物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

横浜 馬の博物館他

2022-04-22 | 行った所

幕末から明治期に日本にやってきた欧米人は高台が好きだったらしい。横浜でも神戸でも、西洋館・異人館と呼ばれるものはたいてい高台にある。西洋式馬術・競馬などが行われた横浜市の根岸も高台だ。あちこちにあったであろう馬場は気に入らなかったか。
競馬場の跡地は広大な公園になっている。その一角に馬の博物館がある。
明治以降の資料しかないのかと思ったらそんなことはなく、種としての馬の進化、ヒトとの関わり、馬具についてなども多彩だった。馬の骨格標本も多数集められており在来馬も数種あった。

日本で馬が広がるのは5世紀だ。それ以来馬の有用性が疑われたことはなかったはずだ。馬は身近でどこにでもいる存在になった。ただ馬車はなかった。道路事情はあったろうが、荷車や牛車はあったのだ。何故馬に引かせる車が使われなかったのかはわからない。もっぱら騎馬、馬借などの運搬、農耕に使われる。その馬が、特に日本古来種、在来種、和種馬が少ない事情をここで知った。明治以降、主に軍用馬にするため体の大きな輸入馬を種馬とし、在来種のオスの断種を行っていった。なんと1954年まで行われていたのだ。家畜に品種改良は付き物ではある。サラブレットなどは人工で作られた馬の典型だろう。それにしてもわずかに残った在来種の馬のなんと可愛く愛らしいことか。

馬車道は馬車が通行していたのだろう。
 *馬車道の牛馬飲水場
 *馬の博物館展示から
映画「れいわ一揆」の中で馬を連れたやすとみ歩は、東京駅前、明治神宮駐車場などで追い出されている。馬車道でも同じだったろうな。

横浜には古い風格ある建物が目立つ。

神奈川県立歴史博物館は昔の横浜正金銀行の建物だ。
  

この博物館は如何にも古くからの博物館らしい展示で、通史だが、鎌倉時代中心の相模の武士団・後北条氏・横浜開港などが特に詳しい。一部を除いて写真撮影OKだし好きなところだ。

  横浜市開港記念館 修理改修中で休館だった

 神奈川県庁 昭和に入ってからの建物のようだ。

 花盛りの山下公園からベイブリッジを望む

 噴水と氷川丸

 中華街

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甲斐あちこち

2022-04-21 | 行った所

桃源郷笛吹市は古代の甲斐の中心だったらしい。

国分寺跡は、広い敷地の向こうに桃畑。花桃ではなく果樹の桃は花が少ないようだが、華やかで可愛い。ひな祭りは桃の節句とはよく言ったものだ。


 *国分寺の塔の心礎

 


 *国衙跡は住宅地の一隅に碑があっただけだった。

甲斐一宮も笛吹市だ。甲斐一宮は浅間神社、祭神はコノハナサクヤヒメだそうだ。浅間はせんげんではなくあさまと読む。
 *甲斐一宮浅間神社
 *拝殿

 

 笛吹川 広い河川敷だ。

甲州は意外に洪水の多い土地だったらしい。釜無川と笛吹川が合流し富士川となって太平洋にそそぐ。富士川は急流だ、その急流を水運に利用していたという。

山梨県立博物館は、床下を展示履利用していたり、ビジュアルがよく工夫された博物館だと思う。武田信玄のことばかりかと思っていたらそこは違った。交通・運輸関係も面白かった。ただ、展示全部写真撮影禁止ってケチすぎないか

 

 甲府城は戦国の武田の居城ではなく、徳川の城だ。

 富士山が見えた

 本丸跡に何故かオベリスク。何やら明治の元勲たちの名前がある碑文があった

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釈迦堂遺跡 桃の里 (山梨県笛吹市)

2022-04-19 | 行った所

釈迦堂遺跡の博物館は中央道のSAからちょっと上って直接行ける。

 


圧倒的な数の土偶が出土したことで知られる縄文中期を中心とした遺跡だが、土偶そのものの展示、小さな破片に込められた祈りにも心とらえられるが、4月の釈迦堂は花盛り、桃源郷なのであった。

桃は古事記にも出てくるが、縄文時代の遺跡からも出てくることで知られる。釈迦堂では知らないが、彼らも桃を食べていたかな。現代の桃がおいしいのは様々な品種改良の結果だろうから、同じ味だとは思わないけれど。

南アルプスも見えた。

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源(武田)義清跡 (山梨県昭和町)

