物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200321 土 鳴海・墨俣

2020-03-27 | 行った所

名古屋市緑区鳴海付近に行ってはみたものの、さっぱり宿場らしいところは探せもせず、名古屋市街地では無理もないかと、名古屋高速・名阪で岐阜羽島ICへ。


墨俣川は長良川の事だ。墨俣とは河川が幾筋にも分かれて流れているところだという。湿地帯のような様相だったかもしれない。ただ川の流れそのものは浅かったのではないか。

墨俣の合戦と云えば羽柴秀吉が一夜城を作ったことが名高いが、もう一つの墨俣の戦いは源平合戦だ。富士川に負けた平氏が、倶利伽羅・篠原の間までに勝ちを拾いほっと息をついた戦いだ。


治承5年(1181年)西からの平氏総大将重衡、東の源氏行家と義円なのだが、この二人協力し合わず、義円は先陣を争い戦死、行家は相変わらずの戦略下手で大敗戦

義円公園の義円供養塔


そして墨俣は中山道と東海道をつなぐ美濃路の宿場なのだった。

もっと驚いたのは鎌倉街道があったこと。

不破神社という物がある。なんと壬申の乱の大海皇子に関係あるとか。

 



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20200321 土 土山宿・鈴鹿峠・関宿

2020-03-27 | 行った所

 

土山宿
それっぽい道を走ったものの今ひとつピンとこずにいたが、斎王垂水頓宮趾の看板を見つける。歩いてたどってみる。

最初はよくわからず裏側からアクセスしたような格好になったが、国道を渡り茶畑の間の道を行くといいのだ。


ここはとても気持ちのいい素敵なところだった。

何か作業している人達が今日、斎王行列のお祭りなのだがコロナで中止になったと言っていた。なまじ良いお天気なのが恨めしいと云った。


国道を西へ走り[あいの土山]という道の駅に入る。それなりの人が出ている。聞こえるのは斎王行列が残念の声。ここの宿場地図をじっくりと見、街道へ入る。この辺りの方がより整備されている。

道の駅の前に大きな神社が見え、田村神社という。坂上田村麻呂を祭ったところだとか。鈴鹿の盗賊か何かをやっつけたそうな。道の駅の近くで蟹が坂飴というのを竹の皮に包んで売っている。近くの坂で悪さをする蟹の妖怪もいたそうな。

街道は田村神社の前を通り山へ入っていくようだが通れないので国道を行く。1号線だ。鈴鹿越えになる。

国道はトンネルであっさり鈴鹿峠を通過。悔しいので車を止めれるところを見つけると降りて歩いた。道標には0.6キロメートルとあったのだがその倍はありおまけに登山道みたいなものだった。


途中の坂ノ下というのはとてもこんなところに宿場があったとは思えないようなところだった。

ともかく、東の箱根、西の鈴鹿の難所越え。

関宿は一番観光化が進んでいるようで、観光客が多い。コロナで閑散としているはずがこれなのだから、普通の連休ならさぞ混雑するのだろう。

時代劇の書割みたい。

古代の三関という物がある。愛発。不破・鈴鹿だ。壬申の乱後作られたという。愛発は北陸道、敦賀の南で滋賀県境辺り、不破は関ヶ原でこれは確定している。鈴鹿の関だがあの峠の中というよりこの関宿当たりらしい。ここは大和街道との追分となる。鈴鹿越えの道は阿須波道と呼ばれ大和街道に比して新しい道で平安時代になって使われる。壬申の乱のころにはなかった。

関からは高速を使い、七里の渡しを伊勢湾岸道で通過する。鳴海に向かう。

 

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20200320 金 石部宿・水口宿

2020-03-27 | 行った所

9時過ぎ出発、多賀PAでラーメンを食べ、竜王アウトレットへ。空いてるはず、と思って行ったが、コロナ禍を物ともしていないような集客力。ただ営業時間は短縮されている。ぶらぶらと買い物。
竜王から栗東IC、少し戻って石部へ

