物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

鏡神社(滋賀県野洲市)・安羅神社(草津市)

2022-08-12 | 行った所

鏡神社は訪れたことがある。「平家物語」第10巻「海道下」は、一の谷で不運にも捕らえられた平重衡を梶原景時らが、鎌倉へ連行するその道行である。その道行を追ってきてみたのだった。

「雲雀揚がれる野路の里」「志賀浦波春かけて、霞に曇る鏡山」長閑に春の近江を旅するイメージだが、ここと近い大篠原は壇ノ浦で捕らえられた宗盛父子が義経によって斬られる平家終焉の地となっている。
重衡もまたこの道を引き返す。南都焼亡の責を負い、南都の衆人に引き渡され殺されるために。その頃も鏡神社はあったはずだがめだたぬ古社であったのか。

しかし、鏡の里は、鞍馬を脱出した源義朝の末子遮那王が、自ら元服し源義経と名乗った場所として、鏡の里道の駅の前には、義経元服の地の看板あり、近くに義経が泊まった宿だとか、鏡神社にも「義経烏帽子掛けの松」があったりと、すっかり「義経記」に乗っ取られているようなところなのだ。

 鏡神社はアメノヒボコを祭神とする。新羅の王子で陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師などの技術集団を率い、近江の国に集落を成したという。
伝承は古いが、須恵器とその前身ともいうべき陶質土器が日本列島に現れるのは4世紀末から5世紀か。
鏡神社の名の由来はアメノヒボコが持ってきた種々の宝の内の「日鏡」をこの地に納めたからだという。太陽の光を映すものとしての日鏡だろうか。しかし、銅製の鏡はもっと早く倣製鏡も弥生時代からある。
どの道、朝鮮半島から日本列島への集団移住は何回にも渡り、波状的に続いていたのだろう。それらがアメノヒボコ伝承としてまとまって行ったのか。
鏡神社の近くに須恵の窯跡もあるが、6から8世紀のものらしい。

 本殿は南北朝期らしい。

アメノヒボコは新羅から九州へ渡り、瀬戸内海を東進、難波から宇治川(淀川)を遡って近江に至り、北上、若狭を通り但馬に至ったということになっている。その道筋の所々で住み処を見つけていったのだろう。
一方で九州から難波への道は、神武の東征物語や神功皇后・応神の物語を思わせる話ともなっている。特に応神は敦賀へも行っている。しかもアメノヒボコの宝の一つ、イサザの太刀はヒボコの象徴ともいえるものだが、敦賀の気比神宮の祭神は伊奢沙別(いざさわけ)命。そして応神はこの神と名前を取り換えたという。応神(ホムダ)のもとの名はイサザといったのだろうか。

鏡神社のすぐ前を国道8号線が走る。この辺りでは昔の東山道(中山道)を踏襲しているらしい。

このまま西進すると大量の銅鐸出土地の近くに建てられた野洲の銅鐸博物館があり、その先に三上山が端正な姿を見せ、御神神社がある。野洲川を渡り栗東、草津に入る。東海道・中山道追分で宿場として栄えた草津だが、その草津の市街地の北の方に穴村町にアメノヒボコを祀った神社がある。安羅神社だが「やすら」神社と読むらしい。


アメノヒボコの一行は鏡神社の手前、「あなむら」でも留まったらしい。ここでは医術を教えたらしい。
しかし、安羅は新羅というより加羅を思わせるようだ。

栗東市の南の方、新名神が走っている山の中に狛坂の摩崖仏がある。高速の近くといってもインターがそばにあるわけでもない。ただそのレプリカは栗東市歴史博物館にある。新羅の影響が強い摩崖仏とはいっても制作年代も8世紀から12世紀ごろまでと大変広い。

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山部神社  (滋賀県東近江市下麻生町)

2022-08-11 | 行った所

名神高速の蒲生スマートの近くにあかね古墳公園がある。二基の古墳が復元整備されている。

そこの付近の案内がいくつかあった。山部神社もその一つだった。

蒲生スマートから南東方向に延びる道をほぼ道なりに4~5キロだが、集落の中にあるので少しわかりにくいか。

万葉の歌人として知られる山部赤人は、基本下級官人である。諸国の風景をよく詠む。同時代の大伴旅人や山上憶良は優力官人として九州、山陰、北陸と渡り歩いている。赤人は上役に従い、駿河や紀伊に赴いていたのかもしれない。


注連縄に何故か六芒星が。陰陽師となにか関係があるのか?

