物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

名古屋 蟹江町 龍照院

2021-07-25 | 行った所

熱田神宮から西へ10キロほども行った蟹江町に蟹江山常楽寺龍照院という寺がある。


どうして義仲と関わるのかわからないのであるが、ともかく木曽義仲・巴御前の旧跡となっている。


寿永3年正月、義仲は大津で死ぬ。蟹江町のHPによれば、巴は落ち延び、蟹江の常楽寺が義仲が建てた寺であると知り、大日如来を安置し、尼となり義仲の菩提を弔ったと伝えられているそうだ。


それはともかくご本尊の十一面観音像には寿永元年(1182)の銘文があるそうだ。治承寿永の乱のただなか造立された物らしい。

近くを蟹江川が流れる。

コメント

名古屋 七里の渡し

2021-07-25 | 行った所

←ウイキペデイアより

かつては桑名までのクルーズ船の運航もあったらしいが、現在は運航中止。

芭蕉が熱田神宮を蓬莱と呼んだなど初めて見たが、景清社を探して歩くうち蓬莱軒といういやに流行っている鰻屋があった。3時間待ちとかで長蛇の列、駐車場の案内人が数名でて捌いている。蓬莱軒はこの芭蕉に因むものだったろうか。


景清社

七里の渡し公園より北へ10分ほど歩いたところに景清社がある

悪七兵衛景清に因む伝承地はいくつもある。それも全国に散らばっている。

コメント

名古屋 嶋川稲荷

2021-07-25 | 行った所

名古屋市瑞穂区に東西方向に走る妙音通という道路がある。下を地下鉄名城線が通る。地下鉄妙音通駅の付近の路地をわずかに南に入ったところに嶋川稲荷がある。ここは尾張に配流された藤原師長が住んだところだと言われる。音楽を能くし、院号は妙音院という。通り名はこの院号に因む。


師長は日本一の大学生と謳われた藤原頼長の息子である。生母の身分は高くはなかったが、その祖父、摂関家大殿忠実の猶子となり、順調に官位を進めていた。保元の乱で父頼長は殺され、祖父忠実は蟄居、師長は19歳で土佐に流刑になる。京都で元の官位に復位した時には27歳になっていた。それからは後白河の側近として重んじられる。父親譲りの学識もあったが、彼には優れた音楽的才能があった。音楽全般能くしたが、特に琵琶の名手であったという。全く平家物語の時代の人であるので、平家物語にも印象深いエピソードが登場する。
第五巻「文覚被流」治承3年(1179)3月、後白河の法住寺殿に高雄神護寺の勧進を願う文覚が現れる。「をりふし御前には、太政大臣妙音院、琵琶かき鳴らし、朗詠めでとうさせ給う。按察大納言資方卿拍子とって、風俗・催馬楽うたはれにけり。右馬頭資時・四位侍従盛定和琴かき鳴らし・・」と当代一流のアーティスト共演のスペシャルコンサート中、という所だったのだろうか。そこへ気勢を上げるデモ隊ならず、一人文覚が大音声を上げる。警備隊の排除もものかわ、荒行で鍛えた文覚の暴れる、暴れる。文覚は怒った後白河により伊豆へ遠流となる。これは文覚を伊豆で頼朝に合わす為の物語上の伏線といったところだが、ともかく師長の琵琶演奏に邪魔が入ったのを後白河が怒ったという話になっている。
同年11月、清盛がクーデターを断行する。治承3年政変と云われるものである。後白河の幽閉、39人の公卿の筆頭格が追放されるが、筆頭格が師長だ。ここで師長の尾張配流につながっていく。
第3巻「大臣流罪」この師長、父頼長のように激したところは少なく、風流人に徹しようとしたようである。古を思い、鳴海潟塩路遥かに遠望し、朗月を望み、浦風に吹かれ、琵琶を弾き、和歌を詠じていた。


嶋川稲荷から西に3kmほど行くと、七里の渡しになる。東海道53次唯一の海路である。宮宿から七里の渡しで舟に乗り、桑名に向かうのである。この七里の渡しから名古屋港まで実に4kmもある。少なくとも江戸時代まではここはすぐ海だったはずだ。妙音通のすぐ近くまで波が打ち寄せていたかもしれない。師長の流刑地は尾張国井戸田村というが、海浜の村だったのだろうか。
東海道で宮の東隣の宿は鳴海だ。名古屋市緑区鳴海でここも現代では海の気配はないが、「海道下」には「いかで鳴海の潮干潟」と謳われている。


