物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

刀工と鍔師

2023-10-29 | 行った所

福井市街地を東西に走る桜通りに面し、鍔師の墓がある。住所表示でいえば照手1丁目、通称福井大仏の大きな観音像のある光照寺の斜め前、大仏前交差点からちょっと西へ行ったところの西厳寺の前である。

江戸時代の鍔師高橋記内の墓なのだが、個人の墓ではなく、何代かの記内の合葬墓だそうである。
「図説福井県史」によれば、「鍔師記内の初代は石川氏で、康継の作刀に竹・竜などの彫刻を施し名声を得ていた。二代目記内より高橋を姓とし、代々鍔師として福井藩より扶持を受け、天保年間(一八三〇~四四)の「給帳」では「三人扶持 鍔師記内」とある(松平文庫)。越前彫、記内彫と呼ばれ、丸形の鉄地に図柄を肉彫透かしにした鍔が多くみられる。」

精巧な透かし彫りを得意としたらしい。

「康継の作刀に竹・竜などの彫刻を施し名声を得ていた」とある康嗣については同じ「図説福井県史」に以下のことが記されている。
「福井藩の刀工初代康継は、通称を市左衛門といい、近江坂田郡下坂村の鍛冶大宮市左衛門兼当の孫で後に姓を下坂と改めている。諸国を遊歴して技を磨き、天正年間(一五七三~九二)に越前に定住している。初め一乗谷に住し、次いで北庄に移り結城秀康の知遇を受けることになった。やがてその作刀が秀康の父徳川家康の目にとまり台命で江戸に召致された。以後康継は江戸・北庄間を往復している。康継は刀銘に「肥後大掾藤原下坂」と切っていたが、家康の庇護を受けるに至り葵紋と「康」の一字使用を許され、「越前康継」を刀銘としている。康継の刀は南蛮鉄を使い、作風には家康好みの渋さがみられる。康継は江戸新刀の開祖とされているが、その影響で当時の江戸の刀工には越前出身者が多かったといわれる。康継が弟子の養成に力を尽くしたことによるものであろう。初代康継は元和七年(一六二一)に没した。初代の没後長男市之丞康悦が二代康継を継承している。二代目も父に劣らぬ技術の持主で秀作を残している。
 下坂家の子孫は三代目より江戸・越前の二家に分立した。江戸下坂家は康悦嫡男の右馬助が継ぎ、越前下坂家は初代康継三男の四郎右衛門が継承した。江戸・越前両下坂家では交代制で「康継」を公称したようで、越前下坂家では三代・五代が刀銘に「康継」と切っている。
 越前下坂家は江戸期を通じて福井藩より扶持を受け、明治二年(一八六九)の廃業まで九代続いた(図36)。嘉永五年(一八五二)の福井藩給帳では、「切米廿石 下坂市之丞」とあり、その弟子「鎚打」二人に対しても、「銀百弐拾匁 一人扶持ツゝ」が給与されている(松平文庫 資3)。」

天正年間(一五七三~九二)というのはなかなか忙しく、天正元年には朝倉氏が滅亡、越前は織田信長のものとなるが、一向宗の抵抗は激しく、元は朝倉の家臣だった、前波や朝倉景鏡なども敗死し、平安時代から僧兵を擁し一大勢力であった平泉寺も焼き滅ぼされた。織田と一揆との戦いは石山や長島が有名だが、越前でも徹底したものであった。一方柴田勝家は新しい越前の中心として北の庄に城下町の建設をすすめていた。
天正10年には本能寺の変、11年には賤ケ岳の戦いだ。
関ケ原後の慶長5年(1600)が結城秀康の越前入府となる。

康嗣はいずれの時点で越前入りしたのだろうか。
一乗谷朝倉氏遺跡からは、刀装具の鋳型などの工房址が発掘されている。刀鍛冶も必ずやあったであろうが、そこに康嗣はいただろうか、焼け野原の一乗谷を見ただろうか。朝倉氏と深い関係があったとは思われない。新興城下町北の庄での飛躍を期したのであろうか。
秀康の入府に見事に知己を得て抱えられたのであるから、念願は達したのであろうが、更に大御所様にも気に入られた。秀康は江戸で実父と弟に新規に抱えた刀工の自慢などしたのだろうか。

