朝から北陸道に乗り、のと里山海道を走り、穴水を目指す。
羽咋に近い志雄PAで一服。確かに志雄という地名なのだ、子浦川が流れ、志雄小学校もある。だが志保山はどこだろう。子浦川の源流は宝達山らしい。これが志保山でもおかしくはないようなものだが、どうやっても平家物語の記述とは会わない。
宝達山方面
のと里山海道は無料の自動車道だ。高速道路並みの規格がずっと続くのかと思ったが、途中は片側1車線の対面通行で、古い道のままのようなところがかなりある。
穴水の湾は深く複雑な形をしている。
長谷部神社は穴水湾に面して立つ。
平家物語の長谷部信連は格好がいいったらない。第4巻「信連」もしくは「信連合戦」と表題が立っているだけあってすごいのだ。源三位頼政からの急報に以仁王を逃がし、女房達も立ち退かせ、高倉御所を片付け、以仁王の忘れた笛を届けたりもする。そして押し寄せた平家の追っ手300余騎を相手に大奮戦。しかし多勢に無勢で生け捕られる。宗盛は斬り捨てよというのだが、信連は平然と反駁する。これが清盛をして信連を惜しませ、先年の盗賊退治の功も現れ、死罪から伯耆遠流となる。平家滅んだ後、頼朝は信連を召しだし、御家人に加える。というまでが平家物語
芳年の「高倉月」 信連が女装して逃げる以仁王を見送る
その後信連は能登の大家荘の地頭となり、子孫は長氏と称し穴水に土着し、一定の勢力を保つ。
神社の狛犬に当たるものが狐でお稲荷さんかと思ったが、信連は狐に助けられたことがあったらしい。
長谷部神社に隣接し穴水市立資料館がある。
裏手には長氏の穴水城址がある。
249号線で東に向かう。途中、中居湾でボラ待ち櫓を見た。穴水湾は複雑な形状をしているが中居湾も穴水湾の中にある湾の一つだ。櫓に乗っている人形がリアルだ
鵜川を経て宇出津(うしつ)港、ここで昼食、すし屋へ入る。
見付島へ寄る。
乞食坊主に親切にした善人が報われるとか、井戸ができたとかいう空海伝説は全国的にあるが、ここのはちょっと違う。今昔物語にある空海の説話は、中国で修業した空海が師匠から三鈷杵をもらい、海に向かって投げる。三鈷杵は高野山に飛んでいき、そこに空海は寺を開いた、という物だ。三鈷杵は先端が3つに分かれた密教の仏具らしいのだが、見付島の伝説では空海は仏具を3個投げたことになっている。高野山と佐渡と見付島に落ちたという。どうやってこじつけたものか。
珠洲市街地に入り更に行く。
旧珠洲駅 廃線になり道の駅になっている
能登半島も先端近くになってきた。
須須神社だ。
この辺りではなんでも義経に結び付けることになっているようだ。
能登半島では大掛かりな祭りが行われるようだ。キリコという大奉燈を掲げた派手なもののようだ。これは大奉燈収納所、大変背が高い。
空中展望台とかランプの宿とか書いた標識に惹かれていってみると結構な絶景だ。レジャー施設になっていて青の洞窟なんてのもある。
能登の民家は黒い瓦葺、板の外壁が特徴のようだ。それを模しているようだ。
いよいよ最先端、禄剛崎灯台、狼煙町だ。
ここからは西へ向かって走ることになる。
平時忠の墓、「この一門にあらずんば人にあらず」と云ったとかで悪名高い清盛の義弟、壇ノ浦のあと神鏡を確保したのを手柄と言い立て死罪を免れる。流されたのがここ能登である。
大谷の集落の手前で海岸線から山地に入る。大きくループする立派な道がついている。意外に奥へ入る。もっと海岸に近いところかと思っていた。直線距離でも1.5km以上あるだろう。道路上に駐車スペースとお金をかけたらしい案内板がある。
墓はここから谷へ下ったところで工事現場用の仮設階段で降りるのである。
時忠と一族の墓は揚羽蝶の紋をあしらった柵の中にあった。
時忠の歌が書かれた標識がいくつかあったのだが、その一つが「能登の国、聞くも嫌なり珠洲の海、再び戻せ伊勢の神垣」というものであった。聞くも嫌な珠洲の海鳴りはここまで響いて来たろうか。さすがに同情したくなる。ただ、時忠はそもそも伊勢平氏ではないし、余りにあけすけな書きようは時忠の実作ではなく、後世の狂歌だろう。平家物語第12巻「平大納言流され」で時忠が読んだとされる歌は「かへりこむことはかただにひきあみのめにもたまらぬわがなみだかな」だし、道路脇の碑には「白波の打ち驚かす岩の上に 寝らえて松の幾世経ぬらん」があった。
近くを流れる川は烏川と云い平家の守りである烏に導かれ、時忠たちはこの谷に住んだという。
海岸の道路に戻る。塩田があるらしい。海岸線は奇怪な形状の岩々が続く。
ゴジラ!
曽々木だ。海岸から離れほどなく時国家だ。この辺りでは能登半島、特に外海に面した部分では珍しく平地が広がっている。ここなら米も取れるだろう。
下時国家は去年の台風からの修復がまだ終わらず、公開していなかった。
上時国家は公開はしているが公開時間が終わっていた。外観だけでも大変なものであった。
門柱と番屋
茅葺だが2階建てにも見える豪壮さ、大庄屋とはいってもこの規模の物はなかなかないだろう。
平地を見下ろす小高い場所に位置し、途中まで周濠が周っているようだ。
裏手は山だ。
時忠が能登でも享けた子供の一人時国を初代とする家だという。
流人の子時国は平地を探し開発したのか300石の村だという。才幹ある人だったのだろう。
更にその子孫たちもでき者が多かったのか、製塩、北前船と収入源を確保していたようである。
輪島に向かう。途中塩浜製塩所があり寄ってみた。
安寿と厨子王の安寿の潮汲みのようだ。あれは丹後だったか。
濾槽
輪島泊。
朝市はパッとしなかったが、ここは猫町だ。但し猫たちは満ち足りて暮らしているようで、ゆきずりの者には寄ってはこなかった。
少し戻って白方の棚田を見る。耕して天に至るというが、ここでは海に至るではないのか。
半畳にも満たぬ棚田は以下に能登が耕地に恵まれなかったかの証左のようだ。
249号線で輪島から門前の海岸に出る。砂浜が広がり、馬のいる所があった。
天候がいいのでリゾートみたいな感じだ。
能登金剛という景勝地まで行く。
遊覧船に乗る。風があってかなり揺れる。
巌門という通り抜けられる洞窟があるが、この船には小さい。
安山岩の溶岩と凝灰角礫岩の混ざったものが海食されてできたとあるので安山岩の節理が目立つ東尋坊とは少し違うのか。
遠くに風力発電の風車の列が見える。志賀原発も遠くないはずだ。
海岸を離れ、小田中親王塚へ行く。
陪塚もある
近くの蓮池
陪塚の前から低地を見る
古墳は少し小高くなったところの立地だ。羽咋から七尾に向かって邑知潟地溝帯という低地が伸びる。この地方の多くの弥生・古墳の遺跡と同じように小田中親王塚もその縁辺にある。かつての邑知潟は入江のような潟だったという。
邑知潟を見て帰路につく。
邑知潟