物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

熊野の長藤

2023-04-28 | 行った所
平家物語の「海道下」は、一の谷で生捕りにされた平重衡が、梶原景時に連れられて、鎌倉に赴く道行だ。
浜名を過ぎ、池田の宿に着く。重衡は、池田の長者の娘熊野(ゆや)から歌を贈られる。返歌をした重衡は、景時から熊野が宗盛の愛妾であったことを聞く。都へ召し出されていたが、母の病を聞き、「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れしあづまの花や散るらん」の歌を詠んで帰郷を願ったのだという。熊野は街道一の歌詠みだという。
この話を題材に、世阿弥は能曲を作り、世に広まったらしい。
磐田市池田にはこの熊野ゆかりの長藤がある。天然記念物の老木で、なかなか見事なのだという。以前来た時は、藤の季節ではなかった。
*熊野旧跡



 
*長藤
肝心の長藤は、確かに普通の藤よりは房が長かったけれど、びっくりするほど長いというわけではなく、どこか花がまばらで、寂しげだった。近くで「何年か前に来たときは、もっと長くてきれいだった」と話していたのが聞こえたから、今年は花付きが悪かったのか、さすがに老木で樹勢がつきかけているのかはわからない。白藤が勢いよく、密に花を咲かせているのが目についた。

源平盛衰記には重衡の「海道下」はない。その代わりらしいのは、「内大臣関東下向、附けたり池田の宿の遊君の歌の事」である。ここには宗盛の愛妾云々は出てこない。侍従という遊女が宗盛と歌を交わす。歌は平家物語の熊野と重衡の歌と同じである。更に侍従の母湯谷(ゆや)と宗盛・清宗の歌が出てくる。
さて、盛衰記では、一行は池田一泊の後、天竜川を渡ったことになっている。どうも池田と天竜川の位置関係を取り違えているようにしか見えない。

熊野の長藤のすぐ西側に天竜川の堤防がある。渡しの場所も近い。


*天竜川の堤防

*池田渡船の事

*川舟

*有料橋


中世までは宿場として栄えた池田だが、近世には池田の東に見付宿が栄える。東山道の青墓から赤坂へ宿場が移ったようなものだろうか。




姫街道(東海道 本坂道)

2023-04-28 | 行った所

姫街道とはまたずいぶんと可愛い名前である。遠国の大名同士の縁組は、よくあることとはいえ、姫君の御輿入れは互いの江戸屋敷でのことだったろうから、姫様道中などはあるはずもなく、猫姫様がお通りになった由縁などないが、心惹かれる街道である。
姫街道の名は比較的新しく、もともとは「本坂道」とよばれた東海道の脇街道である。脇街道とはいえ、古くは東海道のそのもので、浜名湖南側の道が整備されるまでは本街道だったらしい。
浜名湖と遠州灘の間の渡しは、天候によっては渡れず、また地震に因る不通期間もあったようで、本阪通の往還はそれなりに繁盛したようである。
姫街道は西から行けば、御油宿が追分となる。まっすぐ東へ嵩山宿、本阪峠を経て三ケ日へ。次が気賀宿でここには関所があった。峠越えとは言いながら、小夜の中山、宇津峠に比べれば、ゆるい坂に見える。気賀から三方原を抜ける。追分があり、南が浜松へ向かう。道なりに東南方向は天竜川の渡しの手前、市野宿へ向かう。浜松を通らない分道程は短くなるのだろう。
*東海道・姫街道地図 ウィキペディアより

三ケ日インターを降りて、姫街道とは離れるが、浜名湖の北岸沿いに細江町気賀に向かう。浜名湖がぐっと北に入込み、細江神社がある。この神社は元は浜名湖南岸の新居付近にあったらしい。それが明応7年(1498)の地震と津波で流され、浜名湖北岸に流れ着いたのだという。明応大地震である。東南海地震であろう。
 細江神社

 細江神社大楠
 細江神社漂着図
 細江神社由緒


細江神社の近くに「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」がある。

 資料館脇の産屋 1,2

小ぶりで入場無料の資料館である。1Fには浜名湖の漁労とイグサ茣蓙織に関する民俗資料が主である。2Fが姫街道関係の史料と出土銅鐸の展示である。
銅鐸は人が手持って鳴らす小ぶりの銅鐸のモデルが2体もあったが、実際に出土したのは大型の見る・拝む銅鐸ばかりのようだ。出土状況も復元されて入り、他での出土例のごとく、横にしてひれを天地に向けている。大型品ばかりの所為か入子はないようだ。

資料館の後ろに東林寺という寺があった。
 東林寺 


 東林寺のボンタン 花と実が一緒になっている。実は去年のものだろうか。
資料館と東林寺の間に「犬走道」というのがある。気賀関は厳しいので、地元の人たちはこの道を使ったとか。犬が潜るのは仕方がない、という関所の法の抜け道でもあったらしい。資料館にあった写真では人ひとりが通るのがやっとの道に見える。