康嗣の墓は、福井市宝永2丁目にある。高橋記内の墓から1.5キロ程東になる。寺はないが昭和の顕彰碑がある。


碑によれば、古い刀の打ち直しなどもしていたようである。

福井県史の記述でちょっと気になるのが<南蛮鉄>である。日本刀には玉鋼が使われる、というのを聞いてきたのではなかったか。たたら製鉄で作り出される玉鋼を鍛えに鍛えて作刀する、というのではなかったか。それではなく南蛮鉄・・・それが家康の好みであったらしいのだが。
南蛮鉄は輸入品であったらしい。オランダ渡りとはいえ中国や東南アジアで製鉄されたものをいうらしい。どのように流通していたのか。康嗣は「肥後大掾」を名乗っていたくらいだから熊本にいたこともあったのだろう。熊本と長崎は近いな、と思ってもみる。

ところで、浮世又兵衛こと岩佐又兵衛勝以の墓が、福井市松本3丁目にある。移築されたものらしいが、康嗣の墓から北西へ500メートルくらいである。

又兵衛が死んだのは慶安3年( 1650)、康嗣は元和7年(1621)、又兵衛の晩年は江戸、康嗣も江戸と越前を行き来したらしいが、福井で暮らした時期が重なることはなかったろうか。絵師がいれば、画工だけではなく、絵具・絵筆・画布・表装に関わる人たちがいただろう。刀工・鍔師がいれば、研ぎ師・鞘師・刀の拵えをする人たちがいただろう。そんな人たちが袖すり交わす城下町をちょっと想像してみるのである。

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魚津埋没林博物館・杉沢の沢スギ

2023-10-22 | 行った所

蜃気楼は、大ハマグリが大いに気を吐いて見せる幻の楼閣などというものではないとは知ってはいるが、見たことがないのでイメージしにくい。
魚津の海岸には蜃気楼がみえるという。

富山県東部に大きく扇状地を形成した川は、第一に黒部川、入善町と黒部市の扇状地での境となっている。朝日町には小川、魚津には片貝川。その他にもいくつかの河川がある。魚津の海岸から遠く見えるのは能登半島。
魚津海岸 能登半島が見える
*大伴家持の歌碑
「越の海の信濃の濱と行き暮らし 長き春日を忘れて思へや」
家持は越中の国司だった。高岡市にある万葉歴史博物館に詳しい。

蜃気楼の写真を見ると、対岸の風景が縦に引き伸ばされたように揺らぎ見え、それは富山火力発電所なのだという。ちょっと位置関係がつかめない。


写真と説明だけではわからなかったのだが、埋没林博物館には蜃気楼のメカニズムを示す装置もあって、それをのぞいているうちに、何とはなしに納得したような気になった。本当にモノが違った風に見えてくるのだった。魚津では子供のころからこうしたものに触れるのだろう。
この博物館は、ビデオも秀逸。蜃気楼と埋没林の二本立てであったが、どちらもよかった。
 埋没林博物館

*埋没林博物館屋上のパネルから


この埋没林は弥生の小海退を示すものらしいが、誰もが知る縄文海進に比べ小さなものだったのだろう。

埋没林はスギを主体としたものだ。
この海岸線まで茂ったスギ林の痕跡は、黒部川を東に越えた入善の海岸近くに残っている。

杉沢の沢杉 漢字で書くとまるで回文のようだ。


気候の変動や人間の活動はスギの林にも大きな変動をもたらす。海岸部に残ったスギ林は湧き出す地下水により、命脈を保つが、湧水は栄養分に乏しく、スギはもはや通常のごとく種子での世代交代ができない。
*伏状更新
倒れた幹から根が出て、芽が出てまた新たな幹が育つのだという。つまりこの杉林全体がクローンの集合体だ。こうした世代交代は高山でのみ知られる。ここの杉は杉木立としてイメージするスギとは似ていない

資料館があり、そこから林の中の木道を進む。秋のよく晴れた日中という条件とはいえ、素晴らしく気持ちのいい所だった。木道の下の沢のせせらぎ、林の中を泣きかわす小鳥たちの声。


