物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

越智山大谷寺 白山平泉寺 豊原寺 3 平泉寺

2020-06-29 | 行った所

平家物語には平泉寺斉明威儀師なる人物が出てくる。利仁将軍の先祖とする越前斎藤氏の一族で齊藤実盛とは二従兄弟ていどの親族関係がある。平泉寺長吏だというのだが、僧兵の親玉というか、僧兵を率いて戦う。最初は平家方だったが裏切り、義仲方となる。今庄の火打城を任され立てこもるのであるが、なんと今度は義仲を裏切る。この裏切りにより火打城は落ち、平家は北陸遠征の初戦を勝つのである。
次の倶利伽羅合戦で大勝した義仲は斉明をを捕らえ斬殺している。
平泉寺は南北朝には斯波氏につき、新田義貞と戦っている。戦国時代、朝倉と同盟関係にあったが、朝倉義景が最期に平泉寺を頼ろうとしたときには、既に秀吉に篭絡され信長方についていたという始末。挙句、一向一揆勢に焼き討ちされ、焼亡するのである。裏切るというより勝ち組に与したいというだけかもしれないが、どうも信頼できる輩ではない、というイメージがあって、白山信仰の拠点としての平泉寺を考えたことがなかった。

白山から流れ出る三つの河川、九頭竜川・手取川・長良川、その流域にそれぞれ馬場(ばんば)と呼ばれる大きな神社があった。加賀の白山比咩(しらやまひめ)神社・越前の白山平泉寺・美濃の長滝白山神社であるが。天台宗延暦寺の末寺ともなっているので明治までは神社とも寺ともつかぬ本地垂迹の神仏を祀ったものである。その馬場から白山の頂上に至る道を禅定道という。白山には三つの頂がある。北から大汝峰・御前峰・別山。それぞれ老翁=オオナムジ=阿弥陀仏・貴女=イザナミ=妙理大菩薩=十一面観音・官人=小白山別山大行事=聖観音というよくわからない本地垂迹の神仏が鎮座する。
これらの神仏は8世紀初め白山に登った泰澄が遭遇したものらしいのだが、10世紀の初めに編纂されたという延喜式では白山比咩のみが採用されている。泰澄伝承の三神仏と白山比咩との間に整合性はない。

白山の馬場の雄である平泉寺一番往時の面影を残す。


因みに加賀の白山比咩神社はどちらかというと街中のただのはやっているお宮さん風だし、笥笠中宮は禅定道の雰囲気はあるものの寂れすぎだ。
美濃の長滝白山神社はもともとあまり大きくなかったのではないか。

平泉寺の杉林の中に敷き詰められた苔、広大なだけに京都の苔寺などとは違った雰囲気がある。

三十三間以上あったという長大な拝殿は幕末ごろの再建でそこらの寺社とそれほど変わらない大きさだが、礎石跡は確認されている。

南谷は発掘調査が済んでいて6000坊はハッタリではなかったであろう石造りの都市の遺構が現れている。一部の築地塀の復原もなされているし、資料館もある。


これだけの人が住んでいたということは、食料の調達含め相当量の物流があったということなのだろうが、その解明はまだのようである。

 

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越智山大谷寺 白山平泉寺 豊原寺 2 豊原寺

2020-06-26 | 行った所

坂井市丸岡町に五味川という川がある。竹田川と合流する川なのであるが、その川に沿うように遡る。かなりの山である。


山の入口に当たるところに案内板がある。資料館(休館中)もある。金比羅山もある。八幡神社もある。


曲がりくねった道を登り、小さなダムがあり、滝がある。

車で行けるのはその辺までだ。遊歩道になってはいる。

しばらく歩くと豊原三千坊と云われた僧房が立ち並んでいたであろう場所にでる。

白山豊原寺ともいう。豊原寺縁起によれば泰澄の開山だという。平泉寺と並ぶ僧兵の拠点だったというが、戦国から一向一揆の戦乱にかけて滅んだらしい。石垣、石段等を見れば平泉寺との相似はあるだろう。

