物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

帝釈堂口の幽霊

2024-03-24 | 行った所

軍紀物には怪談が少ないように思うのだがどうだろうか。ないわけだはないのだが。軍紀物は戦話だから、酸鼻な殺戮が繰り返されるのだが、そこで死んだ人間の怨霊が彷徨い出た、というのは少ないのではないか。
朝倉始末記の幽霊話はひとつだけだ。

永正4年(1507)、先年越前から追い払われた一揆勢が、また侵入してくる。和田本覚寺・藤島超勝寺といった越前浪人の坊主たちが主導した一揆だ。本願寺に大規模の越前侵攻の一揆をおこすことを提唱するのだが、取り合ってもらえない。ここに加賀国石川郡の玄任というものが名乗り出る。
和田の大坊主は「敵の方へ掛かる足は極楽浄土へ参ると思へ。引き退く足は無間地獄の底に沈むと思へ。」とアジる。
8月28日、越前河北郡上ノ郷帝釈堂口へ打って出る。ところが越前勢に打ち負かされ、大坊主・加州勢は逃げ帰る。その中で玄任たちは一歩も引かず、300余名、そろって討ち死にした。
その後、玄任の妻が和田坊主のもとを訪れ、坊主を見てひどく泣く。坊主は妻に慰め顔で説教する。玄任は極楽往生したのだから、と。妻は、そんなことで泣いているのではない。玄任が極楽往生したのはわかっている。逃げた坊主様が無間地獄に落ちられることが哀れで悲しいのだと言い放つ。

朝倉始末記の筆者は不明だが、旧朝倉家臣か縁者には間違いないだろうから、一向一揆には手厳しい。ただ本覚寺や超勝寺の坊主はことのほかタチが悪かったようである。なんとか追われた寺を取り戻したいというのはわかるが、やたら他者を煽っておいて、真っ先に逃げ出すというのは帝釈堂口の合戦のみではないようだし、超勝寺に至っては越前侵攻反対派を毒殺したことさえあるようだ。

さて、帝釈堂口の戦いの2,3日後、近所の家の戸口が叩かれ、主人が出ると首なしの男が4,5人いる。目を凝らすとかき消える。また別の時、青首が家をのぞいていたりする。そんなことは続くある夕方、僧が見た怪異は、雲間に雲霞のごとき軍勢があり、文明3年(1471)の朝倉・甲斐合戦から近年に討たれし亡霊云々という声が聞こえた。
どうも玄任たちの幽霊ではないようだ。なんでまた30年も前の戦いで戦死したものの霊が、この地に彷徨いでたものか。
話は僧が供養して怪異は止み、朝倉貞景があちこちで堂を建てた、という話で終わっている。

帝釈堂口はあわら市中川にある松龍寺付近。
松龍寺には帝釈堂があったという。
 松龍寺 門が鐘楼になっている。
 千体仏堂 そっと戸を開くと小さな仏像がずらりと並んでいる。

 案内板
帝釈堂はわからなかった。

和田本覚寺の本貫は福井市和田(158号線沿い福井市消防局のある地域、足羽川がちかい)だろうが、現在の本覚寺は永平寺町東古市、九頭竜川南岸にある。
 本覚寺
超勝寺は福井市藤島町、ほぼ本貫の地へ戻ったのかもしれないが、隣接して東超勝寺と西超勝寺がある。
 西超勝寺
 東超勝寺
西超勝寺境内裏の方に藤島城の跡もある。南北朝期に造られたらしい

 藤島城址

コメント

長崎称念寺

2024-03-13 | 行った所

福井県坂井市長崎は旧丸岡町の西端、広い坂井平野のほぼ中央東寄りになる。近くを旧北陸道が南北走り、東へ行けば豊原寺を抱える山地に行き当たる。


越前・加賀の国境は現在の福井・石川県境にほぼ等しいが、常に固定化していたかというとそうでもないようだ。
朝倉孝景(英林、敏景とも)が越前をほぼ掌中にしたとはいえ、斯波氏の守護代であった甲斐氏は加賀から越前への干渉をなかなか止めなかったし、英林孝景の孫貞景の代になっても、今度は朝倉元景(景総:貞景の叔父にあたる)が加賀の一向一揆と結んで攻め込んで来たりしている。加賀勢は坪江庄まで攻め込み、貞景は長崎に出陣している。
元景が死んでも加賀からの侵攻はやまない。
朝倉始末記によれば、永正3(1506)年 7月17日、加賀の一向一揆勢は越前乱入、九頭竜川北の村々焼き払い、兵庫・長崎に陣取る。
この時朝倉宗滴教景を総大将とする朝倉軍は、九頭竜川を挟んで加賀一向一揆勢と対峙する。東から西へ流れる九頭竜川が山間から平野部へ入ってくる鳴鹿付近から西へ日野川が合流し、流路を北へと変えていく近くまで、10キロを超える防衛線であった。西の中角の渡し付近で始まった戦は、宗滴が中の郷で川を押し渡り朝倉が優位に立つ。一揆軍は敗走し、加賀国境へ追い払われる。その後、享禄4年(1531)には、大小一揆の混乱に乗じ宗滴率いる朝倉軍は加賀へ侵攻、手取川付近まで押し寄せる。つまり当時の加越の国境は、北は手取川から南は九頭竜川まで流動的であったかもしれないということだ。そして長崎の地はどちらも陣取るにはちょうどいい場所だった。
元亀3年、浅井氏救援のため近江に出陣した義景の手勢に、長崎大乗坊、というのが見えるが、長崎のものだろうか?敗走するなか刀根坂の戦闘で討ち死にしたようである。
朝倉氏が滅び、一向一揆が越前を席巻した時、加賀から大将として下間七里三河守と称するものが長崎に着陣する。ここが一揆の司令部になる。この陣は間もなく豊原寺に陣替えしたようだが。
一揆が織田軍に掃討されていくとき、羽柴秀吉の手勢が舟橋・長崎を探索している。民家神社仏閣残らず焼き払い、しかも片っ端から捕まえて殺している。府中・波賀・北の庄・三国・金津・兵庫・長崎・豊原・黒龍の河原に700人磔とある。長崎は目立つ集落だったのだろうか。
 称念寺西側の門
長崎称念寺は時宗の寺で、古い由緒を誇るらしい。新田義貞の廟所というのもそうなのだろう。
 新田義貞廟


