物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200719 京都

2020-07-28 | 行った所

大徳寺へ行ったら、平康頼の墓があった。

平家物語の康頼のイメージはあまり芳しいものではない。何しろ後白河の腰ぎんちゃく。鹿ケ谷のどんちゃん騒ぎの「謀議」では平瓶が倒れた、首をもげのと云う騒ぎに一枚かんでいる。
鬼界が島に俊寛・成経と共に配流される。島では熊野権現への信仰から祝言(のりと)を上げる。長々しくちんぷんかんぷんの物である。歌舞伎「俊寛」では康頼は島の娘と結婚することになっている。創作というより、だれか祝言を「しゅうげん」と読んだものがいての話ではなかろうかと、私は疑っている。康頼・成経は許され京へ戻るのだが、これは熊野権現の利生譚となっている。不信心者の俊寛は取り残される・・・。
康頼は卒塔婆を作り、せっせと海に流す。その一本が厳島に流れ着き、後白河の手へ、更に清盛に達し、康頼と成経は許される。この話はあざとすぎていただけないものがあると思う。
康頼は元々美声で美男、今様の上手で後白河に取り立てられた。しかし最初は頼盛の子保盛の家人、保盛の国司補任に伴い、越前・尾張に同行する。平の姓を許されたというから見所のある若者だったのだろう。尾張では荒れていた源義朝の墓の整備をし、供養した。この事が京都に聞こえ、後白河が興味を持ち召し出したら気に入り、近習にしたということらしい。
出家の志もなまじな方便でもなかったようで、仏教説話集「宝物集」を書いている。

瑞峰院で一息入れる

大徳寺は昨日登った船岡山に近い。たいして眺望はきかなかったがそれでも京都タワーが見え、

左大文字が近く見えた。

23歳でつぼめる花が散れるがごとしと平家物語に書かれた二条帝が没し、船岡山で葬送が行われたが、若き王の死も延暦寺・興福寺の衆人達は悼むどころか自らの勢力を誇示し、額打ちの狼藉を働く。
船岡山を含めたこの洛北の地は、蓮台野と呼ばれ、東の鳥辺野、西の化野と並ぶ葬送の地だ。


粟田神社へ行く。

粟田口で結構登る。

初めてこの辺り、平安神宮との位置関係が分かったような。

近辺で蕎麦を食べ、蹴上から山科にでる。
山科でちりめん山椒の店を探すうちに、山科駅の北側の道を随分と北に上がった。文字通りの坂道を登ったのである。こんなところで商売になるのか?という立地であった。もう少し登ると毘沙門堂があるというので行ってみる。

あきれたことにここも門跡寺院だった。

四ノ宮駅の辺りにちょっと寄って高速に乗る。

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20200718 京都街歩き 内裏周辺

2020-07-27 | 行った所

丸太町千本の交差点の北西に大極殿跡がある。丸太町千本の角々に朝堂などの説明板がある。

今回はこの交差点の北東の地域をうろうろしてみた。
丸太町通りのすぐ北の道を東に入ってみたが何もないようだったのですぐ北に向きを変えた。中立売との角に内裏内郭回廊址があった。


大内裏そのものも囲いがあり、門で出入りするがその中で更に内裏は特別に囲われた場所だ。内郭回廊址のここだけは発掘した場所がそのまま残されているようだ。内裏と云っても今は狭い路地の住宅街に過ぎないのだが。
中立売を東に行くとほどなく蔵人町屋、

承明門、

宜陽殿と

次々出てくる。更に紫宸殿跡、

この立込んだ住宅街が将に内裏、紫宸殿前だとすると左近の桜・右近の橘があり、平治物語によれば、平重盛が源義平に追い回され駆け巡ったところということになる。

北へ上がって路地に入ると承香殿だの弘徽殿だのと後宮だ。

だが建物はどうやらインバウンド向けの宿泊施設になっているらしい。場所そのものはディープな平安京の後宮、面白そうではある。


更に飛香舎(藤壺)、なるほど、桐壺と云われる淑景舎はここから対角線上に遠い。清涼殿に渡るには長い廊下を渡らなければならなかったはずだ
意外に軒を接していたのではないか、狭い。これではうっとうしいだろう。至上の存在とされる帝もこれはあまり快適ではなかったのではないか。嵯峨の頃から平安京を脱し郊外へ逃れようという意識は働く。院ともなればなおさらのこと。自由と権力、院は二兎を追う。それが鳥羽・白川・法住寺殿か、いや里内裏云われる市中の豪邸もそれに属する。