山伝いに行き来したのだろうか

地蔵堂があるが本体は資料館だろうか

白山神社の方へ行ってみる

石段は修復されたのかよく残っている。

何かの建物の一部のみが残っている。

石地蔵が並ぶ。

シャガが盛りだ

 供養塔もある。

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越智山大谷寺 白山平泉寺 豊原寺 1 泰澄と大谷寺

2020-06-26 | 行った所

宗教的なことに関心は薄い。だから泰澄大師、越の大徳と云ったってろくに知りはしない。白山に関しては平家物語の鵜川騒動に関して興味を持ったが、白山の持つ広範囲な「裾野」に圧倒されるばかりだ。

泰澄に関しては、日本書紀、続日本紀には記述がなく、同時代で事績を証明できる史料はない。伝承でしかないのだが、伝承というには生々しいものがあるようではある。

泰澄については下出積與「白山の歴史」がほぼ知りえた全てだ。
泰澄伝説については正中2年(1325)の「泰澄和尚伝記」でそれに出てくる史書で確認できる人物との関わり合いから一応つじつまが合うことを認めながらも、却って史書に準拠し編集されたものである可能性を示唆する。682年越前国浅水で生まれたとされる泰澄は、素朴さを残した山岳信仰の体現者、地方の民間宗教者だったかもしれないが、平安時代に中央(京都)で広まった本地垂迹説に飲み込まれ宗教体制に組み込まれた姿だろうか。
ただ、越前の優れた宗教者としての泰澄の存在は認めているようである。白山として一つにまとまっているように見える加賀・越前・美濃の三禅定道、馬場の存在も本来ひとつづつの地方の信仰であり、体系付けされたものとなった後、越前の地方宗教者であった泰澄の功績・権威を加賀・美濃も奪い合うようになったとある。
白山は三馬場共に天台宗延暦寺の末寺になる。安元2年の鵜川騒動も白山が比叡山の末寺であることを前提に起こった騒動である。12世紀には寺社は既に宗教者としてより荘園領主としての側面を強く持ったということでもある。

泰澄は7世紀の後半以降(682年とされるらしい)麻生津に生まれ、14歳で越智山に登り、修行を開始する。豊原寺の縁起によれば20歳の頃、豊原寺を開いたらしい。36歳で白山へ上り霊験を得る。
「数々の逸話が残る泰澄だが、その伝説が語り継がれるのは、福井県内だけにとどまらない。人々のために霊験を振るった泰澄の軌跡は全国で確認されており、北は山形県から南は長崎県まで、その数800余りを数える。神通力をもって出現させた湧き水など、摩訶不思議な話も含めると、2,000は下らないとされる。」(織田文化歴史館HPからhttps://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/panel/05.html)
全国行脚で各地で奇跡を起こしたとなれば弘法大師、空海である。空海こそは実在の人物だが各地の奇跡が実際に起こったことのはずもない。7世紀から8世紀の泰澄と9世紀の空海、どこでどんな伝説の混合があったものやら。

泰澄和尚伝記の中で面白いと思ったのは、泰澄の弟子臥行者が布施を惜しんだ船頭の船に鉢を投げ、その鉢がブーメランのように戻ってくるのだが、その後から船の積み荷の米俵が次々越智山に飛来するという物である。これは信貴山縁起にそっくりではないか。伝承がまじりあい何が色濃く残るのか。

泰澄は晩年、越智山へ戻っていたらしい。767年86歳で入寂したと泰澄和尚伝記にあるそうだ。

越智山大谷寺

福井市街地から越前海岸の大味辺りに行こうとするとしばしば通る道がある。途中の糸生で分かれ道があり、越智山大谷寺の標識は知っていたがそちらへ走ったことはなかった。行ってみる。
大谷寺サンガパークという霊園があり、墓地の使用権の販売と管理が主な収入源と見た。

ペンキを塗ったような赤い門にぎょっとなるが、本堂らしきものは古い。うろうろしていたら住職の奥さんらしい人に呼び止められ招じられた。泰澄や大谷寺についていろいろ説明していただいたのだが、話について行けなかった。

11才で(と大谷寺のHPにはある)、夢のお告げで越知山大谷寺に登り、苦行難行の後、仏の教えを悟った。白山を開き、名声は都まで届き、鎮護国家法師に任じられる。越知山大谷寺に戻り86歳で遷化。

泰澄は、越知山・豊原寺・日野山・文殊山・・白山を開いたという。

ここにも僧坊は立ち並んだろうか?

