物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

洛西 十輪寺

2021-04-28 | 行った所

勝持寺からさほどの距離ではないはずなのに、ナビはなんだかえらく遠回りの道を示した。そうして着いた駐車場の看板に笑ってしまった。なんか住職の人柄が偲ばれる・・・「言い訳は一切きかない」

十輪寺門 文化財指定は本堂のみでこの門は指定外だと思うが、貼物を画鋲で留めるのはどうも・・

 門をくぐると「立ち止まるな」の注意書き・・・

拝観受付には猫のグラビア写真、猫の御朱印帳・・・

・・・は続く・・迷わずの鐘 ご利益を得る為の方法の一は「100円供える」・・・

さてここは在原業平が晩年を過ごしたところだという。

 墓がある。
親しんだらしい水無瀬からも近く、それはいいのだが、この寺、文徳妃の染殿皇后(明子)の世継誕生祈願の寺で、めでたく皇子誕生、清和天皇になりました、というのだが、業平の親しかったのは清和が立太子の折のライバルだった惟喬親王だ。そんなところで隠棲するのかな。

業平墓付近から見下ろす本堂の屋根。カーブがかかっている。

そこから登ると塩竃がある。

これを作ったのか・・・

寺の中に錆猫がいた。看板猫というには愛想無しだが、岩合光昭のモデルも務めたんだそうにゃ。

 

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洛西 勝持寺

2021-04-28 | 行った所

大原野神社の駐車場の脇に勝持寺への案内があったのですぐそこかと思いきや、結構な距離があった。

淳和陵もあるらしい

 淳和天皇は桓武の皇子の一人。平城・嵯峨に続き即位するが、次の天皇は嵯峨の皇子仁明。淳和の皇子恒貞が皇太子とされるが承和の変により廃された。淳和の母は藤原百川の娘旅子だが、百川も旅子も淳和即位時にはすでに死んでいた。

 参道

仁王門

ここは西行が出家した寺だという。

若く健康で文武の才に優れ、妻子もあった佐藤義清の出家はひとの耳目を集めたのだろう。

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洛西 大原野神社

2021-04-28 | 行った所

越前市に紫式部公園と云うものがある。越前国府趾とされるところからかなり離れているし、紫式部が住まったところという根拠は全くないが、日野山がよく見えるところだ。式部が日野山を詠んだという歌碑がある。
「ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の松にけふやまがへる」
「けふやまがへる」が「今日や紛える」と分かりづらいためか、ヤマガエルのかわいいイラストが随所にある。確かに意味がとりにくく、理屈っぽく、少なくとも私は好きな歌ではないが、小塩の松の小塩の山がある洛西に行ってみる。

長岡京遷都に当り、藤原氏が春日大社を勧請した神社だという。

神様のお使いは春日大社と同じく鹿か。狛犬ならぬ鹿が一対いたが、奈良の鹿ほど図々しくはなっていないのか本物は見当たらなかった。

数年前の台風でだいぶ被害が出たらしい。建物は修復して間もなく新しい。

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鷹ヶ峰 光悦寺

2021-04-28 | 行った所

光悦寺は四度目だ。初めは宿が便がいいところが取れず、この近くの旅館に泊まったのだった。また同じところへ泊りたいとは露思わないが、光悦寺の緑と吹き渡る風と光に魅せられた。琳派の展示会が頻繁に開かれるようになる少し前のことである。この時は7月で、今回含め3回は新緑の季節だ。うち一度は雨だった。
秋のもみじもいいだろうな、とも思うのである。

 

 

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京都文化博物館 承久乱展

2021-04-28 | 行った所

承久乱絵巻を中心に据えた展示のようだったが、肝心の絵巻が平家物語絵巻の下手な模倣というべきか、感心しなかった。平治、保元、源平合戦図も何点かあったが、いずれも姫路の博物館で見たものよりレベルが低く、見せ方も工夫がなかった。
後鳥羽の多芸な才能ぶりは納得。
蹴鞠は面白かった。 
明月記などがかなり集められていたが、これはこちらの理解の外。
東寺百合文書はもちろん読めはしないのだが、若狭太良庄に関する文書が如何に、長期に渡り追跡可能のものか、改めてわかった気がする。

 

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法成寺趾

2021-04-28 | 行った所

河原町の荒神口の御所の東、鴨沂高グラウンドの脇に法成寺の址の案内板がある。

  藤原家最盛期の道長が造った寺だ。御堂と呼ばれた、広大な寺だったらしい。西に九体阿弥陀堂、池を挟み、東に薬師堂。この形式の寺はいくつか造られたそうだが、九体阿弥陀堂と塔を残すのは、京の市中を離れた木津川の南の山の中の浄瑠璃寺のみだ。


