福井県史によれば「荘園となる以前の「名田郷」は、京都に住む左衛門尉盛信なる人物の私領であったが、仁安三年(1168)にいたり、盛信はこの地を高倉院に仕える伊予内侍の所領であった摂津国野間荘(兵庫県伊丹市)と交換した(『大徳寺文書』三六四号)。「名田郷」を手に入れた伊予内侍は、まもなく立券の手続きを遂げ、数年前の長寛二年(1164)に後白河院の発願によって建立された京都蓮華王院(三十三間堂)を本家と仰ぐ荘園として成立した。」つまり後白河が集積した荘園の一つということになる。
南川沿いに162号線を走る。あまり広い耕地は期待できないように見える。県史にも「山がちな名田荘では、荘民にとっても、また結果的には領主にとっても、山そのものが豊かな財産であったといえよう。」とある。当時の名田荘は広く南川流域全体だったらしい。 (「福井県史」第二章 南北朝動乱と越前・若狭 第四節 越前・若狭の荘園の諸相 二 名田荘 名田荘の成立 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-2-01-04-02-01.htm)
納田終(のたおい)地区にあった案内板。
モニュメントと加茂神社入口↓
賀茂神社本堂
薬師堂
奥が土御門家の墓になる。
この土御門家は藤原道長が邸を構えた土御門殿とは関係なく、安倍晴明の子孫だそうだ。
道の駅の傍に暦会館というものがある。
安倍晴明の子孫は名田荘に領地を持ち、しばらくここに居住さえしたようだ。応仁の乱に始まる戦禍を避けたようだ。
さらに江戸時代にその子孫が名田荘へ旅した記録がある。
暦に関してはとても面白いものだろうとは思うが、正直理解できない。太陰太陽暦で江戸時代あのような暦で、みんな生活できたということがわからないくらいなのだ。