朝倉義景の最初の妻は細川右京兆(晴元)の娘だ。女児を一人得たが早世した。二番目の妻はこれも京から来た近衛殿と呼ばれる女性だ。細川義種の娘だというが、義種と晴元との関係は知らない。朝倉始末記には美貌だったとあるが、子供ができなかった。そして義景は他の女に心を奪われる。越前市味真野万葉苑の近くに鞍谷御所といわれる場所がある。足利氏の一族が住んでいたらしいのだが、義昭らとの関係は知らない。この御所と親戚関係があった娘を側室にしたのである。小宰相と呼ばれる娘は義景の子を2女1男を産む。当然、近衛殿との間は面白くないことになる。男児は正妻の猶子にするなどの対処法があったのではないかと思うのだが、近衛殿は京都へ帰っている。
和歌は二条浄光院、弓術は小笠原流、連歌の宗匠は度々訪れるなど京文化に対するあこがれは人一倍であったような義景だが、京女とはうまくいかなかったようだ。それに管領細川氏の縁者とはいっても細川家自体が没落してきていたのだから、縁をつなぐメリットもなくなっていたのかもしれない。近衛殿の邸を壊し、土を入れ替えて小宰相のための新居を作る。
ところが、この小宰相が死んでしまう。嘆き悲しむ義景を慰めるため、家臣たちが犬追物や曲水の宴を企画したというのだが、本当だろうか。義景自身が十分ノリノリで審判員長などを務めたのではないか。
企画した家臣は、奉行を務め、煌びやかに現れる朝倉景連あたりが筆頭だろうか。景連は、義景の祖父貞景の弟の子で、父宗淳孝景の従弟ということになる。頼れる親戚の叔父さんだろうか。
犬追物は棗の大窪の浜で行われたという。今の三里浜だ。同じ棗にある朝倉山城が景連の居城だったようだ。犬追物は景連のおひざ元で開催されたといっていいのだろう。
*朝倉山麓にある味坂(みさか)神社、山頂が朝倉山城になる。登り口はこちらではないようだ
*三里浜から見る朝倉山。木材加工の大きな工場の上に頭を覗かせる朝倉山。
三里浜 南西鷹巣方向 少し小高くなったところに糸崎がある
北東方向 石油備蓄基地が見える。
永禄4年(1561)4月4日、義景は一乗谷を出発。川西経由で龍興寺に一泊。龍興寺は山中の禅寺だったが、後に一向一揆に焼かれ廃寺となった。翌日は鷹巣の糸崎寺に参詣し一泊。糸崎寺は現在もある。仏の舞という地味な僧服を着た数人が金色のお面をつけて舞う民俗芸能が伝わっているが、どこでそんな奉納をするのだというような寺である。往時はそれなりの大きな寺だったかもしれない
*仏の舞の里の碑、越前海岸らしく水仙が咲く
糸崎寺前から鷹巣の海が見える
*糸崎寺 お堂の脇の五輪塔の台座に糸崎寺と彫られている
翌4月6日が犬追物の興行日になる。
景連は三里浜の直近、河尻の道場に泊まっていた。当日現れた景連の様子は、弓取り30人統べて金細工付き腰刀、太刀の30人は金鍔も鞘尻の金具も金貼り、本人は烏帽子にかちん染め上着・袴、立派な黒馬に家紋を金具に刷り込んだ金覆輪の鞍・厚い倉掛に乗る。武将100余人を2列に並ばせ、白柄の長刀・銀金具の槍30本 総勢500人と凄まじい。
続いて、小林新助・朝倉右兵衛尉景高・朝倉次郎左衛門景尚・与七景友・前波左衛門五郎景当・前波九郎兵衛吉継・福岡三郎右衛門吉清・堀平右衛門吉重・山崎七郎左衛門・魚住・侘美・桜井・斎藤・窪田 他がそれぞれ衣装を競い・兵を従えている。
義景は、下級家臣200人 外様も参加し1千余騎を従える。総勢1万に参加の大イベント。ちょっと気になるのは大野城主朝倉景鏡と敦賀城主朝倉景恒の名が見えないことだ。来なかったのか、呼ばれなかったのか。
犬追物といえば、なんと残虐な、とぺット愛好家から猛抗議を受けかねないが、実際には犬を殺すことはまずないそうである。鏃は蟇目という鏑矢の一種で、先は丸めで中は空洞、刺さらない。当たれば痛いだろうし、事故がなかったとは言えないが、当時の犬は愛玩用ではないし、昔のことだから勘弁してもらおう。それにしても犬はどうやって集めたのか。それ用に飼われていたとは思えない。鷹狩り・巻狩り様に飼われていた犬は、ちゃんと訓練した猟犬だろう。犬追物には使わなかっただろう。野犬を集めたのだろうか。集落ごとにうろついていた野良犬を集めたのだろうか。更にイベントの終わった後はどうしたのだろうか。
2020年11月から12月にかけて、福井県立美術館であった「初公開 犬追物図屏風と江戸絵画名品展」のパンフによれば、約160メートル四方に囲まれた馬場に、射手36人、犬150匹。射手12人づつ上・中・下手に分け、犬は一回に10頭づつ放し、15回にわたって行うとある。検見という審判役、結果を知らせる呼ばわり、記録係、射手の補助役、犬引き等の役がいるし、その他の準備に人手がかかる。はじめは流鏑馬・笠懸同様、武術を競うものだったが次第に儀式化し、終いには娯楽になったようだ。
永禄4年の朝倉の犬追物は大部大掛かりなものだったのだろう。朝倉始末記は、昔鎌倉の頼朝殿が由比ガ浜で行ったものより盛大であったろうと誇っている。
確かに1万人規模の人員の移動・食事・宿所の手配考えるだけで、えらいことだ。しかし、いざ合戦ともなれば、すぐこれくらいの兵は動員しなければならないのだから、確かに戦のシミュレーションにはなっただろう。それに国威高揚の大イベント開催だから、一族の意気は上がるかもしれない。それでも犬追物の後は舟遊び、と続き、めちゃくちゃお金が掛かりそうである。しかも時代は鉄砲の時代に変化しつつあった。一乗谷朝倉氏遺跡からは、鉄砲職人の工房らしきものも発掘されてはいるが、義景は新兵器より古式のイベントにこだわったように見える。朝倉の大イベントは曲水の宴・将軍足利義昭を迎えた歓送迎会へと続く。辻川達雄はこの浪費が朝倉家の財政を圧迫し、滅亡の一因となったのではないかと書いているが、正しいと思う。