「宝物集」の作者平康頼は云うまでもなく、「平家物語」に出てくる人物である。鹿ケ谷事件に連座し、藤原成経・俊寛とともに、鬼界が島に流され、のち、成経と共に赦免され都に戻る。
「平家物語」に描かれる康頼は、お調子者で後白河院の腰巾着に過ぎない。「梁塵秘抄口伝集」の中で、後白河院は康頼を声のいい今様の達者としているが、教えてもいない歌を院から教わったという人物だなどと、人格否定的なことも言っている。
「宝物集」の康頼はまた別の顔を持っているようである。学識ある歌人、仏教者であり、特に往生に関する思いは深いようである。「宝物集」は一般的に仏教説話に分類されるようであるが、いわゆる説話のイメージとはかなり違う。
読んだテキストは岩波書店「新日本文学大系40」 本の大半を占めるのは「宝物集」だが、「閑居友」「比良山古人霊託」の二作が収録されている。閑居友は鎌倉時代の僧慶政の書いた仏教説話集で、これは所謂仏教説話のイメージだ。「比良山古人霊託」は、藤原道家に仕える女房に天狗が取り付き、慶政と問答したというしろものである。
この本で驚くべきは注釈の詳しさである。解説、本文下の注のみならず、挿入されている和歌の他出一覧、歌人の解説。至れり尽くせりである。
さて「宝物集」だが、始めから康頼は自らを鬼界が島帰りの男だと明かしている。しかし、冒頭からコケる。年が違うのだ。「治承元年秋、薩摩国の島を出でて、同じき二年の春、ふたたび旧里にかへりて・・・」とあるのだが、鹿ケ谷事件で康頼が捕らえられたのは、安元三年(1177)6月の初めである。安元三年はこの後治承元年に改元されている。翌年秋に許され、島をでる。だから冒頭は「治承二年秋」でなければならない。都に戻ったのは治承三年春となる。自分のことであるが、記憶違い、勘違いをしたのだろうか。改元は頻繁にあった。混乱も仕方ないかもしれない。同時にこれが書かれたのは治承当時のことではないのだろう。新日本文学大系の解説には文治年間に書かれたのではないかとあったが、やはりかなりの時間が経過し、落ち着いた頃に書かれたのだろう。
島帰りの男のもとへ知人が訪ねてくる。「鬼界が島の有様は、申しても無益」と島流しのことは語らない男である。逆に近頃の都のことを知りたがる。知人は嵯峨野の釈迦堂のことを語る。
男は嵯峨野へ出かけていく。
康頼が京都で住まったのは東山の双林寺。現在の円山公園の中になる。東山から西へ、どこかで鴨川を渡り、少し北へ行き丸太町通りへでて、真直ぐ西へ行けば嵯峨野清凉寺につく。
丸太町千本通の交差点付近には平安時代の大内裏、大極殿などが比定される場所がある。
その少し手前になるが、丸太町から猪熊通を北へ少し入ると、待賢門跡の標識があるところがある。待賢門は中御門とも呼ばれた。「中御門の門を入りて、大膳職・陰陽寮などをうち過ぎて」とあるので、待賢門から大内裏に入ったのであろう。焼け野原で荒れ果てていたはずである。最後に焼けたのは康頼自身も消火に駆け付けた安元三年四月の大火であっただろう。現在は住宅密集地だ。平安京のことは京都市生涯学習総合センター(アスニー)へ行くとよくわかる。アスニーも丸太町通に面してある。
男は嵯峨野に着くまでにいろいろ寄り道をしたようだ。次々と故事が語られ、和歌が挿入されていく。宝物集には全体で実に428もの歌が挿入されている。年代的にはランダムで、8世紀から13世紀の歌人がいる。話題話題に応じて選ばれているようだ。
仁和寺や広沢池、法金剛院などにも寄っていて、嵯峨野につくまでの道行きで和歌は13首ある。作者には実定や頼政など平家物語でなじみの名前もある。
嵯峨野についた男が清凉寺の御堂に行けば、人がいっぱいである。西の局に入り法華経を詠む。隣の局から寺僧の話す釈迦堂の縁起が聞こえる。遅くなったのでそのまま御籠りをする。夜更けて数名の話す声がする。
「宝とは何か?」誰かが問う。打ち出の小づち、隠れ蓑と埒なく始まった論議は、宝玉・黄金から子供、命へと続き、多くの故事・和歌が挿入され、第一巻が終わる。
二巻冒頭で、「仏法これこそが宝」という者があり、肯首される。
天竺の故事やら、尭舜の故事、荘子の夢、仏教賛歌の和歌もたっぷり挿入される。さらに六道が語られ、餓鬼道やら、畜生道、人道の十六苦・八苦と延々と続く。怨憎会苦のところで、流刑になった人々が集められている。小野篁・菅原道真なんかも出てくるが、鬼界が島は出てこない。殺し殺される例は、崇峻天皇が蘇我馬子に殺される・蘇我入鹿と石川麻呂が天智天皇に殺される・壬申の乱・長屋王の変・恵美押勝の乱・伊予親王の変・平将門・源義親・前九年後三年の乱・藤原純友の乱まであって、治承寿永の内乱は出てこない。なかなか辛辣な書きぶりで、だれは誰に殺された、とある。「長屋王は聖武天皇に殺された」とあるのだが、続日本紀はこんな書き方はしていないはずである。聖武が殺した、というのは平安末・鎌倉初期の人々の共通認識だったのだろうか?
