物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

火打から倶利伽羅まで

2024-01-31 | まとめ書き

治承寿永の内乱における北陸の戦いは、平家物語では「火打合戦」から始まるが、前哨戦は無論あった。義仲云々というより東国と同じように、平家政権に対する地元の反感が反乱化始める。平経正が若狭に、通盛が越前にと派遣されるが成果は上げれなかった。平家与党であったはずの平泉寺威儀師らの寝返りにより、窮地に陥った通盛は都へ帰る。その後膠着状態であったが、寿永2年(1183)平家は大軍を以て北国へむかう。琵琶湖の西岸・東岸に分かれて北上し、木の芽峠・栃木峠を越えていく。二つの峠道の落ち合うところが今庄だ。交通の要衝として、近世まで栄える。今庄の火打城には義仲与党の北陸の住人たちが待ち受ける。総大将は平泉寺の偉儀師斉明、白山勢力を従える。山城の山裾をめぐる川をせき止め、湖沼と見せかけていたのだった。取り囲んだ平家の大軍を見て、山城に立てこもった斉明は何を思ったか、やはりとても敵わない、とでも思ったのだろうか。斉明の裏切りにより、堰き止めた水は落とされ、火打城はあっさり陥落してしまう。

 火打ち城 文政の道案内付近から
北陸勢は敗走し、平家に越前を席巻されてしまうのだが、平家物語に従い、この山城に立てこもった面々を見ていこう。斉明・稲津・斎藤太・林・富樫・土田・武部・宮崎・石黒・入善・佐美と挙げられている。
斉明:平泉寺偉儀師とか長吏とか、平泉寺の悪僧たちの束ねだろうか。平家に従っていたはずが寝返り、また再び平家に帰り忠として与した。越前河合斎藤氏の出身。藤原利仁将軍の子孫と称するが、北陸の武者の大半は利仁の子孫を称する。平家方の斎藤実盛とは又従兄程度の関係らしい。
稲津:新介実澄、福井市稲津町辺りが本拠らしい。岩波の注記には藤原則光の子孫とあったが、河合斎藤氏の出身とするものもあった。斎藤氏という方が妥当な気もするが、則光というのは面白い。枕草子に出てくる無粋な男だが、清少納言の夫だったことがあるといわれている。今昔物語に説話もある。盗賊らしい男を3人斬り殺した、というものだ。(今昔物語23巻15話) 稲津新介は斉明と共に平家を裏切り、火打ち城に入る。斉明のかえり忠には与せず敗走した。
斎藤太:これはわからない。ただ越前斎藤氏であることは間違いないだろう。
林:六郎光明。加賀石川郡林の住人。利仁の子孫を名乗る。手取川扇状地の付け根辺りが本拠らしい。
富樫:入道仏誓。加賀石川郡富樫の住人。これも利仁の子孫を名乗る。富樫氏は10C末加賀介になり従五位下であった。安元2年の鵜川騒動の時、目代師経に従い遊泉寺を焼き討ちした武者の中に富樫家直がいる。義仲の敗死後、富樫泰家というものが頼朝に詫びを入れ蟄居したが、後許され加賀の守護になったという。16世紀に一向一揆に滅ぼされた富樫政親の高尾城は現金沢城に重なるという。館跡は野々市にある。
土田:能登の住人。現志賀町二所宮に土田城址というものがある。
武部:能登の住人。現中能登町武部。中小田親王塚の東になる。
宮崎・石黒・入善:いずれも越中の住人
佐美:加賀江沼郡佐見。小松市で海岸沿いの安宅の南側。

火打城を落ち延びた面々は「なほも平家にそむき、加賀へしりぞき白山河内へひっこむる」と平家物語にはあるのだが、いきなり今庄から白山河内までは行かないだろう。白山河内は手取川を遡り、白山比咩神社を過ぎて更に山へ入ったところになる。
源平盛衰記だともう少し抵抗していることになる。
まず反乱軍は越前河上城へ立てこもる。現坂井市丸岡町川上だ。竹田川の北、北陸高速道路の東側の山の中に空堀・土橋などの山城跡があるそうだ。
 鳥居は白山神社、この奥の山が河上城
平家は長畝に陣を構える。丸岡町長畝だ。高速道路西側の平地かなりの広さがある。どこに陣取ったのか見当がつかない。ただ、長畝には斎藤実盛ゆかりの池、というものがあり、それが本当だとしたなら、平家はそのあたりに陣を張ったとみてもいいかもしれない。越前加賀に点在する実盛遺跡は、ごく一部を除いて、平家物語が世に流布してから出てきたのではないかと邪推しているのではあるが。
*実盛池
盛衰記では「ながうね」とルビを打っているが、現代では「のうね」といっている。それにしても今庄から丸岡まで一気の退却であり、進撃であった。
稲津は足羽川沿いの地域だ。
*稲津橋
稲津の新介あたり、足羽川を利用しての抵抗はできなかったものか。足羽川どころか九頭竜川もやすやすと突破されたことになる。平家も国府(越前市府中町)で一服することなく一気に北上したということか。
福井県史では「斉明は北陸一帯の道路を知り尽くしていたであろうから、退却する義仲軍を追撃するには官道だけでなく、そのほかの小路も利用したに違いない。平氏軍の主力は丸岡・長畝・疋田・中川・金津・細呂木というルートで加賀国に入って、越中国まで攻め入ったのであるが、白山信仰の拠点越前馬場平泉寺と加賀馬場白山宮をつなぐルート、つまり勝山から谷峠を越えて加賀国に入り、手取川に沿って下り鶴来町に出る現在の国道一五七号線にあたる道も、平氏の騎馬武者は利用したことであろう。」と書いている。まことに斉明の裏切りは大きかった。
盛衰記に戻ると、反乱軍は河上城には兵糧がなく、三条野に退いて陣を敷く、とあるが、三条野がわからない。しかしここで林光明の息子今城寺太郎光平が、血気にはやって荒馬で突進し討ち死にしてしまう。加賀勢は気落ちし越前を撤収し、篠原へ退く。
今城寺を討ち取った者として斎藤実盛が出てくる。砺波山の戦いの後の篠原合戦で、髪を染め美々しく着飾って戦い、手塚光盛に打ち取られ、義仲の涙を誘う実盛である。ここで出てくるのはとても不自然な気がするのだが、どうだろうか。

さて越前国内の抵抗がこの他になかったかというと、そうでもなかったかもしれない。あわら市北潟湖畔菖蒲園の一角に二万堂なるものがある。

もちろん二万というのは途方もない。いつの合戦やらも定かではない。案外一向一揆かなにかの合戦かもしれないが、ともかくこのようなものがあるにはあるのである。


源平盛衰記では、三条野の後を続けてこうある。越中勢はここで退くか、戦い続けるか協議するが、戦うことにするが、平家の攻撃に篠原の陣を保てず、佐見・白江・住吉に後退する。佐見は安宅の南、梯川の河口の少し南だ。住吉は安宅住吉神社というのがあるのでその辺だろうか。白江は小松市白江で、ここは海岸線ではないようだ。
平家は勝ちに乗じて山野に満る。先陣が安宅に迫っても後陣は黒崎・橋立・追塩・塩越・熊坂・蓮が浦にあったという。橋立は加賀橋立、近世に北前船でにぎわった港町だ。黒崎はその近く。追塩・塩越はわからないが大聖寺川河口北岸に塩崎という地名がある。吉崎の対岸となる。熊坂は越前にもあるが加賀の熊坂町は国道8号線を北上すると大聖寺のすぐ手前辺りになる。蓮が浦は北潟湖の東、細呂木の西になる。まさに官道・間道を埋めての進軍だったのだろう。平家は篠原に本陣を設ける。篠原は片山津市、柴山湖の西側だ。何度も出てくる。
義仲与党の反乱軍は安宅に、梯川北岸に集結する。橋の橋板を外し待ち構える。梯川河口付近に橋があったと見える。川を隔てての矢の応酬。やがて平家は浅瀬を探し、渡岸する。浅瀬探しは越中前司盛俊・盛綱の知恵となっている。互いに矢の飛び交う中、馬を川に入れての合戦になる。越中の石黒太郎が負傷し、弟福満五郎が助けるエピソードもある。しかしこの戦いも数に勝る平家が勝ち、源氏の敗走と平家の追撃が始まる。
敗走の中、井家次郎が手勢17騎をで反撃を試み、全滅したのが根上の松のところだという。
富樫・林・下田・倉光らも敗走する。下田氏はわからないが、倉光兄弟は後で妹尾兼康のからみで出てくる。
富樫次郎家経は馬を射られ、一族の安江次郎の郎党に馬を譲られ落ち延びている。一の谷では馬を射られた重衡が替え馬に乗った乳母子に逃げられ捕まったり、忠度が一騎になって討ち死にしたりしているのよりは、まだ陣形を保ったままの敗走だったかもしれない。
今湊・藤塚・小河・浜倉部・並河を通り、大野荘に陣を構えたとある。
今湊神社というのが手取川の手前、小舞子駅の近くにある。手取川を渡って、藤塚神社というのもある。小河は白山市小河町か、美川ICと徳光PAの間くらいになる。浜倉部は白山市浜倉部、松任の南の海岸線近くである。並河は不明だ。大野荘は金沢市街地。海岸線沿いに北上し、富樫の本拠地に拠ろうとしたのだろう。
しかし、平家軍は盛んで、富樫・林の館を焼き払う。林の本拠は手取川扇状地の扇の要付近と思われるが、そこからも追い払われたのだ。
ここで平家物語の「白山河内にひっこむる」が想起される。白山河内は手取川沿いには白山麓を入ったところになる。16世紀加賀一向一揆最後の砦となった鳥越も近い。義仲与党の加賀勢も、加賀一向一揆の衆徒たちも、加賀の平野を追い払われ、山にこもったのである。
「なに面をむかふべしとも見えざりけり。」という平家の威勢なのであるが、次の合戦の舞台は砺波山、倶利伽羅合戦に移っていく。

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平康頼「宝物集」のこと

2023-04-14 | まとめ書き

「宝物集」の作者平康頼は云うまでもなく、「平家物語」に出てくる人物である。鹿ケ谷事件に連座し、藤原成経・俊寛とともに、鬼界が島に流され、のち、成経と共に赦免され都に戻る。
「平家物語」に描かれる康頼は、お調子者で後白河院の腰巾着に過ぎない。「梁塵秘抄口伝集」の中で、後白河院は康頼を声のいい今様の達者としているが、教えてもいない歌を院から教わったという人物だなどと、人格否定的なことも言っている。
「宝物集」の康頼はまた別の顔を持っているようである。学識ある歌人、仏教者であり、特に往生に関する思いは深いようである。「宝物集」は一般的に仏教説話に分類されるようであるが、いわゆる説話のイメージとはかなり違う。
読んだテキストは岩波書店「新日本文学大系40」 本の大半を占めるのは「宝物集」だが、「閑居友」「比良山古人霊託」の二作が収録されている。閑居友は鎌倉時代の僧慶政の書いた仏教説話集で、これは所謂仏教説話のイメージだ。「比良山古人霊託」は、藤原道家に仕える女房に天狗が取り付き、慶政と問答したというしろものである。
この本で驚くべきは注釈の詳しさである。解説、本文下の注のみならず、挿入されている和歌の他出一覧、歌人の解説。至れり尽くせりである。

さて「宝物集」だが、始めから康頼は自らを鬼界が島帰りの男だと明かしている。しかし、冒頭からコケる。年が違うのだ。「治承元年秋、薩摩国の島を出でて、同じき二年の春、ふたたび旧里にかへりて・・・」とあるのだが、鹿ケ谷事件で康頼が捕らえられたのは、安元三年(1177)6月の初めである。安元三年はこの後治承元年に改元されている。翌年秋に許され、島をでる。だから冒頭は「治承二年秋」でなければならない。都に戻ったのは治承三年春となる。自分のことであるが、記憶違い、勘違いをしたのだろうか。改元は頻繁にあった。混乱も仕方ないかもしれない。同時にこれが書かれたのは治承当時のことではないのだろう。新日本文学大系の解説には文治年間に書かれたのではないかとあったが、やはりかなりの時間が経過し、落ち着いた頃に書かれたのだろう。

島帰りの男のもとへ知人が訪ねてくる。「鬼界が島の有様は、申しても無益」と島流しのことは語らない男である。逆に近頃の都のことを知りたがる。知人は嵯峨野の釈迦堂のことを語る。

男は嵯峨野へ出かけていく。
康頼が京都で住まったのは東山の双林寺。現在の円山公園の中になる。東山から西へ、どこかで鴨川を渡り、少し北へ行き丸太町通りへでて、真直ぐ西へ行けば嵯峨野清凉寺につく。
丸太町千本通の交差点付近には平安時代の大内裏、大極殿などが比定される場所がある。
その少し手前になるが、丸太町から猪熊通を北へ少し入ると、待賢門跡の標識があるところがある。待賢門は中御門とも呼ばれた。「中御門の門を入りて、大膳職・陰陽寮などをうち過ぎて」とあるので、待賢門から大内裏に入ったのであろう。焼け野原で荒れ果てていたはずである。最後に焼けたのは康頼自身も消火に駆け付けた安元三年四月の大火であっただろう。現在は住宅密集地だ。平安京のことは京都市生涯学習総合センター(アスニー)へ行くとよくわかる。アスニーも丸太町通に面してある。

男は嵯峨野に着くまでにいろいろ寄り道をしたようだ。次々と故事が語られ、和歌が挿入されていく。宝物集には全体で実に428もの歌が挿入されている。年代的にはランダムで、8世紀から13世紀の歌人がいる。話題話題に応じて選ばれているようだ。
仁和寺や広沢池、法金剛院などにも寄っていて、嵯峨野につくまでの道行きで和歌は13首ある。作者には実定や頼政など平家物語でなじみの名前もある。

嵯峨野についた男が清凉寺の御堂に行けば、人がいっぱいである。西の局に入り法華経を詠む。隣の局から寺僧の話す釈迦堂の縁起が聞こえる。遅くなったのでそのまま御籠りをする。夜更けて数名の話す声がする。
「宝とは何か?」誰かが問う。打ち出の小づち、隠れ蓑と埒なく始まった論議は、宝玉・黄金から子供、命へと続き、多くの故事・和歌が挿入され、第一巻が終わる。
二巻冒頭で、「仏法これこそが宝」という者があり、肯首される。
天竺の故事やら、尭舜の故事、荘子の夢、仏教賛歌の和歌もたっぷり挿入される。さらに六道が語られ、餓鬼道やら、畜生道、人道の十六苦・八苦と延々と続く。怨憎会苦のところで、流刑になった人々が集められている。小野篁・菅原道真なんかも出てくるが、鬼界が島は出てこない。殺し殺される例は、崇峻天皇が蘇我馬子に殺される・蘇我入鹿と石川麻呂が天智天皇に殺される・壬申の乱・長屋王の変・恵美押勝の乱・伊予親王の変・平将門・源義親・前九年後三年の乱・藤原純友の乱まであって、治承寿永の内乱は出てこない。なかなか辛辣な書きぶりで、だれは誰に殺された、とある。「長屋王は聖武天皇に殺された」とあるのだが、続日本紀はこんな書き方はしていないはずである。聖武が殺した、というのは平安末・鎌倉初期の人々の共通認識だったのだろうか?