聚楽第の外堀址辺りからわけが分からなくなりただうろつく。


酒殿木簡出土地、

黒木御所というのはどうも「あぶら」山中油店らしく、

しかもここは弘徽殿などの宿泊施設の大家であるらしい。


一息入れる気で、丸太町通りに出ようとしたら、

建春門跡に通りかかった。

全く油断ならない。丸太町通りで、中務省址。

昼食を求めて堀川通りに出てカレーを食べる。

仕切り直して堀川から猪熊通を北へ入ろうとすると、交差点対岸は待賢門幼稚園・小学校だ。


猪熊通を北上、春日局の生誕地だって、。


山崎闇斎の址もあった


待賢門跡。

 車ではもちろん、自転車だって見逃すだろうという所、待賢門址。平治の乱で守ったのは藤原信頼、攻めたのは平重盛。重盛は門を破るが、源義平が駆けつける。合戦の舞台は意外なほど狭いものだった。兵を展開させるような戦いではなかった。

猪熊通から一本東の通りに検非違使の址がある。

 しばしば出てくる検非違使、平安末には長官の館が検非違使庁となりここは機能しなかったというがそれでもここか!と思う。

また丸太町に戻り通りを渡って、主水司址。

美福通を南に、二条公園へ。
鵺池。

鵺が大明神とは知らなんだ。

平家物語第4巻「鵺の事」以仁王の乱が鎮圧され加担した源頼政の話である。近衛と二条、二人の若い帝が怪異に脅かされる話を私はさほど不自然に思わず読んだ。今日的な目でなくても彼らの成育歴は不自然で健全とは言い難い。その彼らが物の怪におびえ、強き武者の弓弦音に安堵を覚えたのだろうと位にしか思わなかった。赤井 信吾「高僧慈円の思想と創造力」はこの鵺話そのものを慈円の創造とする。確かにここで頼長が和歌を詠むはずもないのだ。
それにしても下賜物を肩にひっさげ退出する頼政の格好の良さ。辟邪を伝統とし、大内守護を担う摂津源氏としての面目躍如である。
平家物語では、頼政が平家に不満を持つ源氏の一族を並べて以仁王をけしかけるのであるが、近年の研究ではむしろ頼政はは巻き込まれたとする方が多いようである。

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20200718 京都街歩き

2020-07-22 | 行った所

京都街歩き

烏丸を挟み三条近辺、高級な館街だ。ただの高級住宅というわけではない。平安時代から王家・摂関家の館だ。贅美を尽くした、というだけではないだろう、警備や財政官、下働きの者もいて、やはりそれ一つで官庁のようなものでもあったのではないか。
三条姉小路を少し入ったところ、新風館という建物の北西の隅近くに三条東殿の碑がある。平治元年(1159)後白河の院御所になっていたここに、源義朝らが襲撃、後白河を連れ去って幽閉する。平治の乱である。

 新風館

烏丸を挟んで西側には三条西殿 

そしてその南、現みずほ銀行の建物に、三条南殿の銘板がある。


平治の乱当時は上西門院の館だった。13歳の少年頼朝が勤めていたのだ。遠藤盛遠、若き日の文覚もまたここにいた。

姉小路新町西入ルで北側に高松神明社があり、ここに高松殿の案内板があった。上の地図の屋敷の場所は通り名で特定できるものはそれに従っている。

ここで後白河が即位し、保元の乱のとき後白河方の本拠になったという。

御池通りを渡り、烏丸と室町の間の通りは両替町通りという。その名の通り銀座址の碑があったりするのだが、江戸時代の事だ。

漫画ミュージアムの裏に二条殿址の碑もある。二条良基が広大な池のある邸を構えていたというが、これも平安時代からはだいぶ時代が下がる

押小路を西へ行き、押小路釜座に東三条院の案内板がある。「とうさんじょういん」と読むらしい。道長のころの摂関家の華やかな邸だったらしいが安元3年の大火で焼亡とある。

ここは摂関家の儀式殿で、氏の長者示す祭器の類も保管されていたらしい。保元乱の前に、藤原忠実は一度譲った氏の長者を長男忠通から取り戻そうと働きかけるが、忠通は応ぜず、忠実は源為義に東三条院を占拠させる。氏の長者は頼長に渡したものの忠実・頼長と忠通の間は決定的に決裂する。

押小路を更に西へ行くと閑院の碑があった。高倉天皇が里内裏に使ったらしい。

 

その隣が堀川天皇里内裏のはずだが、ホテル改修中のためか碑を探せず。
ホテルの西側、堀川に面して、橋本佐内の住居跡、福井藩邸址があった。

 

堀川

 

