福井市街地を東西に走る桜通りに面し、鍔師の墓がある。住所表示でいえば照手1丁目、通称福井大仏の大きな観音像のある光照寺の斜め前、大仏前交差点からちょっと西へ行ったところの西厳寺の前である。
江戸時代の鍔師高橋記内の墓なのだが、個人の墓ではなく、何代かの記内の合葬墓だそうである。
「図説福井県史」によれば、「鍔師記内の初代は石川氏で、康継の作刀に竹・竜などの彫刻を施し名声を得ていた。二代目記内より高橋を姓とし、代々鍔師として福井藩より扶持を受け、天保年間(一八三〇~四四)の「給帳」では「三人扶持 鍔師記内」とある(松平文庫)。越前彫、記内彫と呼ばれ、丸形の鉄地に図柄を肉彫透かしにした鍔が多くみられる。」
精巧な透かし彫りを得意としたらしい。
「康継の作刀に竹・竜などの彫刻を施し名声を得ていた」とある康嗣については同じ「図説福井県史」に以下のことが記されている。
「福井藩の刀工初代康継は、通称を市左衛門といい、近江坂田郡下坂村の鍛冶大宮市左衛門兼当の孫で後に姓を下坂と改めている。諸国を遊歴して技を磨き、天正年間(一五七三~九二)に越前に定住している。初め一乗谷に住し、次いで北庄に移り結城秀康の知遇を受けることになった。やがてその作刀が秀康の父徳川家康の目にとまり台命で江戸に召致された。以後康継は江戸・北庄間を往復している。康継は刀銘に「肥後大掾藤原下坂」と切っていたが、家康の庇護を受けるに至り葵紋と「康」の一字使用を許され、「越前康継」を刀銘としている。康継の刀は南蛮鉄を使い、作風には家康好みの渋さがみられる。康継は江戸新刀の開祖とされているが、その影響で当時の江戸の刀工には越前出身者が多かったといわれる。康継が弟子の養成に力を尽くしたことによるものであろう。初代康継は元和七年(一六二一)に没した。初代の没後長男市之丞康悦が二代康継を継承している。二代目も父に劣らぬ技術の持主で秀作を残している。
下坂家の子孫は三代目より江戸・越前の二家に分立した。江戸下坂家は康悦嫡男の右馬助が継ぎ、越前下坂家は初代康継三男の四郎右衛門が継承した。江戸・越前両下坂家では交代制で「康継」を公称したようで、越前下坂家では三代・五代が刀銘に「康継」と切っている。
越前下坂家は江戸期を通じて福井藩より扶持を受け、明治二年(一八六九)の廃業まで九代続いた(図36)。嘉永五年(一八五二)の福井藩給帳では、「切米廿石 下坂市之丞」とあり、その弟子「鎚打」二人に対しても、「銀百弐拾匁 一人扶持ツゝ」が給与されている(松平文庫 資3)。」
天正年間(一五七三~九二)というのはなかなか忙しく、天正元年には朝倉氏が滅亡、越前は織田信長のものとなるが、一向宗の抵抗は激しく、元は朝倉の家臣だった、前波や朝倉景鏡なども敗死し、平安時代から僧兵を擁し一大勢力であった平泉寺も焼き滅ぼされた。織田と一揆との戦いは石山や長島が有名だが、越前でも徹底したものであった。一方柴田勝家は新しい越前の中心として北の庄に城下町の建設をすすめていた。
天正10年には本能寺の変、11年には賤ケ岳の戦いだ。
関ケ原後の慶長5年(1600)が結城秀康の越前入府となる。
康嗣はいずれの時点で越前入りしたのだろうか。
一乗谷朝倉氏遺跡からは、刀装具の鋳型などの工房址が発掘されている。刀鍛冶も必ずやあったであろうが、そこに康嗣はいただろうか、焼け野原の一乗谷を見ただろうか。朝倉氏と深い関係があったとは思われない。新興城下町北の庄での飛躍を期したのであろうか。
秀康の入府に見事に知己を得て抱えられたのであるから、念願は達したのであろうが、更に大御所様にも気に入られた。秀康は江戸で実父と弟に新規に抱えた刀工の自慢などしたのだろうか。
康嗣の墓は、福井市宝永2丁目にある。高橋記内の墓から1.5キロ程東になる。寺はないが昭和の顕彰碑がある。
碑によれば、古い刀の打ち直しなどもしていたようである。
福井県史の記述でちょっと気になるのが<南蛮鉄>である。日本刀には玉鋼が使われる、というのを聞いてきたのではなかったか。たたら製鉄で作り出される玉鋼を鍛えに鍛えて作刀する、というのではなかったか。それではなく南蛮鉄・・・それが家康の好みであったらしいのだが。
南蛮鉄は輸入品であったらしい。オランダ渡りとはいえ中国や東南アジアで製鉄されたものをいうらしい。どのように流通していたのか。康嗣は「肥後大掾」を名乗っていたくらいだから熊本にいたこともあったのだろう。熊本と長崎は近いな、と思ってもみる。
ところで、浮世又兵衛こと岩佐又兵衛勝以の墓が、福井市松本3丁目にある。移築されたものらしいが、康嗣の墓から北西へ500メートルくらいである。
又兵衛が死んだのは慶安3年( 1650)、康嗣は元和7年(1621)、又兵衛の晩年は江戸、康嗣も江戸と越前を行き来したらしいが、福井で暮らした時期が重なることはなかったろうか。絵師がいれば、画工だけではなく、絵具・絵筆・画布・表装に関わる人たちがいただろう。刀工・鍔師がいれば、研ぎ師・鞘師・刀の拵えをする人たちがいただろう。そんな人たちが袖すり交わす城下町をちょっと想像してみるのである。