第三巻は愛別離苦について語る。ここにまた康頼が顔を出す。たくさん並べられた和歌の一つだが、「鬼界が島にはべりけるころ、いまだ生きたるよしを、母のもとへ申しつかわしける」との詞書付きで次の歌がある。「さつまがた沖の小島にわれありと おやには告げよ八重のしお風」 「平家物語」の「卒塔婆流」で康頼が卒塔婆に書き付けて流したという二つの和歌の内の一つでもある。
第三巻の終いはこの世の苦しみから逃れるには仏になるしかない。どうしたら仏になれるのか、という問いに、仏に至る十二の門が示される。
第四巻からは往生のためにはどうしたらいいか、という話である。相変わらず、唐天竺・日本の故事、経典のエピソード、和歌が大量に挿入される。康頼はこれらの資料を手元に置いて書いたのだろうか。史記や漢書の類は相当有名な故事が多いと思われるので、もしかしたら孫引きもあるかもしれないが、それにしても広範な知識である。どうやって集めたのだろう。伝手を頼り、書物を借り出し、書写する。気が遠くなるようである。「平家物語」にも物語の筋とは関係ない中国の故事が延々と挿入されているところがある。「源平盛衰記」となるともっと多い。この時代の書き物は、皆そうなのだろうか。

第七巻に十二門の内の善智識がある。「第十に善智識にあふて・・・」とあるのだが、第三巻で並べた十二門の内では善智識は九番になっていた。それはともかく、ここで再び康頼の歌がある。詞書は「検非違使左衛門尉平康頼、罪もなくて鬼界が島にながされ、出家ののち、かくぞよみ侍りける」「つひにかくそむきはてける世の中をとくすてざりし事ぞくやしき」「平家物語」では康頼は周防国室積で出家し、性照と名乗ったとあり、この歌も出てくる。(「康頼祝言(のりと)」
「罪もなくて」であるが、清盛に告発された罪状、平家を倒す陰謀がなかったというのか、なんにせよ後白河院の意向に沿っただけであり、臣下の清盛にとやかく言われる由縁はないという意味か。なんとなく後者のような気はする。

「宝物集」の最後は見事往生を遂げた例が挙がっている。第十二の称念弥陀である。そこに”とねくろ”という神崎の遊女の話がある。仏法とは無縁の者であったが、西海に赴き、海賊に殺される。その最期に至り西に向かい、こう歌う「われらはなにしに老いにけん おもへばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の弥陀の誓を念ずべし」 西の方から妙なる音楽が聞こえ、紫雲たなびいた。遊女とねくろは極楽往生をとげたのである。これは今様である。おびただしい和歌が出てくる「宝物集」の中で今様はこの一点のみである。遊女とねくろの今様は「梁塵秘抄口伝集」にもあり、後白河院と康頼の関係を匂わせる唯一のものだ。「平家物語」では鹿ケ谷の宴席で、瓶子(平氏)が倒れたとはしゃぎまわり、即興の猿楽を演じ、慈円に猿楽狂いと書かれた康頼は、「宝物集」にはいない。「宝物集」には猿楽は影も見えない。「平家物語」の「康頼祝言」では、鬼界が島で熊野に多少とも似た地形を探し、願掛けして赦免を祈るが、「宝物集」には、熊野大社の利生譚もまたないのである。

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蟹が旨い話、転じて説話の蟹の話

2023-02-02 | まとめ書き

越前ガニは、種的にはズワイガニだが、雄と雌とではサイズなどが著しく違う。雄が大きく、雌は小さい。雄をズワイガニと呼ぶことが多い。雌はセイコというが、他の地方ではコウバコ、コウバ等ともいうらしい。
値段は雄のズワイの立派なものは、一ぱい万単位になるが、セイコは安い。漁期にはスーパーにセイコを積み上げたコーナーができる。脚の1本取れたものなど結構安価に手に入る。
かつてのセイコはもっと安く、子供のおやつ扱いだったと聞くが、その経験はない。
ズワイはみっちりと詰まった脚とミソが旨い。セイコは甲羅の内のミソ・ウチコ・ソトコがほかに代替えのない旨さである。ズワイガニの中で他にズボといわれるものもある。これは雄で、脱皮したてのものをいう。殻が柔らかく、身の入りも所謂ズワイよりは緩く全体に水っぽい感じがするのでミズガニともいうが、これは食べやすい。ズワイを食べるのに刃物は必須だが、ズボは素手で食べられる。脚をぽきんと折って、ズボっと出てきた身を食うのである。当然だがズワイよりは格段に安い。同じようなカニでも、ベニズワイは旨くない。少なくともズワイのイメージで口にするとがっかりする。ベニズワイよりはそれと知ってズボを食べる方がいいが、ズボにはみそはほとんどない。

蟹のシーズンは冬で、ズワイの漁期は11月の1週目くらいから始まり3月に終わるが、資源保護のため雌のセイコの漁期は年末までだ。またズボの漁期は2月下旬から3月までだ。

ズワイガニは水深200メートルの海底に住む。籠を沈め、蟹が入ったころ合いに引き上げる。それなりの船や装備、技術も必要だろう。海底200メートルから籠を引き上げるにはウインチかそれに類するものがいるのではないか。ズワイ漁が始まったのは戦国時代、16世紀の後半だという。どうやって深海にすむズワイの居所が知られるようになったのだろう。
蟹自体はもっとはるか昔から食料になっていただろう。それはとらえやすいサワガニ・イソガニの類だろうが、貝塚や遺跡などから、蟹の痕跡が見つかったとは聞かない。知らないだけかも知らないが。
ガザミ漁は奈良時代には始まっていただろう。サワガニ・イソガニに比べて格段に大きく旨い。海底30メートルの海底にいるというが、時に海水面際に浮かんで来たり、季節によっては岸によりつくというから、そうしたことから知られたのだろう。

古事記に応仁天皇のところで宴会歌として蟹が出てくる。「この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ 何処に到る 伊知遅島(いちぢしま) 美島に着き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道(ささなみぢ)を すくすくと 我が行ませばや 木幡の道に・・・・」敦賀の蟹なら越前ガニ、と言いたいところだが、その可能性は薄そうだ。この歌は、応神が近江のヤカハエヒメのところへ妻問に行った時のもの。「におどりの」とか「さざなみ」とか近江を思わす言葉が続くが、木幡を過ぎ、宇治へ行ったのだろう。ヤカハエヒメはウヂノワキイラツコを産む。蟹がのこのこ横歩きをしてやってきたような歌だが、敦賀の蟹が生で来られたはずもなく、塩をしたものだろうか。敦賀湾ではガザミが釣れるというから、やはりガザミだろうか。それに応神と敦賀とは縁がある。気比のイザホワケと名前の交換をしたり、御食つとして、イルカをたくさん奉げられたりもしている。応神の母は神功皇后となっているが、名をオキナガタラシヒメという。息長氏は近江の東部を本拠とする氏族らしい。敦賀は息長氏の外港だったかもしれない。

万葉集に蟹の歌がある。食べられるカニの身になって歌った、というユニークなものだ。
「押し照るや 難波の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る 葦蟹を おほきみ召すと 何せむに  吾を召すらめや 明らけく 吾は知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと  我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置かねども 置勿(おきな)に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参り来て 命受くれば 馬にこそ 絆(ふもだし)掛くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の 百楡(もむにれ)を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の日(け)に干し さひづるや 柄臼に舂き 庭に立つ 磑子(すりうす)に舂き 押し照るや 難波の小江の 初垂を 辛く垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗り給ひ もちはやすも もちはやすも」
何やらよくわからないが、難波にいた蟹が天皇のお召しだというので都に来たら、調理されて食われちゃった!というものだ。
調理法も更にわからず、天日干し、臼でつき、瓶に入れて、塩した、??  ふりかけのようなものでも作ったのか?
ただこの蟹、サイズ感から云って、ガザミ(ワタリガニ)ではなかろうか。ハサミや脚を紐でくくったガザミを見たことがある。牛の鼻緒でくくるというイメージに小さなイソガニなどは合わない気がする。
全く私のあてずっぽだが、天日はとりあえずの水分抜きで、臼でつくのは殻と可食部を分ける工程、それを瓶詰めして調味料を入れる。瓶ごと蒸しあげでもして蓋を閉めれば当座の保存になったのではないか。それを皿に載せて、天皇の食膳に供する。

日本霊異記には蟹が出てくる説話が二つある。霊異記は平安時代初期にできたものだという。平安時代というとつい紫式部や清少納言の時代を思ってしまうが、9世紀初め頃までだと平城京、奈良の都の記憶が鮮明だったのかもしれない。日本霊異記の編者景戒は薬師寺の僧(私度僧)だったせいか奈良時代の話が多い。
日本霊異記・今昔物語に出てくる蟹に関わる話はパターンが決まっていて ①信心深い女が、男の持っている蟹を助ける。②女又は女の父親が蛇の飲まれようとする蛙を助けるが、その際女と蛇の婚姻を約す。③蛇が約束だとやってくると、蟹が蛇と戦い女を守る。①②の順は違うこともある

日本霊異記の話の一つは中巻の8話「蟹と蛙を買って放ち、現に報いを得た話」で、馬場基が「平城京に暮らす」で面白い考察をしている。話の中に行基が出てくるから説話の世界は奈良時代、聖武天皇の時代をイメージしていることになる。
女は尼の娘で置染臣鯛女という。行基の信者である。女は生駒山中で蛇が蛙を呑もうとしているところに行き合い。蛙を助けるため7日後、妻になるという。行基のもとに行くがどうにもならないといわれるが、帰りに大蟹を持った老人に出会う。老人の名は摂津に住む画問邇麻呂という。難波で蟹を手に入れ、売りに行くところだという。大蟹とあるのでこれはガザミだ。売りに行くのは平城京の市だろうか。放して助けるのだから蟹は生きていなければならぬ。市での売り上げを考えるのか、老人はなかなか女の頼みを聞き入れない。女は結局着ていた衣を脱ぎ、裳まで渡して蟹を手に入れる。ブラウス脱いで、スカートも脱いで、あとはスリップ一枚か、腰巻のようなものはしていただろうか。女は行基に呪文を唱えてもらって蟹を放す。海のガザミを生駒山中で放しても・・
約束の夜、蛇が来て女の部屋に入ろうとするが、ただ騒がしい音がするだけで、翌朝見ると大蟹が、蛇をずたずたに切り裂いていた。
老人は菩薩の化身であったようだ。(ならスカートまで欲しがることはなかろうに・・・)

もう一つの話は第12話「蟹と蛙を買って放って助け、現に蟹に助けられた話」こっちの話には女の名はない。蟹を持っていたのは牛飼いの男で、山や川で採った蟹を8匹持っていた。自分で焼いて食べるのである。これはサワガニであろう。女は自分の衣と引き換えに蟹を得て、義禅師に呪文を頼み、蟹を放す。今度は蛙を呑もうとする蛇に合う。また7日後の婚姻を約し、蛙を助ける。また行基には「どうしようもない、仏法を信じるだけだ」といわれる。蛇はやってきて壁を叩き、屋根に上り侵入を図るが、果たせない。翌朝、8匹の大蟹が蛇を切り裂いていた。小さなサワガニが大蟹に変じているのである。

今昔物語の話は時代が下っているせいか、雰囲気が違うが話の骨格は大体同じだ。巻16第16話 「山城国の女人観音の助けにより蛇の難をのがれる語」
女に名はないが幼いころから観音信仰に篤い。女が蟹を持った男に会う。食べるのだという。女は家に死んだ魚がたくさんあるから蟹の代りに持っていけ、という。ここでは食料対食料の交換になっている。霊異記のストリップもどき、強姦罪でも懸念されるようなシチュエーションは回避されている。この蟹はどんな蟹かわからない。数量もない。ただ後述するがこの話が蟹満寺に関係し、山城街道沿いの話だと、生きたガザミを持って歩くのは不自然な気がする。サワガニであろうか。
女が「死んだ魚」といっているのも、ぴちぴちの魚が水揚げされる場所ではないからだろうか。
女は蟹を放す。
その後、女の父親が農作業中に蛇が蛙を呑もうとするのを見る。この父親、蛙を哀れに思うのはいいが、蛇に蛙を放せば、婿にしてやると口走るのだ。
この蛇、夜、娘のもとへ訪れるとき五位の人間に化けてきた。とりあえず三日後を約して返し、その間丈夫な蔵を作り、娘は観音の加護を頼み籠る。
五位は蛇に変じ、蔵を破ろうとする。物音は夜半まで続き、翌朝見ると、大なる蟹を首として千万の蟹集り来て、蛇をやっつけていた。全体に蟹の恩返しではあるが、観音信仰の利生譚、ありがたさを説く話になっている。蛇の屍骸を埋て、其の上に寺を建てたとなっている。