20201718  左女牛井

さめがいと読むようだ、岐阜の醒ヶ井と何か関係があるのだろうか。

堀川五条を少し下がり、西本願寺の附属建物の駐車場北辺付近の歩道脇の草むらの中にある。

碑の脇には読みにくいが、「源義経堀川御所用水と伝えられ、足利時代に既に名あり云々、第二次世界大戦に際し昭和20年疎開のため撤去云々」とある。

木の案内板は最初のパラグラフは読めない。次は村田寿光がこの辺りに住み、義政や織田有楽斎も来たことがある云々で、最後は昭和44年、碑を建てた経緯のようだ。

堀川六条には源氏累代の館と呼ばれる場所があったらしい。義家から始まり、保元の乱当時は為義がいただろう。不仲の義朝の京都での根拠地はどこだったのだろう。平治の乱時には義朝はここから出撃したのか。義経は京と滞在中は六条堀川にいたというからここだったのだろう。

七条堀川を少し東南に入ったところで見かけた住所表示、あの文覚と何か関係があるのだろうか。

 

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20200717 京都

2020-07-22 | 行った所

竜王辺りから雨になった。栗東IC手前で事故渋滞があった。京都南ICで降り、北上する。西大路を走り丸太町で右折、京都アスニーという生涯学習センターの一角が平安京創生館という資料館になっている。雨の時は入ろうと決めていた。
歴年の発掘成果などを踏まえた平安京の大パノラマ模型が売り、白川の法勝寺の九重の塔の復元模型もある。鳥羽離宮のパノラマもある。退職した教師と思しい男性が、解説もしてくれる。想像以上に面白くよかった。資料をいくつか買う。
これでこの辺の内裏址を巡るのだ。

嵐山へ出て昼食、鰻。

祇王寺へ行く。祇王寺へ入る手前に駐車場があったのだが、駐車料金は1000円だった。
云わずと知れた平家物語第1巻「祇王」清盛に可愛がられ、捨てられた白拍子祇王と妹妓女、母刀自、祇王の後釜となった白拍子仏の物語。ここで物語は実在化する。寺のパンフに「平家物語にも書かれた」云々とあったが、平家物語以外の史料は何だろう、長講堂の過去帳に祇王以下4人の名があるというけれど、それとても物語が先ではないかしら。一説では祇王は滋賀県野洲付近の出身で、用水の整備を清盛に頼んだという。福井にも祇王の住んだという伝承を持つ場所がある。大野には仏御前の滝という物もある。全国どれくらいこういうものがあるのだろう、それだけ祇王の物語は広まったのだろう。


祇王寺は苔深々と緑美しかったが、雨もよいの所為か、いささか湿気が多すぎ、陰気臭かった。

近くの滝口寺に新田義貞の首塚があるらしい。脇の碑は勾当内侍**とかろうじて読めるものがあった。

太平記によれば義貞は越前の灯明寺畷にて戦死している。福井市足羽山の藤島神社には義貞の兜と称するものがある。福井藩4代目藩主松平光通の時に灯明寺の百姓が田地から掘り出し献じたものだというが、300年も埋もれていたとは思えぬきれいな鉄兜だ。甲冑の研究家によって義貞の時代には合わないと鑑定されているはずだが、神社は認めていないようだ。坂井市長崎称念寺には義貞の墓がある。立派なものだが、あれは胴塚だったのか。
滝口寺と云うのは滝口入道と横笛の話に関係はあるのだろう。

化野方面へ歩く。念仏寺へ至る道。

車へ戻り、大覚寺へ行く。
嵯峨天皇の離宮、平安京の北辺一条通を西にたどると嵯峨野に至ると平安京創生館で教わった。

如何にも門跡寺、輿もある。

 

仁和寺へ向かう。ここも馬鹿に広い敷地の寺だ。境内に敷き詰められているのは細かな砂利だ。


桜の名所だという。御室桜と云うのは背の低い桜木だそうだ。桜越しに五重塔を眺められたらいいだろうな。
平家物語第7巻「経正都落ち」「青山の沙汰」に仁和寺が出てくる。
清盛の異母弟の一人教盛の息子、笛の名手敦盛の兄経正は琵琶の名手である。何しろ北陸遠征時に琵琶湖の竹生島に寄って琵琶を弾こうかというミュージシャンである。幼い頃、御室に住み、覚性法親王に可愛がられ、琵琶を習った。覚性は崇徳・後白河の同母の弟である。経正は都落ちを前に仁和寺を訪れ、預かっていた青山という琵琶の名器を返すのである。覚性は嘉応1年(1169)に死んでいるので出てきた門跡は 守覚法親王である。これは後白河の息子の一人だ。この場所はおそらく勅使門のなか、御所と呼ばれる部分だっただろう。