 本殿

 

本堂右手の赤いトタン屋根のかかった建物が赤人寺だった。

 田子の浦 歌碑と富士

 和歌山城天守閣から見た和歌の浦方面

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若狭大飯 高浜 三方の古社

2022-08-10 | 行った所

敦賀半島の菅浜集落には須可麻神社があるが、祭神スカマユラドミヒメ(菅竃由良度美姫)はアメノヒボコの子孫とか。更に神功皇后の祖母に当たるとか、となっていた。

そこから三方五湖方面に向かう。
国道27号線は三方五湖の手前で大きく左に曲がり南下していく。三方石観音の看板で左に折れる。登って行くと弘法大師が一夜で造ったという石の観音像があるらしい。

 その途中に御方(みかた)神社がある。『神祇志料』『大日本史』では祭神は天日槍命となっているらしいが、本当のところ不明である。

 三方石観音への道を逸れ階段を上ると御方神社だ。みかた神社と読む。三方五胡の「みかた」だ。

 二つ拝み所があるが、どっちが何を祀っているのか。

 

 

舞若道には敦賀JCTから大飯高浜ICまで20を超えるトンネルがある。小浜西から大飯高浜まで6個ものトンネルがあるのだが、そのうちの一つを父子トンネルという。「ちちし」と読むのである。このトンネルの近くに父子という集落がある。そこに静志神社がある。由緒等は見当たらなかったが、父子も静志も出石(いずし)の転であり、本来の祭神はアメノヒボコということである。


 大きなスダジイがある。
 境内の樹木の合間から高速道路が見える。

 トンネルが多いので高速で走っているとずいぶん山の中を走っているような気がするのだが、神社の前から少しだが海が見える。

ヒボコ伝承はここからまた海に行き、丹後半島を回り但馬の出石へ行くのだろうか。  

 

高浜町にも気比神社がある。
静志神社から北へ、27号線に出て西進し、高浜の中心部を抜けて、高浜原発のある音海へ向かう道を行くが、途中で左にそれ、トンネルをくぐって神野という集落へ向かう。内海湾を見下ろしつつ下へ降りる。

 気比といえば敦賀と思っていたが、豊岡市の円山川の河口付近にも気比があった。敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし神功皇后を配祀する神社、とあった。ここの気比神社も同じであろうか。
気比神社というのはかなりたくさんあちこちにあるようだ。総元締めは気比神宮だ。

 この右に行くと高浜原発と関連施設で工事用車両が出入りする

 

 

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若狭の古墳 27号線に沿って

2022-08-08 | 行った所

若狭町、特に旧上中町は古墳が多いところで知られる。街道沿いの平野部近くに点々とあるので目を止めて行ける。ただそれだけに墳丘の破壊も目立ち、調査も古い時代のものも多いが、再調査や研究も進んでいる。
若狭の古墳は前期の前方後円墳が知られていない。ヤマト政権との繋がりの深い勢力が若狭にはいなかったのだろう。5世紀に入り突如堂々たる前方後円墳が出現し、継続的に築造されるようになる。脇袋の上ノ塚(じょうのつか)古墳だ。全長100メートルを測り、周濠・葺石・埴輪列を備える。