この話を伝える寺がある。山城の蟹満寺だ。奈良をでて北上し、泉大橋で木津川を渡る。木津川は泉大橋の西側で北へと流れを変える。木津川の東側を24号線、JR奈良線が走るが、それと並行するように山背街道がある。奈良から京へ向かう道の一つだ。泉大橋から5キロ足らずだ。もう少し行くと以仁王の墓がある。平等院から南都の僧兵たちとの合流を目指し、落ち延びようとした以仁王は打ち取られた場所だ。
蟹満寺は飛鳥時代の遺構があるようで古くからこの辺りに寺はあったようだ。秦氏との関連が言われる。白鳳の釈迦座像があるのだが、台座の基礎は江戸時代のものらしい。この寺に古くからあったものか、どこからか持ってきたものか不明のようだ。白鳳仏といっても、興福寺にある山田寺の仏頭のようなものをイメージしていると、なんだかがっくりする。顔自体すっきりしないし、仏頭と座像とのバランスもよろしくない。国宝なのだが、私的には二度目はないかなという感じだった。寺自体平成の改築で、とても新しい。境内にやたらに蟹の置物などがあるのもなんだか煩わしい。蟹の恩返しの説明版は、当然ながら今昔物語そのままだった。

いずれの話も蛇が娘を欲し、婚姻を持ちかけるのではない。娘・父の申し出によるものだ。蛙を呑むのは自らの命をつなぐ食料としてだ。蛇からしたら理不尽そのものだ。蛇は彼らの申し出に、じっと顔を見つめてから蛙を放す。蛇なりの約束したぞ、ということだったのだろう。

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宇多天皇(上皇・法王)と小倉百人一首

2022-09-04 | まとめ書き

宇多天皇の作った和歌が百人一首にあるというわけではない。ただ彼とは縁のあった人達の何人かの歌が採られている。
天皇の名前は言うまでもなく諡号ではあるが面倒くさいからそのままで書く。
 
先ずは光孝天皇、宇多の父親である。「きみがため はるののにいでで わかなつむ わがころもでは ゆきはふりつつ
春の宮廷行事、薬草狩りでの歌であろうか。「きみ」は女性か男性かかもわからないが、若々しい春の息吹の歌である。
この父が天皇にならなかったら、まず宇多の出番はなかっただろう。
光孝自身は、仁明天皇という桓武の孫にあたる人の息子ではあるが、仁明の後は異母兄の文武から清和、次は陽成と、多少のさざ波はありつつも、父から子への帝位相続が続き、光孝は皇族といえども傍流になっていたのだろう。
しかし陽成帝の時、近臣が殴り殺されるという事件が起き、しかも犯人は天皇その人だという。実際のところ何がどうなったのかは不明だが、宮中は血に穢れ、まだ十代半ばの帝は茫然自失。退位は当然だっただろうが、後継者が決まらない。陽成には同母も異母も弟がいたが、その後援者たち間に確執があり、その確執から離れたところにいた時康親王が光孝天皇として即位することになったのだ。
ここに陽成の長い長い引退生活が始まる。
陽成の歌も百人一首にはある「つくばねの みねよりおつる みなのがわ こひぞつもりて ふちとなりぬる
 
光孝天皇は穏やかな性格を見込まれもし、即位に至ったらしい。事実自分の息子たちを皆、臣籍に下している。皇統は陽成の周りが継ぐべきものと考えていたのか。宇多天皇となる源定省も陽成帝に臣として出仕していたのだ。
しかし即位3年で光孝が危篤に陥った時、陽成退位時の確執はまだ収まっておらず、光孝の意向により息子の源定省が推されたとされる。臣籍降下後の皇族復帰、そして即位であった。
陽成退位時に嵯峨天皇の皇子で臣籍にあった源融は天皇候補として自薦したというが、関白基経にそんな例はないと一蹴される。わずか3年でそんな例ができたのだ。
 
かくて新しい天皇が即位したわけだが、基経は格別源定省と仲が良かったわけでもなく、関白として権力を維持できればよかったのだろう。直ぐに阿衡の紛議を起こし、宇多に実力を見せつけている。
しかし、基経が死ぬと、宇多は関白を定めず親政に乗り出す。基経を継いだ時平がまだ若いという幸運もあった。菅原道真を抜擢し、時平を押さえた。
宇多親政の頃を寛平の治という。国風文化の土台ができた時代だという。

宇多が親政をしていた時期に寛平御時后宮歌合が開かれた。宇多の母親の主催だったが宇多も関わったらしい。この時の歌人たち紀貫之・友則・在原業平・伊勢・藤原敏行・源宗于・壬生忠岑・素性法師・凡河内躬恒・文屋朝康など古今和歌集で知られる歌人たちが名を連ね、彼らはまた百人一首にも顔をそろえている。

宇多は即位後10年で、突如息子に位を譲る。醍醐天皇の誕生である。宇多の譲位の動機は、仏道修行を志したとかいうが、動機の一つにはなってもメインとは思えない。実は何かと窮屈な天皇暮らしが嫌になった、ということではなかったか。宇多天皇は幼くして東宮に立ち、満を持して即位したような天皇ではない。自由な暮らしも知っている。何かと反感を見せる陽成院系の人脈もうるさい。早く皇統を自分の血脈で固めてしまいたいという意図もあっただろう。もちろん醍醐の後見はするつもりだ。でも道真以下の人材もいる。それを使ってうまくやってね、ということではなかったか。
ただ上皇の権威でもって抑え込むのは、後の院政の時代とは違って難しかったようだ。院政期のように天皇は子供・幼児ではなく、院の政治への介入は限定的とならざるを得なかった。
 
だいたい平安時代の天皇というと、初期の桓武・平城・嵯峨と、末期の院政を敷いた白川・鳥羽・後白河は相当強烈な個性を発揮しているが、他は影が薄いのが多い。幼くして即位・大人の都合で退位して、では個性の発揮ようもないのだろう。宇多はその中では目立つ人物だっただろう。
全く期待されていなかったのに即位した、という点では後白河に似ているが、9世紀から10世紀にかけての宇多の時代は、後白河の12世紀後半、まさに平安時代の終わる激動期よりは余程ぬるかったであろう。
 
宇多の日記は寛平御記という。天皇や公家の日記の類は一義的には子孫へ有職故実を伝えること。いつどんな行事があり、どんな人が参加し、どういう風に行われたか、だが付随して時の世相や誰かの漏らした感想なども書き加えられ、それゆえ高い史料性を持つのだが、宇多は父親からもらった猫をかわいがり、その猫が今日は何をした、うちのネコちゃんはどんなにかわいい仕草をするか、というようなことを細かく書いているらしい。生まれた時代が違えば立派な猫ブロガーになったかもしれない。
色好みの風流人で、もちろん女も大好き。


妃の温子の下に伊勢と呼ばれる女がいた。中流以下の貴族の娘だが若く美しく賢かった。恋人は藤原仲平、基経の息子の一人である。摂関家の御曹司と恋仲になり夢中になったはいいが、あっさりと捨てられてしまう。
百人一首の「なにはがた みじかきあしのふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや」というのは、会ってもくれくなった仲平への恨み節だろうか。
そんな伊勢へ宇多は目をつける。子供も一人で来たようだが、伊勢は宇多の下も去り、別の恋をしたようだ。その相手が宇多の皇子の一人、敦慶親王というのは、現代の感覚では十分スキャンダルだが、当時はどうだったのだろう。 今昔物語に、伊勢に関する説話が二つある。巻第24巻本朝 延喜の御屏風に伊勢御息所和歌を詠む語、と、伊勢御息所幼き時和歌を詠む語、である。前者は醍醐帝が屏風に添える和歌を伊勢に頼む話である。和歌が足りなくなり、急遽、伊勢に頼んだのだ。伊勢は見事に歌を詠む。貫之・躬恒に劣らぬと云われる。後者は「幼き時」は「わかき時」と読むのか、仲平との恋物語である。
 
時平は自分の娘を醍醐帝へ入内させるつもりだった。美しい娘で褒子という。ところが宇多は彼女が気に入り「老い法師に給われ」と連れて行ってしまった。たいそう気に入り傍において可愛がったというが、法師にあるまじきとは思わなかったのだろう。そしておそらくはまだ十代であったろう娘としてはどうであったか。
この娘に果敢に言い寄った青年がいる。元良親王、かの陽成院の息子である。はじめは好奇心と嫌がらせを意図したのかもしれない。しかし意外に上手くいき、褒子の美しさにぼーっとなって破滅覚悟の密通を続けた。果たしてバレた。「事いできてのちに京極御息所(褒子)につかはしける」の詞書のある歌は「わびぬれば いまはたおなじなにはなる みをつくしてもあはむとぞおもふ」は元良親王のやけくそソングであろうか。
 
宇多は褒子を河原院というところへ住まわせ通った時期があった。密通の現場となったのは亭子院というところで河原院とは違うが今昔物語に面白い話がある。本朝世俗編 第27巻 第2 「川原院の融左大臣の霊を宇多院見給ふこと」である。
河原院は源融が作った鴨川沿いの五条・六条あたりに広大な庭を持つ善美を尽くした館だ。源融は鴨川の水を庭に引き、海水を持ってこさせて庭で塩を焼き、陸奥、塩釜の風光を模して楽しんだという。融の死後、膨大なメンテナンス費用に耐え兼ねて、子か孫かが河原院を宇多院に献上する。宇多は気に入り、度々訪れていたと見える。そんな折、夜中に正装の男が現れる。宇多院が誰何するとこの家の主だという。源融の幽霊と知り、この家はお前の子孫からもらったのだから今では私のものだと一喝する。源融の霊はかき消えた。源融は嵯峨帝の皇子だが臣籍降下した。臣籍から天皇になった宇多に一言いいたいことがあったのかもしれない。
河原院はその善美な様が伝わり、源氏物語の六条院のモデルになり、宇多院亡き後、荒れ果てた様は夕顔の死の舞台にも使われている。
源融の百人一首の歌は「みちのくの しのぶもじずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに
伊勢物語の初段「初冠」にこの歌を模した歌が出てくる。
 
さて、宇多の譲位を受け即位した醍醐帝だが、褒子の一件などは、息子としては堪らないものだったかもしれない。偉いご隠居(宇多)ではあるが、若旦那(醍醐)としては面白くない。独自路線も模索したいし、お目付け役の番頭(道真)も鬱陶しいい。つい気の合う手代(時平)の「あの番頭なんか怪しい」という言葉にうなづく。
かくて菅原道真は大宰府に追放されることになる。道真は宇多院に「きみしがらみとなりて われをとどめよ」などと泣きついているが、院にその力はなかった。
道真は大宰府に客死するが、その後、疫病の流行・時平の頓死・御所への落雷で死傷者が出たことなどが続き、道真の祟りが噂される。道真は天神様として北野に祀られていることは誰もが知る通りだ。
 
百人一首に採られている道真の歌は「このたびは ぬさもとりあへず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに
宇多院の紅葉狩りに随行し、奈良へでも行ったのだろうか。紅葉の山を幣(ぬさ)に見立てたのが「御趣向」といったところだが、どこかわざとらしく好きな歌ではない。
 
藤原時平の死後、権力は弟忠平へと移る。忠平は宇多院・醍醐双方ともうまくやっていたようだ。
忠平の歌は「おぐらやま みねのもみじば こころあらば いまひとたびの みゆきまたなむ」で貞信公の名で百人一首にある。
嵐山へ宇多院の紅葉狩りに随行したのだろうか、道真と似た場面でのヨイショ歌だろうが、こちらの方がまだ素直に読める。
 
醍醐の時代は次の次の村上天皇の治世と合わせて延喜・天暦の治とありがたがられ、南北朝の後醍醐天皇は自らの諡号を「後の醍醐」と指定したという。
しかし、藤原忠平の下には平将門が仕えていたことが知られる。東に将門・西に藤原純友が暴れる天慶の乱はすぐそこに迫っていた。
 

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「平家物語」の馬 井上黒

2022-02-11 | まとめ書き

戦に馬は付き物だ。馬達は武者を乗せ、戦場狭しと駆け回る。武者は防具に身を固め、弓を引き太刀を振り回す。替え馬も要る、夥しい馬が戦場へ引き出され、死んだことだろう。古墳時代中期、馬具が副葬品として大量に出土し始める。5世紀半ば以降、乱といえば馬は必要不可欠だった。伝令にも馬は走り、軍は馬とともに動いた。良馬を出す牧は産業として成立した。古代・中世・近世を通じ、いや昭和の戦争の時も、馬牧には頭数が割り振られ、戦場へ送る馬が出さされた。日本生まれの馬は満州の厳しい気候に耐え切れず、ことごとく死んでいったという。

平家物語も「軍記もの」の一つだから当然合戦が多く、馬もどっさり出てくるが、名のある馬は稀で、有名なのは宇治川の先陣争いをしたイケヅキ・スルスミだろうが、出身地や行方まで書いてあるのは井上黒という平知盛の乗った馬だけだ。(岩波文庫ワイド版)

平家物語第9巻の一の谷の合戦は平家の惨敗に終わり、名立たる強者、御曹司も討たれ、生け捕られあるいは、沖の助け舟目指して落ちていく。敦盛が死ぬ哀切な章の次が「知章最期」でここに井上黒のことが書かれる。

新中納言知盛は生田の杜の合戦の指揮をしていたが、戦敗れ、息子知章と侍一人の3騎となって落ちている。そこへ武蔵七党の児玉党の10数騎が押し寄せてくる。知章と侍が奮戦、児玉党を防いでいる間に、知盛は船に向かう。知盛は「究境」の名馬に乗っている。知盛は馬を泳がし、沖へ向かう。「海のおもて二十余町およがせて」とあるのだが、註に2キロ程とある。馬はは泳ぐとは言うけれど、鎧武者を乗せた馬がそんなに泳げるものなのか。それどころか、この馬は乗船した知盛との別れを厭い、船に慕って沖へついてくる。ついに諦め、岸へ戻る。往復5キロは泳いだのだろうか。

この後の藤戸の戦いで、佐々木盛綱が藤戸から児島へ海を渡ったというけれど、漁師に教えてもらった浅瀬で、所々馬の背の立つところのある場所を十余町渡ったのである。あろうことか、盛綱は浅瀬の秘密を味方に隠すため漁師を殺しさえしている。だが、頼朝は「昔から川を馬で渡る者はいたが、海を渡ったためしは我朝希代」と褒め上げ、佐々木に児島を与えた。

井上黒はやはり並の馬ではなかったということだろうか。
知盛が馬と共に乗船できなかったのは、船の中は逃げ込んだ人でいっぱいだったからだ。止む無く馬を岸に返そうとする知盛だが、阿波民部重能は、こんな立派な馬を敵に渡すくらいなら射殺そう、というのだが、知盛は止める。
漸く岸に着いた馬は、船の方を振り返って嘶く。その後休んでいるところを河越小太郎重房に捕らえられる。河越は後白河院に献上した。
もともと院の厩で最も大切な馬とされた馬であった。平宗盛が内大臣になった時、後白河から宗盛に渡された引き出物だった。これを知盛が気に入り預かった。知盛はこの馬を大事にし、馬の延命祈願を月ごとに行っていたくらいだった。馬は信州の井上の産で井上黒と呼ばれた。後には河越が献上したから河越黒とも呼ばれた。

