鏡神社は訪れたことがある。「平家物語」第10巻「海道下」は、一の谷で不運にも捕らえられた平重衡を梶原景時らが、鎌倉へ連行するその道行である。その道行を追ってきてみたのだった。
「雲雀揚がれる野路の里」「志賀浦波春かけて、霞に曇る鏡山」長閑に春の近江を旅するイメージだが、ここと近い大篠原は壇ノ浦で捕らえられた宗盛父子が義経によって斬られる平家終焉の地となっている。
重衡もまたこの道を引き返す。南都焼亡の責を負い、南都の衆人に引き渡され殺されるために。その頃も鏡神社はあったはずだがめだたぬ古社であったのか。
しかし、鏡の里は、鞍馬を脱出した源義朝の末子遮那王が、自ら元服し源義経と名乗った場所として、鏡の里道の駅の前には、義経元服の地の看板あり、近くに義経が泊まった宿だとか、鏡神社にも「義経烏帽子掛けの松」があったりと、すっかり「義経記」に乗っ取られているようなところなのだ。
鏡神社はアメノヒボコを祭神とする。新羅の王子で陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師などの技術集団を率い、近江の国に集落を成したという。
伝承は古いが、須恵器とその前身ともいうべき陶質土器が日本列島に現れるのは4世紀末から5世紀か。
鏡神社の名の由来はアメノヒボコが持ってきた種々の宝の内の「日鏡」をこの地に納めたからだという。太陽の光を映すものとしての日鏡だろうか。しかし、銅製の鏡はもっと早く倣製鏡も弥生時代からある。
どの道、朝鮮半島から日本列島への集団移住は何回にも渡り、波状的に続いていたのだろう。それらがアメノヒボコ伝承としてまとまって行ったのか。
鏡神社の近くに須恵の窯跡もあるが、6から8世紀のものらしい。
本殿は南北朝期らしい。
アメノヒボコは新羅から九州へ渡り、瀬戸内海を東進、難波から宇治川(淀川)を遡って近江に至り、北上、若狭を通り但馬に至ったということになっている。その道筋の所々で住み処を見つけていったのだろう。
一方で九州から難波への道は、神武の東征物語や神功皇后・応神の物語を思わせる話ともなっている。特に応神は敦賀へも行っている。しかもアメノヒボコの宝の一つ、イサザの太刀はヒボコの象徴ともいえるものだが、敦賀の気比神宮の祭神は伊奢沙別(いざさわけ)命。そして応神はこの神と名前を取り換えたという。応神(ホムダ)のもとの名はイサザといったのだろうか。
鏡神社のすぐ前を国道8号線が走る。この辺りでは昔の東山道(中山道)を踏襲しているらしい。
このまま西進すると大量の銅鐸出土地の近くに建てられた野洲の銅鐸博物館があり、その先に三上山が端正な姿を見せ、御神神社がある。野洲川を渡り栗東、草津に入る。東海道・中山道追分で宿場として栄えた草津だが、その草津の市街地の北の方に穴村町にアメノヒボコを祀った神社がある。安羅神社だが「やすら」神社と読むらしい。
アメノヒボコの一行は鏡神社の手前、「あなむら」でも留まったらしい。ここでは医術を教えたらしい。
しかし、安羅は新羅というより加羅を思わせるようだ。
栗東市の南の方、新名神が走っている山の中に狛坂の摩崖仏がある。高速の近くといってもインターがそばにあるわけでもない。ただそのレプリカは栗東市歴史博物館にある。新羅の影響が強い摩崖仏とはいっても制作年代も8世紀から12世紀ごろまでと大変広い。