2022-04-18 | 行った所

源義清は義光の三男だ。源義光こと新羅三郎義光は、八幡太郎義家・賀茂次郎義綱に続く源頼義の子。平直方の娘を母とし、武門の誉れも高き一族だが、八幡太郎義家の後、骨肉の争いを演じることになる。
 *義光元服の地三井寺新羅神社の義光の墓
義光は後三年の役で長兄の義家に従い共に戦う。常陸介、甲斐守を経て、常陸の豪族の娘を妻とし、常陸に勢力を張る。ここでやはり常陸に下向してきた甥の義国と争ったりもする。義国は下野に土着し、新田・足利両氏の祖となる。足利尊氏と新田義貞は義国の子孫である。
常陸で、義光の子孫は佐竹氏を名乗り勢を張る。後に富士川の合戦の後、頼朝は常陸に兵を進め、佐竹氏と戦う(金砂城の戦い)
源義清は常陸国那珂郡武田郷(現茨城県ひたちなか市武田)に領地を持ったらしい。しかし所領争いからか、甲斐へのがれることになったらしい。甲斐は曽曽祖父頼信、祖父義光が国司を務めた馴染みの土地だ。

義清の子は清光、その子に逸見光長・武田信義・加賀美遠光・安田義定などがいる。彼らは、平家物語第4巻「源氏揃」に名を連ねている。彼らは甲斐源氏として治承寿永の戦乱に参戦する。富士川の戦いに頼朝が戦う以前に、平家軍は甲斐源氏によってほぼ壊滅していた。彼らは駿河を即ち海を得るのであるが、維持することはできなかった。
平家が滅びて間もなく、武田信義の嫡男一条次郎忠頼は鎌倉で殺されてしまう。頼朝の命を受けた天野遠景による暗殺だという。
 *忠頼墓 (山梨県富士見町)甲府盆地が見下ろせる高台にあった。
 *武田信義館跡 山梨県韮崎市
安田義定は一時期義仲と共に京都にいたりもしたらしいが、結局義経と共に戦っている。しかし義定も鎌倉に難癖をつけられ建久5年(1194年)に殺された。
加賀美遠光だけは優遇されたようだが、一族というより御家人の扱いであった。

源頼朝は自分以外が源氏を名乗るのを嫌がったようだ。骨肉相食んできた源氏のDNAでもあるのかと思うほどで、範頼が詫び状に「源」範頼と署名したら激怒したらしい。義経・義仲はおろか、おとなしく従ってきた弟範頼さえ殺した頼朝が、同じ河内源氏の甲斐源氏も仲間と認めることはなかったようだ。取って代わられる恐怖があったのだろうか。

甲府市の西に隣接する昭和町に源義清の館跡だという神社と塚があった。

 甲斐源氏祖御旧跡の碑があった。

 義清神社境内の碑

 近くの義清塚 「おこんこん山」と書いてある。狐の話でもあるのだろうか?

 おこんこん山の上に石碑がある

 

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酒折宮 甲府市

2022-04-17 | 行った所

古事記のヤマトタケルはとても魅力的な神話の英雄譚なのだが、もし何らかの史実の反映、実在の人物を幾分なりとも映しているとしたら、モデルの一人は倭王武のワカタケル、雄略と送り名された大王だろう。
イズモタケルを討つ話は、従弟のイチベノオシハを騙して殺す話を思い起こさせる。東征譚は、倭王武(雄略)の上表文を思わせる。そして「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」の話は、歌物語の多いワカタケルの物語にあっても不思議はないと感じる。

ヤマトタケルの東征譚は地図を追おうとすると混乱する。行きはまだいい、尾張を立ち、焼津・相模・走水とだいたい追える。走水から船に乗る。相模で知り合ったらしいオトタチバナヒメの入水があって、着いたところはどこだろう? 走水(三浦半島)から房総半島へ渡ったのだろうか。タチバナヒメの櫛を拾って墓を作ったのは橘樹神社(千葉県茂原市)となっているらしい。
そこからはさらに茫漠として、ただ荒ぶる蝦夷を言向け、山河の荒ぶる神等をおとなしくさせ帰路に就いたらしいのである。房総半島を北上し、日立まで行ったらしいのは「新治筑波を過ぎて 」の歌があるからだけで、蝦夷や山河の神を従えたエピソードのようなものはない。足柄の坂本というから足柄山の麓だろうか、で坂の神をちょっとやっつけ坂の上で「吾妻」の地名発生説話があり、そこから甲斐の酒折宮へ行くのである。日本書紀だともっと違うルートになるのだが。
酒折の地名も単に坂が折り重なって登って行くところと解釈すれば、酒折に限ることもないと思うが、何故甲斐に回ったのか。次に信濃の坂の神を服従させて尾張に戻ったとあるので、信濃に行くために甲斐に入ったということか。
ともあれ、酒折で火の番の老人との問答歌になる。
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
「日々並て 夜には九夜 日には十日を」
連歌のはじめかどうかなんてことは知らない。
この老人はずっと付き従ってきたのだろうか、まつろわぬものを平定する旅だ。軍を率いていたのだろう。火の番の老人は飯炊き係でもあったろうか。タケルはそばに仕えるこの老人の賢さを知っていた。だからこの歌は彼にチャンスを与えるためのもの、でなくて東の国造などにするものか。
仮に筑波山から酒折宮まで、足柄経由で地図を測る。250キロくらいか。江戸時代の旅の行程は一日8里、32キロだ。だとすると7泊8日程度のだが、途中悪天候や渡岸・宿泊の都合もあろうから、9泊10日は上等だろう。もし5世紀のワカタケルの時代の反映なら馬はあったろうが、全員ではないだろう、件の老人は徒歩だろう。 酒折神社