徒然草の石清水に詣で損ねた先達無き「仁和寺にある法師」がどこにいたのかはわからないけれど。
経正は一の谷で戦死する。討たれたむねとの人々10人の中に経正の名がある。

ホテルが四条烏丸から北西に入ったところだったのでいったんホテルに入り、町をぶらつく。
三条高倉の京都文化博物館に入る。祇園祭展をやっていた。本来なら祇園祭直前の時期だった。鉾とか山とか言われるものには立派な南蛮渡りのタペストリーが使われている。結構驚く。
烏丸姉小路には三条東殿の碑があった。烏丸を下がって、みずほ銀行の建物には三条南殿の銘板がついていた。室町通を下がると鯉山が。

ついさっき博物館で見たものがダイレクトにつながる。

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長谷部信連と平時忠 2 時忠

2020-07-15 | まとめ書き

一口に平家と云っても色々ある。桓武天皇を祖にする、とはいっても幾つか代へて高棟王(伊勢平家などの祖となった高望王とは別)という人が賜姓を平家と名乗る。この流れは公家として京都に残り、堂上平家と言われる。この家に時忠は生まれた。公家の家だから日記(にき)の家と云われる。平家物語の時代の史料である「兵範記」は叔父平信範の日記である。

時忠の父時信は鳥羽の近臣の一人だし、家格は悪いものではなかったが、母は令子内親王の半物と一人前扱いされない存在だ。令子内親王は白河の娘の一人だが加茂の斎院にもなっている。時忠の父が出入りをしていて知り合ったものか。少なくとも姉の時子は同母だから、ある程度安定した関係ではあったのだろう。時忠の父は比較的早く死ぬ。兄弟は10数歳下の見られる親宗だけのようだから時忠が家督を継いだのに不自然はない。しかし父を亡くし、母系の援助も期待できない若き時忠の前途はあまり明るくなかっただろう。
だが、思わぬ幸運が姉妹たちによってもたらされる。姉の時子は平清盛の室に納まった。正妻である。更に上西門院の女房だった妹滋子が後白河の寵を得る。滋子の母は藤原顕頼の娘祐子、れっきとした公卿の娘だ。同じ娘でも時子とは格が違うらしい。更に美しかっただけでなく、「建礼門院右京大夫集」や定家の姉の「たまきはる」に絶賛される女性から見ても賢く人柄がよい人だったようだ。女はおろか男にまで節操のない後白河も滋子を本気で愛したらしい。

