弥生時代の海辺の遺跡から「蛸壺」とみられる遺物が出ることが知られている。主に関西だが、蛸は食されていたのだ。
ヒツジは 599年(推古7)百済が、駱駝(ラクダ)、驢(ロバ)、羊(ヒツジ)、白雉(シロキジ)を献上したのが最初らしい。しかし獣肉を食うのは一般的な習慣になっておらず、羊毛の利用もなされず、結局、珍奇な動物、というだけのことで終わったらしい。
しかし人の名前には使われている。
奈文研のサイトの中で https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2015/06/tanken100.html 「また、現代とは異なって、動物を表す漢字が目立つことに気づきます。牛養(うしかい)、馬甘(うまかい)、犬万呂、猪手(いのて)、龍麻呂、入鹿(いるか)、羊、鳥麻呂、大虫(おおむし)、大魚(おおな)・・・・・
これらの動物が身近だったのか、干支(えと)にちなんだのか・・・「中には、鯛(たい)麻呂や烏賊万呂(いかまろ)といった一風変わった名前もみられます。」と紹介されている。
タコにはヒツジがいた。とはいえタコは蛸ではなく多胡であり、群馬県高崎市吉井町の地名である。地名としてのタコはそう珍しいものではないらしい。千葉にもあるし、田子の浦も多分タコの類なのだろう。
群馬の多胡は文字通りに見れば多くの胡(えびす)だ。朝鮮半島からの渡来人をえびすと呼んだかどうかはわからないが、近くの地名である甘楽(かんら)は読みからはそのままカラ(韓)を思わせる。
多胡はまた木曽義仲の父義賢が館を構えていたところとも知られる。
多胡館跡 土塁
上総御曹司と呼ばれ父為義と軋轢ある義朝への対抗上、義賢は関東へ下り、多胡に住んだ。勢力を強め、秩父氏の一部と連携し、武蔵国嵐山の大蔵に居を移したが、義朝の息子義平に攻められ敗死。義賢次男義仲は大蔵で生まれたとされる。
義賢の多胡館跡の案内板
和銅4(711)年、上野国の甘楽郡・片岡郡・緑野郡から戸を別け、多胡郡を新たに設置するという記事が、続日本紀にあり、それを示す石碑があり、文献と金石文が一致したものがあるという、まれな例になっている。
石碑は多胡碑と呼ばれ、日本三大石碑の一つである。
多胡碑はこの建物内にある。他に資料館もあり大事にされている。
碑には多胡郡設置に関わった朝廷側の人物として 左中弁正五位下多治比真人・太政官品穂積親王・左太臣正二位石上尊・右太臣正二位藤原尊が出てくる。
多治比真人は多治比三宅麻呂。真人という姓は皇族の末裔を著わすらしく、多治比氏も宣化天皇の子孫ということになっている。欽明朝で繋いできた飛鳥以降の王家で宣化系はあまりいい思いはしていなかったろうが、三宅麻呂は奈良時代、元明・元正期の有力官人であった。
穂積親王は天武の皇子の一人で、大伴旅人の妹(家持の叔母)の大伴坂上郎女を妻としていたことでも知られる。
石上尊は石上麻呂で、物部氏出身、壬申の乱では大友皇子についたが、乱後天武に許され、新羅と往復し外交に活躍した。奈良時代の重臣の一人である。
藤原尊は藤原不比等で、言わずと知れた鎌足の子である。
この碑の中で続日本紀にはない記述がある。それが羊である。「給羊」をなんと読むか。普通「羊に給ふ」で、羊という人物が新設置の多胡郡の支配権を給わった、と解釈される。
ところで上野国南部から武蔵国北部にかけて、羊太夫という不思議な人物についての伝承が広がる。
あまりよくわからないのだが、羽の生えた従者がいて彼の曳く馬で天を駆けて一日で都と往復したとかいうのがメインで、他に反乱を起こしたとか、讒言にあい誅殺されたとかもあるようだ。秩父では銅山の発見と採掘に関わったとされ、その功で多胡を給わったともされるようだ。
和銅遺跡の入口聖神社
聖神社狛犬、どこかとぼけたような
和銅露天掘り址へ
秩父山中から銅が発見され、年号が和銅と改元されて、4年後に多胡の郡司職が羊のものとなった。辻褄は合うが、何故上州の多胡だったのだろう。
和銅遺跡から多胡まで30kmくらいだろうか。採掘された銅がどういうルートで奈良まで運ばれたのか、多胡に集められて発送、ということなら多胡側に何か残っていてもいいと思うのだが。
銅の組成の分析をしたものを読んだことがある。弥生以降の青銅器の組成は朝鮮半島のものと差はなかった。しかし和銅期以後はそれが変わってくるようである。