現在集落と畑地との間にある。

脇袋の後ろ山は膳部山という。若狭の国造膳臣一族の奥つ城ではないか言われる。
*上中航空写真(若狭歴史博物館図録より)
脇袋の南から熊川へ向かう道が伸びる。鯖街道のメインルートと呼ばれ、熊川から南下し朽木をへて京都に至るが、熊川からそのまま東南に進むと今津に出る。平安遷都以前は琵琶湖から船で物資を運んだのではなかろうか。
若狭歴史文化館・若狭歴史博物館の編年によれば、上ノ塚古墳の次の時代に来る前方後円墳は脇袋から3~4キロ北のJR小浜線大鳥羽駅の近くの集落の尾根上にある城山古墳になる。しかし別の見解もあるらしく、福井県史では城山古墳を上ノ塚古墳に先行する首長墓ととらえている。
 若狭歴史文化館

 福井県史から


次の首長墓とされるのは向山1号墳と呼ばれる全長50メートルに満たない前方後円墳で、城山古墳の3キロほど南、脇袋から1.5キロほど西の尾根上にある。5世紀半ばに比定され、横穴式石室を持つ。豊富な鉄製武器が副葬されていたが馬具はない。そして金製の耳飾りが出土したことで知られる。
向山1号墳の次の首長墓は、脇袋に戻り、西塚古墳となる。脇袋は大きな古墳が継続してつくられ、王家の谷とも呼ばれ、7基の古墳があったというが、あまりよくわからない状態になっている。


西塚古墳も一見円墳にしか見えないほどで、前方部は一部が尻尾の先のように残っているだけだ。

 しかし田圃に残った跡などから全長70数メートルの前方後円墳で周濠・埴輪・葺石を備えていたことがわかっている。発掘されたのは大正5年で、金製を含む装身具・鉄製武器・馬具など豊富であったが、副葬品は宮内庁に召し上げられている。脇袋では近年でも若狭町文化課などによって継続して周濠などの調査が行われている。2020年の調査では人物埴輪・馬形埴輪とみられる埴輪の一部が発見されている。


 これも円墳にしか見えないが前方後円墳と確認されている糠塚古墳。

 上ノ塚墳丘上から西方向、西塚を見下ろす。 糠塚はこの左手になる

上中町を27号線沿いに西に向かって進むと十善の森古墳が目に入る。

 27号線によって切られているが、道路を挟んで南側にも周濠が延び、全長68メートルの前方後円墳だ。6世紀初頭の古墳とみられ、横穴式石室に金製品を含む豪華な副葬品でも知られる。

 復元された金製冠帽が若狭歴史文化館にある。


27号線を北に曲がり、小浜線の線路を越えると丸塚山古墳がある。

 左が北

6世紀半ばの巨大円墳ということだが、北川の洪水の後、堤防修復のため封土のほとんどを採取されたらしい。

27号線を更に西進すると林の中に上船塚古墳が見える。

 

ここでまた27号線を北へ折れ、坂を下ると直ぐ下船塚古墳が見える。

上船塚と下船塚の間を走る道は旧街道だ。27号線は丹後街道とも若狭街道ともいう道を概ね踏襲しているが、微妙に逸れている。


この辺りを日笠と言う。追分でもあり、江戸時代の義民松木長操が処刑されたのもこの辺りだという。

旧道を少し西に行くと白髭神社古墳の入口がある。


墳丘の後円部からくびれ部にかけて神社が建っているのでそれこそよくわからないが、全長60メートル足らずの前方後円墳で周濠もあったらしい。6世紀前半頃らしい。

27号線沿いでは更に国分寺跡の敷地内に国分寺古墳がある。

 

 

 ここも墳頂に神社が建っている。若狭姫神社とあった。
十善の森古墳の北にある丸山塚古墳と同じころだろうか。

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耳川に沿って (福井県美浜町)

2022-08-07 | 行った所

美浜町を南から北へ流れる川を耳川という。


舞若道が耳川を渡る地点の少し西に彌美(みみ)神社がある。一の鳥居のごく近くに舞若道の橋脚が建っている。
 この写真の手前に高速道路の橋脚がある
参道を入っていく。古い神社だが最近改修されている。