第三巻は愛別離苦について語る。ここにまた康頼が顔を出す。たくさん並べられた和歌の一つだが、「鬼界が島にはべりけるころ、いまだ生きたるよしを、母のもとへ申しつかわしける」との詞書付きで次の歌がある。「さつまがた沖の小島にわれありと おやには告げよ八重のしお風」 「平家物語」の「卒塔婆流」で康頼が卒塔婆に書き付けて流したという二つの和歌の内の一つでもある。
第三巻の終いはこの世の苦しみから逃れるには仏になるしかない。どうしたら仏になれるのか、という問いに、仏に至る十二の門が示される。
第四巻からは往生のためにはどうしたらいいか、という話である。相変わらず、唐天竺・日本の故事、経典のエピソード、和歌が大量に挿入される。康頼はこれらの資料を手元に置いて書いたのだろうか。史記や漢書の類は相当有名な故事が多いと思われるので、もしかしたら孫引きもあるかもしれないが、それにしても広範な知識である。どうやって集めたのだろう。伝手を頼り、書物を借り出し、書写する。気が遠くなるようである。「平家物語」にも物語の筋とは関係ない中国の故事が延々と挿入されているところがある。「源平盛衰記」となるともっと多い。この時代の書き物は、皆そうなのだろうか。
第七巻に十二門の内の善智識がある。「第十に善智識にあふて・・・」とあるのだが、第三巻で並べた十二門の内では善智識は九番になっていた。それはともかく、ここで再び康頼の歌がある。詞書は「検非違使左衛門尉平康頼、罪もなくて鬼界が島にながされ、出家ののち、かくぞよみ侍りける」「つひにかくそむきはてける世の中をとくすてざりし事ぞくやしき」「平家物語」では康頼は周防国室積で出家し、性照と名乗ったとあり、この歌も出てくる。(「康頼祝言(のりと)」
「罪もなくて」であるが、清盛に告発された罪状、平家を倒す陰謀がなかったというのか、なんにせよ後白河院の意向に沿っただけであり、臣下の清盛にとやかく言われる由縁はないという意味か。なんとなく後者のような気はする。
「宝物集」の最後は見事往生を遂げた例が挙がっている。第十二の称念弥陀である。そこに”とねくろ”という神崎の遊女の話がある。仏法とは無縁の者であったが、西海に赴き、海賊に殺される。その最期に至り西に向かい、こう歌う「われらはなにしに老いにけん おもへばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の弥陀の誓を念ずべし」 西の方から妙なる音楽が聞こえ、紫雲たなびいた。遊女とねくろは極楽往生をとげたのである。これは今様である。おびただしい和歌が出てくる「宝物集」の中で今様はこの一点のみである。遊女とねくろの今様は「梁塵秘抄口伝集」にもあり、後白河院と康頼の関係を匂わせる唯一のものだ。「平家物語」では鹿ケ谷の宴席で、瓶子(平氏)が倒れたとはしゃぎまわり、即興の猿楽を演じ、慈円に猿楽狂いと書かれた康頼は、「宝物集」にはいない。「宝物集」には猿楽は影も見えない。「平家物語」の「康頼祝言」では、鬼界が島で熊野に多少とも似た地形を探し、願掛けして赦免を祈るが、「宝物集」には、熊野大社の利生譚もまたないのである。