 新治筑波を過ぎて・・の歌碑

 本居宣長の碑 彼はここへ来たのだろうか

 

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横山神社(横山館跡)八王子市

2022-04-16 | 行った所

平安末から中世にかけて、武蔵7党と呼ばれる武士団があった。7党とはいっても時代により数え方が違うらしい。

横山党・猪俣党・村山党・西党(日奉氏)・児玉党・丹党(丹治党)・私市(きさいち)党だが、私市の代わりに野与党というのが入る場合があるようだ。吾妻鏡には武蔵7党という呼称はないそうで、あまり古い呼び方でもなさそうだが、彼らは平家物語の中で活躍もしている。多くは義仲を攻める鎌倉軍の一員として登場し、更に西に向かい平家を滅亡させる。

武蔵7党の筆頭とされるのは横山党で横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏などがいる。保元物語の義朝の手勢の中に成田太郎がおり、平家物語で一の谷合戦の「一二之懸」「二度之懸」で成田五郎がちらりと顔を出す。宇治川合戦で畠山重忠に取り付いて川を渡る大串次郎重親がユーモラスな姿を見せるが、これも横山党の一員だったのだろう。
鎌倉時代に入ると、愛甲季隆が畠山重忠を射殺し名を上げるが、後の和田合戦で、横山氏の大半は和田に味方し没落したという。
 *愛甲館跡
横山党は小野篁の子孫を名乗る。小野氏は古代から続く名族だが、平安時代前半、篁の子孫の小野孝泰が武蔵守として赴任し、地方で勢力を張ったのだろうか。

猪俣党も横山党から派生したようで小野篁の子孫を名乗る。平家物語では越中前司盛俊の首を争った猪俣小平六範綱と人見四郎、平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄がいる。猪俣小平六と岡部六弥太は保元物語にも見える。
 *猪俣小平六館跡

村山党は保元物語で、村上には金子十郎家忠、とあるのがそうだろうか。

西党(日奉氏)日奉は「ひまつり」と読む。日奉連は高皇産霊尊の子孫を誇るものらしいが、もとよりそれは神話の世界、日奉連宗頼という者が武蔵守として赴任し、祖となったというのだが、おそらく小野氏が来たのと同じころで、治安の悪い関東へ赴任する国司はそれなりに武威に自信のある軍事貴族だったのだろうか。
西党の有名人は平山武者所季重、平治物語と平家物語に活躍が描かれる。
  平山季重館跡

児玉党も平家物語では、樋口兼光の縁者として出てくる。児玉党は自分たちの軍功に変えて樋口の助命を願うのだが、却下される(「樋口被討罰」)

丹党(丹治党)は平家物語では、宇治川の合戦で畠山重忠の手勢として、騎馬団を密集させて渡岸する。丹党の祖は多治比真人になっている。面白いのは群馬県高崎市吉井町の多胡碑に多治比真人が出てくることだ。多胡碑は8世紀前半に比定される。さらに秩父で出た銅、和銅にも多治比が関わっているらしい。
 *和銅採掘遺跡付近の案内板から
多治比真人三宅麻呂はおそらく現地でも指揮を執ったことだろう。

私市(きさいちorきさい)党で有名なのは熊谷直実、他に平家物語に名前の出てくるものは、河原兄弟である。「二度之懸」の初めの部分である。彼らの名乗りは「武蔵の国の住人河原太郎私(きさいちの)高直・同じき次郎盛直、源氏の大手、生田の森の先陣ぞや」と駆け入って二人ながら討ち死にする。彼らのいうことも悲しい。「大名は、我と手を下ろさねど、家人の高名をもって名誉とす。われらは自ら手を下ろさねばかなひがたし。」下人に証言を頼み、馬にも乗らず、弓杖ついて逆茂木を乗り越え、平家の陣にもぐ込み、そして名乗りを上げるのである。