さて、師長はある日熱田神宮に参詣する。嶋川稲荷から直線距離なら2kmくらいである。そこでも琵琶を弾く。そうしたら、この田舎にもかかわらず、老若男女集まり首を垂れて聞き入る。果ては宝物殿の建物さえ振動するという奇跡が起きる。

師長は清盛の死後、許されて京に帰る。しかし以後出仕はしていない。まだ44歳だが、頼朝の台頭あり、従兄弟で10歳若い九条兼実らとの確執にうんざりしていたのか。死んだのは建久3年(1192)55歳であった。

流刑地の村長の娘とのロマンスが伝えられる。帰京に際し琵琶を娘に渡すも、娘は入水したとか。貴種流離譚である。

名古屋は戦災にもあっているし、伊勢湾台風の大被害も受けている。この小さな稲荷社がよく残ってきたものだ。


石段には庄屋彦左衛門の文字が見える。その下には天保五甲午と見える。

コメント

飛騨巡り(国府町・飛騨市・カミオカラボ・野麦峠)

2021-07-17 | 行った所

高岡市国府町こう峠口古墳

大きな横穴式石室があるということだったが、立ち入り禁止だった。


隣接する広瀬古墳


清峰寺 円空仏があるというので来てみたが、どうやら無住寺で、事前申し込みが必要だった。


飛騨市美術館「山と生きるひだびと」という展示会をしていた。山道具や杣小屋暮らし、材木の切り出し、手ぞりを使った運搬など多岐にわたる。


隣接場所で養蚕業を紹介しており、かつて富国強兵を支えた飛騨の少女たちが野麦峠を越え岡谷へ糸繰にいったことなどが紹介されていた。

カミオカラボ カミオカンデの紹介施設だが頭が付いて行かず・・・

神岡から野麦峠へ向かうといういささか場当たり的無謀・・・折から雨、上宝の道の駅で雷で停電になった。どこをどう走っているかわからないが、飛騨温泉郷を通った。有料道路があったので、山道からは解放されるかと思ったが、安房トンネルの所だった。いつの間にやら長野県に入っているし・・道もなんだか怖い。古そうなトンネル、がけ崩れの址。挙句ダムへ出た。このダムを造る工事のためのトンネルだったか。ダムから別れ道があり岐阜県側へ向かって走る。ようやく野麦峠スキー場、更に行って野麦峠旧道の標識へ来た。

 旧野麦街道


更に行って野麦峠だった。


だが、空晴れ渡り、眺望が広がった。

資料館は休みだった、というよりずっと休館中のようだ。

神岡から向かってしまったが、女工たちの野麦峠への道は飛騨古川・高山から長野に向かったのだろう。


野麦峠 旅人文学HPから
http://gauss.ninja-web.net/aanomugitouge0.htm

コメント

飛騨巡り 高山市

2021-07-16 | 行った所

せせらぎ街道を北上、高山市内にはいる


http://www.seseragikaido.org/_spring/spring_top.htmlせせらぎ街道を愛する会HPより

高山は盆地だ。
 風土記の丘公園から高山市内を見下ろす

 縄文から古墳の建物が復元されてある。

この場所が時代を越えた複合遺跡だったわけではない。あちこちのものを持ってきたようだが、割とよくできている。

 学習館という名の資料館がある。
コンパクトで悪くはないが、もう少し、飛騨の歴史・地理を俯瞰的に示す工夫が欲しい。
近くに飛騨国分寺の瓦を焼いた窯跡があったようだ。

 

飛騨国分寺

聖武天皇の国分寺建立の詔により、行基によって建立されたという伝承を持つ。8世紀半ばのことである。無論当時の寺が残っているわけではない。創建当時は七重の塔を持つ大伽藍だったという。

 その心礎は境内に残っている。


本堂前の文化財看板にかなり驚いたのである。小烏丸だって! 残念ながら非公開とか。ただ皇室の御物に小烏丸の太刀があるそうだ。ここのも重文というからそう悪いものではなかろうが・・