長野県須崎市に井上という地名がある。井上黒はこの辺りの出身であるのか。牧があったのだろう。放牧主体で、傾斜地を走り回って育ったのだろう。おそらく二歳馬で京へ連れられたのだろう。その頃から、これは、と思われるようなたくましく賢い馬だったのだろう。
井上牧という官牧はないが誰か有力者の献上だったのだろうか。井上は、源頼信の子で頼義の弟頼季が信濃に領地を得、名字として井上頼季を名乗ったところだそうである。
横田河原の合戦で、木曽義仲と共に戦った井上光盛という武者がいる。彼はその一族だろうか。
平家物語第6巻「横田河原合戦」「信濃源氏井上九郎光盛がはかりごとに、にわかに赤旗を七ながれを作り、3000余騎を7手に分かち・・・・・次第に近こうなりければ、合図を定めて七手が一つになり、一度に時をどっとぞ作ける。用意したる白旗をざっと差し上げたり」佐伯真一「戦場の精神史」に卑怯とされなかっただまし討ちの例に上がっている。


平宗盛が内大臣になったのは、寿永1年10月(1182)であった。一の谷は寿永3年2月(1184)である。井上黒が院の御厩にいたのがどれくらいかわからないが、海を泳いだこの時、5・6歳以上にはなっていたのだろうか。競走馬の最盛期は4・5歳だという、ただそれは競走馬としての話で円熟は別かもしれない。井上黒の一の谷の馬齢は人間に例えれば、平家物語で活躍する人間がそうであった30歳前後に比定されるものだったのではないだろうか。

その後はどうなったのだろう?院の御厩からまた別の誰かに下賜されたのか。

知盛は持病があり、癲癇持ちではなかったか言われるから実際の活躍の場は制限されたものであったかもしれない。しかし物語の中の彼は、将にヒーローの一人だ。兄宗盛が武将として頼りなさすぎる所為もあるが、事実上平家を引っ張る総大将だ。
泣かせる名台詞も多い。
都落ちに際し、畠山・小山・宇都宮の面々が動向を申し出たのに「汝らが魂は、皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国に召し具す用なし」
一の谷の後、阿波民部重能には「何の物にもなれ、わが命を助けたらんものを。あるべうもなし。」
この阿波民部重能は壇ノ浦で最終的に平家を裏切っている。重能には重能の事情もあるのだが。
助け船の中で、宗盛に対し、息子と侍を見捨て一人逃げ、助かった心情を吐露している。「いかなる親なれば、子の討たるるを助けずして、かやうにのがれ参って候らんと・・・・」
そして極めつけ、壇ノ浦の最期、「見るべきものは見つ」
この物語のヒーロー知盛だからこそ一年半に満たぬ間に、井上黒と揺ぎ無き信頼の物語が紡がれる。

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城下町福井

2022-01-26 | まとめ書き

福井市街地は1945年の戦災、1948年の大震災で破壊されつくし、それ以前の面影を残すところは多くはない。

城下町の面影を残すと言ったらやはり城址であろうか。
*石垣 堀は内堀で内堀以外は埋め立てられた。
石垣の中にあるのは県庁・県警といった建物だから普段行きたくなるところではない。だがお殿様やらお役人様のいたお城など、昔から庶民とは縁のないところだったのだろう。
石垣は1980年代前半に修復された。震災で崩れ、それまで放置状態だった。

藩主の別邸だったという養浩館(お泉水屋敷)庭園も修復されたのはその頃だろう。

それまで築地が破れ、庭は荒れ放題、水は淀み、ザリガニがたくさんいた。
 修復されてみればなかなかいい庭だった。コンパクトな中に趣あり、街中であることも忘れられるようなところだ。建物が池に大きく乗り出すように作られているので、涼やかだ。

石垣や庭園だけでなく、あちこちの門や橋も復元され、案内板の設置も進んでいる。
 復元された御廊下橋
橋を渡って左の石垣内との間が山里口御門でこれも復元されている。

 堀脇の案内板の一つ

*舎人門は復元されている。外堀と城下の間の門だが、現在舎人門の南に郷土歴史博物館が建つ。東に養浩館がある。
加賀口門と桜木門は案内板だけだ。
*加賀口門は北陸道の城下への北の出入り口だ。
 桜木門案内板はアオッサという建物の東側にある。この建物内の桜木図書館はこの門の名に因んでいる。

城下の飲料水を賄うため整備された芝原用水(福井市NHK前通、国際交流館前付近)↓



福井の城下の基本設計は柴田勝家の北の庄の街作りにあることは知られているが、北の庄がいきなり松平家の城下となったわけではない。

 北の庄城址(柴田神社)

勝家滅亡後は丹羽家、次いで堀秀政、堀秀政死後は子へと渡ったが、その後、小早川氏、青木氏が領したという。彼らは越前全体どころか勝家の領地だったところ全部を領したというわけでもないようだ。越前国内に領地を持った武将で有名どころでは、敦賀の大谷刑部、大野の金森長近、府中の堀尾可晴などがいる。
彼らの痕跡を見つけるのは容易ではないが、堀秀政の墓は福井市街地にある。フェニックス通を南下、足羽川を渡り、しばらく行くと長慶寺という寺がある。墓はここにある。
 長慶寺門 福井市西木田2丁目 フェニックス通西側
 堀秀政墓

関が原合戦を経て、結城秀康が北の庄へ入る。以後北の庄は越前松平氏の城下町として存続することになる。
結城秀康は家康の次男として生まれるが、なかなか父子の対面もなされず、兄信康のとりなしで漸く対面がかなったという。人質同様に秀吉のもとへ養子に入り、秀吉が男児を得て後は結城家へ養子に出される。家康の跡は三男秀忠が取る。なかなかの生い立ちであるが、武将としての器量は一流であったという。
 福井城石垣の中、県庁前にある秀康像。石造という材料の制約からか、秀康の脚や胴に埴輪のような硬さがある一方、馬には動きが見られ、どこかアンバランスな印象がある。
秀康の福井城は、勝家の北の庄城を大幅に改築したものだという。
*本丸復元図

*天守図

秀康の墓は足羽山下の運正寺にある。

秀康が34歳で死ぬと、わずか13才の忠直が越前68万石を引き継ぐ。菊池寛の「忠直卿行状記」でめちゃくちゃの暴君と描かれた忠直である。決して馬鹿ではなかったと思うが、家康の孫という意識が強すぎ、驕慢な言動があった。まさか本当に妊婦の腹を裂いて喜んだとも思われないが、越前騒動で家臣団を抑えられず、江戸幕府に付け込まれる隙があった。隠居を命じられ、大分に配流となった。北の庄へは忠直弟の忠昌が越後国高田移封した。忠直長男は高田藩へ移ったが、その子孫は美作津山へ移動している。
この忠直が福井にいたころ、一人の天才画家が畿内から福井へ移住した。卓越した技量を持ち「奇想」を描き、また浮世絵の祖と言われる岩佐又兵衛勝以(かつもち)である。信長に反抗した有岡城主荒木村重の遺児である。信長に攻められ籠城、村重自身は城から脱出したが、一族皆殺しの憂き目にあう。又兵衛は乳飲み子で乳母の機転で脱出したという。40代からの約20年を福井で過ごした。スポンサーであった可能性の高い忠直のもとには複数の又兵衛の絵があって不思議はないが、配流を経て散逸したのであろうか。
又兵衛の墓は福井市松本3丁目の興宗寺にある。又兵衛は江戸で死んだが、遺言により墓は福井にある。
*又兵衛墓、ただし移築されているらしい。

又兵衛の代表作とされる「洛中洛外図屏風(舟木本)」「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」などの顔料は大変高価なもののようである。また製作は工房を前提としているだろう。画家の移住と言っても会社の移転にも等しいものだっただろう。絵具・絵筆・画布・表装・・・そうしたものの入手・手配が困難であれば移転はかなわなかったろう。

古くから商工業が栄えたためか、老舗と呼ばれる店も多い。
これは2018年に福井県が作成した創業150年以上の老舗マップの一部である。

老舗チラシ.pdf (fukui150.jp) ←元のPDFファイルへ

ただ一部の例外を除くと江戸時代でも末期になってから以降のものが多い。しかし、幕末・維新を乗り越え、更に昭和の大戦・敗戦を乗り越えてきた老舗には敬意を払う。

幕末期の福井藩では、藩主松平春嶽(慶永)が幕政改革の道を探り、伊達宗城(宇和島)・山内容堂(土佐)・島津斉彬(薩摩)と共に幕末の四賢侯と呼ばれた。幕政改革に乗り出す以前に、藩政改革として優秀な若手の登用に努め、横井小南を招聘したりしている。
この頃活躍した人達に、鈴木主税・中根雪江・橋本左内・由利公正などがいる。

 橋本左内住居跡は福井市春山2丁目にある。左内は春嶽の懐刀と言われた俊英だが、安政の大獄で死んだ。

坂本竜馬ゆかりの地などもあるがそれはまた別の話だろう。

幕末を生きた福井人で二人取り上げておく。

笠原白翁(良策)、彼は町医者である。藩医ではない。父も町医者であった。はじめ漢方を学んだ。江戸に遊学もして福井市木田で開業。その後蘭方を知り、京都でも学ぶ。天然痘の予防として牛痘を知り、藩主松平春嶽に入手を願う。最初の上申から4年後、長崎から京都に入った痘苗を福井へ持ってくる。当時は痘苗は人から人へと種痘を繰り返すのが最も安全な方法で、白翁は種痘した子供を連れていた。ルートは栃木峠越えであった。おりしも冬に向かい、峠道は雪に閉ざされていたという。一歩間違えれば全員遭難して無謀の誹りを免れなかったであろう峠越えを決行した一行は何とか福井城下にたどり着く。しかし、彼の困難はここで終わりではなかった。藩医たち(当然漢方中心)が民衆の無知をあおる形で、種痘を貶めた。笠原は必死で藩に嘆願する。松平春嶽はそれに応じた。そこにはコロナ禍の医系技官に爪の垢を煎じて飲ませたいほどの笠原の気迫があったのだろう。種痘、すなわちワクチンの接種であり、ワクチンは漢語で白神となり、白翁の名は白神に由来する。白翁は接種した一人一人にカルテのようなものを詳細に書いているらしい。彼は科学者であった。

  

笠原白翁とも親交があった橘曙覧は歌人である。1994年クリントン大統領が曙覧の歌を引用し、特に知られるようになった。山上憶良を彷彿させるような歌も詠むが、留学生で基本エリート官僚だった憶良よりはるかに年季の入った貧乏人であった。生家は商家だが嫌気を指して弟に譲る。趣味に生きたような曙覧も妻子とともにともかく生きることができたのだった。寺小屋の月謝、門弟の謝礼で細々と暮らす曙覧を春嶽は召し出そうとするが拒絶している。陋屋を黄金屋と称する諧謔を生きた。楽しみは・・で始まる「独楽吟」が知られる。クリントンが言及したのもこれである。
*愛宕坂 足羽山の登り口の一つ。途中に黄金屋の跡と共に記念館もある。


*曙覧生家跡 福井市つくも1丁目

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義朝敗残行

2020-11-22 | まとめ書き

平治元(1156)年12月27日、源義朝は京都から敗走する。その敗走経路を平治物語に沿ってみて行く。

内裏を守り、攻め寄せる敵方と互角に遣り合ったはずだった。しかし、内裏にはすでに守るべき帝も院もいなかった。3年前の保元の乱で、官軍として戦える喜びを臆面もなく披露していた義朝だ、そして東国で散々やってきた戦法がここでも通用することに自信を深めていたに違いない義朝だったが、知らぬ間に官軍から賊軍に替わっていた衝撃は大きかっただろう。自身の忠誠心というよりは、味方を繋ぎ留めれない、という焦りではなかったか。事実、ここまで行動を共にしてきたはずの美濃源氏・摂津源氏は相次いで義朝に敵対する。互角だったはずの内裏を守る戦いから、引きずり出される格好で、鴨川河原から六波羅ときてみれば義朝の周りに残ったのは身内と東国からきていた武者たちのみだった。
12月9日未明に敢行したクーデターは成功したはずだった。畿内最大の武力平清盛は熊野詣に行って留守である。東国の兵を動かすことはできなかったが、畿内にいた与党を結集し、後白河のいる三条殿を急襲した。二条帝と院を確保した。ここに後白河乳母夫信西の専横を是としない二条親政派と共に、藤原信頼を首班とする政権が樹立されたはずだった。
だが、平清盛の帰京、二条親政派の裏切りで、あっさり信頼政権は瓦解する。その間わずか20日に満たない。
義朝はこうした動きを理解しえただろうか。東国の土地を巡る自力救済、それが長く彼の知る世界だった。頼朝の母となった熱田神宮宮司の娘との婚姻が彼にとっての京都デビューだった。この縁は次男朝長の叔父波多野義通との不仲になろうとも繋がなければならないものだった。保元の乱で確かに義朝は源氏の棟梁としての地位を確立した。しかしそれは、父為義が摂関家の武力だったのと同じように、信頼の武力になった、というだけの事ではなかったか。信頼と義朝の関係は深い。奥州の物資を得るために、東国武蔵の実効支配を得るために、信頼との協調は不可欠だったが、協調というより、義朝は信頼に従ったのだ。平治物語の信頼を殴りつける義朝は、仮にあったとしても、この関係の最終段階だ。信頼を通じてしてしか政局を見てこなかった義朝にしてみれば、三条殿夜襲こそが出番であり、その後の事は預知らぬことだっただろう。信頼の異母兄基成は陸奥の国司だ。遙任ではなく長く現地に暮らし、藤原秀衡に娘を嫁がせてもいる。信頼は武蔵国も握っている。だからこそ邪魔な異母弟義賢(義仲父)を排除できた。義朝にとって、信頼はなんと信頼できる親分だったことだろう。
とはいえ、別の見方もある、これを後白河に拠る信西排斥と見ることもできるようだ。信西は後白河乳母夫であるが、二条親政を志向していた。二条への譲位が仏二人(美福門院・信西)の合意であったことに、後白河には大いに不満であり、信頼を利用し、院政の継続を狙っていたというものだ。平治の乱、後白河黒幕説とでもいうのだろうか。(礒貝富士雄「武家政権成立史」河内祥輔説紹介)

