琵琶湖から流れ出る唯一の河川は瀬田川。宇治川と名を変え、更に大阪府下では淀川となって大阪湾にそそぐ。
数々の治水・改修を経て流れを変えてきているが、古来、京都・難波間の水上交通路となってきた。大阪の発着点は渡辺津と呼ばれ、平安末の「院様御一行」の熊野詣もここへ上陸した。
渡辺津は現在の天満橋付近、大阪城の北になる。淀川は大阪の手前でいくつかに分流していたが、渡辺津に着くのはその分流の一つに乗ってのことだった。明治時代の河川改修で分流は纏められ、大きな河口が大阪湾に注ぐ本流となった。
大阪は上町台地を除くと、河川が複雑に入り組んだ低湿地。河内湖もあった。水路が周りを囲む土地に、町・城郭・寺が造られ栄えた。16世紀の石山本願寺は約10年に渡り織田信長と渡り合った。本願寺の後に秀吉が大阪城を築いたのだ。江戸時代を通じ、道頓堀をはじめとする水路が整備され、大阪は更に栄えた。
枚方市の関西医学病院近くの交通量の多い通りと淀川河川敷の間にある淀川資料館は、常駐職員もいないような小さな資料館だがなかなか面白いのである。
淀川の自然環境・生物から水上交通・洪水・治水・河川改修の歴史などが展示されている。
*資料館裏の堤防から見る淀川河川敷
*舟運の変遷
*資料館脇にある食わらんか舟現物
*30石船
*食わらんか舟
明治時代の河川改修にはお雇い外人、中でもオランダ人デ・レーケ、エッセルなどが活躍した。
彼らの名前には覚えがある。越前一の大河九頭竜川河口の三国港の改修に関わった人達だ。三国港には今もエッセル堤と呼ばれる突堤がある。三国湊を見下ろす丘陵には蝙蝠傘屋根と呼ばる楼を載せた八角五層の建物がある。龍翔館というのだが、歴史博物館になっている。これは明治初期、湊の旦那衆がお金を出し合って作った小学校を模して建てられている。その設計者はエッセルだと思われてきたが、実はエッセルなどの教えを受けた日本人らしい。いずれにせよユニークな洋館だ。中は吹き抜け、ステンドガラスもありしゃれている。エッセルはだまし絵画家として知られるエッシャーの父親だ。
ところで、粗朶沈床法という工法だが、私は全然違う場所で知った覚えがある。全く同じものだとは思えないが、古墳時代の治水址で発掘されたものだ。敷葉工法とも言い、その当時朝鮮半島経由で入ってきた新工法と目されていたように思う。その後その系列の技術は途絶えたのか、19世紀には外国から教えてもらわなければならないものになっていたらしい。
*粗朶沈床法
*お雇い外人の給与表
*驚くような天井川
*淀川の源流