この林はどれほど広がっていたのだろう。沢杉から1キロ程東のじょうべのま遺跡は、平安時代初期の荘園の遺跡だが、スギ林を開拓した場所でもあるようだ。
じょうべのま方面 風車の左隣が遺跡になる。画面左端が杉沢

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朝日町・入善町 まいぶんKAN 不動堂遺跡 じょうべのま遺跡

2023-10-20 | 行った所

宮崎城の北の海岸をひすい海岸という。翡翠が採れるのであるが、原石の露頭があるわけではない。露頭は宮崎の北、越後の糸魚川を流れる姫川上流にある。
姫川を流れ下った翡翠は海に流れ出る。それが波に打ち寄せられ、宮崎の海岸に打ち上げられるのだ。数千年前から人は光に透かせば半透明に緑色を帯びる石を貴重な宝と認識し、加工し、身に着け、または交易品として用いた。

この辺りでは主に北陸自動車道建設に伴い行われた発掘調査で、境A遺跡なども著名だが、まいぶんKAN(朝日町埋蔵文化財活用センター)に入ってすぐ目につくのは浜山玉つくり遺跡のジオラマである。古墳時代後期の玉作りの工房址だ。


管玉や勾玉の製作過程のわかる展示もある。管玉のものは何度か見たが、勾玉の製作工程は初めて見る気がする。

富山から新潟・長野にかけて、縄文時代中期、火炎土器とも称される口縁部に特徴的な装飾をつけた豪奢な土器がつくられる。この資料館にもいくつも展示してあった。
縄文の大規模住居址として知られる不動堂遺跡は、この資料館から西へ400メートルほどで、歴史公園の一角になる。

 不動堂2号住居址復元

 

入善町の海岸沿いに、風力発電の風車が建っている。いくつか並んでいる風車の一番西の風車の西側にじょうべのま遺跡がある。ここは東大寺の平安初期の荘園遺跡だといわれる。荘園の管理をした建物とか倉庫とかの跡だ。
 驚くほど海が近い。波しぶきが見えるほどだ。この写真の右側に風車がある。当時の立地はどうだったのだろうか。見たところ港になるようなところはないようなのだが、ここに集積した物資はどうやって運び出したのだろう。復元イラスト図では川があり舟で物資を運んでいるように見える。図にも河川址があったようだ。






 くろべ牧場からの遠景
風車の左手がじょうべのま遺跡となる。更にその左手2キロ程で杉沢の沢杉がある。

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越中宮崎城址

2023-10-19 | 行った所

平家物語第7巻「篠原合戦」砺波山、倶利伽羅峠で木曽義仲の奇襲になすすべもなく敗れた平家、なんとか手勢を纏め、加賀篠原に陣を敷く。しかし戦いがはじまると「高橋判官長綱500余騎の勢、国々のかり武者なれば一騎も落ちあへず・・・」平家の中でも名の知れた侍大将の一人高橋長綱の手勢も各地方からの寄せ集めだったので誰もついてこない。高橋は越中の住人入善小太郎行重と組討になる。膂力の勝る高橋が入善を押さえつけるが、入善小太郎18歳と聞いて手を緩める。高橋の死んだ息子と同年だったからだ。しかし入善はそこで高橋にとびかかり、更に入善の家人も駆けつけ、高橋を討ち取る。立場・結果は違っているが、一の谷で敦盛を討ち取る熊谷直実と高橋長綱の心理は似ている。物語作家が描く戦場での武者の有様だろうか。
源平盛衰記だと少し違った展開となる。入善小太郎は華やかな鎧装束で17歳、名前も違って安家となっている。高橋と入善は上下になって組討、高橋優位の展開のところへ、入善の叔父の南保次郎家隆が駆けつけ、高橋を討つ。しかし入善は高橋を討ち取ったと主張し、南保と争う。義仲は南保の言い分を認めるが、入善にも別の賞を与える、という裁定を下す。
篠原合戦は、髪を染め故郷に錦を飾った斎藤実盛が討ち取られたことで有名な合戦だが、高橋長綱の他にも俣野景尚なども戦死している。
 篠原合戦址
ここでの入善小太郎の振る舞いは些か卑怯じみてはいるが、首を、恩賞を争うのはこの時代の通例、戦のない時代の武士道などとは違うのだ(「戦場の精神史」佐伯真一)
入善小太郎の父宮崎太郎長康(or重頼)は越中最東、宮崎の城にあった。直ぐ東へ行けば親不知、将に越中越後の境の要害の地。ここで宮崎太郎は木曽義仲に与し、畿内を脱出してきた北陸宮を迎え御所を造ったという。火打(燧ケ城)合戦に出てくる宮崎は宮崎太郎だろう。入善も出てくる。彼らは越前今庄に赴いたことになっている。
北陸宮は以仁王の第一子、母は八条院の女房らしいが、八条院の寵臣三条局とは別人だ。三条局が以仁王の子を産むころには、子供ともども奈良に離れたようだ。以仁王の乱があった時には、奈良の子は既に出家していたようだが、奈良を脱出した。手引きしたのは藤原重房(or前讃岐守藤原重季)といい、以仁王の乳母夫だったという。以仁王が三井寺に向かった時同行した乳母子の宗信の父親なのだろうか。重房(or重季)は北陸に誰か伝手があったのだろうか。
義仲は北陸宮を奉じ、平家を蹴散らし入京するのだが、宮は後白河院に相手にされず、義仲の敗死に姿を消すが、後に頼朝により京へ戻されたようだ。死んだのは嵯峨野だという。昭和になって嵯峨野の墓?から分骨?で宮崎城に墓が造られたという。