東は寺町通りを挟んですぐ御所の御苑の敷地となる。つまり御苑は土御門邸があったところということだ。
この辺りを東西に走る道は近衛通であった。近衛通は今では出水通となり御苑に遮られて消える。その東の荒神口通りは、後年清荒神が造られてからの名前だろう。


河原町を渡り賀茂川にかかる橋は荒神橋だ。


以仁王は長谷部信連に急かされ、三条高倉の屋敷から乳母子と二人逃れ出る。高倉通を北上、近衛通を東進、鴨川を渡り山を越えて三井寺を目指した。

モッコウバラが花盛り

保元元年(1156)7月、高松殿に参集した兵は白河殿へと攻め寄せる。清盛は二条から三百余騎、義朝は二百余騎大炊御門から、義康は百余騎を率いて近衛からそれぞれに東進する。源義康は義朝と親しい関係だ。近衛通からの攻撃が白河殿北端になるのだろう。

ついでに高松神社。高松殿址である。

 

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浄瑠璃寺

2021-04-22 | 行った所

海住山寺から木津川を挟み、南に浄瑠璃寺がある。


吉祥天如像にあこがれたことはあるが、実際に来たことはない。車がないとアクセスが悪いのだ。京都府なのだが、奈良からの方が近い。

吉祥天如像だけの寺ではなかったようだ。
当尾(とうの)という地区になる

入って左に三重塔、右手が九体阿弥陀堂になる。現御所の東に碑だけが残る法成寺もこのような寺だったのだろうか。

塔から阿弥陀堂↑

 


猫さんが参道の植え込みに沿って一二匹づつ寝待っている。

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海住山寺

2021-04-22 | 行った所

海住山寺(かいじゅうせんじ)と読む。


恭仁京趾から少し西へ行くと、海住山寺口で左折、集落内の狭い道を登っていく。結構な急坂だ。

シャクナゲが咲いている

境内

五重塔がある。

本堂
多少の解説をしてくれる人がいて、海というより水のある所に住む寺云々と云っていたけれどよくわからなかった。

狛犬が何だかかわいい、猫っぽい仕草をしている


高く登ってきた甲斐あって、眺望はいい。うまく晴れると平城京まで見えるそうだが、そこまではわからなかった。


即下が恭仁京になる。

 

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恭仁京趾(山背国分寺趾)と周辺

2021-04-20 | 行った所

平城京から恭仁京へ、聖武天皇の遷都だ。そこから難波宮、更に紫香楽へ。それからまた平城京へ。まことにあわただしく落ち着かない。無駄の歴史ともいうべきか。

しかし春の恭仁京趾はまことに長閑で美しい。

近くの公民館に史料が置いてあり関連ビデオが見れる。

「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことだそうだ。
これには費用が掛かるからその費用を賄うために設けられているのが例幣使料だそうで、この辺の田圃がそうらしい。

碑には「例幣使料境目傍金(?)石也」とあるようである。

この辺りは瓶原とかいて「みかのはら」と読む。「みかのはらわきてながるるいずみがわ・・」ここだったのか。いずみ川は木津川のことだ。恭仁京趾は伊賀の方から西へ流れてくる木津川の北になる。木津川は恭仁京趾のあたりから4kmほど西で、北へ向かって流れを変える。その手前、3kmほどの所に、京都府立山城郷土歴史資料館がある。

椿井大塚山古墳や鋳銭司の関係のものもある。

山城の鋳銭司は恭仁京から東へ2km以上行ったところにある。鋳銭司は「すせんじ」と読むのだが、山城の鋳銭司、銭司は「ぜず」と読む。現代も生きている地名らしい。

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大和三山 藤原宮址

2021-04-20 | 行った所

「香具山は うねびををしと 耳成と 相あらそひき 神代より かくにあるらし いにしへも 然にあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき」

とりあえず一番はっきり見える耳成山を目指す。

前に池があり、公園もある。裏側にも小さな祠と登山道がある。

真直ぐ南下すると藤原京のはずだ。


藤原京資料室(何故かJAの施設の2Fにある)がある。

朱雀大路址

北方、大極殿跡等を挟み耳成山↓

 西、畝傍山

朱雀大路から西へ500mほど行った所に西南隅に当たる場所があった。

東へ香久山の方へ行ってみる。
耳成山や畝傍山は端正な円錐に近い山なのに、香久山は山形がよくわからない。


天岩戸神社というのがあったので寄ってみる。


香久山中腹を道が走っている。万葉の森公園とある。少し歩く。

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