平家物語第3巻 「無文の沙汰の事」
治承3年(1179)重盛は病気である。嫡子維盛を呼び、酒を出し、引き出物を取らす。太刀を見た維盛は家伝の小烏かと胸を躍らすが、小烏ではなく葬式用の無文の刀だった。

たぶん平家物語で小烏丸が出てくるのはここだけだ。重盛が持っていたらしいから、維盛か資盛が相続したと思われるが、刀の行方は知りようもない。
平家の家宝とされる刀には他に抜丸があるが、これは忠盛から清盛ではなく頼盛に渡された。

大銀杏
樹齢800年程度の古木は見たことがある。しかし1200年級となると初めての気がする。

  大銀杏と鐘楼

 

高山を流れる宮川。

 赤い欄干の中橋上から
高山の売りは古い街並みだ。街並み自慢の街はたくさんあるが、高山のそれはなかなか広い範囲にわたって街並みが残っていることだ。風情があると言えばあるが、幾分単調でもある。

高山陣屋付近は観光地だ。朝市もあるらしい。
高山の歴史など白紙だったのでなかなか新鮮でもあったのだ。
陣屋門

戦国末、金森長近が飛騨を領する。江戸時代になっても6代まで金森家が領するが、金森は新潟へ転封され、飛騨は幕府の直轄地となった。幕府は高山に代官を送り込み、直轄地を支配する。代官は家族・使用人込みでやってきて、陣屋の役宅に住む。幕末の山岡鉄舟の父親は飛騨の代官で、鉄舟もここに住んでいたことがあったらしい。陣屋は元は金森家の別宅だった。明治以降は役場として使われ、なんと昭和40年代まで岐阜県庁飛騨庁舎であったという。

役宅の庭、中央に見える塀の向こうが米倉

 お白洲もあった。

隣接して大きな米蔵がある。蔵の中が展示場になっており、資料が面白かった。

 飛騨の産物としては何といっても材木で、これが欲しくて幕府は飛騨を直轄地にしたのだという。

 江戸からの代官の道中、中山道から入る。

 大原彦四郎という名が見えるが、かなりの曲者代官だったらしく、苛政であった。大原騒動という一揆が度々起きる。騒動にもかかわらず代官職が息子にまで世襲されているのは、幕府から見れば職務に忠実だったということだろうか。

 一揆の笠連判

山から切り出した木材を加工し、水運を利用し運び出す。加工の仕方、検収の仕方、なかなか厳格だったようだ。

飛騨のもう一つの産物、鉱山

神岡鉱山くらいしか思いつかなかったが、あちこちにあったようだ。
以前四国の別子銅山の規模の大きさに驚いたことがあるが、神岡はどんな規模だったのだろう。

蔵自体も面白い造りだ。


非常に大きな庇を持っている。


屋根は全て板葺きだ。蔵だけでなく陣屋全体が板葺きだが、葺き方は違うようだ。

 役宅の屋根
葺き板は榑(クレ)という。

 かなり頻繁に補修しているのか、山のようなクレの束もあった。


蔵の火防ぎ:通風孔を石でふさぎ密閉する。
土蔵は漆喰を塗っていないむき出しだ。


出入口の戸には漆喰が塗ってある。

 

 

 

 

 

 

コメント

飛騨巡り 明宝「磨墨」の里

2021-07-16 | 行った所

岐阜県はかつての飛騨と美濃が合わさったものだから広い面積を誇る。県境も長い。北から時計回りに、富山 長野 愛知 三重 滋賀 福井 石川の七県と接している。三重とも接しているのは意外だった。


道路網は整備されているが、長野同様、おそろしく長いトンネルが多い。どの地方も同じだろうが、災害の多い時代に道路のメンテナンスも大変だ。

東海北陸道郡上ICで降りる。郡上八幡にも惹かれるが、北上し明宝へ。郡上市のはずだが、意外に距離がある。合併したのだろう。明宝ハムの看板がある。
 着いたのは道の駅明宝磨墨の里、するすみ、あの平家物語、宇治川の先陣争いの磨墨だ。この地方がするすみ出生地とする伝承があるそうだ。死亡地とされ墓があったのは犬山市の羽黒だった。
 するすみ景季像