宮崎城は山頂の本丸から三の丸まである山城だが、治承寿永の内乱時にどの程度のものがあったのかわかっていない。戦乱の度に繰り返し使われた城であっただろう。戦国時代末期、上杉勢と織田信長の武将たちが対峙した時に、宮崎は上杉方の城だった。明治時代には日本陸軍もここを使ったらしい。昭和以降の公園化でさらに手を加えられているのだろう。

城址公園の駐車場から七曲橋というのを渡り、石貼りの坂道を登って行くのである。雨の後で石が滑っている。その上に濡れ落ち葉が貼りついているという素晴らしく歩きにくい坂が曲がりくねって延々と続くのである。それだけに登っただけのことはあって眺望が広がる。

 二の丸から南西方向 右奥に海、水平線に淡く長々と能登半島。中央部は広々とした扇状地がみえる。入善・黒部・魚津が広がる。入善氏は承久の乱で京方へ着いた。鎌倉にはなじめなかったのか。その後子孫の舟見氏が住んだ館跡があるそうだ。
 北陸宮模墓
 宮崎太郎供養塔

 石積
 本丸への石段
 本丸から北方向 宮崎海岸(ひすい海岸)
 宮崎城説明版

 方向図

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矢田野エジリ古墳 小松市埋蔵文化財センター

2023-10-16 | 行った所

小松市埋蔵文化財センターの呼び物は二つ、矢田野エジリ古墳出土の埴輪群と八日市地方(ようかいちじかた)遺跡出土の弥生時代を中心とした木製品を含む多彩な遺物だ。
特にエジリ古墳の北陸では珍しいとされる人物埴輪がセットで出土していることで注目を集めた。