話を義朝に戻すと、義朝は京都を脱出しなければならない。目指すは東国、相模の鎌倉の館(たち)だろうか。

近世になってからの言い方で確定もしていないらしいが、京都七口というものがある。京都へ出入りする代表的街道の入口だ。
ウィキペディアから
この図の五条口は渋谷街道になるだろう。伏見に行くようになっているのは豊臣秀吉が伏見街道を開いたからだ。通常東国へ向かうとしたら、この渋谷街道か粟田口を通り山科に出るルートだろう。20年を超える後に以仁王が園城寺に行くのに使ったのは荒神口だ。如意越えという。
義朝はこの三つのルートは使わず、更に北へ向かっている。
六波羅の戦いで平治物語は源氏の武者の勇敢さを語るが、負けは負け、衆寡敵せず北へと逃げるしかない。
「義朝は、相従ひし兵ども、方々へ落ち行て小勢となりて、叡山西坂本を過ぎて、小原の方へと落ち行ける。」

 角川ソフィア文庫「平治物語」挿図

西坂本は現代の地図では探せない。比叡山ドライブウエイの起点となる銀閣寺の辺りかと思うが、角川ソフィア文庫「平治物語」の地図ではむしろ宝ヶ池付近に見える。彼らは比叡山には向かわず、大原、八瀬へ向かう。
出町柳から叡電が出ているが、それに沿うように高野川沿いをさかのぼり八瀬に行ったのだろうか。
八瀬には叡山西塔の法師が手ぐすね引いて待ち構える。
斎藤実盛が機転を利かせ、兜を投げ捨て、法師どもが取り合ううちに馬に鞭を入れる。義朝一行さっとこの場を抜けていく。

更に北で、信頼と出会う、が、これは物語だ。いくら何でも信頼一人こんな山中をまごまごしていないだろう。成親と共々さっさと仁和寺に駆け込んでいる。
次いで義朝弟信太先生義範(義広)と十郎義盛(行家)が別行動を申し出る。しかしこれもこの二人が平治の乱に参戦していたことは平治物語以外の記録はない。二人が何の咎も受けていないことから不参加だったろう(by元木泰雄氏等)

さてこの道はずっと北へ行くと、大原を過ぎて、朽木、熊川を通る鯖街道で、若狭の小浜へ通じるのだが、義朝一行はそちらに向かわず堅田に降りる。
龍華越え、別名途中越え、というそうだ。367号線を北上すると途中トンネルというものがある。トンネルを過ぎるとすぐ道は分かれ、477号線で南東に下っていく。
この龍華越えで義朝達は今度は叡山横川の法師どもにも襲われる。後藤兵衛尉実基の奮戦でここも駆け抜ける。
しかし義朝叔父の義隆が討ち死にする。義隆は義家の末子だろうか、義朝の父為義の父は義親だが、為義は義家の養子となっているから叔父というわけだ。更に次男朝長も足に矢傷を負っていた。

どうもよくわからないのは、この道を来て北陸へ抜けず、瀬田へ戻ることだ。越前斎藤氏出身の実盛もいたことだし、と思うのだがどうだったのだろう。一応北陸へ向かわない理由は述べている。「北陸道へ赴かば、この事を聞きて都に馳せ上る勢、多からん。・・・・・東坂本へかからば、たとひ人怪しむとも、洛中の騒動により馳せ上る由を言はば、仔細あらじ。」
しかし、この後、義朝は長男義平に単身甲斐信濃を攻略するように命ずるのだ。義平は美濃から越前に入る。足羽まで来て兵を集めていたという。この兵は義朝が殺されたという情報を聞いて霧散したという。いかに勇名高き悪源太と云えども10代の冠者には限界があったのだろう。だが、義朝本人だったらどうだったろうか。
同時に齊藤実盛についても一考を要する。越前には実盛生誕の地とか、産湯の池とか伝承地がいくつかある。しかしそれらの伝承も、もしかしたら、平家物語で実盛が語られたことによって実体化したものであるかもしれないのだ。猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇などという鵺の存在を認める人は稀だろう。しかし鵺退治にかかわる「遺跡」は実際にあるのだ。実盛は河合斎藤氏の出であることは違いないにしても、いわばあぶれ者、武蔵に行かねばならなかった事情を持った者かもしれない。わが故郷として主君ごと受け入れられる自信が実盛にはなかったかもしれないのだ。

義朝一行を堅田から瀬田までは咎めるものもなかった。瀬田橋は橋桁が落としてあったものか、通れず船で渡る。舟を調達でき、すんなり渡れている。何故瀬田を守る官軍・見張りさえいなかったのかと思うが、そうだったのだろう。ここまで、義朝達はむしろ幸運だった、と言えるのだろう。
西近江の東坂本、戸津(下坂本)、唐崎、志賀の浦、瀬田で舟に乗り瀬田川を渡り、野路、三上山麓、鏡山、愛知川、この辺りは義朝もよく知る街道なのだろう。愛知川手前で頼朝は最初の脱落をする。平賀義信が探しに行って合流する。
不破の関が通れまいと伊吹山麓を回る。

 ここで頼朝再度の脱落。13歳の少年である、小学校6年生か中学1年、確かに元服もしている、上西門院蔵人として職に就き出仕もしているが、朝から馬上で着慣れぬ甲冑姿、疲労困憊も無理はない。だが、この脱落は誠に幸運であったのだ。頼朝はない命を拾う。一方頼朝の幸運の逆をいった不運が朝長を襲う。龍華越えで受けた矢傷は適切な治療が受けられれば大事には至らぬものであったかもしれない。しかし「龍華越のいくさに膝の節を射させて、遠路を馳せすぎ、深き雪を徒歩にて分けさせ給ひし程に、腫れ損じて一足も働かせ給ふべきようなし。」朝長は殺してくれと父義朝に首を差し出すのだ。

美濃青墓の宿は義朝の馴染だ。

この宿の長者大炊の娘と義朝との間に娘もいる。大炊の姉は為義と懇ろで、3人の男児がいたが、保元の乱後、義朝はこの男児らも殺したと保元物語にはある。義朝乳母子の鎌田正清も延寿という今様歌いが馴染だったらしい。この延寿、梁塵秘抄にも見え後白河と知り合いだったというのは、角川ソフィア文庫「平治物語」の註である。延寿を義朝の相手とするものもある。
大炊のもてなしにほっとしたのもつかの間、落人がいる!と騒ぎになり、押し寄せる敵に佐部式部太夫重成というものが義朝の身代わりとなる。この人は美濃源氏らしいがよくわからない。

翌朝、自ら殺した朝長の処理を大炊に託し、義朝は出立する。大炊はさぞ困っただろうが、丁重に弔う。しかし、墓は掘り返され、朝長の首は平家に渡されたという。その後大炊の菩提寺に葬られる。

義朝は杭瀬川で舟に乗る。ここで上総介広常が分かれる。上総曹司と呼ばれた義朝だ、広常とは昵懇だったはずだ。のちに広常は石橋山で敗れた頼朝に大いに寄与するが、「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」(愚管抄)などの発言から、頼朝に謀殺される。もしこの発言が本当なら、広常は朝廷もしくはその周りに翻弄された義朝を見ていたせいではないだろうか。佐竹等と問題を抱える広常はそっちの解決が先遣問題と思っていたろうが、また、朝廷の事に関わってはロクなことはないと思い定めてはいなかったろうか。

  杭瀬川
杭瀬川の船頭、舟法師は鷲巣源光、義朝を怪しげに見て隠れさせて関を通る。杭瀬川を出て揖斐川に合流、伊勢湾に出て知多半島の内海に着く。鷲巣源光は養老寺の僧とあるが、平治物語の注記によれば、大炊の兄弟であるらしい。たまたま通りかかった舟に乗ったというよりは大炊の手配によるものだろう。
この時の義朝の風体、「馬ニモノラエズ、カチハダシ」(愚管抄) 雪の伊吹山麓で馬は捨てた。青墓でも落ち着けず、まさに落ち武者の風体。一行はさらに減って、平治物語では、鎌田正清・渋谷金光丸・鷲巣源光くらいしか数えられない。齊藤実盛も分かれたのだろう。頼った先は内海長田荘司忠致、鎌田正清の舅であるが、このありさまに、再起はできそうもない、と踏んだのだろう。とりあえずは湯殿でごゆるりと、と案内する。

 湯殿跡


時は平治元年12月29日、暮れも押し迫った大晦日の前日、御所での戦が始まり六波羅で戦った27日からここまでほぼ不眠不休であったであろう、青墓の宿では仮眠は取れたかもしれないが、憔悴しきって内海に着いたであろう義朝にはありがたい湯であったはずだ。
長田を完全に信頼しっ切っていたかといえばそうでもなかろうが、何か考えるにも疲れ切っていたのだろう。長男義平は別ルートへ行かせた。次男朝長は死んだ。三男頼朝ははぐれ敵に捕まったかと思われる。

湯殿で襲撃され、「鎌田はおるか!」と叫んだ、と伝えるのは平治物語だ。「我れに木太刀の一本なりともあれば」という伝承もあるらしい。野間大坊の義朝の墓には木刀を供える習慣があるらしい。木刀と云っても小さな経木のような代物で、何十本あったところで武器にはなるまいと思われるものだが500円で売っている。
 義朝墓
一方愚管抄によれば、湯を勧められた時点で、「謀反」を察知し自死したという。
鎌田も死に、鎌田の妻(長田の娘)も自害した。その墓も野間にある。

湯殿近くに「乱橋の跡」というのがある。義朝の郎党と長田の郎党が合戦したところだという。案内板には鷲栖玄光と金光丸の名がある。

乱橋案内板
玄光は源光に同じだろう。彼のその後はわからないが、平治物語では、平治2年正月5日金光丸は京都で常盤に義朝の死を報告している。義朝が京都で梟首されるのは1月9日の事である。

野間大坊こと鶴林山大御堂寺は古い由緒を掲げてはいるが、

 実際には平康頼が義朝を供養したてた堂が起源らしい。康頼は平頼盛の息子保盛に仕え、保盛が尾張を領した時一緒に来たらしい。美男で美声だったとされる康頼は後白河にすっかり気に入られる。鹿が谷の陰謀事件に関わり、俊寛・成経と共に鬼界が島に流される。許されたのちは僧として、「宝物集」という仏教説話を書いている。墓は大徳寺にある

義朝の墓は鎌倉にもある。

頼朝が父の菩提を弔うため勝長寿院という大寺を建てた。「大御堂」とも呼ばれ、現在も地名は残って入るが、寺そのものは再三火災にあい、再建されず、今は碑のみがある。鎌田の墓もある。

 この寺はいつまで威容を誇れたものなのか。
義朝のしゃれこうべとされるものは、平家物語で2度文覚により頼朝にもたらされる。1回目は平家物語第5巻「伊豆院宣」でこの話自体奇怪なものだが、文覚は懐から義朝の頭骨なるものを出して頼朝に「謀反」を勧めるのである。2回目は第12巻「紺掻之沙汰」である。元暦2年(1185)7月、既に平家は壇ノ浦に滅び、捕虜となった宗盛達の処分も終わった。文覚は義朝の頭骨を首にかけ、弟子に鎌田の骨を掛けさせ鎌倉へと下向する。文覚は実にしれっと前のは偽首だったと言い、頼朝は文句も言わず、仰々しく新たなしゃれこうべを受け取り、勝長寿院を建てるのだった。

長田忠致は平致頼の末裔だそうだ。致頼は平家物語第6巻「廻文」で颯爽とデビューする木曽義仲が、いにしえのヒーローたちにも勝るとも劣らぬものだと語られる時、ヒーローとして挙げられる坂上田村麻呂以下の武人たちの中にいる。伊勢平氏の祖は平維衡であり、致頼のまた従兄弟に当たる。維衡は伊勢平氏の名を挙げる正盛の曾祖父である。致頼は維衡より早く伊勢にいたらしい。致頼は伊勢の北方に勢力を張り、維衡はこれより南だったらしいが、彼らは衝突し、両方とも誅せられるのは今昔物語にもある。致頼は摂関家にも食い入っていたらしい。(高橋昌明「清盛以前」)さらに致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」と称せられた武人と目されていた。
治承4年(1180)頼朝の動向を密告する駿河の長田入道という人物が吾妻鑑に見えるらしい。長田忠致の事とする人もいるようだが不明らしい(元木泰雄「保元平治の乱を読み直す」)