 気賀の関所跡 


気賀から南東に下る道は所々に松並木の残る街道の面影ある道だ。257号線である。途中、一里塚があった。
 松並木
 東大山一里塚

 東大山一里塚 街道を挟んである

翌朝、浜松から新居関跡まで行ってみた。浜松バイパスを行ったので、昔の道はわからない。遠州灘が見えた。
新居関の資料館は休館だった
 
新居は豊田佐吉の生まれ育ったところとか。


平康頼「宝物集」のこと

2023-04-14 | まとめ書き

「宝物集」の作者平康頼は云うまでもなく、「平家物語」に出てくる人物である。鹿ケ谷事件に連座し、藤原成経・俊寛とともに、鬼界が島に流され、のち、成経と共に赦免され都に戻る。
「平家物語」に描かれる康頼は、お調子者で後白河院の腰巾着に過ぎない。「梁塵秘抄口伝集」の中で、後白河院は康頼を声のいい今様の達者としているが、教えてもいない歌を院から教わったという人物だなどと、人格否定的なことも言っている。
「宝物集」の康頼はまた別の顔を持っているようである。学識ある歌人、仏教者であり、特に往生に関する思いは深いようである。「宝物集」は一般的に仏教説話に分類されるようであるが、いわゆる説話のイメージとはかなり違う。
読んだテキストは岩波書店「新日本文学大系40」 本の大半を占めるのは「宝物集」だが、「閑居友」「比良山古人霊託」の二作が収録されている。閑居友は鎌倉時代の僧慶政の書いた仏教説話集で、これは所謂仏教説話のイメージだ。「比良山古人霊託」は、藤原道家に仕える女房に天狗が取り付き、慶政と問答したというしろものである。
この本で驚くべきは注釈の詳しさである。解説、本文下の注のみならず、挿入されている和歌の他出一覧、歌人の解説。至れり尽くせりである。

さて「宝物集」だが、始めから康頼は自らを鬼界が島帰りの男だと明かしている。しかし、冒頭からコケる。年が違うのだ。「治承元年秋、薩摩国の島を出でて、同じき二年の春、ふたたび旧里にかへりて・・・」とあるのだが、鹿ケ谷事件で康頼が捕らえられたのは、安元三年(1177)6月の初めである。安元三年はこの後治承元年に改元されている。翌年秋に許され、島をでる。だから冒頭は「治承二年秋」でなければならない。都に戻ったのは治承三年春となる。自分のことであるが、記憶違い、勘違いをしたのだろうか。改元は頻繁にあった。混乱も仕方ないかもしれない。同時にこれが書かれたのは治承当時のことではないのだろう。新日本文学大系の解説には文治年間に書かれたのではないかとあったが、やはりかなりの時間が経過し、落ち着いた頃に書かれたのだろう。

島帰りの男のもとへ知人が訪ねてくる。「鬼界が島の有様は、申しても無益」と島流しのことは語らない男である。逆に近頃の都のことを知りたがる。知人は嵯峨野の釈迦堂のことを語る。

男は嵯峨野へ出かけていく。
康頼が京都で住まったのは東山の双林寺。現在の円山公園の中になる。東山から西へ、どこかで鴨川を渡り、少し北へ行き丸太町通りへでて、真直ぐ西へ行けば嵯峨野清凉寺につく。
丸太町千本通の交差点付近には平安時代の大内裏、大極殿などが比定される場所がある。
その少し手前になるが、丸太町から猪熊通を北へ少し入ると、待賢門跡の標識があるところがある。待賢門は中御門とも呼ばれた。「中御門の門を入りて、大膳職・陰陽寮などをうち過ぎて」とあるので、待賢門から大内裏に入ったのであろう。焼け野原で荒れ果てていたはずである。最後に焼けたのは康頼自身も消火に駆け付けた安元三年四月の大火であっただろう。現在は住宅密集地だ。平安京のことは京都市生涯学習総合センター(アスニー)へ行くとよくわかる。アスニーも丸太町通に面してある。

男は嵯峨野に着くまでにいろいろ寄り道をしたようだ。次々と故事が語られ、和歌が挿入されていく。宝物集には全体で実に428もの歌が挿入されている。年代的にはランダムで、8世紀から13世紀の歌人がいる。話題話題に応じて選ばれているようだ。
仁和寺や広沢池、法金剛院などにも寄っていて、嵯峨野につくまでの道行きで和歌は13首ある。作者には実定や頼政など平家物語でなじみの名前もある。