馬とそれに乗った人物、馬を引く人がセットで2組、巫女らしいのが4体、膝まづく人1体、立っている人2体。対になって並んでいたのだろうか?立っている人の内1体は帽子をかぶっているが、もう一体の頭には王冠状のギザギザがついている。頭頂部はなく、上から中が覗き込める。このような例は他にもあるのだろうか。
埴輪祭祀・葬送儀礼を思わせる埴輪たちで、すぐ今城塚の大埴輪群を連想してしまう。今城塚の被葬者に擬されているのは継体天皇(オヲド王)だ。
*加賀国府物語館の展示
また継体の母系の祖母が加賀の江沼の出身とされることから、その関連を考えているようだ。だが、北陸にはこの古墳以外人物埴輪がない。特に江沼以上に関係が深かったであろう越前北部に埴輪祭祀を思わせる人物埴輪の出土を知らない。更に何人もの妃を出した近江の三尾野氏のいた近江湖西の高島市周辺にもない。尾張はなくもないようだが。
ただ、エジリ古墳の埴輪群の発見は偶然の要素が強い。主体部どころか墳丘まで失い、古墳と認識されていなかった場所から周濠跡が見つかり、その周濠跡に埋まっていた埴輪群だったのだ。ということはまたどこかで新たな発見の可能性はあるのかもしれないのだ。あまり可能性が大きいとは言えないだろうが。
*矢田野エジリ古墳の発見
この古墳は三湖と呼ばれる柴山潟・木場潟・今江潟に囲まれた場所であった。潟湖と呼ばれる汽水の湖が浅く海と陸をつないでいた地形だ。潟湖は縄文時代から港として利用されてきた。ここもそうだったのだろう。
 矢田野エジリ古墳の周辺地形
八日市地方遺跡もまたこの潟湖を利用してきた人々の住んだ痕跡なのだろう。環濠集落として防備を固めていた。木製品の数々は巻向もかくやで、楽浪海中の倭人たちで百余国をなしたクニは大和や北九州・瀬戸内・出雲に限らなかった、ということなのだろう。

エジリ古墳の埴輪群は埋蔵文化財センターにあるのだが、全部が展示されるのは珍しかったらしい。埴輪と地方遺跡に関する資料ももらった。加賀立国1200年に因んだサービスだったらしい。ラッキーであったのだ。

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加賀の国府 小松市

2023-10-15 | 行った所

平家物語第一巻「鵜川軍(いくさ)」は、加賀の国府あたりで国司と白山衆徒との対立が一大騒動へと発展していく話だ。
時の加賀国司は、後白河院寵臣の西光の息子師高、目代は師経。国司側は白山傘下の寺社を勢力下におき、荘園の上りが少しでも多く欲しい。白山側は以前からの免税・役人の立ち入り禁止を権利として主張する。
国衙近くの鵜川寺に国司・目代の手下どもが乱入、湯殿で馬を洗う狼藉。寺側は馬の脚を叩き折るなどして対抗。いったんは退いた国司側だが、兵を集め、寺に火をかけ、寺は一宇も余さず焼亡してしまう。寺は白山に訴え、翌日には白山三宮八社の衆徒が国衙の目代館へ押し寄せる。しかし目代たちは既に京へと引き上げ、館は無人であった。おさまらない衆徒たちは、神輿を担ぎ京へと向かう。白山は延暦寺の末寺になっていたことから、比叡山を巻き込み、加賀の国司目代の死罪を求め、神輿を都大路へ繰り出す強訴騒ぎとなる。
時は安元2年(1176)、加賀の国府は小松市府中町辺りの事。国衙に付随する総社は石部神社に推定されている、ということで行ってみたことがある。
川を背にして立つ小高い所にある神社で、麓に鳥居と昭和60年建立の鵜川事件にも言及した碑があった。夏の頃で石段を上ると猛烈な藪蚊の襲来にあった。小ぶりな社殿以外何もない神社であった。
源平盛衰記には同じ事件を「遊泉寺喧嘩の事」とある。鵜川寺と遊泉寺は同じ寺らしい。現在鵜川も遊泉寺も地名としては残っているが、寺はない。遊泉寺温泉という施設はあるが、大型の銭湯のようだ。鵜川事件・遊泉寺事件・安元事件と呼ばれるこの事件については、源平盛衰記の方がかなり詳しく、白山の神輿が上洛する過程も、比叡山とのやり取り含め詳しい。

小松市に加賀国府の資料館ができたらしい。古墳の資料館の名前を変更したらしい。ピンとこなかった。古墳の資料館と国府がすんなり結びつかなかったのだ。てっきり後期の群集墳の資料館だと思っていたのだ。しかし、終末期の古墳だった。それも飛び切りの切り石をきっちり積み上げた石室を持つ、どうしてこんなものがここにあるのだといいたくなるような古墳だった。
資料館内に石室の一つが復元されてあった。切り石積みだけでなく、天井はドーム状になるらしく、朝鮮半島との関連もありそうだという。
*河田山33号石室復元 
*河田山33号説明版
*切り石積み説明版
*河田山12号 石室
*河田山12号 説明版
資料館の脇に登り口があり、河田山12号墳へ登れる。方墳である。切り石の切り欠きは12号の石室内で確認できる。
 *河田山古墳群案内