泰澄の供養塔とされるものだが鎌倉時代「泰澄和尚伝記」成立後の物だろうか

山道を登っては見たが、越智山頂上まではまだだいぶある、引き返した。

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大塩八幡宮

2020-06-24 | 行った所

大塩八幡に義仲が陣を敷いていたという。寿永2年(1183)倶利伽羅(砺波山)・篠原の合戦に大勝した義仲の軍勢は越前に入る。平家物語では越前国府についた義仲は評定をし、覚明に比叡山へ書状を送らせる。第7巻「木曽山門牒状」である。
国府址とされるのは越前市(武生)の市街地である。大塩だとするとだいぶ南に行ったところだ。火打城があった今庄へ行く途中になる。

古い神社らしい。越前二之宮を称す。一之宮は敦賀の気比神宮のはずだ。

参道も長い。参道が尽きると石段になる。

義仲ゆかりの地の碑がある。

拝殿はなかなか豪壮だ。重文だそうである。

裏へ回ると義仲の陣跡の碑がある

手書きの軍の配置図があった。模造紙大で前面にガラスがあり非常に読みにくいのであるが、大変な労作だ。
根井や仁科、盾、樋口など馴染の義仲郎党たちの名が見える。

ネタ元は、「八幡宮伝承記」という物らしい。一体いつ頃の物なのだろう。


この山城に陣を敷いたのなら、ほとんど戦闘態勢だったと思う。
国府に入り、悠然と評定、というイメージとは乖離があるが、兵士の失火による拝殿焼失で杣山の拝殿を慌てて持ってきたなどと妙にリアルで面白い。

山城らしく、堀切の跡もあるが、南北朝、戦国と時代を越えて使われた城山らしいのでいつの物かは比定できないだろう。

参道辺りから日野山を望む。

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祇王妓女邸跡

2020-06-24 | 行った所

福井市西藤島に祇王の屋敷跡があるという。どういうことかわからない。実在するとして近江の野洲あたりの出身で、京都の白拍子、福井に縁があるとも思えない。仏御前の方がまだ北陸の出身というから因縁のつけようはあるかもしれないのだが。

しかし、そういう伝承があるのだという。
西藤島公民館の脇である。

石の祠のようなものの中に石地蔵のようなものがある


大きな碑があったがこれは治水の記念碑だ。

 

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鯖江市南井町 齊藤実盛

2020-06-24 | 行った所

鯖江の文殊山のふもとに齊藤実盛の生まれたところがあるという。

文殊山は福井市と鯖江市の境にある山だ。その南側、山懐に抱かれた部分が南井町らしい。文殊山への登り口のひとつだ。


実盛の跡はなかなかわからず、地元の人に教えてもらう。

 遠景

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敦賀市公文名 利仁将軍

2020-06-24 | 行った所

平家物語第6巻「廻文」に義仲の生い立ちが描かれている。為義の次男義賢の子、義賢は義平に殺され2歳の義仲は母に抱かれて木曽の中原兼遠の元へ行き義仲を託したことが語られる。そして20余年、力も世に優れ、心も並びなく強い。そして古き伝説の武将たちにも勝るとも劣らぬとほめあげる。喩えられるのは「田村・利仁・余五将軍・知頼。保昌・頼光・義家」である。
平家物語を聞いた時代の人たちにはそれとわかるスーパーヒーローだったのだろうが、今、すぐああ誰だ、と思うのは無理だ。

・田村は坂上田村麻呂、歴史の教科書に載る人物だから聞いたことがないとも言えない。
・利仁将軍は芥川の「芋粥」と云われればそんな話があったなと思う。
・余五将軍平維茂(これもち)となるとさらに難易度が上がるが、歌舞伎「紅葉狩り」で鬼退治するのが維茂である。
・知頼というのは誰なのだろう?岩波本では「ちらい」とルビがふってあるが、平致頼(ちらい・むねより)で維茂とライバル関係にあった人物のようだ。
・藤原保昌は知っている。和泉式部と結婚し、盗賊袴垂とやりあった男。他にも無頼のエピソードがある
・源頼光、・八幡太郎義家となればさすがに分かる。

藤原利仁の息子は斎宮職に就き、斎宮の藤原で斎藤を名乗る。全国の斎藤さんは祖先をたどるとみな利仁に行きつく、嘘のような話だが、少なくとも平安末から中世の越前の斎藤氏は利仁の子孫を名乗っている。