横山党の本拠は八王子市にあった。


 八王子市元横山の横山神社。

 


案内板の左端の「全国をぐりサミット実行委員会」というのは何だろうか。説教節の小栗判官の話を追いかけたものだろうか。小栗の話では横山は敵役だ。何しろ娘?の照手姫に求婚に来た小栗を殺してしまうのだ。まったく荒唐無稽のお話なのだが、各地にゆかりの地というのがある。
 藤沢の遊行寺  *岐阜県青墓 照手姫の井戸

 

 町田市小野路町 小野神社は横山氏の先祖だという小野篁を祀った神社だ。

 産物を売っている休憩所もある
 道標には、南 大山・厚木、西 立川・八王子、東 神奈川・鶴川 とあった。

 この道は北西方面、この付近には鎌倉街道の標識のある道が何本かあった。この道もそうかな、なんとなく街道っぽい感じがした。 

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平山季重居館跡 東京都日野市

2022-04-15 | 行った所

平家物語第9巻の「一二之懸」は熊谷次郎直実父子と平山武者所季重との先陣争いだが、宇治川の合戦での佐々木高綱vs梶原景季の名馬イケヅキ・スルスミを駆っての先陣争いに比べれば、まず絵にならない。若武者二人の争いに比べれば、ともに保元平治の乱に加わったことが自慢のおっさん同士、しかも言動は如何にも田舎武者なのだ。それだけに何とか手柄を立てたい心情はまさに切なるものがある。熊谷直実は「敦盛最期」で人口に膾炙しているが、平山季重の方は印象に残りにくい。 神戸市須磨寺の源平の庭 右が熊谷直実・左平敦盛騎馬像

しかし、日野市では平山の地名も残り、平山季重ふれあい館なる建物もあった。図書館であり、関係図書も収集しているようだ。

 平山季重館跡の碑、後ろに見えるのが平山城址

平家を西海に追った義仲に対し、鎌倉の頼朝は大軍をだす。大手は範頼、搦め手は義経、付き従う侍たちの名が数多く挙げられる。範頼手勢に熊谷直実、義経手勢に平山武者所が挙がっている。
義仲は粟津に敗死し、鎌倉軍は平家と対峙、「三草勢揃」では九郎御曹司義経の配下に、熊谷次郎直実・子息の小次郎直家・平山武者所季重と続けて挙がっている。ここでは侍大将土肥実平以下三浦・畠山・和田・佐々木など鎌倉幕府草創時の主要メンバーが名を連ね、その中に熊谷・平山もあるのだった。その後に伊勢三郎・佐藤兄弟・弁慶など義経の郎党が出てくる。

 三草山の合戦モニュメント


三草合戦は平家の油断を見すました源氏の勝利、その後、義経は土肥実平以下7000人を西の手へ回す。義経自身は3000の兵で鵯から一気に平家を襲う作戦をとる。
この鵯越は古来議論のあるところで、実態はよくわからない。実働したのは平家物語では影も見えぬ摂津源氏多田行綱だった可能性が高い。
ここで熊谷・平山・成田などという連中はこれでは手柄が立てられないと、土肥の更に前を行こうとする。この辺り、華々しい活躍にもかかわらず、義経が東国武士団を掌握しきれてない有様も露呈し、それも興味深いが、熊谷・平山の言動も面白い。

まず平山は、不案内の山道にどうすべきかを迷う義経に「季重こそ案内は知って候へ」と申し出るのである。東国育ちのお前に初めての山中の道がわかるものか、と義経は一蹴する。季重は、歌人は吉野や初瀬の桜を知るように、強者は敵の後ろ山を知るものだとか、と言っているのだが、本当に案内しろと言われたらどうするつもりだったのか。

熊谷は息子と、この鵯越作戦では先陣の手柄を得るのは難しいと、土肥実平の西からの攻め手に回ることを相談する。もちろん御大将の義経に願って配置を替えてもらおうというのではない。こっそり陣を抜けて行くのである。
熊谷は平山も同じことを考えているだろうと思い、下人に偵察に行かせる。
果たして平山も抜け駆けの用意をしている。「誰にも引けは取らないぞ」などと言っている。