石部宿
現代の自動車の走る道から東海道を行くのは難しい。石部の歴史民俗資料館をナビに入れたのだがそれらしいところを走ったのやらちがうやら。だいぶ山に入ったようなところに着いた。広い運動場などもある公園だ。古民家が何軒か移築されている。入口の管理事務所で料金を払い入る。古民家や庭園を過ぎて資料館だ。外からは電気もついていないように見える。しかし自動ドアが開き点灯した。無人だ。意外にケチで撮影禁止。しかし中の展示はなかなか。大きな地図でようやく各宿場・街道関係を理解する。江戸時代のインフラだ。
石部の宿は京都から下ると草津で東海道・中山道が分かれ、次の宿。最初の宿になるところにある。だいたい一日の行程は8里だったというが、9里近くあるようだ。京からだと逢坂山はあるものの大体において平坦だからこれくらいは行くのだろう。


庭に植わっている松はうつくし松というのだそうだ。あまり大きくはないが下の方から枝分かれしているように見える。
移築された民家の一つに八石教育所という者があり大原幽学という人の弟子の住居だったものだが、大原幽学は幕末農村生活改良指導者で最初の農協を作ったそうだ。知らなかった偉大な人がここにもいる。
公園を降りて街道を行く。要は両側に民家の立ち並ぶ狭い道路だ。

宿場入口には見付と呼ばれるものだろう、街道が直角に折れ曲がる部分があった。防御を兼ねているのだろう。自動車の通行は可だが駐車は困難。かなり整備をしたのだろう。それらしい雰囲気は確かにある。小さな広場になったところにあった案内板には「お半長右エ門」の話があった。ここの宿での話だったらしい。

東海道を下っているつもりがいつか見失ったらしい。ここかと思ったら「新街道」の案内があった。引き返し再トライしたがよくわからないまま走り、道標を見つける。横田の渡しとやらはわからなかったが水口は近いらしい。

水口宿
石部と同じように整備されている。三筋の街というらしく狭い通りが三つに分かれて走っている。分かれ道にからくり時計がある。

そこを抜けて今夜のホテルへ走る。
2009年11月にMIHO-MUSEUMに行った時、昼食を取った店のすぐ近くに水口宿云々の案内板があったのだが、どこだかわからない。
翌朝、水口城址の資料館の外観だけ見て水口を離れる。次の宿場は土山だ。

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20200308 西八条邸址

2020-03-13 | 行った所

梅小路公園、京都駅を出て西へ向かうJR線が山陰線が北に分かれていくあたりだ。広い公園で京都水族館も隣接。
この辺りに清盛の西八条邸があったという。公園の案内図に描いてなく、だいぶうろうろしてしまった。


法住寺殿にしろ、白河殿にしろ、ここにしろ、広いこと広いことあきれるばかりだ。
例えば東寺へ行ったりすると、充分大きな寺だと感じる。立派な塔があり、弘法市も開かれる。しかしこの邸はもっと広いのだ。
ここには時子が常時住まいした。安徳も行幸した。平家物語によれば、清盛は終日この外孫と遊んだという。

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20200307 下賀茂神社

2020-03-13 | 行った所

八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の兄、鴨次郎義綱は賀茂神社で元服したのだが、上賀茂だったのだろうか、下賀茂だったのだろうか。

下賀茂神社、実はここも数十年前に一度はきたことがあるはずだが、見事なくらい何も覚えていない。
葵祭は賀茂神社のお祭りと知ってはいたが、行列を群集の頭越しにちらりと見たことがあるだけだ。
流鏑馬もしていたのだな。馬場では子供たちが自転車で遊んでいた。

糺の森と呼ばれる広い敷地。神のものとされたからこそ残ってきたのだろう。
その中で流れていた小川が「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりけり」のならの小川であったことは帰ってから知った。

日本の歴史は災害の歴史といってよく、平家物語の時代もまた多くの災害を刻む。安元の大火・養和の飢饉・元暦の地震、天災と人災がまじりあい、より弱い者がより悲惨さを極めていく。
この時代の災害に言及したもののほとんどが方丈記に触れている。鴨長明は自分が見聞きしたありさまを率直に記している。「行く川の流れはたへずして」の冒頭こそは記憶にあるが、こういう時代の証言者であるとは知らなかった。
方丈記の作者鴨長明はここの禰宜の家系だったそうだ。河合神社に方丈はあるが長明は結局ここの禰宜にもなれなかったらしい。