藤原利仁は越前敦賀の豪族秦氏の婿となり、館を構えていた。まさしく「芋粥」の舞台である。芥川龍之介の「芋粥」は五位の心理描写がいささかうるさく、また五位のしおたれぶりときたらなんだかゴーゴリの「外套」を思い起こすほどだ。宇治拾遺物語や今昔物語でも五位はかなりのしょぼくれ下級役人だ。

だが五位と云えば鎌倉時代初期、鎌倉殿頼朝の推挙で武家が従五位を得るのは限られた人だけの特権的栄誉だったはずだ。この辺の感覚はわからない。

今昔物語に出てくる五位と利仁の敦賀行の経路は、鴨川沿いから粟田口、山科、三井寺で食事、三津で狐を捕まえるのであるが、ここは下坂本の辺りらしい。道中で一泊。野宿だろうか、高島で迎えの者と出会って腹ごしらえ、暮れ方に敦賀に着いたとある。
この経路で京都―公文名間90kmくらいである。江戸時代の一日の行程8里=32kmだが、馬を使ったためだろう、一泊二日で来ている。
この狐はいいご愛敬であるが、さすが伝説の将軍の若き頃、神通力をちらりと見せた、という所であろうか。
肝心の芋粥なのだがあまりうまそうとは思えない。ヤマトイモ・自然薯の類は好きである。とろろ蕎麦、マグロのとろろ掛け、とろろ飯をすすりこむのも捨てがたい。だから私は長い間、芋粥とはとろろ飯のようなものだとばかり思っていたのである。しかし、今読めば、あまづらを入れて煮るなどとあり、甘いんか!とびっくりしてしまう。デザートだったのだろうか、それを山と出されたら確かに食えないだろう。

利仁の館跡は敦賀市御名といわれ、公文名に利仁を祀った神社がある。


利仁と菅原道真を祀る。天満宮だ。この二人は同時代人のようだが直接的な関係はあったのだろうか

境内をうろうろしていたら宮司さんが出てきていろいろ説明してくださった。基本的知識が足りずよくわからなかったが

利仁の供養塔がと云われるものが入った祠だそうだ

公文名は敦賀の内では南の地域だ、山を越えればすぐだろうが、あの山々を越えてきたかな。

 

北上して常宮神社に寄って帰った

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味真野 城福寺

2020-06-22 | 行った所

さわやかに晴れた日曜の午後、越前市(武生)五分市に出かける。
城福寺という寺がある。いい庭があるそうだが、それよりも平頼盛の息子の創建だという。

入口に平家一門菩提寺とある

門の前には平頼盛卿御廟所の石柱、門には池禅尼御廟所と書かれた板が打ってある

門をくぐると正面左手に花筐の桜。

その左手に鐘楼と高楼がある

右手に行くと何やら墓がある。

一番右手は何と重仁親王供養塔とある。
その左手にある墓は誰のものかわからない。南無阿弥陀仏と彫ってらるばかりである。後ろの石柱には五宮元往上人とかあるのだが誰の事かわからない。その左には宝物館のような小さな堂があり閉まっている。その左の背の高い十三重石塔は平家一門供養塔とあった。

その左は俊寛僧都、その後ろは有王。もう何を供養しているのかよくわからない。

その左にやっと池の禅尼供養塔があった。 

その後ろにあるのは大姫・三幡の供養塔だった。

平家一門の供養、というより平家物語関係者供養だろうか?重仁親王はまだいい。池禅尼は彼の乳母だったのだ、にもかかわらず崇徳側ではなく後白河側についた、頼盛にひしと清盛について行け、と命じたという。義息清盛が後白河方につくのを止めるどころか、実子まで重仁の敵につかせた。その状況判断は正しかったというべきなのだろうが、多少後ろめたくもあったのだろうか。頼朝の娘たち大姫・三幡と何か関わりがあったのだろうか?俊寛や実在はしないであろう有王となると、わからないというほかない。
頼盛廟所とあるのに頼盛の墓が見当たらない。重仁親王の隣が頼盛なのだろうか?