嵯峨野についた男が清凉寺の御堂に行けば、人がいっぱいである。西の局に入り法華経を詠む。隣の局から寺僧の話す釈迦堂の縁起が聞こえる。遅くなったのでそのまま御籠りをする。夜更けて数名の話す声がする。
「宝とは何か?」誰かが問う。打ち出の小づち、隠れ蓑と埒なく始まった論議は、宝玉・黄金から子供、命へと続き、多くの故事・和歌が挿入され、第一巻が終わる。
二巻冒頭で、「仏法これこそが宝」という者があり、肯首される。
天竺の故事やら、尭舜の故事、荘子の夢、仏教賛歌の和歌もたっぷり挿入される。さらに六道が語られ、餓鬼道やら、畜生道、人道の十六苦・八苦と延々と続く。怨憎会苦のところで、流刑になった人々が集められている。小野篁・菅原道真なんかも出てくるが、鬼界が島は出てこない。殺し殺される例は、崇峻天皇が蘇我馬子に殺される・蘇我入鹿と石川麻呂が天智天皇に殺される・壬申の乱・長屋王の変・恵美押勝の乱・伊予親王の変・平将門・源義親・前九年後三年の乱・藤原純友の乱まであって、治承寿永の内乱は出てこない。なかなか辛辣な書きぶりで、だれは誰に殺された、とある。「長屋王は聖武天皇に殺された」とあるのだが、続日本紀はこんな書き方はしていないはずである。聖武が殺した、というのは平安末・鎌倉初期の人々の共通認識だったのだろうか?


第三巻は愛別離苦について語る。ここにまた康頼が顔を出す。たくさん並べられた和歌の一つだが、「鬼界が島にはべりけるころ、いまだ生きたるよしを、母のもとへ申しつかわしける」との詞書付きで次の歌がある。「さつまがた沖の小島にわれありと おやには告げよ八重のしお風」 「平家物語」の「卒塔婆流」で康頼が卒塔婆に書き付けて流したという二つの和歌の内の一つでもある。
第三巻の終いはこの世の苦しみから逃れるには仏になるしかない。どうしたら仏になれるのか、という問いに、仏に至る十二の門が示される。
第四巻からは往生のためにはどうしたらいいか、という話である。相変わらず、唐天竺・日本の故事、経典のエピソード、和歌が大量に挿入される。康頼はこれらの資料を手元に置いて書いたのだろうか。史記や漢書の類は相当有名な故事が多いと思われるので、もしかしたら孫引きもあるかもしれないが、それにしても広範な知識である。どうやって集めたのだろう。伝手を頼り、書物を借り出し、書写する。気が遠くなるようである。「平家物語」にも物語の筋とは関係ない中国の故事が延々と挿入されているところがある。「源平盛衰記」となるともっと多い。この時代の書き物は、皆そうなのだろうか。

第七巻に十二門の内の善智識がある。「第十に善智識にあふて・・・」とあるのだが、第三巻で並べた十二門の内では善智識は九番になっていた。それはともかく、ここで再び康頼の歌がある。詞書は「検非違使左衛門尉平康頼、罪もなくて鬼界が島にながされ、出家ののち、かくぞよみ侍りける」「つひにかくそむきはてける世の中をとくすてざりし事ぞくやしき」「平家物語」では康頼は周防国室積で出家し、性照と名乗ったとあり、この歌も出てくる。(「康頼祝言(のりと)」
「罪もなくて」であるが、清盛に告発された罪状、平家を倒す陰謀がなかったというのか、なんにせよ後白河院の意向に沿っただけであり、臣下の清盛にとやかく言われる由縁はないという意味か。なんとなく後者のような気はする。

「宝物集」の最後は見事往生を遂げた例が挙がっている。第十二の称念弥陀である。そこに”とねくろ”という神崎の遊女の話がある。仏法とは無縁の者であったが、西海に赴き、海賊に殺される。その最期に至り西に向かい、こう歌う「われらはなにしに老いにけん おもへばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の弥陀の誓を念ずべし」 西の方から妙なる音楽が聞こえ、紫雲たなびいた。遊女とねくろは極楽往生をとげたのである。これは今様である。おびただしい和歌が出てくる「宝物集」の中で今様はこの一点のみである。遊女とねくろの今様は「梁塵秘抄口伝集」にもあり、後白河院と康頼の関係を匂わせる唯一のものだ。「平家物語」では鹿ケ谷の宴席で、瓶子(平氏)が倒れたとはしゃぎまわり、即興の猿楽を演じ、慈円に猿楽狂いと書かれた康頼は、「宝物集」にはいない。「宝物集」には猿楽は影も見えない。「平家物語」の「康頼祝言」では、鬼界が島で熊野に多少とも似た地形を探し、願掛けして赦免を祈るが、「宝物集」には、熊野大社の利生譚もまたないのである。