若狭の耳別氏という豪族がいた。平城京出土の木簡などにも見える彌美だ。
彌美神社の祭神は 室毘古(むろびこ)王で、耳氏の祖ということになっている。室毘古は開化天皇の皇子で若狭に土着し、人々を導いた、ということになっている。記紀というのか旧辞・帝辞の誤りを正し云々は各地の豪族を天皇家の系図に組み込み序列化しようという意図に外ならない。覚えている人がいるような時代のことでは困るから、その起源は古い時代へ古い時代へと持っていく。新羅からの人の流入は4世紀後半から5世紀にかけての波状的に繰り返されたことだと思えるのに、それを象徴するアメノヒボコの話ははるか昔の垂仁天皇の時代になっている。
それはともかくここはなかなかいい神社だ。

若狭には「王の舞」と呼ばれる祭礼の際行われる行事がある。平安時代に京都から伝わったものが今に残るのだというがよくわからない。飛鳥時代に伝わったという伎楽とは関係がないのかな、と思ったりもする。

彌美神社の北東、耳川西岸に興道寺廃寺跡がある。国の史跡になっているが、標識がある以外は何が何だかわからない状況である。


ただこの辺に国分寺に紛うような大寺院があったことは間違いないらしい。

この近くには興道寺窯跡があるはずである。窯跡は見つけられなかったが、6世紀前半に操業した若狭では最も古い須恵器窯だという。
興道寺廃寺付近は美浜町の中心部、美浜町役場やJR美浜駅にもほど近いのだが、美浜町役場とJR美浜駅の間の国道27号線沿いに獅子塚古墳がある。関西電力原子力事業部のすぐ横である。

27号線その他に削られ墳丘はよくわからないが全長30メートルを超える前方後円墳で、横穴式石室には良質のベンガラが塗られていたという。須恵器などが出土し、興道寺窯跡で作られたものであるようだ。


角杯型須恵器は新羅系のものであるらしいが、耳別一族と関係があるのかもしれない。

 若狭歴史博物館展示

 若狭歴史博物館展示

そこからさらに北へ行くと、ゆうあい広場という全天候型ゲートボール場がある。ここは松原遺跡という製塩遺跡だ。
 もう海岸は近い。ゆうあい広場北側に炉の一部を芝生に残しているのだがよくわからなかった。案内板はある。


若狭には製塩遺跡は多い。8世紀の平城宮趾出土の木簡には若狭の彌美からの調として送られた塩の荷札とみられる木簡が複数ある。
https://www.youtube.com/watch?v=uECTZOO97VI 美浜歴史文化館の【歴文おもしろ展示品1】「弥美郷の木簡」展示解説 がアップされている。

*図説福井県史から わかさの製塩遺跡の分布図

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敦賀半島の古社

2022-08-06 | 行った所

敦賀半島の東側は敦賀市、西側は美浜町となる。東側が敦賀と言っても敦賀半島の先端の立石岬を西に回り、白木集落までは敦賀市の範囲だ。白木には高速増殖炉もんじゅがあり、立岩岬の東の明神には新型転換炉ふげん、日本原電の敦賀原発がある。西の美浜町側の丹生には関西電力の美浜原発がある。つまり敦賀半島の先の方には4つもの原発があることになる。原発銀座と言われるのも不思議ではない。

白木や明神の集落は陸の孤島と呼ばれたところだ。漁村として細々暮らす、そういう所に敢て原発を作った。陸の孤島に道路が通じ、長いトンネルが走る。
しかし、これらの地域はかつて、優れた技術を持ち、時代の先端を行った人々が暮らした地でもあった。裏日本の不便な半島の村としてではなく、外国の文化を受け入れ、熟してきた先進地区だった時もあるのだ。

気比の松原の脇を通り、敦賀半島を北上していくと常宮神社がある。気比神宮の奥の院と呼ばれるところで、お祭りは気比の祭神が宮司と共に船で気比から常宮へ赴くというものである。

ここには9世紀統一新羅時代に造られた鐘がある。ただその時代からあるものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に戦利品として持ってこられたものだという。当時敦賀を領していた大谷刑部により奉納されたものだという。