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20200307 鹿が谷

2020-03-13 | 行った所

安元3年(1177)鹿ケ谷にあった俊寛僧都の山荘にて 藤原成親・平康頼・西光ら+後白河が平家への「謀反」を企てる謀議を開いた。多田行綱の内通を受けた清盛は成親・西光を殺し、康頼・成親の子成経・俊寛を鬼界が島へ流す。
平家物語では、酒を飲み、歌い踊るという陰謀の会議というよりは、宴会をしているとしか思えない様子が著わされる。
なんとも眉に唾つけざるを得ないのは、あまりに清盛にとって都合のいいタイミングの謀議露見であることだ。比叡山の強訴に怒った後白河に比叡を攻めるようにせっつかれ、苦り切っていた清盛にとって、一挙に形勢を変えるチャンスとなった。
後白河院政派と二条親政派の間をアナタコナタしていた清盛ではあるが、二条は若くして死んでしまう。清盛室時子妹滋子が後白河の寵妃となり高倉を産み、後白河・清盛の蜜月が生まれるのだが、これも長くは続かない。滋子も若くして死に、院近臣たちと平家は人事・所領の扱いを巡って対立する。
平家の専横を何とかしよう、という「謀議」ならば必ずあったであろう。しかしこの時期山荘にたいそうなメンバーが集まり騒いでいたかというとありそうには思えない。あったとしたら、もっと日常的で、ひそやかで、シリアスな集まりだっただろう。
安元2(1176)加賀の鵜川で西光の息子が引き起こした鵜川騒動がある。鵜川寺→白山→比叡山と騒ぎは強訴へと発展する。これは院近臣と叡山との対立であり、後白河が比叡山と事を構える口実となる。比叡山を討つと言って兵を集め、実は平家を攻める。とここまで考えていたかどうか。

哲学の道の東側山寄りに鹿が谷という地名がある。霊鑑寺という寺がある。その脇の坂の入口に「この奥俊寛山荘址」の碑がある。
かなりの急坂である。民家の尽きる辺りまで登ったがそこで引き返す。山荘跡地らしきものはさらにこの上らしい。道も舗装が途絶え登山道のようになる。もう少し用意が必要だ。

こんなところまで酒・ご馳走運んで宴会するかな?他の者はともかく後白河は輿だ。青蓮院にあったような8人がかりで担ぐものだろう。比叡や鞍馬・熊野にも相当出かけているのだから、このくらいは平気かもしれないがお忍びは難しいかも。いざとなればさっさと逃げだす後白河の事だから徒歩だったかもしれないが。

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20200307 白河

2020-03-12 | 行った所

琵琶湖疎水は明治になって作られたものだが、その疎水沿い、冷泉通り熊野橋付近に白河南殿址がある。北殿址は丸太町通り沿い、京大熊野寮の敷地内になる。

行ってみたところで何もないのであるが、意外に現御所に近いかな、と思う。本来の平安京内裏からは京洛の外の位置だったのか。

引き返し、冷泉通りを岡崎の方へ向かうと得長寿院跡がある。

平家物語第1巻、冒頭の祇園精舎は文字通りの前書きとすれば、物語が始まる最初は、殿上の闇討ち。冒頭、忠盛が鳥羽のために得長寿院を造進し、三十三間の御堂を建て、千一体の御仏を奉ったことが語られる。
忠盛は但馬の守になり昇殿を許される。これを面白くないと思った公卿らがつまらぬ虐めまがいを計画し、却って恥をかくのが殿上の闇討ちである。

更に岡崎公園へ向かう。この辺りには六勝寺と呼ばれた勝の字を持つ六つの寺があった。最大のものは法勝寺で、九重の塔があったという。
平家物語第12巻は冒頭で元暦2年(1185)の大地震を伝える。白河の辺、六勝寺みなやぶれくづる。九重の塔も上六重を振り落とす。得長寿院も、三十三間の御堂を十七間までふりたおす。
つまりそのころまではこれらの建物も平家の栄華を見てきたわけだ。平家が滅び、建物も崩れ去ったのを都の人々は無常の思いをもって見るしかなかったろう。



法勝寺址は今は私学振興会かなんかの持ち物らしい。

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20200307 青蓮院

2020-03-12 | 行った所


青蓮院へ向かう。ここも何十年ぶりだ。きれいな庭のあったところ、というほどの記憶しかないが、そのおぼろげな記憶は正しかったようだ。春の日差しが降り注ぐ縁でぼうっと庭を見る。

平家物語の成立に切っても切れない縁があるであろう天台座主の慈円が門主となっていた。大懺法院もこの近くに作られていたらしい。

信濃前司行長、徒然草で平家物語の作者と伝えられる。但し藤原行長、下野前司であったらしい。この人が慈円の援助で書いたと。
但しもちろんいろんな説がある。慈円その人を作者に充てる人もいる。