平家物語で時忠の「この一門にあらずんば人にあらず」という科白が出てくるのは第1巻「禿髪」とかなり早い段階である。禿髪の異形の少年たちが何を象徴しているのかは置いておくが、この章は仁安3年(1168)清盛が病を得て出家したが全快し、その後「吾身栄花」の章合わせて一族の栄華が語られる。仁安3年は後白河と滋子との子、高倉が即位した年でもあるので平家の栄華が極まったと書かれるのもそう不自然ではないが、そこに描かれている栄光はかなり後年のものも含むようだ。この章の次は「祇王」で、清盛の横暴が描かれるが、その次は「二代の后」で二条天皇の時代であり、次の「額打ち論」は二条の死である。
二代の后、多子が二条に入内したのは永暦元年(1160年)であるから、物語はここで8年ばかり時をさかのぼったということになる。
二条と後白河は実の親子と云いながら仲は良くない。二条は正当帝王として親政を志向し、後白河は一度手に入れた権力を離そうとはしない。この二人の間で清盛はアナタコナタしていたのであるが、二条寄りである。時忠は違う。せっかく妹が権力者の懐にいるのだ、最大限に利用したいのだ。応保元年(1161)滋子が高倉を産むとその思いは強まる。しかしここで時忠は少し焦りすぎたようだ。罪を得て出雲に配流された。生まれたばかりの高倉の立太子を狙ったという。時忠は生涯に2度出雲へ配流になるがその最初だ。2度目は延暦寺の強訴のごたごたで後白河の機嫌を損ねたのである。
二条の死で時忠は京へ呼び戻される。高倉が東宮に立ったことはもちろんである。二条側についていた清盛も後白河と提携するほか選択肢がなくなる。ここに平家と後白河の蜜月が始まる。
しかし滋子は安元2年(1176)まだ若くして死ぬ。平家と後白河の間を取り持っていた滋子の死を期に一気に問題が起こり始める。
安元3年(1177)白山事件を発端とする強訴、この時、時忠はどう立ち回ったのか、先の嘉応元年(1169年)の強訴で配流になったのとは大違い、いきり立つ大衆を前に「衆徒の乱悪をいたすは魔閻の所業なり。明王の制止に加わるは善政の加護なり」と書いてこれを鎮めたという。さっぱりわからない。この時は大衆の要求を入れ、師高の配流・神輿を射た重盛家人の投獄という事でおさまったはずだが、この時忠の行為はどう解すべきか。
更に事態は鹿谷事件へと動く。
一端は矛を収めた清盛も、高倉中宮となっていた娘徳子が安徳を産み、重盛・盛子の死を受けた後白河の挑戦的行為に治承3年のクーデターを断行する。
後白河の幽閉、安徳の即位、福原遷都と矢継ぎ早の手を討つ。平家物語によれば、安徳の幼すぎる即位に、時忠は 周成王3歳 晋穆帝2歳 近衛3歳 六条2歳などの例を引くが、よい例ではないとされる。
治承4年(1180)以仁王の乱に始まった反平家の烽火が上がり、やむなく京都へ都を戻すものの、高倉が、そして清盛が死ぬ。
打ち続く飢饉と戦火、木曽義仲は北陸路を大勝した勢いで京都に迫り、平家は都落ち、西国での再起を期す。清盛・重盛既に亡く、平家の領袖となるのは宗盛だが、時忠は、齢50を越え、清盛の後家二位の尼の弟して、堂上平家とはいえ3度検非違使で活躍した実力からも宗盛と並ぶような中心人物だったことだろう。事実、平家へ下される院宣の宛先は時忠になっていた。しかし、都落ちという大きな決断に時忠がどうかかわっていたかわからない。平家物語ではわずかに内侍所の神璽などを取り出したこと、石清水八幡宮の男山を伏し拝んだことがあるくらいだ。
さて義仲入京後の除目で(第7巻「名虎」)平家一門160余人の官職が罷免されるが、時忠と息子の時実、従兄弟の信基は罷免されていない。三種の神器を返すようにという院宣を時忠に下すためであるとされる。
西国に向かい、大宰府で落ち着こうとした平家だが、逆に追い出される。この時、時忠は使いに来た者に豊後国司頼資の事を「鼻備後」と罵る。更に一の谷の後、屋島に院宣を持ってきた使いの花方という者の顔に波型の焼き印を押すという乱暴さを見せる。この使いが戻った時後白河は笑ったというからこの法王も救いがたい。時忠は検非違使の時には盗人の腕を切り落としていたというが、殿上人とも思えぬ粗暴な面がある。ただ実際の戦闘には参加していないようだ。
壇ノ浦の合戦の後、生け捕られた者の筆頭は宗盛、ついで時忠、宗盛息子、時忠従兄弟、息子と名前が上がっていく。僧侶・侍合わせて38人、女房43人が捕虜である。清盛の一族の中で生き残った者たちである。
第11巻「文之沙汰」は興味深い。神器奪還に功があったという時忠であるが京で引き回しの後、義経宿舎の近くに時実と共に押し込められている。時忠は言う、義経に文箱を取られた、中身を頼朝に見られたら拙い。時実は義経に娘をやって取り返そう。18歳の娘は惜しいからと23歳の娘を義経に差し出す。義経はあっさり箱を返し、時忠は燃やしたという。娘の話はともかくも文箱の話はどうだろうか、いくら何でも義経もそこまで馬鹿ではないだろう。でもここには何か暗示があるような気がする。時忠は「日記の家」の生まれだと冒頭に書いた。時忠自身も日記を書いていたのではないだろうか。子々孫々へ渡すべき記録としての日記。断片ではあっても時忠はこの時までは何か持っていたのではないか。頼朝に見られたら拙い何かが書いてあったとしても交渉には使えない何か。
時忠は抵抗空しく能登へ流罪となる。第12巻「平大納言流され」なのだが、ちょっとおかしなことがある。長男時実が上総に配流はいい。次男時家16歳が母親の兄の元に居て、母帥の輔と共に時忠の袖にすがって泣いたというのだが、次男時家というのは治承3年(1179)の段階で上総に流され上総広常の婿になり、頼朝の近臣となっていたのだ。流罪の理由もはっきりしないようだが、この件で父や兄に何か含むところがあって頼朝に仕えたのかもしれないし、親に連座してというのでもないのに、流罪になったことを考えるとこの時点で16歳とも思えない。

元暦2年9月(1185)時忠は能登へ向かう。堅田で歌を詠んでいるから、琵琶湖西岸を北上し敦賀へ出たことは間違いない。妻子とは京で分かれた。郎党は何人か付いていたのか。敦賀以降のルートはどうだろう。敦賀から輪島か曽々木へ船で行ければ楽だろうが、どうだったろうか。陸路なら越前・加賀を通り七尾、七尾から穴水、その先はどうだっただろう。


