小式部内侍(和泉式部娘)が「いくののみちは とほけれど・・」と詠んだ大江山とは違うおおえやまも存在するようである。現地名では大枝山となるようだが、古来混同されてきた。
五条通りを西へ向かうと9号線、山陰道となる。京都市内を脱し、亀岡市となるが、老いの坂隧道の手前で左に折れる。
いやはや、通れるんか?!という道で、車を停め徒歩で上がる。軽トラが上がってきてホッとする。T字路に来ると人の気配がある。なんとバーベキュー屋になっている。T字路の左右に広がるのは舗装されたまともな道だ。
左にしばらく行くと首塚大明神。酒呑童子の首塚だというが、はてさて?。それはともかくここは山陰道の旧道だ。街道だったに違いない。
ここより東山科国の道標。
T字路から少し右へ行った地点、下りになる。老いの坂峠か。ここは老いの坂隧道の上に当たるのだろう。
愛宕という地名は全国にある。なんだかはっきりしないが、天狗さんがいたようで。
保元の乱の発端の一つ、近衛帝が呪詛され眼を病んで死んだと云うもの。「何者かが愛宕山の天公像の目に釘を打った」とされた。これが藤原頼長の仕業とされるのだが、美福門院や忠通の陰謀といった方がいいだろう。しかし、この時代では深刻な問題となる。
愛宕山は昔はケーブルカーがあったそうだ。ただ戦争中、線をはくってしまったそうな。スキー場もあり人気の遊び場だったそうだが。
愛宕山は標高1000メートル近い高山だ。しかし落語「愛宕山」では太鼓持ちこそは根を上げるものの、大旦那以下芸者中も登っている。祇園辺りを朝早く出て、山上で弁当を使う。着物姿である。まあ、落語なのだが。天狗裁きの天狗も愛宕の天狗だろうか?
「鬼平犯科帳」にも鬼平が愛宕へ上る話がある。「凶剣」で愛宕山から降りた鬼平は清涼寺付近で女を救う。その後大和までフィールドが広がる犯科帳の中では異色の話だ。
老いの坂から京都市中へ戻り、嵐山経由でそれらしいところへ来たが、実はさっぱりわからず、着いたのは清滝の駐車場だった。
近くで愛宕山登山道74kmの標識と鳥居を見て引き返した。
市中に戻って162号線で若狭へでる。