古墳の資料館だっただけに、河田山ばかりでなく古墳時代全般についてもかなり詳しく、横穴式木室なんて初めて知った。
*横穴系墓制
地形の成り立ちからのアプローチもあり、この地が潟湖を3つも持つ地形だったのも興味深い。
*小松の地形

加賀は焼き物が得意だ。これが九谷焼などの下地となっていた行くのだろうが、塔の相輪を陶器で造るか?と思ってしまったが、結局これは成功したのだろうか?金属の装飾品を作る職人はいなかったのだろうか。
*陶製相輪 窯跡から出た失敗品らしい

鵜川事件に関する展示もちゃんとあった。
*安元事件
*平家物語絵巻から
*白山勢力図

興味深い展示が多いのだが、詰め込み過ぎて狭苦しい感はある。しかし無料でここまで見せてくれて写真OKはありがたい資料館だ。

2023年は加賀立国1200年だそうだ。北陸道は漠然と越(こし)の国と呼ばれた。やがて越後、次いで越中、能登が切り離される。広すぎ、不便すぎて統括できなかったのだろう。越前と加賀に分かれたのは、加賀が独立したがったのかと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。越前の国司側が切り離しを願ったようだ。弘仁12年(821)紀末成が越前国司になった。加賀までには大河が4本もあり、巡回はなかなかできず、加賀の郡司はいうことを聞かず、手を焼いていた。それで越前7郡の内江沼と加賀の2郡を割き、加賀国として独立させたのだった

石部神社は資料館から西北西に1キロほどのところになり、よく見える。
*河田山からの景色
加賀の総社は府南社と呼ばれたらしい。11世紀末頃の国司藤原為房の日記に見えるようだ。藤原為房は白川院の近臣の一人であり、延暦寺の強訴にも対応したようである。
*藤原為房下向

石部神社に回ると、加賀立国1200年記念行事の一環として、史跡公園化が進んでいるらしく工事中だった。
*石部神社前
石段をあがると前にはなかった案内板があった。
*石部神社境内内案内板

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近松門左衛門の里(鯖江市吉江町)

2023-10-08 | 行った所

越前松平家の藩祖は秀康という。家康の次男に生まれながら、秀吉に人質としての養子になり、更に関東の結城家に養子に出された。後に越前一国を得て松平姓に復した。実父・養父の狭間で翻弄されながら良く生きたというべきであろう。武将としての器量に見るべきものがあったという。死んだのは37歳、死因は梅毒であった。
越前藩は75万石、加賀の前田家に対する抑え役が期待されたというが、内情は複雑であった。三河・結城から越前に入った者、越前に元からいた者、大阪との手切れを前に新たに雇い入れた者、彼らはとても一枚岩といえる状況にはなかった。それなりに戦場を駆け巡ってきた秀康ならばまだ押さえが効き、時間が経てば融和したかもしれなかったが、その意味でも秀康の死は早すぎた。
継いだ忠直13歳。菊池寛が小説にしたような暴君だったとも思えないが、まず若すぎた。家康の孫というプライドと現実との間にギャップもありすぎたのだろう。重臣たちが諍いをはじめ、互いに江戸へ直訴し合い、武力衝突を起こした越前騒動になすすべもなく、江戸幕府の介入も止むを得なかっただろう。更に、大坂夏の陣で手柄を立てたつもりの忠直は恩賞に不満があった。次第に参勤を怠る。そんな忠直に叔父の将軍秀忠は厳しかった。隠居の上、豊後に配流される。
越前藩には高田藩主であった忠直弟の忠昌が入る。この時石高は大きく減らされ50万石になった。
忠昌には3人の有力な息子があり、忠昌の継嗣は次男光通が成り、兄は松岡藩5万石、弟は吉江藩2万5千石をそれぞれ分封した。吉江は新たに創られた支藩であった。
光通の時代、天候不順による不作、火事が相次ぎ福井城の天守閣が焼け落ちる等、災害が続き、藩は財政難に陥る。加えて光通正室に男児ができなかった。側室には男児が一人あったのだが、正室の実家高田松平家は、断固としてこの息子を認めなかった。苦に病んだ正室は自害してしまう。正室の死を責められた息子直堅は出奔してしまう。堪えかねた光通は、あとを弟昌親(昌明から改名)継がすように遺言して自死してしまう。
昌親が福井藩主となったことで、吉江藩は吸収合併された。つまり吉江藩とは光通が藩主になった時に生まれ、光通の死と共に無くなった藩であった。44か村の領地ということだが、一か所にまとまってあったわけではなく、その中では大きな村落であった吉江を城下とした。福井の南、浅水川沿いのささやかな城下であり、城はなく館だけだったが、道を整え、それなりの佇まいにしたようだ。

