った所

難読地名である。地元民以外ですっと読める人は少ないのではないか。美濃の奥も奥、越前との国境、白山南麓の山深い所である。
白山禅定道の白山中居神社を抱え、住民すべて白山神社の社人として不輸の権を主張してきた。
しかし近世に入ると税金はともかく、何らかの形で幕藩体制の支配に組み込まれなければならなかった。宝暦年間には美濃の郡上藩の行政的支配を受けた。
老人・女・子供を含む500人以上もの住民が集落を追い出され、3年も彷徨い、結果として70人以上が死亡したという石徹白騒動の悲劇は、郡上藩の無能で強欲な体質、杉本豊前という一神官の私利私欲、石徹白に掛所を持った東本願寺の思惑などが一体になって起こったようだ。なかなか複雑でうまく呑み込めないところもあるがそのようだ。追放された社人の代表が江戸の幕府に訴え出て、最終的には郡上藩の金森家の改易、杉本豊前の死罪などで決着した。
金森家は織田信長に仕えた金森長近を祖とするが、長近には実子はなく養子でつないだようだ。
山間の集落といっても貧しいとは限らない。山の中に驚くような寺院があることがある。多くは立派な僧が都会のパトロンを得て、俗を離れ庵を結んでいたわけではない。地域の富が寺院に集積するのだ。山持とはすなわち金持の事だった。更に石徹白には白山信仰を背景にした利権があった。御師として白山牛王の御札・薬草を売り歩いた。
杉本豊前は自分の持山でもない山の木を切り出し、材木として出荷し巨利を得た。その利の一部を郡上藩役人に渡した。更に税金も払うというのだ。郡上藩は豊前の言い分を丸呑みする。郡上藩は豊前からの賄賂を幕府要人に回す。追放された側の訴えがなかなか通らなかったのはその所為だろう。
当時郡上藩が抱えていた問題は石徹白だけではなかった。宝暦年間(1751-1764)は財政悪化に悩む藩が多くなるが、郡上藩も例外ではなく、税収アップを狙い定免法を検見法に変えようとして、農民の猛反発を食らう。郡上藩の対応の拙さもあって、大一揆に発展し、農民代表は江戸での直訴に及ぶ。

石徹白は越前大野郡になっていたこともあるらしい。石徹白川は西に流れ下る。九頭竜水系になる。しかし現在福井県側からのアクセスは悪い。まず冬場は通行止めである。158号線というか中部縦貫道の九頭竜ICの東から北に曲がっていくのだが、スキー場への道と分かれてからは石徹白川に沿う道となる。これが路肩の崩れが目立つ悪路なのだ。対向車が来たらどうしようと思うのである。渓流釣りの人を見かけ、人がいると安心する。
石徹白まで出ると開けた感じになる。
*石徹白案内板
中居神社は趣あるところだ
*中居神社鳥居
*鳥居前案内板
*鳥居前案内板拡大
*鳥居前案内板
*境内
*境内
*拝殿への道
*拝殿への道
*宮川(石徹白川に合流か)
杉木立を抜け、石徹白川を渡り、拝殿に向かうのである

*中居神社絵図
*泰澄堂址

 中居神社 階段を上がったところが本殿
*由緒
*由緒
*本殿説明版
*本殿欄間
*本殿の右わきから美濃禅定の路が伸びる。

石徹白から白鳥方面へ向かう。
越美南線が第三セクター長良川鉄道になっていて、その最北端の駅「北濃」に可愛い電車が停まっていた。
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道の駅白鳥に隣接して白山文化博物館がある。白山そのものと白山信仰にフォーカスした施設だ。
かつては中居神社にあり、明治の廃仏毀釈で移されたという虚空蔵菩薩像がある。これは優品だ。藤原秀衡が寄贈したという伝承がある。
最古の年号の入った陶磁器という長瀧神社から出た正和の壺がある。加藤藤九郎の永仁の壺のモデルとなったものだ。

