物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200905 大枝山首塚 愛宕山

2020-09-09 | 行った所

小式部内侍(和泉式部娘)が「いくののみちは とほけれど・・」と詠んだ大江山とは違うおおえやまも存在するようである。現地名では大枝山となるようだが、古来混同されてきた。
五条通りを西へ向かうと9号線、山陰道となる。京都市内を脱し、亀岡市となるが、老いの坂隧道の手前で左に折れる。
いやはや、通れるんか?!という道で、車を停め徒歩で上がる。軽トラが上がってきてホッとする。T字路に来ると人の気配がある。なんとバーベキュー屋になっている。T字路の左右に広がるのは舗装されたまともな道だ。

左にしばらく行くと首塚大明神。酒呑童子の首塚だというが、はてさて?。それはともかくここは山陰道の旧道だ。街道だったに違いない。
ここより東山科国の道標。

T字路から少し右へ行った地点、下りになる。老いの坂峠か。ここは老いの坂隧道の上に当たるのだろう。

 

愛宕という地名は全国にある。なんだかはっきりしないが、天狗さんがいたようで。
保元の乱の発端の一つ、近衛帝が呪詛され眼を病んで死んだと云うもの。「何者かが愛宕山の天公像の目に釘を打った」とされた。これが藤原頼長の仕業とされるのだが、美福門院や忠通の陰謀といった方がいいだろう。しかし、この時代では深刻な問題となる。
愛宕山は昔はケーブルカーがあったそうだ。ただ戦争中、線をはくってしまったそうな。スキー場もあり人気の遊び場だったそうだが。


愛宕山は標高1000メートル近い高山だ。しかし落語「愛宕山」では太鼓持ちこそは根を上げるものの、大旦那以下芸者中も登っている。祇園辺りを朝早く出て、山上で弁当を使う。着物姿である。まあ、落語なのだが。天狗裁きの天狗も愛宕の天狗だろうか?
「鬼平犯科帳」にも鬼平が愛宕へ上る話がある。「凶剣」で愛宕山から降りた鬼平は清涼寺付近で女を救う。その後大和までフィールドが広がる犯科帳の中では異色の話だ。

老いの坂から京都市中へ戻り、嵐山経由でそれらしいところへ来たが、実はさっぱりわからず、着いたのは清滝の駐車場だった。


近くで愛宕山登山道74kmの標識と鳥居を見て引き返した。

市中に戻って162号線で若狭へでる。

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20200904-05 京都街歩き

2020-09-09 | 行った所

山科から渋谷街道で京都市街に入る。東大路を南下。今熊野へ。

猛烈なやぶ蚊の来襲。後白河の使いか。

ここで熊野詣の簡易版をしていたらしい。ようやく鬼界が島で平康頼がしていたことが腑に落ちた。なんの見立てかと思っていたが、京で日常的にしていたことだったのだ。

この楠、800年を超える樹勢を保つか、木曽の旗揚げヒノキに匹敵か


泉湧寺にも寄っては見たが、興を覚えず。

九条通を西進、東寺を過ぎて駐車場を探す。

西寺跡。朱雀大路を挟み、東寺と並ぶ威容を誇ったはずの西寺は野っ原に帰す。唐橋小学校のすぐ北だ。

礎石が幾つか残るが、他は転用されたのだろうか。


東寺の塔が見えるかと思ったが、建物に堰かれ見えないようだ。

朱雀大路は千本通辺りというが、旧千本?新千本?

羅生門址。京城へに入口というよりおどろおどろしい説話に彩られるところではある。


高倉宮址。

先日は三条高倉辺りをうろついて分からなかったのだが、東洞院だと調べ直し再挑戦。

ここから以仁王は三井寺へ向かった。長谷部信連が躍動した場所だ。

その後禅寺曇華院となっていたらしい。発掘調査はされている。

 

大極殿遺址

千本丸太町北西、明治期に建てられた碑。
現在は場所が違うとされる。
しかし、大まかにこの辺と言うことは許されるか。

一条大路。


現在の一条通は実に狭い一通のものだ。道幅30メートルの大路を想像するのは難しいが、ここはそれではないだろうか。

聚楽第碑

一条かいわい 一条邸址 名和長年碑

一条堀川、戻り橋。伝説の京都である。

清明神社。千利休邸の碑もある。安倍晴明という呪者は、秀吉や利休にはどう認識されていたのか。

 

この鬼は酒呑童子関係ではなく愛宕の天狗?

 

清明神社から北へ、今出川を渡り西へ、すぐ白峰神社だが、明治のものだからあまり面白くない。

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20200904 瀬田

2020-09-09 | 行った所

「逢坂山うち越えて、勢田の唐橋駒も轟と踏み鳴らし」
平家物語第10巻「海道下」の道行だ。重衡を連行する一行は瀬田の唐橋を渡る。
現在琵琶湖には近江大橋・琵琶湖大橋をはじめ、1号線の橋、高速道路の橋、鉄道各線の鉄橋などいろいろ架かって入るが、平安末どころか近世にいたるまでにあったのは勢田の唐橋ただ一つ、俵藤太のムカデ退治の伝説の舞台にもなれば、今井兼平が粟津で義仲と再会する前、必死と守っていたのが勢田だった。勢田の唐橋は京阪石山坂本線唐崎前駅のすぐ東にある。駒も轟と踏み鳴らしが交通量が多い事を言うのならば今もそうだ。滋賀県道2号線で片道一車線、瀬田川の西岸寄りに中島がある。その島を間に置いて橋は架かっているが、長い橋だ。島は大きく、飲食店や老人ホーム、水位計の施設もある。俵藤太の案内板があるのもこの中島だ。