 

白木・白城はシラギ即ちそのまま新羅である。小さな集落だが白城神社は手入れがされ立派なものである。由緒が描かれたものがなかったのでよくわからなかった。


集落のすぐ脇から「もんじゅ」が見える。


美浜町の中心部から菅浜・竹波・丹生と集落をぬう道は、海岸線に沿ってうねうねと走っていたものだが、これらもトンネルの多い立派な道になっている。
古来どこの海岸線も美しかったのだろうと思うが、特に「美浜」と名付けられた美しい浜の中でも水晶浜と呼ばれる海岸は、驚くほど美しく、観光客を集めるスポットでもある。だが、ここからは美浜原発が見える。老朽原発というとやり玉にあがる美浜原発は1960年代に建設され、1970年の大阪万博会場に送電され、原子の光として華々しく喧伝された。40年越えどころか50年越え、2004年には冷却水配管が破損し、死者まで出したこの原発は、2021年福井県知事の合意により再稼働された。

菅浜の集落の中に須可麻神社がある。祭神はアメノヒボコの子孫とか。更に神功皇后の祖母に当たるとか。

 

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敦賀 気比神宮

2022-08-06 | 行った所

気比神宮は越前一の宮だ。
JR敦賀駅の方からメインストリートでアーケード街の8号線を北上し、もう一つのアーケード街、神楽通りとぶつかるところに、気比神宮の赤い大鳥居がある。神楽通りが気比神宮の参道だ。敦賀祭の時は神楽通りに派手な山車がずらりと並ぶ。気比神宮の境内はそれなりに広いが、祭りのときは屋台と人とですっかり埋まる。


古い由緒を誇る神社だが、それだけに不思議な伝承に彩られる。
一応祭神は・伊奢沙別(いざさわけ)命 ・仲哀天皇 ・神功皇后 ・日本武尊 ・応神天皇 ・玉妃命 ・武内宿禰 となっている。

記紀によれば、日本武尊は仲哀天皇の父で、神功皇后は仲哀天皇の妻で、応神天皇はその子ということになっている。武内宿禰というのは300歳まで生き、天皇5代に仕えた忠臣で特に応神の養育係のような役回りになっている。玉妃命は玉依姫の別名ということだから海神の娘ということになる。
伊奢沙別というのは気比大神の別名ということで気比神宮の主神となっているのだが、妙な話がある。
応神と伊奢沙別とが名前の交換をしたという話だ。応神は諡名だから、名はホムダワケという。だから元はイザサワケがホムダワケで応神のもとの名はイザサワケだったのだろうか。古事記では名を交換したお礼に気比大神は海岸にイルカを御食(みけ)として差し出したのだという。
気比神宮本殿の左手に九社神社というのがあるが、その一つもイザサワケを祀っているらしい。