長瀧神社境内には宝暦の一揆の碑がある
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九頭竜川の戦い

2024-07-20 | 行った所

九頭竜川は越前の北部をほぼ東西に横切り日本海へそそぐ。
永正3年(1506)加賀一向一揆が大挙して越前に南下した。その勢30万というのだが、いくら何でも数字が大きすぎるだろう。半数としてもまだ多い。もちろん加賀一国の一向宗徒だけではない。越中・能登・越前の門徒、朝倉に越前を追われた旧守護・守護代の残党、朝倉孝景の子でありながら弟を殺し、細川政元のところへ走り永正1年加賀から侵攻した朝倉元景の残党なども加わっている。
朝倉氏は、九頭竜川を防衛ラインとした。寄せての攻め口は4つ、東から鳴鹿(なるか)・中の郷・高木・中角(なかつの)。それぞれ渡しのあった所だろう。それくらいしか渡河場所はなかっただろう。中の郷が攻め手の主力、10万を超える大軍とある。
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朝倉氏の対応もそれに応じたものとなる。鳴鹿には志比の河原に朝倉景職が魚住景固等諸臣を率いて陣を敷く。鳴鹿は平安期から用水の取入れ口があった。現在でも大堰がある。
*鳴鹿の大堰
中の郷は総大将朝倉教景(宗滴)が藤島城に入った。藤島荘という荘園があったが、南北朝期、城郭が造られ、斯波・新田の争うところになった。何も残っていないようなものだが、西超勝寺の裏に土塁のような跡が少しある。
*西超勝寺裏
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高木口には堀江・細呂木・勝蓮華等九頭竜川以北を本拠とする有力者が守る。本願寺派と対立する高田派・三門徒派の門徒も加わっている。後に柴田勝家は北の庄に城を構える。北陸道は北の庄を北上し高木を通り九頭竜川を渡る。勝家はここに舟橋を設置したといわれる。
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中角は九頭竜川北岸に地名を残す。あわら街道と呼ばれる道が南北に走る。えちぜん鉄道も南北に線路が走り中角という駅もある。南岸には新舟橋・灯明寺などのだが、少し西に黒丸町もある。この辺りで九頭竜川は東西の流れを北へと変え、日野川と合流し三国へ向かう。黒丸には小黒丸という城郭があったという。
*小黒丸城の碑
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小黒丸城址の近くの白山神社の碑にも斯波氏の城郭云々があった。


*小黒丸跡から九頭竜川の土手が見える
山崎祖桂父子率いる勢は小黒丸城に入ったという。
この戦いでは使われなかったようだが小黒丸の北5キロほどのところに黒丸城があった。南北朝斯波高経方の城で朝倉広景が守っていたという。布施田橋西詰め北に独立小丘陵があり、九頭竜川の水運の見張りも果たしただろう。

*黒丸城址

九頭竜川南岸中角の対岸堤防下に一向一揆の首塚というものがある。

 

一揆の首塚付近から小丸城方向

数的にはどこの陣も皆一揆勢が圧倒的に有利だったようだ。
戦闘は中角で一揆勢が川を押し渡るところから始まる。騎馬武者が数名渡岸しようとするが、朝倉勢はこれを阻む。一揆の大将が討ち取られたことで、一揆勢は数に勝りながら気勢をそがれる。
高木では一揆勢が馬筏で川を押し渡りながら、朝倉の守備に阻まれた。
鳴鹿では急流を渡れず、矢戰になった。
中の郷では、宗滴以下の朝倉勢が逆に川を押し渡り攻めかかる。渡河をためらう宗滴に貞景が命じたという。
朝倉勢は一気に攻撃に転じていく。追撃に一揆勢はもろかった。
越前を追われ加賀へ逃げかえったのは総勢の3分の一にも満たない大敗であった。討ち死にが多かったというより逃散であったのだろう。

この永正3年7月の加賀一揆の大侵攻には前哨戦があった。永正3年3月には越前・近江国境から本願寺実如が動かした一揆勢が南から越前侵入を図った。これを朝倉氏は追い払っている。
7月の一揆南下を前に敦賀にあった朝倉教景(宗滴)は一乗谷に赴く前に、南条の大塩円宮寺・鯖江の石田西光寺などの一向宗坊主を捕らえて、一乗谷に連行している。後方の憂いを除いたのだろう。
本願寺実如は細川政元と手を組み、越前を狙ったというが、北の加賀・南の近江の一揆を同時に動かすことはできなかったようだ。それができていたとしたら、朝倉はこの時点でもたなかったかもしれない。