瀬田橋の上でムカデ退治をしたかと思いきや、藤太は大蛇に化けていた琵琶湖の竜宮の王に見込まれ、三上山のムカデを退治するのだ。これはこの土地、近江に根差した物語だ。俵藤太と藤原秀郷とは本当に同一人物なのだろうか?活躍の場が違う気がするのだけれど。それに曽我物語に出てくる大見小藤太。大見と近江は違うけれど俵藤太と何かつながりがありはしないか。

瀬田橋東詰、こんなところに竜宮がある。


建部神社 滋賀一之宮だそうだ。

平治物語では、伊豆へ向かう頼朝に纐纈盛康という者が、武部神社にて頼朝に霊夢をささやく。彼は鏡の里まで供をする。

寿永2年(1183)野戦があり焼き払われたとある。なにに書いてあるのか、義仲の京都入りに際しての事件と思われるが、分からない。

 

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倶利伽羅合戦の事

2020-09-02 | まとめ書き

平家物語第7巻「火打合戦」

「平泉寺長吏斉明威儀師、平家について忠をいたす。稲津新介・斉藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓、ここをば落ちて、猶平家にそむき、加賀の国へ引き退き、白山河内に引っこもる。平家やがて加賀を討ち越えて、林・富樫が城郭二か所焼きはらふ。」

斉明の裏切りにより火打城は落ちた。火打に籠っていた者たちは加賀に落ち、平家は難なく越前を突破し、加賀に侵攻する。「なに面をむかふべしとも見えざりけり」とあり、京都へ残った平家の面々は大いに喜ぶ。兵糧不足にあえいだ畿内から北陸に入り、息を吹き返した平家軍なのだった。
平家は加賀の篠原でうち揃い、軍を二手に分ける。大手は砺波山へ向かう。搦め手は志保山へ。

一方義仲は
「木曽は越後の国府にありけるが、是を聞いて、五万余騎で馳せ向かう」

越後の国府は上越市の南かとあるのだが、どこを通ったのか、越後から越中というと糸魚川、即ち親知らずを通るルートしか思い浮かばない。倶利伽羅どころではない難所に思える。騎馬で軍勢が通れる道があったのか?

「わがいくさの吉例なればとて七手に作る。まづ叔父の十郎蔵人行家、一万騎で志保の手へぞ向ける。仁科・高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦め手へ差し遣わす。樋口次郎兼光・落合五郎兼行、七千余騎で南黒坂へ遣わしけり。一万余騎をば砺波山の口、黒坂のすそ、松長の柳子原、ぐみの木林にひきかくす。今井四郎兼平、六千余騎で鷲の瀬を打ちわたし、日宮林に陣をとる。木曽、我身は一万余騎で小矢部のわたりをして、砺波山の北のはずれ、羽丹生に陣をぞとったりける。」

なんだかよくわからない。先ず七手に分けたとあるのに①行家、②仁科隊、③樋口隊、④指揮官不明一万騎、⑤今井隊、⑥木曽本隊、六手にしかならないではないか。
行家隊の問題は置くとして、仁科・高梨・山田隊は北黒坂で搦め手とあるが、埴生から埴生大池を通るルートが義仲進軍路になっており、その途中に黒坂という標識を見た。これが北黒坂になるのだろうから、木曽本隊とルートが重なってしまうのではないか。先遣隊として送ったのか、更に北のルートを取らせたのか。樋口隊は更にわからない。南黒坂はどこだろう?岩波ワイド文庫本の注記には松尾から津幡町上藤又へ越えるのを南黒坂といったという、とある。松尾から山に向かうと膿川沿いに地獄谷に向かうとしか思えない。そこから上がるルートもあったのだろうか。ぐみの木林(きんばやし)に引き隠したという一万騎は矢立山の南、とあるのでここはわかる。今井隊のルートは鷲の瀬を打ち渡しとある。小矢部川を渡ったとしか思えないが、鷲瀬碑のある鷲尾公民館付近は小矢部川から東へ500メートル程離れている。流路が変わっているのか。更に西進し、蓮沼の日宮林で陣を取る。義仲とは別陣だ。義仲は埴生八幡に願書を捧げていることからはっきりしている。

倶利伽羅周辺、津幡側も小矢部側も倶利伽羅合戦を観光資源にしたいらしく、だいぶ頑張って入るのだが、「火牛の計」というバカげた空想がよほど気に入っているらしく、「源平盛衰記」を参考にしているらしい。現地の説明板、パンフの類もみな「盛衰記」らしく岩波本とはだいぶ違うようだ。余田、根井、巴が出てくるし、樋口はもっと大きく北の方から周り、平家の背後を付いたことになっている。盛衰記の方がくわしいし、地元の武者の名もあるようだ。実際地元の幹道に詳しい案内者が居なかったら、義仲と云えどもこんな戦いはできようもない。
ただ、平家物語のみで考えると下の図のようになる。

↓倶利伽羅合戦案内板(倶利伽羅駅に在ったもの)

↓埴生大池

↓鷲が瀬碑

↓日宮林

↓日宮碑

↓松永碑

↓膿川

↓巴塚(巴塚・葵塚ともに実は古墳)

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