熊谷直実も平山季重も、保元・平治の乱でともに義朝の手勢として参戦している。保元物語の上巻「21 天皇方軍勢、発向」で武蔵の軍勢として、熊谷次郎直実が見える。平山六二というものも見えるのだが平山季重かどうかはわからない。平治物語では待賢門で重盛と戦う悪源太義平に従う17騎の内に平山武者所季重がいる。さらに六波羅で後藤兵衛と共に戦う平山は季重であろうか。(共に角川ソフィア文庫)
寿永3(1184)年の一の谷合戦に熊谷は十代の息子を連れてきている。1156年と1159年の保元・平治は20年前どころか30年前近くになる。その頃直実はいいとこ20歳の若武者だっただろうか。熊谷と平山は互いにライバル視しているので同年輩だろう。熊谷に比べ平山の活躍は物語の世界とはいえ、若党としては目立つものだったのか。平治の乱で機知を見せる斎藤実盛はずっと年上だったのだろう。その実盛は既に倶利伽羅合戦に続く篠原合戦で、義仲の手のものに討ち取られている。
平治の乱後、武蔵は平家の知行国になったらしい。知盛が武蔵の守になり一門の支配が続く。武蔵の武士団は皆平家に従い、石橋山合戦の時点ではほとんど頼朝の味方はいない。斎藤実盛は特に平重盛の小松家と深いかかわりがあったらしいし、武士団ごとに個々の事情があったのだろう。

抜け駆けの準備をする平山の脇で下人が馬に飼い葉をやっている。下人は早く休みたいのか、馬がのろのろ食べるのを嫌がり、罵る。平山は下人をたしなめ、「其の馬のなごりもこよひばかりぞ」という。戦は人が死ぬばかりではない。馬もまた命懸けだ。大事にしている馬もこの一戦に矢が乱れ飛ぶ中に走らせねばならない。
ところで、馬というものはなかなか賢く、人を乗せるのを嫌い、ぐずぐずいう馬もいるそうだ。昔の荷馬も食事をすると仕事をしなければならないからぐずぐずする。雨が降ると出かけなくていいから喜んで餌を喰う。厩の屋根から水を滴らせ、雨と思わせ馬が安心して食べたところで仕事に引き出す、そんな話もあったようだ。平山の馬も、何かを察知していたのかもしれない。
この戦で平山季重の乗った馬は「目糟毛」というきこゆる名馬だったとか。熊谷直実の馬は「ごんた栗毛」というこれもきこゆる名馬、互いに大枚をはたいて求めた自慢の馬に乗っている。「目糟毛」が無事帰れたかどうかはわからないが、「ごんた栗毛」はふと腹を射られて飛び跳ねる。熊谷は素早く飛び降りた。後には替え馬に乗っている。「ごんた栗毛」は死んだのだろうか。

肝心の先陣はどうなったのか。
熊谷父子が一の谷に着いたのはまだ夜中、「いまだ夜ふかかりければ」土肥の7000騎の脇を闇に紛れて打ち過ぎる。平家の陣も静かだ。先駆けを企むのは我らだけとは限らない、一つ名乗っておこう、と父子は大音声に名乗りを上げる。しかし平家は誰も出てこず、相手をしようとするものもない。
そこへ平山が現れる。成田五郎に騙され出遅れた、などという。(成田五郎も保元物語の義朝の手勢の内に名が見える)成田は先駆けは味方を後ろに置き、人に知られてこそのもの、一騎駆け入っても何もならない、といったという。それも先陣争いの考え方だろう。しかし、成田は平山を置いて先へ行こうとする。怒った平山はよい馬に乗っているのを幸い、成田を置いて駆け付けたのだった。
熊谷父子は再び名乗る。ここで平家も木戸を開け、「夜もすがら名乗る熊谷親子ひっさげん」とて、越中次郎盛嗣・悪七兵衛景清など錚々たる平家の侍大将が出てくる。平山も名乗り、熊谷・平山競い合って攻め入る。
「熊谷さきによせたれど、きどをひらかねばかけ入らず、平山後によせたれど、木戸を開けたりければかけ入りぬ。さてこそ熊谷・平山が一二のかけをばあらそひにけれ。」

ただここまで、平家は本気で反撃しているように見えない。軍律違反の抜け駆けも、戦功があればともかくあまり効果的だったように見えない。
続く「二度之懸」で、成田五郎に次いで土肥次郎以下の軍勢が攻め込み、本格的戦闘となる。

平山氏は武蔵7党と呼ばれる武士団の内、西党(日奉氏)に属する。熊谷は私市党である。

以下平山季重ふれあい館の展示パネル

 

 

 

 

 

 

 

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