明宝郷土歴史民俗館、この村の不要品は全てここに持ち込まれたのか、と思うような所だった。

 古い小学校の建物だ。どの民俗資料館でも倉庫は持ち込まれた古道具でいっぱいだというが、ここまで展示してある所は珍しい。


もちろんするすみ関連のものなどないが、この辺は馬の産地だったようで軍に馬を供給していた。兵の召集令状は赤紙と呼ばれ、なんどか見た事はあるが、馬のそれは青紙というそうで、初めて見た。


ただ、満州では厳しい気候に内地から持ち込まれた馬はほとんど耐えられず死んだと聞いた覚えがある。

 馬に関するものもかなりある。 

磨墨誕生の地は気良(けら)という地名だ。


気良(けら)川が流れ、山の斜面がそのまま馬の牧だったのだろうか。関東の牧とは違うようだ。 

せせらぎ街道を北上、高山市内にはいる

コメント

飛鳥資料館・山田寺跡・石舞台古墳

2021-07-07 | 行った所

飛鳥には古来様々の謎の石造物があることで知られていた。あちこちに散らばって存在するので、実際に見て歩くのは大変だけれど、まとめて見れる場所がある。
奈良文化財研究所の飛鳥資料館の前庭である。複製ではあるが、最近のレプリカはすごいもんだ。

館内の展示は山田寺の発掘、再現がメインである。
山田寺の仏頭は興福寺にある。平重衡による南都焼き討ちで仏像等も失った興福寺は明日香の山田寺の仏像を強奪した。
その後、火災でこの仏像は身体部を失い、仏頭だけになったが、すっきりと特徴的な白鳳仏だ。大きな仏像だったのだろう。
創建者蘇我山田石川麻呂は乙巳の変の後、政権の一翼を担うが、まもなく追い出され攻められる。完成間近の山田寺の前で自殺したという。持統天皇の祖父である。
石川麻呂の悲劇はともかく、発掘された山田寺の遺構は人を驚かせるものだった。東回廊の木材がそのまま出た。木質は水中にあると形を崩さず残ることがある。残ったといってもかなりの処理は必要なのだが、復元できる状態にあった。瓦もまとまって出た。土砂崩れか何かで崩れたものがそのまま埋まっていたのだ。復元された連子窓付き回廊を見るのは感動ものだ。

山田寺の址は飛鳥資料館から近い。

 

石舞台古墳


石舞台古墳を訪れるのは3回目のはずだ。情けないことに先の2回の事をろくに覚えていないのだが、少なくともここまで公園のように整備されてはいなかったのは確かだ。畑地が広がる中に空き地のような区画があり、そこに巨大な石室が露出していた印象だ。


かなり広い範囲が公園として芝生広場が整備されている。入場料を取る。方形の敷地周りには周濠が巡っている。

この古墳は蘇我馬子の墓と云われる。ここまで封土がなくなっているのは例がない。壊されたのだろうか。

 ヤギさんがいたのがご愛敬

コメント

飛鳥寺・板葺き宮址・川原寺・橘寺・岡寺

2021-07-07 | 行った所

飛鳥寺


門前に着いた時間が早かった。まだ開いていない。待ってもよかったが、駐車場わきの住職が書いた案内板を読むうち嫌になった。飛鳥大仏は見たかったのだが。

飛鳥寺の西側、甘樫丘が見える位置の畑地の中に蘇我入鹿の首塚がある。

 五輪塔で少なくとも飛鳥時代に遡るものではないのは明らかだが、そう伝承されているらしい。
入鹿もまた、中大兄・中臣鎌足たちと共に唐への留学生僧旻に学んだ。旻は入鹿を一番秀でた弟子と認めていたという。


飛鳥寺からわずか600mほど南下すると(真直ぐ行ける道がないので迂回するが)飛鳥板葺きの宮跡がある。


 こここそが入鹿の終焉の地、乙巳の変(大化の改新)、入鹿暗殺事件の現場なのだ。

飛鳥板葺宮跡となって入るが飛鳥浄御原宮でもある。同じところに遺構が重なってあるのだ。

この板葺きの宮は、川原寺の写経室から見えるという。

 川原寺跡

川原寺も大きな伽藍を持つ大寺だったのだろうが、今は平安期に復興され弘法大師の伝承を持つ弘福寺(ぐふくじ)という小寺に過ぎない。しかし、境内に飛鳥時代の川原寺の礎石を持つ。めのうの礎石と称するが、これは大理石である。この礎石は、天智が、滋賀の石山寺付近から運んだと伝えられているらしい。藤原京の資料館で藤原京造営の木材が滋賀県から主に水運を利用し、運ばれていたという展示があった。同じようなルートで運ばれてきたのだろうか。