このイザサという名にはアメノヒボコというこれも不思議な伝承の人物が絡む。アメノヒボコは新羅の王子だったが、7種だか8種だかの宝物を持参して日本へやってくる。その宝の一つが「イザサの太刀」その名が応神の本来の名であり、その名を捨て新たにホムダワケという名をもらったと。
応神は仲哀の子とはなっているが、父親が死んで一年半もして生まれた子に誰が親子関係を認めるのだろう。仲哀は神の神託に逆らって死に、神功は神託に従い宝の国である新羅に攻め込み、財宝を得、帰国する。そこで月の満ちすぎる赤子を産み、武内宿禰と共に東へ向かう。仲哀の他の妻の産んだ息子たちと戦い、これを破る。応神の異母兄たちにしてみれば、戦を挑むのは当然だ。父を殺され、誰の子かわからぬ異母弟に継がすわけにはいくわけがない。
武内宿禰は応神を連れて近江から越前の敦賀に禊に向かう。そこで気比大神との名前交換云々が出てくるわけだ。応神の父は住吉大神とか武内宿禰とか、でも新羅の誰かでもいいかもしれない。とはいえ神功皇后の征韓伝説もどこまで真に受けたらいいのやら。船は海中の魚たちが集まり、えっさほっさと一気に運ばれる。そのまま船は陸地まで攻め込む。なんだか夢の中の物語のようだ。でも広開土王の碑は辛卯の年(391)倭の侵攻を伝える。異説があるとはいえこの頃朝鮮半島と倭国の間で頻繁な行き来はあったのだろう。戦いあり、交易あり、通婚あり、人も文物も技術も動く。
敦賀にはもう一人のアメノヒボコともいえる伝説の王子がいる。ツヌガアラシトだ。ただ新羅ではなく任那の加羅の王子ということになっている。敦賀という地名はツヌガアラシトに因る。
曺智鉉の「天日槍と渡来人の足跡―古代史写真紀行」によれば日本海に突き出た半島として、能登・敦賀・丹後・島根の四つを挙げている。ただし敦賀半島はこの中で一番小さい。事実若狭湾としてぼこんと落ち込んだように見える大きな湾は、越前岬から丹後半島に達する。その中には様々な湾口が入子となって複雑な地形を構成するが、敦賀湾・舞鶴湾、宮津なども包含される。
しかしその中で敦賀は確かに古代には特異な位置を占めていたのであろう。
神功皇后の名はオキナガタラシヒメだ。息長(おきなが)氏は近江の豪族だ。その娘がヤマトの大王の妃となり、大王の熊襲遠征に同行する。しかし大王と共に瀬戸内を西行したのではない。オキナガタラシヒメは敦賀に赴き、そこから海岸沿いに西に進み、大王と合流する。敦賀は近江の外港だったのだろうか。
敦賀は現代福井県嶺南地域に属する。しかし越前・若狭という区分となれば敦賀は若狭ではなく越前なのだ。敦賀は越前の道の口、しかも敦賀郡の範囲は嶺北の南部、現在は丹南と言われる地域を含む。織田町辺りまでは敦賀県なのだ。
応神は記紀の系図の中でも特異な存在だ。ヤマトの王者の墓、前方後円墳は大和盆地の東南部に起源をもつが、4世紀末から5世紀にかけて河内へ移動し、羽曳野市・堺市にかけて巨大な古墳が作られる。副葬品もどちらかというと呪術的な意味の強い鏡などから、馬具、鉄器、須恵器へ移行する。その新しい王権の起源は応神に求められる。そしてこの王権を継承した大王たちは中国史書に現れる倭の五王に比定される。特に5番目の武はワカタケルこと雄略である。
応神に始まる王権も雄略の後、それほどの年を経ず廃れる。そして出てくるのが異色の王継体ヲホド王、彼は応神の5世の孫を名乗るが、前王権の血を引く娘を娶る。実質的に継体の後を継いだのは、この娘の産んだ欽明だ。国史の資料を集めさせたという天武も継いだ持統も、記紀ができた奈良時代8世紀の天皇たちも、皆欽明の子孫たちだ。


敦賀は港として栄え、気比社も尊崇を集めていただろうが、建久2年(1191)、火災で焼け落ちる。その再建に力を尽くしたのは藤原信定という後鳥羽院の側近であった。承久の変の後は、当然あまり良い目には合わなかったのだろう。
南北朝期には、南朝につき、宮司一族は金ケ崎城に籠り討ち死にしたという。それでもそれなりの勢力は維持していたらしいが、戦国末期、織田信長に攻められた朝倉氏に味方し、気比社は廃絶の憂き目にあう。再興したのは越前に入った結城秀康であった。

気比神宮本殿の東側、土公という気比社の故地だという。

いったいいつ頃のものかというのはさっぱりわからないが、後ろに見える山は天筒山だ。金ケ崎城と尾根続きで、南北朝の新田義貞勢と斯波高経勢、下って朝倉と織田勢が相争った戦場でもあるのだが、この角度から見れば、神奈備と言っていい端正さだ。気比社は海に向かっているとともに、この山を磐座としたところだったかもしれない。

土公の近くに角鹿神社がある。ツヌガアラシトを祀る

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