コメント

以仁王をめぐって

2020-10-22 | まとめ書き

以仁王は後白河の第3皇子である。兄守覚法親王が出家のため第2皇子とされることもある。他に同母の姉妹式子と亮子がいる。さらにもう一人妹休子もいる。この妹は後白河天皇即位後に生まれている。新古今の歌人として知られる式子内親王、百人一首の「たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする 」を知る人は多いだろう、亮子内親王は殷富門院と呼ばれる。殷富門院大輔と云う人の「みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず」が百人一首に採られているが、これは殷富門院に仕えた女房の歌。
後白河の長男守仁親王(二条)は幼くして後白河の父後鳥羽の愛妃美福門院に引き取られて育つ。守仁の母は若くして死んだ。
以仁王兄弟姉妹の母は藤原季成女、待賢門院の姪である。家柄も悪くなく、女色のみならず男色関係にも乱脈な後白河相手に5人も子を生したのだから、かなり安定した関係だったことになるだろう。
以仁王は幼少時に比叡山に入る。しかし師とした最雲法親王は以仁王11歳で死んでしまう。以仁王は還俗し元服するのだが、何故寺に残れなかったかはわからない。本人の意思か別の事情があったものか。最雲法親王は天台座主だ。兄守覚法親王は仁和寺座主覚性法親王(後白河弟)を師とし仁和寺座主を継いでいる。最雲法親王が死ななかったら以仁王にも天台座主になる未来があったかもしれない。因みに、仁和寺の座主たちは平家物語第7巻「経正都落」「青山の沙汰」に登場する。経正は覚性法親王に可愛がられ、琵琶の名器「青山」を預けられ、守覚法親王にそれを返し都落ちするのである。
以仁王は最雲法親王から城興寺という寺の領地を譲られていた。比叡山延暦寺はもともと寺領なので還俗により寺に返すべきだとしたのに対し、以仁王は最雲法親王より個人的に譲られた資産だと言って譲らず、事実上以仁王の資産とされていたようである。これが後々問題となる。現在京都の東九条烏丸町に城興寺という寺はあるが、この寺の寺領であるかは知らない。
以仁王は、生来学問好きで聡明、という評価があるが、意地悪く言うと、宮廷内に希望は見えず、宗教にも逃げれず、他にすることがなかったのではあるまいか。
女性関係も当然あったろうが北陸の宮と呼ばれる長男の母親も八条院の女房の一人らしいが、つまびらかではないようだ。重要なのは八条院寵臣三位局との関係だった。
八条院暲子は鳥羽と美福門院の愛娘であり、二人から膨大な荘園を受け継ぎ、この時代に特異な位置取りをしていた。近衛の実姉であり、近衛の死後女帝としての即位が検討されたという。のみならず二条とは実の姉弟のように育ち、二条親政のバックアップをした。
八条院のお気に入りの女官三位局との関係から、以仁王が八条院の猶子となり家族同様の扱いを受けるとあっては、後白河も清盛も神経質にならざるを得ない。
後白河にとって二条は実子でありながら美福門院に取り込まれ、自らの院政を否定されたとのうらみがある。既に成人に達した息子は脅威でしかなく、以仁王は二条の再来のように思えただろう。清盛にとっては、高倉に入内した娘徳子に皇子が生まれる前に帝位候補が出来ては困るのである。以仁王は親王宣旨もなく、つまり皇太子候補に入れないスタンスで放置されていたらしい。平家物語は建春門院の妬みにより、と書くが、この辺りは後白河と清盛の利害が一致していたのだろう。
安元2年(1176)建春門院滋子が死ぬ。清盛と後白河の間を取り持ってきた気配り上手の女性の死に彼らの関係も変化せざるを得ない。
安元2年のうちに、後白河は自身のより幼い息子二人を高倉の養子にしてしまう。
この時、1161(応保1年)生まれの高倉は16歳、そろそろ親政を志向してもおかしくない歳になっていた。二人の皇子、道法法親王・承仁法親王はそれぞれ1166年と1169年の生まれである。後白河は院政の継続のため、高倉からより幼い皇子への天皇の差し替えを考えていたのだろうが、もとより平家は飲めるわけの無い話である。
以仁王は1151年生まれで高倉より10歳年長である。

安元3年の白山事件から山門の強訴の処置、後白河はなかなか強気で、平家に比叡山討伐を命じたりしている。
しかし、ここで一気に形勢逆転する。鹿が谷陰謀事件の発覚である。激怒した清盛は後白河近臣たちを一掃しする。

治承2年(1178)高倉と中宮徳子の間に待望の皇子が誕生する。この赤ん坊が天皇になれば、高倉が院政を敷ける。もはや後白河は不要である。更に後白河が重衡と盛子(清盛娘、故摂政基実室)の死に乗じ、平家支配の所領を奪ったことから、清盛は治承3年の政変と呼ばれるクーデターを断行する。後白河への遠慮も不要となった今こそ、後白河を幽閉し、院政を停止する。
高倉は退位し、幼帝安徳の即位、後白河は鳥羽殿に軟禁中の身の上だ。
とばっちりは以仁王の所へも来る。最雲法親王か譲られたとして領していた城興寺の荘園を巡る比叡山との争いに、清盛は比叡山の言い分を正しいという裁定を下したのだ。

以仁王は本気で天皇になりたい、政治を動かしてみたいと云う野心をずっと持ち続けていたとは思われない。確かに後白河の皇子ではあるけれどずっと年の離れた高倉が帝位にあり、次の候補も更に年下の弟たちだ。平穏に暮らしていければそれでいい、と云った心境ではなかったろうか。
けれど所領の問題は深刻だ。平家許すまじ!という心境にもなるだろう。そこを煽る者がいてのクーデター計画だったのだろうか。しかし源頼政を煽動者だとは思わない。平家物語では頼政は以仁王を密かに訪ね、各地の源氏をいちいち挙げて決起を促す。しかし頼政が平家に「謀反」する理由はなく、現在多くの史家は頼政巻込まれ説のようである。人相見の煽りはあったかもしれないが、本当の煽動者は八条院周りの反平家、園城寺の坊主、そして後白河その人、を疑う。後白河は確かに幽閉されているのだけれど、ここには紀伊二位(信西の妻)が付き添い、静憲が出入りしている。静憲は平治の乱で死んだ信西の息子で父ほどの切れ者ではなかったというが、鹿が谷事件にも関係しており油断ならない。私はこの人を連絡係に擬してみたい。かつて清盛に恥も外聞もなく泣きつき、二条親政派の公卿、経宗・惟方の二人を捕縛させている後白河の事だ、また泣き落とし戦術でクーデターを促したとしても驚かない。幽閉中の後白河院に手駒はほとんどない。長年放って置いた三男を思い出したのか、案外父親からの優しい手紙の一通がきっかけになったかもしれないのだ。平家追討の暁には以仁王を帝位に、と云えば八条院も動いたのかもしれない。かくて八条院に近い頼政も巻き込まれる。
「鼬の沙汰」では鳥羽殿で鼬が騒ぎ、後白河は陰陽師に占わせる。「三日のうちに御喜びと御嘆きがある」と卦が出る。鳥羽殿を出て洛中に帰れたのが喜び、高倉宮の謀反発覚がお嘆き、ということになっている。占いにかこつけてはいるが、あらかじめ知っていたこととも見える。
このクーデターは計画自体の初期状態であったのかあっさり平家に露見してしまう。頼政サイドからの露見でないことは確実だ。平家物語では、熊野の湛増が源行家の不穏な動きを察知して飛脚で知らせたことになっている。
このトラブルメーカー行家を推挙し八条院蔵人にしたのは頼政だという。行家は以仁王令旨の広報係として飛び回るのだが、頼政にしてとんだ目すりをしたものだ。八条院蔵人というなら仲家がいたではないか。仲家は頼政と共に平等院で戦い、死んでしまうのだが、厄介叔父行家の代わりに兄貴が生きていてくれたら義仲にとってどんなによかった事だろう。

平家はなんと以仁王の捕縛を頼政に命じている。頼政は以仁王に急報する。

以仁王は京都の三条高倉殿に住まいした。それ故三条の宮とか高倉の宮とか言われる。三条高倉殿は待賢門院が住まったという。この美貌の祖母の関係で以仁王はここに住まったのだろうか。
姉小路・三条・高倉・東洞院の各通りに囲まれる場所で現在京都文化博物館や郵便局がある。高倉宮の碑は東洞院に面してある。

 高倉宮址碑
隣接する三条東殿は平治元年(1159)源義朝が攻め入り後白河を拉致幽閉する。その時の火災の類焼はなかったのか。

以仁王は女装し高倉殿を抜け出す。郎党長谷部信連の助言に拠る。
この信連という格好の良い武者の事は別に書いた。
https://blog.goo.ne.jp/reminder/e/62b3a4c6671edbbf818274c2313a515a
信連は、捕縛の武士が来る前に、館を掃除している。壇ノ浦では知盛が最期を前に船の掃除をしている。戦い、それも多分負け戦になる前の掃除は、見苦しいものを敵に見せない美学なのだろう。

園城寺を目指す以仁王の道筋は、高倉通を北へ、近衛通を東へ、鴨川を渡り、如意山へとある。高倉通はわかるが近衛大路は難しい。陽明門から東へ走る大路なのだが、現在は荒神橋の東の方に残っているだけだ。平安京の内裏陽明門辺りから東へ行く道は現出水通だ。これをたどると現御所にぶつかる。平安末にはこの御所はないからかまわず突っ切る事にするとだいたい荒神橋付近に出る。

高倉通を北上、現御所中ほどで右に折れて東へ。荒神橋を渡り近衛通をさらに東へ、真如堂の北当たりを通り、鹿が谷、霊鑑寺脇へ出る。この奥俊寛山荘の道標がある。

 ここまで速足でざっと一時間ちょっとで来る。ここからが坂になる。舗装してある道の部分も大変な急坂だ。その後は登山道になる。
如意が岳は標高472m、五山の送り火の大文字山はこの山の支峰である。鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」と呼ばれ、これは京と近江の近道とされるそうだ。以仁王のルートはこれだろう。
一応ハイキングコースにはなっているようだ。但し毎年如意が岳で遭難するハイカーがいるそうだ。甘い道ではないのだろう。
よくわからないのは滋賀県側の降り口である。池ノ谷地蔵から東へ行くと皇子山カントリーというゴルフ場周辺に行きつくようである。ここからどう行くのか?小関越えの道には接続しないように見える。北の方へ回るのか。
以仁王は脚を血だらけにして園城寺へたどり着いている。頼政からの急報は以仁王が月を眺めていた時だ。夜なのだ。月明りとはいえ山中、よく歩けたものだ。疲労困憊に違いない。
ここで平家物語は天武天皇の吉野行に以仁王を重ねている。
園城寺についたのは、明け方。法輪院に御所がしつらえられる。
法輪院は南院の中の僧房で現観音堂辺りと比定されるそうだ。

 観音堂

頼政たちは自らの館に火を放って、園城寺に参集する。

延暦寺と興福寺に牒状を送ったりとここからが長の詮議・・・。三寺連合とはいえ比叡山延暦寺と園城寺は仲が悪い上に、肝心の以仁王は延暦寺との間にトラブルを抱えている。後白河と延暦寺の仲だって悪い。すんなりいくわけがないのだ。
南都興福寺からは色よい返事が来る。この清盛を味噌糞に悪く言う返牒は信救得業、後に太夫房覚明と名乗り木曽義仲の手書き(秘書官・参謀)となる。しかし南都からの援軍がすぐ来るわけではない。
六波羅への夜討ちが主張される。主戦派の乗円房阿闍梨慶秀という主戦派の老僧は、ここでも天武天皇の例を引いている。園城寺という寺は大津宮の跡地に立つというが、ここには天智-大友皇子への同情はない。
「大衆揃」で大手・搦め手、園城寺から出発しようとする。源三位頼政率いる搦め手は如意が岳へ。まさに以仁王が逃げてきたルートで向かうのだろう。大手は頼政嫡子仲綱以下、これは山科経由なのだろうか。

ところで、この挙兵について、むしろクーデター計画はなどはなかったという説もある。過敏になっていた平家が、熊野の行家が八条院蔵人になったこと、以仁王が寺領の件で不満を持っていることを結び付け、八条院の持つ王位候補の駒としての以仁王を潰してしまおう、と云うものだった。頼政も全く関与しておらず、ただ以仁王追討の命が下ったことを、好意から知らせた。しかし以仁王が逃げ出してしまったことで、その責任を追及されることを恐れ、合流のため園城寺に向かった。園城寺側では、あくまで強訴に協力するつもりで、実際の合戦までは想定していなかった。ということである。
以仁王は寺領を取り上げられたといっても、八条院の庇護がある限り生活に窮することはない。特に八条院は以仁王の娘を猫かわいがりしていて、後継者と目していた。八条院の後継者と云うのは莫大な財産の相続人ということである。こうなると、以仁王にも頼政にも動機がなく、偶発の積み重ねが大ごとになってしまった、となるのだが、そうだろうか。
以仁王は「謀反」の計画などない、ヌレギヌだ、と主張したところで平家に通じないだろうから、逃げ出すのはいい。ただ駆け込み先が園城寺ではむしろ謀反の噂を肯定してしまうのではないか。仁和寺の兄守覚法親王の所にでも身を寄せた方が穏当ではないだろうか。夜間の山登りもせずに済んだだろう。
頼政にしても邸に火をかけ、一族郎党園城寺に向かう。そのほとんどが平等院で死ぬのだ。並みたいていの決意ではなかったろう。以仁王に急使を送り逃がしたことで一味と疑われ申し開きが出来なくなったとしても、ここまでなら75歳の頼政の皺腹一つで何とかなることではなかったか。息子や養子たちの身の振り方も心配だろうが、命取られるほどの事はなかったのではないか。渡辺党などの郎党たちには別の就職先があろう。現に「競」で平宗盛は渡辺競を郎党にしようとした。やはり頼政はそれ以前に、抜き差しならず巻き込まれていたように見える。
園城寺も興福寺も協力の意思はあったが、強訴だと思っていた、と云うのは正しいかもしれない。頼政が兵を率いて入山し、いざ合戦、となったら「長の詮議」となってしまった。強訴ならばともかく、合戦までは、という僧が一定数いたのではないか。興福寺も動きが悠長すぎる。長々とした行列で北へ向かっているが、斥候だの先遣隊だのを出した形跡はないようだ。こっちも強訴だと思っていたのだろう。クーデターの計画は始まったばかりで各分担もろくに決まっていなかったのだろう。

延暦寺が園城寺を攻撃するという情報もあり、長の詮議に夜討ちの機を失い、如が岳に向かった搦め手も引き返し、園城寺では守り切れないと、一同興福寺に向かう。

平等院への経路だが、源平盛衰記には逢坂山、鵠(くぐい)坂、神無の森、醍醐、木幡、宇治、となっている。鵠坂と云うのは見つけることができなかった。神無森は山科に小山神無森町という地名がある。京都東ICの辺りである。


私は、観音堂の直ぐ後ろから出る小路が小関越えの道につながるので(図の長柄神社左手に見えるハイキングコースがその道である)、てっきり小関越えで山科に出たと思ったのだが、この道だと四ノ宮に出て、神無森を通らない。大関越え(逢坂山)をしたことになる。 しかし逢坂山越えだとやはり迂回しすぎるように思う。神無森の範囲がもっと西に広がっていたと考えることはできるだろうか。
山科から醍醐は醍醐道という道があるが、間道を伝ったのかもしれない。醍醐にある頼政道の碑は醍醐寺の裏手の長尾神社の参道にある。
 頼政道
木幡の南に頼政橋という頼政たちが通ったという伝承を持つらしいところがある。宇治病院の近くを東に入ったところである。
 頼政橋
この辺りから平等院までは歩いても1時間程度で行けるはずである。