図のように川原寺の南に橘寺がある。

(古寺巡礼http://www9.plala.or.jp/kinomuku/index.htmlから)

 川原寺から見た橘寺

 厩戸皇子(聖徳太子)の誕生地と伝えられる橘寺

 

 案内板によれば玉虫厨子もここにあったという。


橘寺から岡寺へ。

 飛鳥川を渡る。

歩けばそれなりの距離があった。というよりこんな山だったなんて・・・


岡寺参道入口ともいうべき鳥居まではくればあと少しと思うではないか、ところがそこから登る、登る。

 坂の途中の岡本寺

 岡寺三重塔
草壁皇子がいた所というのを期待したが、何もなかった。ここまで高いところに宮があったとも思えない。

創建時の岡寺は現岡寺隣の治田神社境内だったと云う。

高さは同じだ。

コメント

奈良 飛鳥 甘樫丘と周辺

2021-07-06 | 行った所

飛鳥は奈良盆地の南端にある。田舎田舎した辺境と言っていい場所だが、ここが間違いなく日本の政治的中心であった時代がある。

端正な円錐形の三輪山とその東南の香久山、西南の畝傍山の中心に藤原京趾がある。そこから更に2kmほど南下し、わずかに東へそれたところに甘樫丘がある。標高148mというから山と云えば、耳成や香久山と遜色のない高さの山だが、裾野が広がって丘陵上になっているので丘と認識されているのだろう。全体の傾斜は緩いが、昔、盛夏に自転車で登り、随分と消耗してしまった覚えがある。


麓の駐車場から歩く。

 甘樫丘から北方耳成山 香久山はもう少し右手になる

 西方畝傍山、奥に二上山

甘樫の丘の南東から北西に掛けて飛鳥川が流れている。


あまり流量のある川とも見えない。

渡ってみる。

対岸の民家の屋根が吹替え中だ。この辺りの建造物には規制があるのだろう

飛鳥川に沿って少し歩くと、農産物直売所がある。

 そのすぐ脇が水落遺跡で、直売所の脇に資料館もある。


この辺り一帯、迎賓館のような役割だったらしい石神遺跡で、その一角の水落遺跡は漏刻、即ち水時計であったという。


石神遺跡には噴水のような施設もあったという。石人とか須弥山石とか言うものがその部品らしい。
石神遺跡と飛鳥寺は隣接していたらしい。


甘樫丘の北方の十字路の信号には雷の表示がある。交差点の北西部が雷丘となる。


おおきみはかみにしませば は人麻呂の天武へのヨイショ歌だが、雷のいわれは「雄略記」にある。類話?が日本霊異記の冒頭にあり、こっちの方が面白い。ちいさこべのスガルが雄略の命で落ちた雷を捕らえる。雄略は畏れ元の所へ帰させた。スガルの死後、雄略はスガルの墓に雷を捕らえたと書いた。雷は悔しがり、墓碑に落ちたが、木の割れ目に捕まった。雄略は雷を放し「生之死之捕雷栖軽之墓」(生前も死後も雷神を捕らえた栖軽の墓)と書いた。この丘が雷の丘になる。カミナリ様は7日間も呆然としていたという。笑ってしまった。日本霊異記なんぞわけわからぬ説教話ばかりかと思いきや、これはユーモアSF掌編だ。

雷から東に走る道は明日香桜井線とあった。スガルが走った道だろうか。

 

雷の西が豊浦だ。そのすぐ北が小墾田宮(おはりだのみや)に比定される。

 

 豊浦寺跡 向源寺という寺がある。蘇我稲目が仏像を置いた家の址と伝わる。

 難波池

難波池がここだったら、難波で拾い上げ、信濃まで担いでいった善光さんの話は何だろう?

 近くの甘樫坐神社

境内でクガダチをしたらしい。

コメント