このささやかな城下町に育った少年がいた。少年の名は杉森信盛という。父信義は福井藩士であったが、忠親の分封に伴い吉江へ来たようだ。母は医家の娘と伝わる。
杉森信義は何故か藩を辞し、一家は吉江の春慶寺に仮寓したらしい。浪人者は世に溢れ、再就職は難しいとわかっていただろうに、余程何か事情があったのか。


一家は京都へ出、父は一条家か正親町家か、公家の家に仕えたらしい。信盛がどうしたかはよくわからないが、一条家に仕え教養を身につけたらしい。京都で狂言作家としてデビュー、後に大阪へ現れ道頓堀の人形芝居竹本座の浄瑠璃作家、近松門左衛門として姿を現す。
鯖江市立待公民館の展示パネルには、近松は京都での公家奉公の後、海運業に従事し、塩を商い、途中春慶寺に寄ったとあるのだが、どのような史料があるのか知らない。しかし、あれほど商家の手代やお内儀の人間模様を描いていたのだから、商家に暮らしていた、という想像は容易だ。次男坊で比較的自由が利き、武家生活に未練はなかったのだろう。


近松という人は、自分のことについてあれこれ書き残すタイプではなかったようだ。唯一自筆写経が残っており、それは父と兄の供養のためのものであった。父兄の戒名は杉森家のものに一致し、近松は杉森家の次男であり、吉江で少年時代を送ったことは確実とみられる。鯖江市はこれを奇禍とし、吉江町を近松門左衛門の里として整備している。

 *近松像

 吉江館跡
 *春慶寺参道入口
 *榎お清水 現在は枯れているようだが、裏山には竹林が続く。


 *蓮池お清水から流れた水の池のようだ
 *お清水から館まで水を引いた樋。立待公民館に展示。

 *吉江七曲がり 浅水川の改修のため半分ほどしか残ってないが、塀が延々と続く敷地の大きな屋敷が並んでいるようだ。袖うだつのある家もある。

近松がどのようなきっかけで芸能の世界に入ったかはわからないが、その遠因の痕跡を鯖江に探すとするならば、それは幸若舞だろう。こじつけにしかならないかもだが、戦国時代大いに流行り、信長が愛好したことで知られる幸若舞の源流は、越前にある。越前町西田中(旧朝日町)は幸若舞発祥の地となっている。この西田中は日野川を挟み吉江から西へわずか2里の場所にある。昔の人なら楽々日帰りで歩いただろう。華やかな衣装で舞歌う幸若舞を目を輝かせて見入る少年を想像してもいいかもしれない。

 *越前町のリーフレット

吉江藩主から5代目福井藩主となった昌親の菩提寺は福井市内の足羽山の麓にある。昌親と母の墓のある瑞源寺だ。地元では萩の寺として知られ、シーズンには背丈を超す萩の群れが咲き誇り風に揺れる。

昌親(吉昌改め)が藩主になっても兄や前藩主の子をめぐって藩内は落ち着かず、昌親は2年で兄の子綱昌に家督を譲る。ところが綱昌でも治まらず、昌親が江戸で申し開きをする始末で、綱昌は隠居、昌親が再び藩主になることを命じられる。昌親は吉品と改名して7代藩主となるが、この不祥事で家督は半減の25万石とされてしまう。その後、吉品には男児なく養子をとるのだが、誰を養子にするかでまた揉めはじめ・・・・だが、それは別の話だ。

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