宇治につくまでに、以仁王は6回も落馬した。如意越えの疲労も癒えず、気が休まらず、ろくに眠れもしない日々が続いていたことだろうが、平家物語の記述は以仁王には随分酷な気がする。死んだら棺に入れてくれと云っていたほど大事な笛を忘れ、信連に届けてもらう迂闊さ、落馬を繰り返す気力・体力ともに欠くありさまである。以仁王は令旨の中でも自らを天武天皇に例えている。
「よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す」
大海皇子が天智と同母の弟という記紀の記述は大いに疑ってしかるべきだが、ともかく一旦畿外に出て、取って返して権力を奪取した人物は、気力あふれるリーダーを想像せずにはおかれない。平家物語の以仁王はそういう人物としては描かれないし、むしろ腐している。

ともかく宇治橋を渡り、平等院に陣が敷かれる。宇治橋の橋げたを落とし、宇治川を結界に、平家の人馬を留め、その間に以仁王を南都に落とそうという作戦だ。この段階で頼政たちは討ち死にを覚悟したことだろう。
 宇治川
「橋合戦」は僧兵たちの活躍が華々しい。
しかし、馬筏で川を押し渡られてしまっては、騎馬の武士と僧兵では勝負にならない。頼政たちの奮戦も多勢に無勢なのだった。
 頼政墓

一足先に奈良へ向かった以仁王の一行は山背街道を南下したのだろう。以仁王の墓所のある木津川市山城町綺田神ノ木まで徒歩3時間足らず。橋合戦はそれだけの時間を稼いだのだった。
追う平家の平忠清弟景家は渡岸を果たすと、平等院での合戦に目をくれず、以仁王を追い始める。平家物語によれば、追う平家500騎、以仁王一行30人。矢を射かけられ、以仁王の腹に当り、落馬。光明山の鳥居の辺りだという。
 高倉神社

 以仁王墓
以仁王の墓の東の山麓に光明山寺の址があるという。大きな寺院だったらしい。本地垂迹の神仏一帯で神社もあったのだろう。その鳥居辺りが今の高倉神社付近ということらしい。
南都からの援軍7千余騎は遅かった。王が殺された時、興福寺の先陣はは木津川まで来ていたが、後陣はまだ興福寺門前にある。木津川を渡る泉大橋北詰から高倉神社までほぼ直線の南北約5kmである。あと少し、ともいえる距離だがまだ遠い。

この時まで以仁王に付き従っていた乳母子の六条太夫宗信は近くの池に飛び込んで隠れ、敵がいなくなったところで京へ逃げ帰る。「にくまぬ者こそなかりけれ」と云うのだが、これは少々酷なようだ。彼は武者ではない。重衡を見捨てた乳母子後藤兵衛盛長とはわけが違う。

「宮御最期」では、お供の鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、がともに討ち死にしたとある。このうち刑部俊秀は「大衆揃」の最後で乗円坊阿闍梨閨秀が、義朝と共に平治の乱を戦い戦死した相模の山内首藤刑部俊通の子だと紹介している。「大衆揃」で成喜院の荒土佐・法輪院の鬼佐渡・律成房伊賀公が一人当千のつわものと云われている。理智城房と律成房は同じだろうか。また金光院の六天狗は、式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後となっている。国名は出身地か縁者の役職に関することか。金光院は北院新羅社の西南にあった寺で、源義光の創建とある。新羅三郎と呼ばれる義家弟義光の墓は新羅神社奥にある。
 新羅善神堂

 義光墓
義光流源氏は常陸の佐竹氏が有名だが、近江にも義光流の源氏がいるのだ。「源氏揃」で頼政は「近江国には、山本・柏木・錦古里」と挙げている。山本義経とその息子あるいは弟たちである。行家は近江、美濃・尾張と令旨を触れていくことになっている。山本義経らは山本山城に拠り、琵琶湖の舟を封鎖し、平家に対抗するが、平知盛に攻められ落城する。
 山本山
金光院には必ずや彼らの近い血筋の者がいたことだろう。
「宮御最期」に描かれる人たち以外にも、ここで戦死した人は多いのだろう。
千葉常胤の息子日胤もここで死んだ。常胤は下総に日胤の菩提を弔う寺を建てている。その名も円城寺(おんじょうじ)である。千葉県佐倉市にある。
 円城寺跡

以仁王の墓から南へ100mの地点に筒井浄妙の塚はもある。


筒井浄妙明秀は「大衆揃」で堂衆として紹介されている。堂衆は注記によれば「寺院の諸堂に属し雑役に当たる下級の僧」とある。一来法師は法師原とあり、こちらは「寺院の雑役に当たる僧形の下人、原は複数を示す接尾語」とある。どちらかというと一来法師の方が身分的の下だろうか、ただどちらも雑役夫であり、寺院内の下層階級だろう。筒井というからには本能寺の際洞が峠で日和見を決め込んだ大和郡山の筒井順慶が思い浮かび、大和郡山の出身ということではないだろうかと思ったのだが、「大衆揃」に浄妙の所ではなく、筒井法師として2名挙がり、注記に「筒井は三井寺総門の南、南院三谷の一つ筒井谷」とある。こっちかもしれない。
彼らの活躍は「橋合戦」に詳しい。浄妙は立派な鎧兜を着て大音声に名乗りをあげ、橋桁を外した宇治橋のゆきげたを渡って大暴れする。これは下級僧侶というよりは武者の出自だろう。その後ろから一来法師、「悪しゅう候、浄妙房」と一声かけて飛び越していく。一来法師は宇治川で討ち死に、浄妙房は奈良を目指して落ちる。この活躍ぶりは京都祇園祭の浄妙山になっている。
 浄妙山(祇園祭関係HPから)

このアクロバット的な戦いを佐藤太美氏は宇治猿楽の世界ではないかと云っている。イケズキ・スルスミ、佐々木高綱・梶原景季の先陣争いの宇治川の合戦は競べ馬だ。宇治川で行われた二つの合戦は、将に軍記物としての平家物語だ。

さて、以仁王はあっけなく殺され、クーデターは潰えるのであるが、宮の死後、令旨なるものが物を言い始める。全国的な戦乱の時代が幕あけするのである。特に頼朝は令旨を肌身離さず、以仁王生存説も利用し使いまくる。

木曽義仲の育った日義村の義仲館には実物大人形で再現したものがあるのだが、山伏姿の行家が令旨を読み上げ、義仲以下中原家の面々が畏まってこれを聞く、という様子だ。

岩波本「平家物語」には山門牒状や南都牒状は引いてあるが、以仁王の令旨はない。 
次の引用はネットで拾った。吾妻鑑のものだそうだ。
《下す
 東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ

 応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事

 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず

 最勝王(以仁王)の勅を奉りて称(い)う
 清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て凶徒を起す
 国家を亡し、百官万民を悩乱す
 五畿七道(全国)を虜掠し、皇院(後白河法皇)を幽閉し、公臣を流罪す
 命を断ち、身を流す
 淵に沈め、樓(牢)に込め、財を盗り、国を領す
 官を奪い職を授け、巧無きに賞を許し、罪あらずに過(とが)を配す
 あるいは諸寺の高僧を召し釣(こ)め、修学の僧徒を禁獄す
 あるいは叡岳(延暦寺)の絹米を給い下し、謀反の粮米を相具す
 百王の跡を断ち、一人の頭を切る
 帝皇に違逆し、仏法を破滅し、古代を絶つ者なり
 時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う
 よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す
 上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ね、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや
 ただ人力の構へを憑(たの)むにあらず、ひとへに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり
 これによって、もし帝王三宝神明の冥感あらば、何ぞたちまち四岳合力の志なからんや
 然らば則ち、源家の人、藤氏の人、
 かねては三道諸国の間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令(せし)め、
 もし同心せずにおいては、清盛法師の従類になぞらい、死流追禁の罪過に行うべし、
 もし勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、
 御即位の後、必ず乞いに随(したが)い勧賞を賜わるべきなり
 諸国承知して宣に依てこれを行え

 治承四年四月九日

 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱》

宛名は「東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等」 頼政の息子仲綱が以仁王から聞いて書いた、という体裁で、日付が治承4年4月9日。以仁王の館に捕縛に来たのは5月15日だから一月以上前ということになる。
園城寺で出されたものという説もあるそうだ。そうなると日付が合わない事になるが。そもそも以仁王の令旨などは偽書だろう、と九条兼実は玉葉に書いているそうだ。

クーデター計画そのものがなかった説だともちろんこの時期の令旨はありえない。

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倶利伽羅合戦の事

2020-09-02 | まとめ書き

平家物語第7巻「火打合戦」

「平泉寺長吏斉明威儀師、平家について忠をいたす。稲津新介・斉藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓、ここをば落ちて、猶平家にそむき、加賀の国へ引き退き、白山河内に引っこもる。平家やがて加賀を討ち越えて、林・富樫が城郭二か所焼きはらふ。」

斉明の裏切りにより火打城は落ちた。火打に籠っていた者たちは加賀に落ち、平家は難なく越前を突破し、加賀に侵攻する。「なに面をむかふべしとも見えざりけり」とあり、京都へ残った平家の面々は大いに喜ぶ。兵糧不足にあえいだ畿内から北陸に入り、息を吹き返した平家軍なのだった。
平家は加賀の篠原でうち揃い、軍を二手に分ける。大手は砺波山へ向かう。搦め手は志保山へ。

一方義仲は
「木曽は越後の国府にありけるが、是を聞いて、五万余騎で馳せ向かう」

越後の国府は上越市の南かとあるのだが、どこを通ったのか、越後から越中というと糸魚川、即ち親知らずを通るルートしか思い浮かばない。倶利伽羅どころではない難所に思える。騎馬で軍勢が通れる道があったのか?

「わがいくさの吉例なればとて七手に作る。まづ叔父の十郎蔵人行家、一万騎で志保の手へぞ向ける。仁科・高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦め手へ差し遣わす。樋口次郎兼光・落合五郎兼行、七千余騎で南黒坂へ遣わしけり。一万余騎をば砺波山の口、黒坂のすそ、松長の柳子原、ぐみの木林にひきかくす。今井四郎兼平、六千余騎で鷲の瀬を打ちわたし、日宮林に陣をとる。木曽、我身は一万余騎で小矢部のわたりをして、砺波山の北のはずれ、羽丹生に陣をぞとったりける。」

なんだかよくわからない。先ず七手に分けたとあるのに①行家、②仁科隊、③樋口隊、④指揮官不明一万騎、⑤今井隊、⑥木曽本隊、六手にしかならないではないか。
行家隊の問題は置くとして、仁科・高梨・山田隊は北黒坂で搦め手とあるが、埴生から埴生大池を通るルートが義仲進軍路になっており、その途中に黒坂という標識を見た。これが北黒坂になるのだろうから、木曽本隊とルートが重なってしまうのではないか。先遣隊として送ったのか、更に北のルートを取らせたのか。樋口隊は更にわからない。南黒坂はどこだろう?岩波ワイド文庫本の注記には松尾から津幡町上藤又へ越えるのを南黒坂といったという、とある。松尾から山に向かうと膿川沿いに地獄谷に向かうとしか思えない。そこから上がるルートもあったのだろうか。ぐみの木林(きんばやし)に引き隠したという一万騎は矢立山の南、とあるのでここはわかる。今井隊のルートは鷲の瀬を打ち渡しとある。小矢部川を渡ったとしか思えないが、鷲瀬碑のある鷲尾公民館付近は小矢部川から東へ500メートル程離れている。流路が変わっているのか。更に西進し、蓮沼の日宮林で陣を取る。義仲とは別陣だ。義仲は埴生八幡に願書を捧げていることからはっきりしている。

倶利伽羅周辺、津幡側も小矢部側も倶利伽羅合戦を観光資源にしたいらしく、だいぶ頑張って入るのだが、「火牛の計」というバカげた空想がよほど気に入っているらしく、「源平盛衰記」を参考にしているらしい。現地の説明板、パンフの類もみな「盛衰記」らしく岩波本とはだいぶ違うようだ。余田、根井、巴が出てくるし、樋口はもっと大きく北の方から周り、平家の背後を付いたことになっている。盛衰記の方がくわしいし、地元の武者の名もあるようだ。実際地元の幹道に詳しい案内者が居なかったら、義仲と云えどもこんな戦いはできようもない。
ただ、平家物語のみで考えると下の図のようになる。

↓倶利伽羅合戦案内板(倶利伽羅駅に在ったもの)

↓埴生大池

↓鷲が瀬碑

↓日宮林

↓日宮碑

↓松永碑

↓膿川

↓巴塚(巴塚・葵塚ともに実は古墳)

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海道下 (平家物語)

2020-08-13 | まとめ書き

平家物語第10巻「海道下」は道行だ。

一の谷で捕らえられた平重衡が梶原景時に連れられ京から鎌倉へ下っていく。


馬を射られ、頼みの乳母子後藤盛長に見捨てられ、死ねもせず捕まった平家の公達が連行される。

盲目ながら多くの旅をしてきたであろう琵琶法師がこの道行を語るとき、耳傾ける人々はどんな風に聞いたのだろう。

重衡は牡丹に例えられる貴公子だったという。立てば芍薬、座れば牡丹、という男子は想像しがたいが、「千手前」の最期にある。同時代史料としては重衡従兄弟の資盛の恋人建礼門院右京太夫が女房達に面白い話をして笑わせる重衡を描いている。華やかな人だったのだろう。今を時めく清盛正室時子の数ある息子達の中でも気に入りの愛息、嫌でも人は寄ってこよう。しかも重衡は兄宗盛・従兄弟の維盛とは違い武将としての素質もあったらしい。墨俣・室山と知盛とともに戦果を挙げている。治承4年(1180)暮れの南都への出陣も戦いとみれば重衡は確かに勝ったのだ。以仁王の挙兵に呼応しようとした南都を放置はできなかった。焼けるのなら焼けて仕方がない。焼けてしまったものは仕方がないというのが清盛・重衡の認識だったのではないか。重衡が事の重要さに気付くのはもっと後だ。清盛は治承5年2月に病死し、南都焼亡の責は重衡が担う。