重文だという庭園は拝観中止中の札が貼ってあり入れなかった。

萩が咲いていた。五分市も含めこの地域は味真野と呼ばれ万葉の里だという。

城福寺の馬場を茶畑にしたという中に碑があった

狭野茅上娘子なら「君が行く道の長手をくりたたね---- 」だろうと読みにかかったら全然違うようだ。後で調べた。「春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつ現うつしけめやも」

歴史の道とやらがあり少し歩いてみることにする。すぐ近くが味真野小学校で校庭の真ん中に大きな桜の木がある。一度見に来たことがある。

諏訪神社やら、弘願寺・毫摂寺など 大きな寺があるし、寺かと見まごう大きな塀のある家もある。きれいに整えられた庭先。
小丸城址に向けて歩く。

遊歩道なのだが途中から心細くなるものがある。マムシ注意などと云う立看板がある。素足にサンダルである。マムシはごめんだ。という道の途中に野々宮廃寺跡があった。案内板によれば、調査結果から7間4間の金堂と中門とみられる跡があり、瓦を中心にかなりの遺物があったようだ。白鳳期に比定されるというから万葉の時代ドンピシャだ。

越前国府は越前市(武生)市街地に比定されているが、ここから西へ10km近くいったところだ。

藪の中の道は工場の敷地のようなところへ出てしまい、引き返す。

 

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信州相模甲斐 0612富士川町・韮崎

2020-06-17 | 行った所

ところどころ雲が切れ富士山も顔をだす。

河口湖の西から北を回り、山間の道を富士川町を目指す。かのオウム教団事件の上九一色村のあたりも通った。漸く山道を抜ける。富士川町のあたりで笛吹川と釜無川が一緒になって富士川になるようだ。


富士川町舂米(つきよね)、南アルプスの裾に当たるようだ。棚田を縫うように上がっていく。
たどり着いた一条忠頼の墓。明楽寺跡。

鎌倉で死んだはずだが、ここへ葬られたのか。


源義家の弟新羅三郎義光を曾祖父に持ち、戦国時代の武田氏の祖となる甲斐源氏、武田信義の嫡男、一条を名乗とした一条次郎忠頼。
平家物語では第5巻、富士川の合戦の後、頼朝が駿河を一条次郎忠頼に、遠江を安田三郎義定に預けたとある。安田三郎義定は武田信義の弟で、忠頼の叔父だ。甲斐源氏が富士川の合戦の前に駿河・遠江に押し寄せており、実効支配してしまったのを頼朝は追認せざるを得なかったのだろう。
第7巻の義仲最後の戦い粟津でも一条次郎は姿を見せる。互いによき敵と認識している。
そして義仲四天王の一角樋口兼光が、義仲の死を知り鳥羽街道を京へ戻る際、樋口の郎党、茅野光広という者が、一条次郎の軍勢はどこかと聞いて歩く。相手は笑うのだが、茅野は一条手勢にいるはずの弟に立派に死んだことを故郷に伝えてほしいのだと抗弁する。樋口兼光も武蔵の児玉党と縁があり、彼等の口利きで降伏するのだが、敵味方になった甲信武蔵の武士たちが敵味方に分かれた事情は複雑で、モザイク模様の人的関係だったのだろう。
平家物語は語らないが、一条忠頼は頼朝に誅殺される。寿永3年が改元された元暦元年(1184)6月のことだという。一の谷は終わっているがまだ平家が屋島に頑張っている時期である。鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に殺されたということである。
忠頼は甲斐武田の名門、源氏の代表者として頼朝に引けを取らぬ出自との自負もあったろうし、実力もあったのだろう。その甲斐源氏に駿河・遠江を押さえられたら頼朝は面白くなかったろうし、武士の棟梁はただ一人でなければならないと思い極めていたのだろうか。


忠頼の墓は眺望の効くところにある。甲府盆地を見下ろし、右手、雲に隠れているが富士山のはずである。左手は金峰山か。
棚田の道を降りる際、軽トラのオジサンに声を掛けられた。「遠くから来たんだな」という。忠頼の墓に来たというと、自分たちは加賀美遠光の子孫だという。武田信義の弟または叔父に当たる人物で、頼朝の御家人として信濃に力を持ったらしい。平家物語では源三位頼政が以仁王に決起を促す源氏揃えの中に出てくるだけのようだが、びっくりしてしまう。法林寺の詳しい場所も教えてもらう。