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下間頼照死没場所

2024-07-14 | 行った所

三国町下野の下野神社は九頭竜川の堤防を降りてすぐのところにあり、白山神社である。

拝殿に登れば鳥居越しに白山が望める。
神社には台座の赤色が目立つ小さな地蔵堂があり、下間頼照の供養碑となっている。
*地蔵堂供養碑
*地蔵堂
下間筑後頼照は本願寺の坊主だ。それも法橋という高い地位にある法主顕如の側近だ。
天正2年(1574)越前一向一揆が荒れ狂い、朝倉家の旧家臣たちを殺し、または追い払い、織田の武将たちも追い出した。本願寺派喜んだ、越前一国が自分たちの領地になったと思ったのだ。加賀の大坊主たちも入ってきたが、直接支配したかったのか、石山本願寺から側近を派遣した。それが下間頼照だった。本願寺の大坊主は坊主といっても貴族と同様だ。絹物を着、口も奢っている。そんな上級坊主がお付を引き連れてやってきた。その連中の威張ること、威張ること。加賀並の自治を期待した現地の失望は大きかった。
「坊主には極楽往生をこそ頼んでいるが、下僕のように召し使われるのは承服できない。我々は富田・桂田以下の諸侍を退治したのは、自分たちで国・郡を治めたいと思ったからだ。この思いで強敵を討ち滅ぼしたのに、何も知らない上方衆の下知で彼らの下知で彼らの思いのままにされるとはもってのほかだ。」(辻川達雄「織田信長と越前一向一揆」)これが現地の門徒宗の本意だ。
一揆は織田信長の再侵攻を前に既に崩壊しかけていた。
それでも大坊主たちは門徒をかき集め、木の芽峠を中心に、信長軍に対応しようとする。木の芽城西光寺丸・鉢伏山観音寺丸・虎杖城・火打城・杉津城・中河内丸・河野城・河野丸砦、下間頼照は火打城に入る。本覚寺・超勝寺・興行寺・本向寺などの大坊主たちも各城郭に入る。しかし士気の低下は如何ともしがたい。脱走相次ぎ、砦は雨漏りする。食料確保もままならない。
杉津の守備に就いたのは堀江景実という武将だが、既に敦賀の信長に内通の使者を送っている。敵を追い払うどころか迎え入れ、逆に襲ってくるのだから堪らない。
織田勢は一気に越前中央部に入り、大虐殺が始まる。
その中で、頼照は逃亡を図る。いち早く火打を出て府中に入ったのだろうが、日野川を渡れずそのまま北上する。三国湊を目指し、三国から加賀へというつもりだったのだろう。


乞食僧の身なりだったという。外見は乞食でも下着は絹物、胴巻きには金子を巻いていたことだろう。
日野川は九頭竜川と合流し河口へ向かう。下野付近では川幅は大きい。どうやって川を渡ろうかと思案したことだろう。
下野の地蔵堂付近で村民と遭遇する。高田は門徒だ。同じ親鸞の教えから発したとはいえ、高田派と本願寺派ではほぼ敵同士だ。
紅絹の褌、鉄漿のあと、上方訛りで本願寺派遣の大坊主と見破られ討取られた。
頼照の首は近くの黒目稱名寺に届けられた。稱名寺坊主は、三国で頼勝を見たことがあったため、見破って柴田勝家に届け出た。勝家は首を信長に届け、稱名寺に感状を出した。

 黒目稱名寺
頼照を殺した村民は基本的には農民だが、兵農分離前である。敵を殺し、落ち武者を討つのに躊躇いはなかっただろう。殺したのは頼照が初めてでもなかろう。それでも、下野神社の碑文にはずいぶん後ろめたいみたいなことが書いてある。戦時と平和な時とで感覚が違うのだろうが、おそらく金子を奪ったりもしているのだろう。
碑文1
碑文2

*碑文3

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堀江氏の事 朝倉始末記から

2024-07-06 | 行った所

あわら市の番田(ばんでん)駅(越前鉄道)の近くの田んぼの中に、堀江氏番田館跡の碑がある。
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*裏切りの歴史には触れていない
*碑の周りの風景
すぐ南に竹田川が流れ、川を渡り少し西にある本荘小学校の脇にも碑がある。平泉某の名のある碑銘がある。古い五輪塔もある。
*本荘小学校脇の碑等
本荘小学校に隣接する春日神社も堀江氏と所縁があるらしい。

本荘とは荘園の中心的な場所であろうから、興福寺の荘園河口・坪江荘の中心となったところであろうか。

堀江氏は藤原利仁将軍の末裔、越前斎藤氏を自称する。とはいえ越前、北陸の武者の大半はそう自称しているのだけれど。長享2年(1488)加賀一向一揆が攻勢を極め、加賀守護富樫政親が敗死した時、堀江氏は同族なれば、富樫氏救援に向かおうとしたという。
現あわら市の竹田川流域に開けた本荘付近に勢力を張った豪族で、興福寺荘園の荘官を務めた一族らしい。細呂木の細呂木氏・金津の大溝氏とも関連がある。