さて重衡は京都を出でて山科に向かうのであるが、どういう経路をたどったのだろうか。海道下は山科の四ノ宮から始まるが、出発地点は京都のはずである。
京都へ出入りする道は京都七口というが、定まったのは近世、秀吉以降の事のようだ。当時、西へ向かう道として考えられるのは、三条口から粟田口を行くルートで江戸時代の東海道・中山道の出発地点となっている、もう一つは五条からのルートでほぼ1号線に重なるが渋谷街道と呼ばれる道だ。鹿ケ谷からの山越えも行って行けないことはなかろうが旅のルートとしては考え難い。
さて、重衡の鎌倉連行の前に「土肥次郎実平が手より、まず九郎御曹司の宿所へわたし奉る。」とある。ここから梶原景時に具せられ鎌倉下り、となるわけだ。土肥実平がどこにいたのかはわからないが、九郎御曹司、義経の宿所はわかる。六条堀川に源氏累代の館と呼ばれるものがあったという。保元の乱では為義たちが、平治の乱では義朝が拠点とし、土佐房による義経襲撃の場所もここだったというから、九郎御曹司の宿所は六条堀川とみて間違いないだろう。
(堀川五条を少し下がり、西本願寺の附属建物の駐車場北辺付近の歩道脇の草むらの中、源氏邸の井戸で後年茶の湯でもつかわれる)

だとすれば三条廻は不自然だ、五条から渋谷街道を通ったと考えるのがいいだろう。
現1号線より少し南側、京都女子大の脇から東へ向かう。
小松谷、と言われ重盛の館のあったところだ。重盛の家は小松家と呼ばれるが、そのまま京都東南の押えであったわけだ。灯篭の大臣ともいわれた重盛は「四十八間に精舎をたて、一間に一つづつ、四十八の灯篭を懸けられたりければ」と蓮華押院三十三間堂をしのぐ長大な堂宇を建て華々しい法会を行った。重衡もきっと見たであろう。重盛すでの亡く、平家は都落ちに際し皆邸に火をかけた。栄華の夢跡がある中を進んだのだろう。この辺りに正林寺という寺がある。一応小松邸はこの辺りとなっている。幼稚園併設の大きな寺だ。

(小松谷正林寺門)

渋谷街道は清閑寺町辺りで1号線と合流するが、まもなく一号線は南下していってしまう。渋谷街道はほぼ真直ぐ東へ進む。山科の街中である。五条別れで三条から山科へ向かっていた道と合流する。更に四ノ宮を過ぎたあたりで1号線は再び北上してほぼ一緒になる。京都東ICもあり高速道路・一号線並行して逢坂山へ向かう。

「四宮河原になりぬれば此処は昔延喜第四王子蝉丸の関の嵐に心を澄まし琵琶を弾き給ひしに博雅三位といつし人風の吹く日も吹かぬ日も雨の降る夜も降らぬ夜も三年が間歩みを運び立ち聞きてかの三曲を伝へけん藁屋の床の古も思ひやられて哀れなり」

四宮河原は京都市山科区四ノ宮辺りで、逢坂山の入口というけれど(ワイド版岩波文庫「平家物語の註、以下同じ)山科から京都に入る道は車で通過するだけだから逢坂山もそれと思って通ったことはない。

京阪京津線四ノ宮駅がある。四ノ宮川という川が流れているようだ。四宮河原というのはこの川の河原だろうか。蝉丸を醍醐天皇の第四皇子という伝承があるそうで四ノ宮とはそのことらしい。

(逢坂山トンネル碑とその付近から下を見る)

京阪京津線の大谷駅のすぐ北側から東へ500mにも満たない距離で旧東海道が残っている。東端に逢坂の関の説明板などが立っている。車だとこちら側からしか入れない。関の位置は正確には不明らしいが。

 うなぎ屋のある通りだ。

 蝉丸神社、下から鰻を焼くにおいが上ってくる。蝉丸は盲目の琵琶法師、重衡も琵琶の名手であったことが、「千手前」に出てくる。

「逢坂山うち越えて、勢田の唐橋駒も轟と踏み鳴らし」

逢坂山を越え大津に入る。
現在琵琶湖には近江大橋・琵琶湖大橋をはじめ、1号線の橋、高速道路の橋、鉄道各線の鉄橋などいろいろ架かって入るが、平安末にあったのは勢田の唐橋ただ一つ、俵藤太のムカデ退治の伝説の舞台にもなれば、今井兼平が粟津で義仲と再会する前、必死と守っていたのが勢田だった。勢田の唐橋は京阪石山坂本線唐崎前駅のすぐ東にある。駒も轟と踏み鳴らしが交通量が多い事を言うのならば今もそうだ。。

「雲雀揚がれる野路の里」草津市に野路という地名は確かにある。

「志賀浦波春かけて、霞に曇る鏡山」

志賀は大津市内となっていいるけれど(岩波ワイド文庫註)、むしろ琵琶湖そのものではなかろうか。雲雀が上がり琵琶湖は春の陽光を受けさざ波がきらめく。「行く春を近江の人と惜しみけり」芭蕉が誰と春を惜しんだのか知らないが、彼が好きだった義仲ではないだろう。義仲は近江で死にはしたが、あくまで木曽の人であったろう。霞にの煙る山々、鏡の里の道の駅がある。義経元服の地だとして大きな看板が出ている。

(鏡神社本殿)

判らないのは三上山が出てこないこと。見ながら来たはずなのである。近江富士とも呼ばれる端正なこの山が出てこないのは残念である。

(兵主神社付近から見た三上山)

 

近江には春がよく似合う。

長閑に街道を行くイメージだが、野路から鏡への途中の大篠原は、約一年後、宗盛父子が斬られるところとなる。

重衡もまたこの道を引き返す。南都の僧たちに引き渡されるために。

「比良の高根を北にして伊吹の岳も近づきぬ」

比良は琵琶湖西岸になる、遠望したのだろうか。因みに近江八景は「三井晩鐘,粟津晴嵐,瀬 (勢) 田夕照,石山秋月,唐崎夜雨,堅田落雁,比良暮雪,矢橋帰帆」だそうだ。ほとんどが琵琶湖の西岸である。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/oumi8K/oumi8kei.html から画像拝借


伊吹は畿内と東山道の間の目印だ。北陸道からも目印になる。

 (JR北陸線車窓から)

平治の乱に敗れた義朝一行は雪の伊吹山麓を踏み進む。13歳の頼朝は一人はぐれ捕らえられる。その頼朝は今、勝者として鎌倉で重衡を待つ。

「心を留むとしなけれども荒れて中々優しきは不破の関屋の板廂」
元歌は「人住まぬ不破の関屋の板庇あれにしのちはただ秋の風」壬申の乱の後造られたこの関は名は高くとも平安後期には既に廃止されて久しい。


それでも天皇の代替わりの度に閉じたというから関屋はあったのか。形式に過ぎない関は厳めしくなくたださびしい板庇。ただそこを通る都人には畿内から出る感慨はあったのだろう。

「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん」
不破の関を越え、垂井・青墓(赤坂)から美濃路と呼ばれる道を尾張へ歩む。墨俣も通ったはずだ。重衡は行家・義円を撃破したことを思ったであろうか。

平家物語の道行きは墨俣も熱田も飛ばし鳴海に出る。潮干潟とはあるけれど現代の鳴海は名古屋市緑区鳴海で全くの市街地であり、宿場を思わせるものもない。鳴海潟というくらいだから伊勢湾が近くまで入り込んでいたのか。江戸時代までけっこうな宿だったはずである。

「三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」

三河国八橋は知立市内。蜘蛛手は蜘蛛が足を八方に出す様で水の流れが縦横に交錯していることを形容しているとのことである。この辺りで大きな川は矢作川のようだ。湿地帯だったのだろうか。そのまま伊勢物語を借り、昔男の業平の話をそっくりイメージさせる語りだったのだろう。業平と重衡、二人の貴公子が交錯する。湿地となればかきつばたも似合い、唐衣の歌も言葉遊び以上の物に見える。

「浜名の橋を渡り給へば松の梢に風冴えて入江に騒ぐ波の音さらでも旅は物憂きに心を尽くす夕間暮れ」

云うまでもなく浜名湖なのだが、橋があったのか・・と驚く。現代の1号線の浜名大橋は200メートルを超えている。江戸時代は渡しのようなのであるが。

「池田の宿にも着き給ひぬ、かの宿の長者熊野が娘侍従が許にその夜は宿せられけり。侍従、三位中将殿を見奉て、「日来ろは伝手にだに思し召しより給はぬ人の、けふはかかるところへ入らせ給ふことの不思議さよ」とて、一首の歌を奉る。
旅の空 埴生の小屋の いぶせさに ふるさといかに 恋しかるらむ
中将の返事に、ふるさとも 恋しくもなし 旅の空 都もつひの 住みかならねば
ややあつて、中将、梶原を召して、「さても只今の歌の主は、いかなる者ぞ。優しうも仕たる者かな」とのたまへば、景時畏まつて申しけるは、「君はいまだ知ろし召され候はずや。あれこそ屋島の大臣殿の、いまだ当国の守にて渡らせ給ひし時、召され参らせて、御最愛候ひしに、老母をこれに留め置き、常は暇を申ししかども、賜はらざりければ、頃は弥生の初めにてもや候ひけん、いかにせむ 都の春も 惜しけれど 馴れしあづまの 花や散るらむ
 と言ふ名歌仕り、暇を賜つて罷り下り候ひし、海道一の名人にて候ふ」とぞ申しける。」
天竜川を渡り、池田の宿へ。池田宿は平家物語に因縁深い。この段の宗盛の愛人の話然り、源義朝はこの宿の遊女に範頼を産ませた。青墓の宿の例を見れば、遊女とはいってもそれなりのステータスはあったのではないか。それなら長者熊野(ゆや)と何らかの関係があったのではないか、と想像する。

平家物語が流布した頃には範頼の事も世に知られていただろう。ここでもたぶん範頼との物語の二重写しがあっただろう。

熊野の長藤は咲いた時期に見たいものである。

 

「都を出でて日数経れば、弥生も半ば過ぎ、春もすでに暮れなんとす。遠山の花は残んの雪かと見えて、浦々島々霞渡り、越し方行く末の事どもを思ひ続け給ふにも、「こはさればいかなる宿業のうたてさぞ」とのたまひて、ただ尽きせぬものは涙なり。御子の一人もおはせぬことを、母の二位殿も嘆き、北の方大納言の佐殿も、本意なきことにし給ひて、万の神仏に懸けて祈り申されけれども、その験なし。「賢うぞなかりける。子だにもあらましかば、いかばかり思ふことあらむ」とのたまひけるこそ責めての事なれ。」

重衡は子供がいないとあるけれど、正妻佐の局に居なかっただけで、モテ男重衡には子がある。鎌倉の鶴岡八幡宮、箱根で僧侶となった子らがいたらしい。

「小夜の中山にかかり給ふにも、また越ゆべしとも思えねば、いとど哀れの数添ひて、袂ぞいたく濡れ増さる。」

 西行歌碑

重衡の南都攻めで焼亡した東大寺大仏復元の勧進で、奥州平泉の藤原秀衡を訪ねる生涯二度目の陸奥への旅に赴いた西行はこう詠んだ「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」つまり重衡が通ったこの時にはこの歌はまだ詠まれていない。重衡はこの道を引き返してくるのだから、またこの峠を越えたはずだが、西から東へと越えるのはこれが最初で最後となる。
西行は平家物語の完全な同時代人だが、物語に直接は登場してこない。ただこんな風に現れるのだ。
今、中山は一面の茶畑となっている。茶は平安期から中国から入ったが、鎌倉期まではほとんど薬扱いだったようだ。室町を経て戦国時代に爆発的に広がる。つまり重衡も西行も目に映ったのは全く別の光景だっただろう。しかし、峠の見晴らしのいいところに出れば、新緑の山中は輝いていただろう。

「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」

これはまた「伊勢物語」だ。「宇津の山に至りて、わが入らんとする道はいと暗う細きに、蔦、かへではしたがかり、もの心細く・・・・・駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にもひとにあはぬなりけり」

「手越を過ぎて行けば、」

手越の宿だ。静岡市の安部川西岸の区域となる。富士川までは20kmと少々か。「海道下」の次の章「千手前」鎌倉で重衡を接待する千手前は手越の宿の長者の娘だ。「みめ形、心ざま、優にわりなき者」と云われる美女だったが重衡の斬首を聞いて出家する。

 手越の少将井神社

手越宿は富士川の合戦の平家敗走に前後して火事があったらしい。

重衡は従兄弟維盛のあまりにもふがいない敗戦に苦い思いをいだいたろう。

「北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根と言ふ。その時三位中将落つる涙を抑へつつ、 
惜しからぬ 命なれども 今日までに つれなき かひのしらねをも見つ」

手越から見えるのは富士だ。分からないのは「甲斐の白根」 ワイド版岩波文庫の註には「山梨県の白根山。赤石山脈中の北岳、間の岳、農鳥山がその最高峰」とあるのだが、手越のあたりから南アルプスが見えるのか。富士が目に入ると他の山を意識することがなくなってしまう。次に富士の裾野云々と書いてあるので甲斐の白根と富士を混同しているとも思えない。註によれば「海道記」を踏まえるとある。

(2022年補注:登呂遺跡から「甲斐の白根」が見えた。手越からも条件が良ければ見える可能性が高いのだろう)

 手越付近からの富士

「清見が関打ち越えて、富士の裾野になりぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸打つ波も茫々たり。「恋せば痩せぬべし、恋せずもありけり」と、明神の詠うたひ始め給ひけん、」

静岡市清水区の清見が関址は清見寺前にある。重衡が通った頃には、不破の関同様、関としての機能はほとんど失われていただろう。

清見寺は徳川家康の気に入りの寺だったそうだ。江戸時代には興津という宿場町として栄えたようだ。三保の松原も近い。確かに富士の裾野だ。
(清見寺:せいけんじ)
重衡を連行してきた梶原景時は、頼朝の側近として鎌倉に重きをなしたが、頼朝急死後、御家人の連判によって追い落とされる。連判人は実に66人に及んだ。翌正治2年(1200)梶原一族は相模一宮から京へ上る途中、清見が関辺りで襲撃され討ち取られたという。ここは梶原一族の終焉の地でもあるのだ。
 三保の松原 富士


「足柄の山打ち越えて、小余綾の磯、丸子川、小磯、大磯の浦々、八的、砥上が原、御輿が崎をも打ち過ぎて、急がぬ旅とは思へども、日数やうやう重なれば、鎌倉へこそ入り給へ。」

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