富士川町から北上し韮崎市へ。忠頼の父信義の館跡と墓を目指す。

韮崎市神山町、この辺かという所に来てみれば、狭い道が入りこみとてもわからない。幹道に出て駐車スペースを探すと武田広神社の駐車場があった。案内板によればヤマトタケルの子武田王を祀るとある。

ノーベル賞受賞学者大村智氏はこの地の出身らしい。

坂を下り、迷い迷いしつつも信義館跡へたどり着く。


かなりの調査はされたらしい。


甲府盆地の西北端、釜無川が信州から流れてくる辺、信州への出入りを制する場所に館を構えたように見える。

信義の墓がある願成寺へ向かうが、ちょっと距離があるようなので車に戻りナビ任せに行く。


甲斐のヒーロー武田信玄の祖先の墓である。

韮崎市立民俗博物館へ行ってみるが、めぼしいものはなく、引き上げる。

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信州相模甲斐 0611 波多野・松田

2020-06-17 | 行った所

昼食後、秦野市方面へ向かう。鎌倉から出るのにはいつもまごつく。大船からの道でナビが示す道が通れない所為もあるが、どっち方向へ行くのか判然としない所為もある。雨が降り出す。

波多野義通という義朝の郎党がいる。藤原秀郷流を称し佐伯とも名乗る。前九年の役から源氏に従った。波多野荘から松田郷にかけての一帯を支配した相模の有力豪族である。義通の妹は義朝に嫁し、朝長を産んだ。朝長は松田郷に育つ。源氏の嫡男、のはずだった。しかし保元の乱を経て、義朝の嫡男は頼朝とされた。保元の乱を義朝に従い戦った義通は怒って義朝の元を離れる。しかし平治の乱では再び義朝と共に戦っている。朝長は平治の乱で傷を得て死ぬ。義通も1167年死ぬ。息子の義常は頼朝に敵対し、攻められ自害する。叔父が頼朝に従い鎌倉の御家人として生き残るが、和田義盛の乱で和田方として滅び、一族の中からまた継ぐものが出たらしい。

その波多野氏の本拠、波多野城、結構な山間だ。かなめ川という川が流れる。

波多野の荘を見下ろす位置だろうと思ったが、立木の所為か建物か、雨か、眺望はきかない。

波多野荘と大庭荘を比べれば明らかに大庭の方が土地生産性は高そうだ。

実朝首塚の標識を見る。鶴岡八幡で死んだ実朝がなぜこんなところに?だったがそれなりの理屈はあるらしい。
実朝暗殺事件は下手な推理小説めいているのだが、首の行方もまた妙な具合だ。実朝は公暁に殺され、一緒にいたは源仲章も殺され、これは北条義時に間違われて殺されたと言われる。義時は直前になって体調不良を言い立て退席している。公暁の襲撃を知っていたのでは?と疑われる。更に居並ぶ御家人たちはどうしていたのか、むざむざ将軍ともう一人をを殺され、首さえ持ち去られる。坂東武者の名が泣くようなありさま。尤も、曽我兄弟の事件でも、二人の兄弟に十人斬りされてしまうくらいだから、戦場の活躍とは裏腹に不測の襲撃には対応が下手なのかもしれないが。 公暁は、三浦義村の家臣長尾定景によって成敗されるが実朝の首は不明で、体と髪を勝長寿院に葬ったとされる。しかし勝長寿院跡には実朝の墓はなかった。寿福寺という所に政子と共に供養塔があるそうだ。公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったのだと伝えられている。三浦の家臣が首を三浦に渡さずここへきて葬ったのは三浦義村が公暁をそそのかした真犯人であるためだというのだが??

実朝の墓は公園になっていて、地域の人の和歌が貼られていたり、実朝祭りもあるようだ。近くに金塊植物園という実朝の和歌集にちなんだものもある。

雨は止まない。松田に向かう。
松田の寒田神社のあたりが朝長も住んだ松田館があったところだという。それなりの規模の神社だが、松田館の事は何もわからなかった。寒田神社南側、という情報があったので何らかの調査はあったのか、しかしそのあたりは小学校の敷地で、後を示すものはなかった。

猫さんがいた。

降りしきる雨の中、河口湖を目指す。御殿場から富士山の東を回るように向かったのであるが、当然ながら富士は見えない。
しかし、夕食時にうっすら富士が姿を現した。

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