南北朝期には斯波高経(北朝方)についた。細呂木の指中には新田義貞方の畑時能の川口城址がある。それなりの戦乱があったのだろう。1338年に新田義貞は戦死し、斯波が勝利し、斯波は越前の守護となる。堀江は勝ち組だったのだろう。

応仁・文明の乱を経て、斯波は失墜し、朝倉氏が台頭する。

その朝倉氏の盛衰を記した「朝倉始末記」から堀江氏の動向を見ていく。堀江氏は朝倉氏の家臣化したようだ。特に朝倉孝景(英林)に気に入られ側近になった者もいたようだ。主に朝倉教景(宗滴)の対加賀一向一揆戦に有力な戦力として活躍する。しかし朝倉義景の代、永禄10年(1567)に至ってその一向一揆と手を結び、朝倉氏を裏切り、越前から追われる。
朝倉滅亡後、席巻する一向一揆と共に越前に戻ってくる。しかし織田信長の越前再侵攻を前に、今度は信長に通じ、一揆方を裏切るのだ。100年ほどの歴史の中で前半と後半では一族のありようが随分と違うようだ。戦国時代末期の世相では変わらないものはないのかもしれないが。

この堀江氏の中心となる人物は、朝倉始末記でも本ごとに表記が違ったりしてよくわからない。一応、景用―景実―景忠―景実と拾える。一覧表にしてみた。
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若くして朝倉孝景(英林)に見いだされ、蓮歌の才も発揮し武将としても活躍する堀江景用は、福井市史収録の始末記では景重という名になっているのだが、エピソードはほぼ同じだし、市史の注記にも景用のこととあるので、景用と呼んでいいのだろう。景用は不思議な出生譚を持つ。父堀江景経は笛の名手、ある晩、野で笛を吹き、若い女と知り合い結婚する。出産時、女は決して見るなというのだが、異類婚姻譚のお約束通り、女は大蛇の本性を現し、去っていく。残された赤ん坊が景用で、脇に3枚の鱗があった。よくあるといえばよくある話ではあるが、何やらただならぬ人物像を示そうとしたような話でもある。
戦国時代、連歌師は諸国を巡って不自然ではない人々で、しばしば戦国大名の諜報活動もしたという。京都で連歌の修業をしたという景用は、その人脈から朝倉の諜報活動を束ねたというのは空想になるだろうか。

越前は、朝倉孝景(英林)以降、5代100年の平和があったというけれど、孝景は子供も多く、弟もたくさんいた。お家騒動めいた話は当然ある。
英林孝景の後は子の氏景が継ぎ、氏景子の貞景へと継承されるのだが、氏景の弟の中に教景(宗滴ではない)がいた。教景は代々当主の名といわれる。その教景をすぐ上の兄景総が殺した。自分より待遇のいい弟を嫉んだというが、自分にもチャンスがあるはずだと思ったからではないのか。この事件での氏景の関わりはわからない。景総は蟄居したらしいが、殺されもせず、後には越前を出て、細川政元のところへ行って元景と改名をしている。それなりの支持とコネがあったのだろう。
この景総の娘を娶っていたのが朝倉景豊、敦賀郡司である。景豊の父は景冬といい英林の弟。文明・応仁の乱で京都で活躍し朝倉の小天狗と呼ばれたという。この景冬の娘を娶った者、即ち景豊の義兄弟に当たるものの名が数名挙がっている。朝倉教景(宗滴、殺された教景同母弟)・堀江景用or景実・鳥羽馬助・正蓮華太郎である。鳥羽・正蓮華は朝倉の有力国侍だ。
文亀3年(1503)教景(宗滴)は、突然出家した後、一乗谷の貞景を訪ね、敦賀郡司景豊の謀意を告げる。貞景は敦賀へ出兵し景豊を討つ。教景はもちろん、堀江・鳥羽・正蓮華、誰も景豊に与しなかったが、景豊と元景(景総)とは連携し貞景を討つ計画があったが、国外の元景は間に合わなかった。
元景は加賀から越前侵攻を謀るが、追い払われる。元景と共に戦い討ち死にしたものに堀江兵庫というものがいるが、景用・景実との関係はわからない。