時忠の墓のあるのは、半島の先端部近く北側である
大谷というの集落の手前で海岸線から山地に入る。大きくループする立派な道がついている。意外に奥へ入る。もっと海岸に近いところかと思っていた。直線距離でも1.5km以上あるだろう。道路上に駐車スペースとお金をかけたらしい案内板がある。墓はここから谷へ下ったところで工事現場用の仮設階段で降りるのである。
時忠と一族の墓は揚羽蝶の紋をあしらった柵の中にあった。一族の墓として、五輪塔が十数個並んでいる。

時忠の歌が書かれた標識がいくつかあったのだが、その一つが「能登の国、聞くも嫌なり珠洲の海、再び戻せ伊勢の神垣」というものであった。聞くも嫌な珠洲の海鳴りはここまで響いて来たろうか。さすがに同情したくなる。ただ、時忠はそもそも伊勢平氏ではないし、余りにあけすけな書きようは時忠の実作ではなく後世の狂歌だろう。平家物語第12巻「平大納言流され」で時忠が読んだとされる歌は「かへりこむことはかただにひきあみの めにもたまらぬわがなみだかな」だし、道路脇の碑には「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」があった。
近くを流れる川は烏川と云い平家の守りである烏に導かれ、時忠たちはこの谷に住んだという。
伊豆の流人頼朝の元へは比企の尼がせっせと仕送りをしていたという。鬼界が島に流された成経の元には舅の教経が仕送りをしてくれていたという。時忠の元に仕送りはあったろうか。

奇怪な形状の岩々が続く海岸線を12~13km西へ行くと曽々木で、近くにたいそう豪壮は大庄屋屋敷のようなものがある。

上時国家で下時国家合わせて時忠の子孫を名乗っている。時忠が能登でもうけた子供の一人時国を初代とする家だという。但し戦国時代を遡る記録はないようだ。(網野義彦「海から見た日本史像」)ここの村の石高は300石、ほとんど平地がなく米の穫れない能登にしては採れる方だが、主に海運で栄えたようだ。

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長谷部信連と平時忠 1 信連

2020-07-07 | まとめ書き

平家が歴史の表舞台から姿を消し、頼朝の覇権が明らかになった頃、平家物語を彩った二人の人物が能登に住居を移し、そこで生涯を終えた。二人の年齢も立場も著しく違う。
一人は長谷部信連であり、もう一人は平時忠である。

長谷部信連は、平家物語 第4巻に章題が「信連」とある章があり、その活躍が語られる。
平時忠は、物語の随所で、驕る平家を象徴する者として、或いは宗盛と並ぶ平家の総帥として、また一族の滅びの中で自分だけは助かろうと画策する様、流人として流される様が描かれる。

平家物語の長谷部信連は格好がいいったらない、挙兵計画が漏れたという源三位頼政からの急報に以仁王を逃がし、女房達も立ち退かせ、高倉御所を片付け、以仁王の忘れた笛を届けたりもする。そして押し寄せた平家の追っ手300余騎を相手に大奮戦。しかし多勢に無勢で生け捕られる。宗盛は斬り捨てよというのだが、信連は平然と反駁する。これが清盛をして信連を惜しませ、先年の盗賊退治の功も現れ、死罪から伯耆遠流となる。平家滅んだ後、頼朝は信連を召しだし、御家人に加える。
この格好の良さが浮世絵などでの人気の画材となった由縁だろう。明治の浮世絵絵師芳年の絵は、江戸時代から続く信連の一般的イメージを写しているのだろう。

女装した以仁王と御付きが被っているのは虫垂れ衣という。これを被った以仁王は大溝を飛び越え大股で歩いた、とある。さてこれを見送る信連はあまり若くはないように見える髭面である。しかし精悍そうである。健保6年(1218)72歳で死んだというので逆算すれば以仁王の乱、治承4年(1180)には33歳だったということになり、経験からくる知恵・分別、肉体的強靭さなどがバランスした30代であったことはうなづける。治承寿永の騒乱期、活躍したのは義仲とその乳母子たち含め30歳前後が多かった気がする。信連の生年は久安3年(1147)ということになり、頼朝・宗盛とも同年生まれ、ということになる。

頼朝に召し出されたのは文治二年(1186年)というから6年以上を流刑地の播磨で過ごしたことになる。どのようにしていたのかは不明だが鳥取県日野町の長楽寺という寺は信連の再建ということになっているようだ。

頼朝は信連を最初は検非違使に、ついで能登国大屋荘の地頭とした。
大屋荘と云うのは随分大きな荘園のようだ。10村をまとめたものだ。穴水周辺だけかと思っていたら輪島にまで及ぶ。信連の墓は輪島にあるということなので実際に広く所領としたのだろう。それどころかその勢力は加賀の山中までも及んだらしい。山中にも長谷部神社がある。

この図は「趣味人倶楽部」というサイト(https://smcb.jp/diaries/8135257)から拾ったが、元は「輪島の歴史(市制50周年記念誌)」らしい。 
荘園なのだから、領主がいたと思うのだが、誰だったのだろう?