明智光秀が10年も住んだ、というのは本当かどうかよくわからない。
一向一揆が本拠の一つとしたというのは事実としてあると思うのだが、この寺の説明版には一言もない。

コメント

黒坂氏のこと(朝倉始末記から)

2024-03-09 | 行った所

旧北陸道は、越前の集落・街・宿場を縫うように南北に走る。坂井町の市街地から九頭竜川の渡しまでは、ほぼ県道109号線に重なる。

 舟寄(ふなよせ)辺りでは、十郷用水という古くからの農業用水をパイプラインに付け替えた関係からか、多少の街道らしさは集落内には残っているものの、景観はだいぶ違っているだろう。

ここに2枚の案内板が建っている。


舟寄踊りはあまり古くからのものという感じもしないが、一応福井県の無形文化財ということになっている

歌詞に出てくる「黒坂の殿様」は黒坂備中守景久らしい。朝倉始末には所々で描かれ、朝倉氏を支えた中堅どころの家臣と思われる。姉川の合戦に景久は500騎を率いて出陣する。この頃までは朝倉氏の衰運はそれほど目立ってはいなかったと思われる。そして景久の軍兵の中にはこの辺りの農民がかなり含まれていただろう。戦国時代の農民は江戸時代の農民とは違うのだ。

この黒坂館跡と伝わるところが、この案内板から東へ数百メートル行ったところにある。日東シンコーの工場の敷地内である。

 「朝倉義景ノ臣黒坂備中守景久居館跡ナリ」に始まる碑がある。昭和45年、丸岡町教育委員会と舟寄地区・新興化学株式会社が建てたらしい。内容は、景久は加賀の一向一揆と戦い功があったこと、舟寄踊りは景久の頃にできたらしいこと、景久は姉川の戦いで戦死したこと、息子の与七郎は一揆と戦って死んだこと、墓らしいものが出たので、ここに整備する、といったことである。

 他に五輪塔がいくつかある。碑文の舟寄踊り云々以外は朝倉始末記によるものであろう。

弘治元年(1555)7月と8月、朝倉宗滴率いる越前勢は加賀へ侵攻する。黒坂勘解由左衛門景久は手勢を率いた大将の一人である。苦戦の末相手の武者の首を取る手柄を挙げている。

元亀元年(1570)4月、織田信長は敦賀へ至り、金ケ崎城を攻め落とす。しかし、ここで浅井長政が朝倉と結んだことを知り、引き返す。いわゆる金ケ崎崩れである。
6月、体制を立て直した信長は北近江の小谷城に攻めかかる。朝倉は浅井氏救援に近江に向かう。激突したのが姉川ということになっているが、どっちが勝ったとかそう単純な戦いでもなかったようだ。しかし浅井・朝倉勢は歴戦の将兵の多くを失ってしまったことは間違いない。織田勢も徳川勢の加勢がなかったらどうなっていたかわからないところはあるが。
朝倉始末記は朝倉玄蕃助景連・同次郎右衛門景高・前波藤右衛門景定・小林備中守・窪田九郎右衛門・黒坂備中守と千騎・二千騎引き回す大将は皆死んで若く口達者な者が残った、と嘆いている。他に大太刀を振り回す真柄十郎佐衛門も戦死したらしい。

天正元年(1573)朝倉氏は家臣の裏切り相次ぐ中、義景の死によってあっけなく滅ぶ。景久亡き後の黒坂氏はどうしたのだろう。なし崩しに織田方になり館を保ったか。長島や大阪に手を焼く信長はとりあえず越前は寝返ってきていた朝倉家臣に任せたらしいが、これが収まりのつかないことになる。家臣同士の争いに一向一揆が絡む。越前を一揆が席巻する。
黒坂館跡から南へ数百メートルで長崎称念寺がある。

現在は時宗の寺になっているが、一揆の集合場所の一つとなったところだ。

天正2年2月中旬 河北の一揆は黒坂与七館を攻め黒坂与七兄弟3人・同兵庫助・同弥次右衛門他が戦死している。
黒坂館に攻め寄せた一揆衆にはこの辺りの農民も多数参加していただろう。殿様の出陣に戦勝を祈って集まったのとかけ離れた人々ではなかっただろう。

 

コメント