永正3年(1506)加賀の一向一揆が大挙して越前を攻める。朝倉は九頭竜川の南に陣を敷く。東西10キロメートルにも渡る防衛線であった。教景(宗滴)率いる朝倉勢が川を押し渡って、一揆を加賀へ追い払っているのだが、この時高木に陣を敷いた中に堀江景実がいる。朝倉は海上交通の点でも一揆の通行を禁じ、海上に関を設けた。その警固役にも景実の名が挙がっている。

享禄4年(1531)加賀では享禄の錯乱とも呼ばれる大小一揆、一揆内部の争いがおこるが、それに乗じ、朝倉は加賀へ大規模出兵をする。教景(宗滴)に率いられた朝倉勢は手取川付近までも攻め込む。この中にいるのは堀江景忠だ。永正3年から25年、堀江家も代替わりしたのだろう。
加賀への大規模出兵は弘治元年(1555)にも行われ、やはり景忠が活躍している。
この頃までは堀江氏は朝倉勢の有力な戦力であった。

その堀江氏は、永禄10年(1567)には一向宗に通じての謀反が噂される。懲罰に来た軍と合戦に及び、能登へと退去する。朝倉始末記には朝倉景鏡の陰謀だとあるのだが、本願寺から堀江に宛てた文書があり、内通は事実のようだ。長年戦ってきた一揆勢と手を結んだの何故なのだろうか。

朝倉義景に命じられた魚住景固・山崎吉家は手勢を率い、金津の溝江と共に堀江を攻める。*溝江館跡

堀江は激しく抵抗するも一族の最期かと思われたが、ここで仲裁が入る。

堀江景忠は、武田義統の娘を娶っていた。若狭武田は内紛もあって弱体化し、朝倉を頼らざるを得ない有様ではあったが名門ではある。武田義統の娘は他に、朝倉孝景(宗淳)の妻即ち義景の母・高田派本流院真孝の妻がいる。

*三国町加戸本流院
真孝の仲裁・母の嘆願あって、義景は堀江に追放を命じる。堀江氏はいったん真孝のいる加戸へ入り、それから加賀へ、更に能登へ向かう。
高田派本流院真孝を永正3年(1506)九頭竜川の戦いに高田派を率いて参戦した同名の者とするならば、既に高齢であろう。朝倉義景は天正元年(1573)に死んだ時41歳というから、永禄10年(1567)には30代半ばのはずで、その母は50歳以下ではないだろう。姉妹の年の差は測りがたいが、景忠は60代とみていいだろう。
堀江の乱で出てくる名前は、堀江中務丞景忠・左衛門三郎景実・堀江父子、更に左衛門三郎利義とある。この景実は永正3年(1506)に出てきた景実と同一人物ではないだろう。祖父の名を名乗ったのだろうか。利義は景実が朝倉の通じを使った名を捨て改名したのだろう。乱の中心は景忠・景実父子だろう。

堀江氏は能登のどの辺に行ったのだろう。どうやって暮らしたのか、本願寺から扶持のようなものは出たのだろうか。

天正元年(1573)朝倉氏のあっけない崩壊の後、一年とたたぬ間に越前は一向一揆が席巻する。
加賀の一向一揆と共に、堀江氏が越前に戻ってくる。やはり本荘の堀江館付近に入ったのだろうか。

天正3年(1575)織田信長の再侵攻を前に、一揆勢は木の芽峠を中心に防衛の陣を配置する。その頃には一揆はすでにその団結力を失っていたのだけれど。
堀江氏は杉津の守りを任されていた。敦賀半島を押さた織田勢の上陸を阻むはずだった。しかし、堀江は既に内通の使者を信長に送っている。
そして織田勢を迎え入れ、一揆に攻撃を始めたのだった。
*杉津 北陸高速道路下り杉津PAから 敦賀湾を挟んで敦賀半島
この時の堀江の名は中務丞景実とか、左衛門三郎景実とか、左衛門三郎利義とか定まらないが景忠はいないようだ。
堀江は内通の恩賞に本領安堵の他、加賀の2郡を要求したようだが、ずいぶん強気すぎる要求に見える。信長は朝倉滅亡後、朝倉から織田へ走った前波吉継(改名し桂田長俊)を守護にしているのでそれくらいは、と思ったか。
堀江景実は加賀大聖寺の津葉城におさまったとか。
朝倉始末記には見えないが、その後恩賞に不平を言って殺されたとか。

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