穴水町に長谷部神社がある。長谷部神社は穴水湾に面して立つ。

穴水の湾は深く複雑な形をしている。七尾湾は能登島を咥えこんだようになっている湾口だが、その北側に入り込むのが穴水湾だ。ボラが入り込んでくる地形らしく、穴水湾の中の湾の一つの中居湾という所にボラ待ち櫓があった。

七尾湾をはさんで、南に七尾、北に穴水である。

能登の国府は七尾である。羽咋から七尾にかけては地溝帯で、古くは邑知潟が大きく広がり、多くは湿地だった。弥生・古墳時代の遺跡はこの湿地の縁辺にある。
七尾に比べれば穴水は新興だろう。遠江生まれだという信連が能登の冬をなんと思ったのかはわからないが、所領を得て腕を振るっただろう。30数年能登にあり根を下ろした。子孫は長氏と称し勢力を保つ。
ずっとのちの江戸時代の事、徳川幕府は加賀能登を領する外様前田家への楔の一つとして、天領を設け、土方氏を派遣する。土方領は長氏の旧領を受け継いでいるようだ。(網野善彦「海から見た日本史像―奥能登地域と時国家を中心として―」)



神社の狛犬があるべきところにお狐さんがいたのでお稲荷かと思ったら、信連が石見を流浪していた時、狐に助けられたという伝承があるようだ。利仁将軍と同じように、不思議な力を持った強い武者とみなされていたのだろうか。

長谷部神社に隣接し穴水町立資料館がある。
裏手には長氏の穴水城址がある。

 

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20200627-28 能登半島一周

2020-07-02 | 行った所

朝から北陸道に乗り、のと里山海道を走り、穴水を目指す。
羽咋に近い志雄PAで一服。確かに志雄という地名なのだ、子浦川が流れ、志雄小学校もある。だが志保山はどこだろう。子浦川の源流は宝達山らしい。これが志保山でもおかしくはないようなものだが、どうやっても平家物語の記述とは会わない。

 宝達山方面

のと里山海道は無料の自動車道だ。高速道路並みの規格がずっと続くのかと思ったが、途中は片側1車線の対面通行で、古い道のままのようなところがかなりある。

穴水の湾は深く複雑な形をしている。
長谷部神社は穴水湾に面して立つ。

平家物語の長谷部信連は格好がいいったらない。第4巻「信連」もしくは「信連合戦」と表題が立っているだけあってすごいのだ。源三位頼政からの急報に以仁王を逃がし、女房達も立ち退かせ、高倉御所を片付け、以仁王の忘れた笛を届けたりもする。そして押し寄せた平家の追っ手300余騎を相手に大奮戦。しかし多勢に無勢で生け捕られる。宗盛は斬り捨てよというのだが、信連は平然と反駁する。これが清盛をして信連を惜しませ、先年の盗賊退治の功も現れ、死罪から伯耆遠流となる。平家滅んだ後、頼朝は信連を召しだし、御家人に加える。というまでが平家物語


芳年の「高倉月」 信連が女装して逃げる以仁王を見送る

その後信連は能登の大家荘の地頭となり、子孫は長氏と称し穴水に土着し、一定の勢力を保つ。

神社の狛犬に当たるものが狐でお稲荷さんかと思ったが、信連は狐に助けられたことがあったらしい。

長谷部神社に隣接し穴水市立資料館がある。

裏手には長氏の穴水城址がある。

249号線で東に向かう。途中、中居湾でボラ待ち櫓を見た。穴水湾は複雑な形状をしているが中居湾も穴水湾の中にある湾の一つだ。櫓に乗っている人形がリアルだ

鵜川を経て宇出津(うしつ)港、ここで昼食、すし屋へ入る。

見付島へ寄る。


乞食坊主に親切にした善人が報われるとか、井戸ができたとかいう空海伝説は全国的にあるが、ここのはちょっと違う。今昔物語にある空海の説話は、中国で修業した空海が師匠から三鈷杵をもらい、海に向かって投げる。三鈷杵は高野山に飛んでいき、そこに空海は寺を開いた、という物だ。三鈷杵は先端が3つに分かれた密教の仏具らしいのだが、見付島の伝説では空海は仏具を3個投げたことになっている。高野山と佐渡と見付島に落ちたという。どうやってこじつけたものか。