この寺院は門跡、皇族等が門主になる寺で格式が重んじられる。内裏を模したような部屋があった。宸殿である。簾内というのはこれか、と思う。

孝明天皇常用の輿、というのがあった。重そうだ。たぶん8人がかりで担ぐ。ちょっと外出したくてもいちいちこんなものに乗らなくてはならなくてはさぞめんどくさいだろう。

雛道具の特大版かと思うような長持ちなどもある。絵巻で行幸の行列にはこんなものも描かれていた。

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20200307 三十三間堂・法住寺

2020-03-12 | 行った所

小松谷から東大路へ出て少し下って東山七条、三十三間堂へ行く。何十年ぶりだろう、あの頃は後白河も清盛もとんと興味がなかった。むしろ通し矢の方に関心があった。
駐車場が空いている。入口辺りはだいぶ変わっている。東側の塀を修復したのだろう、朱塗りの色が鮮やかだ。
驚いたことに桜が咲いている。梅はもう終わりだ。

中の長い長い内陣を埋め尽くす千手観音の群れはやはり人を圧倒する。がしまいにはなんだかうんざりしてしまう。天井の一部に彩色が残っている。この通りに復元するとここも平等院のような極彩色になるのだろうか。
三十三間堂は清盛が後白河のために建てたと言っていいものだが、これにはモデルがある。現存しないが、得長寿院、清盛の父忠盛が鳥羽のために建てた三十三間堂である。

三十三間堂の正式名称は蓮華王院本堂という。東側に法住寺がある。今は京にはありふれた寺の一つにしか見えないが、三十三間堂も含めこの辺り一帯が法住寺殿と呼ばれ、後白河の本拠となっていたはずである。宝蔵もあった。後白河は絵巻物なども含めた「宝」を集めていた。頼朝に見せようとしたが、鎌倉殿は興味を持たなかったと云うモノ。



寿永2(1184)年11月法住寺殿に参集する大軍に義仲軍が襲撃する。精鋭義仲勢の前に寄せ集めた後白河方はひとたまりもない。鼓判官平知康とやらは院宣に逆らうと罰が当たるとか言って踊ったというのは酷すぎるが、ともかく指揮系統のままならぬまま、戦いそのものは義仲の圧勝、法住寺殿は火に包まれる。但しこの時三十三間堂は焼けてはいない。


法住寺脇に後白河陵があり宮内庁の管轄、お役所らしく土日は入口が締めてある。




その隣は養源院、淀君が父浅井長政の菩提のため建てたとか。

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20200307 小松谷

2020-03-12 | 行った所

滋賀から山科を通って京都に入る。普通1号線を真直ぐに大谷廟の脇を通り五条に出るが、今回は京都市街地に入る前に左に道をそれた。
京都女子大の付近に出る。この辺りが「小松谷」というらしい。小松谷平重盛の屋敷があったのは正林寺という寺の所だという。その寺は見つけたが幼稚園併設で門が閉まっていた。立派な楼門のある寺ではある。

ここは京へ入る東南の入口その押えが重盛だったのだろう。

平家物語第3巻「灯篭の沙汰」には重盛が建てた四十八間ものの精舎が出てくる。一間にひとつづつの灯篭、6人の美女を配し毎月14・15日には点灯し浄土さながらであったっという。
四十八間と言えば三十三間堂より遥かに長大である。三十三間堂は長辺約120メートル、それを考えれば180メートルほどにもなるのだろうか。三十三間堂のように内部を埋め尽くすように千体千手観音を置いたわけではないから雰囲気は全然違ったろうが、壮観ではあったろう。
それもこの辺りにあったのだろうか。

清盛の長男として重きをなしてきた重盛だが、清盛が時子を娶り、時子の妹(滋子:建春門院)が後白河に愛され、高倉を産み、高倉に時子の娘(徳子:建礼門院)が入内する中で、嫡男としての地位が揺らいでいく。鹿が谷事件で妻の兄成親が殺され、立場は一層悪くなる。長男維盛の妻は成親の娘でもある。
重盛は病を押して熊野詣をして帰洛してほどなく死ぬ。胃潰瘍か十二指腸潰瘍での衰弱死と言われる。
平家物語では灯篭の沙汰の前後に重盛のエピソードが集まる。

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