珠洲市街地に入り更に行く。

 旧珠洲駅 廃線になり道の駅になっている

能登半島も先端近くになってきた。
須須神社だ。


この辺りではなんでも義経に結び付けることになっているようだ。

能登半島では大掛かりな祭りが行われるようだ。キリコという大奉燈を掲げた派手なもののようだ。これは大奉燈収納所、大変背が高い。 

空中展望台とかランプの宿とか書いた標識に惹かれていってみると結構な絶景だ。レジャー施設になっていて青の洞窟なんてのもある。

能登の民家は黒い瓦葺、板の外壁が特徴のようだ。それを模しているようだ。

いよいよ最先端、禄剛崎灯台、狼煙町だ。

ここからは西へ向かって走ることになる。

平時忠の墓、「この一門にあらずんば人にあらず」と云ったとかで悪名高い清盛の義弟、壇ノ浦のあと神鏡を確保したのを手柄と言い立て死罪を免れる。流されたのがここ能登である。
大谷の集落の手前で海岸線から山地に入る。大きくループする立派な道がついている。意外に奥へ入る。もっと海岸に近いところかと思っていた。直線距離でも1.5km以上あるだろう。道路上に駐車スペースとお金をかけたらしい案内板がある。

墓はここから谷へ下ったところで工事現場用の仮設階段で降りるのである。

時忠と一族の墓は揚羽蝶の紋をあしらった柵の中にあった。
時忠の歌が書かれた標識がいくつかあったのだが、その一つが「能登の国、聞くも嫌なり珠洲の海、再び戻せ伊勢の神垣」というものであった。聞くも嫌な珠洲の海鳴りはここまで響いて来たろうか。さすがに同情したくなる。ただ、時忠はそもそも伊勢平氏ではないし、余りにあけすけな書きようは時忠の実作ではなく、後世の狂歌だろう。平家物語第12巻「平大納言流され」で時忠が読んだとされる歌は「かへりこむことはかただにひきあみのめにもたまらぬわがなみだかな」だし、道路脇の碑には「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」があった。
近くを流れる川は烏川と云い平家の守りである烏に導かれ、時忠たちはこの谷に住んだという。

海岸の道路に戻る。塩田があるらしい。海岸線は奇怪な形状の岩々が続く。

 ゴジラ!
曽々木だ。海岸から離れほどなく時国家だ。この辺りでは能登半島、特に外海に面した部分では珍しく平地が広がっている。ここなら米も取れるだろう。
下時国家は去年の台風からの修復がまだ終わらず、公開していなかった。
上時国家は公開はしているが公開時間が終わっていた。外観だけでも大変なものであった。

門柱と番屋


茅葺だが2階建てにも見える豪壮さ、大庄屋とはいってもこの規模の物はなかなかないだろう。
平地を見下ろす小高い場所に位置し、途中まで周濠が周っているようだ。

 裏手は山だ。
時忠が能登でも享けた子供の一人時国を初代とする家だという。


流人の子時国は平地を探し開発したのか300石の村だという。才幹ある人だったのだろう。
更にその子孫たちもでき者が多かったのか、製塩、北前船と収入源を確保していたようである。

輪島に向かう。途中塩浜製塩所があり寄ってみた。


安寿と厨子王の安寿の潮汲みのようだ。あれは丹後だったか。

 濾槽

 

輪島泊。


朝市はパッとしなかったが、ここは猫町だ。但し猫たちは満ち足りて暮らしているようで、ゆきずりの者には寄ってはこなかった。

少し戻って白方の棚田を見る。耕して天に至るというが、ここでは海に至るではないのか。


半畳にも満たぬ棚田は以下に能登が耕地に恵まれなかったかの証左のようだ。

249号線で輪島から門前の海岸に出る。砂浜が広がり、馬のいる所があった。
天候がいいのでリゾートみたいな感じだ。

能登金剛という景勝地まで行く。
遊覧船に乗る。風があってかなり揺れる。


巌門という通り抜けられる洞窟があるが、この船には小さい。
安山岩の溶岩と凝灰角礫岩の混ざったものが海食されてできたとあるので安山岩の節理が目立つ東尋坊とは少し違うのか。
遠くに風力発電の風車の列が見える。志賀原発も遠くないはずだ。

海岸を離れ、小田中親王塚へ行く。

陪塚もある

 近くの蓮池

陪塚の前から低地を見る

古墳は少し小高くなったところの立地だ。羽咋から七尾に向かって邑知潟地溝帯という低地が伸びる。この地方の多くの弥生・古墳の遺跡と同じように小田中親王塚もその縁辺にある。かつての邑知潟は入江のような潟だったという。

邑知潟を見て帰路につく。

 邑知潟

 

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