小倉百人一首には歌番号があり、おおむね時代の順で並んでいる
選者の藤原定家その人が平安末から鎌倉時代を生きた人なので、平家物語の時代をも含めたものである
76番の法性寺入道前関白太政大臣というのは藤原忠通の事である。平家の栄華と没落の時代は主に彼の子供たちの時代ではあるけれど 大きな時代の変換点だった保元の乱に大きくかかわった彼くらいから始めるのが順当だろう 。
99番は後鳥羽院である。平家物語に出てくる彼はまだ幼児である。安徳に代わる帝として、後白河の傀儡として登場する。
この76から99の24人だが、多少ググっても歌人としての経歴しか出てこなかった人たちは書きようがない。
しかしその人ではなく主人や親が平家と関わり合いの強い人はそれについて書く
76 わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ
法性寺入道前関白太政大臣=藤原忠通
この歌は好きである。「わたのはら」で始まる歌は他に小野篁の 「わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね」があるのだが、流罪になる篁の悲壮感もいいが忠通の伸びやかなのもいい。
忠通は和歌はよかったが、摂関家の家長としての力量はどうであったか、少なくとも父忠実は力量なしと見たようである。忠実の自慢の息子は忠通弟の頼長で、頼長は学才に秀でていたが和歌は苦手だったようだ。だから忠通は和歌に励んだのかもしれない。
忠通は他の氏族との政争よりも父・弟との争いに忙しい。ただ近衛の死後の後白河の即位に関して等、美福門院と手を結び素早い動きを見せている。
男児がいないとして、頼長を養子に向かえざるを得なかった忠通だが、後には続けて多くの子に恵まれている。基実・基房・兼実・慈円などである。基実は若くして死ぬが二条帝を支え後白河と対抗する人材であった。基房は松殿として知られ「殿下の乗合」の一方の主人公であり平家とは相いれず義仲を婿にしたりする。慈円は「愚管抄」の作者、更に平家物語の成立に深くかかわったとされる。兼実はその日記「玉葉」がありこの時代とは切っても切れない。
77 せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ
崇徳院
この歌も好きである。「むすめふさほせ」一字決まりの歌であるので覚えたのは早い。加えて恋の一途さを充分描いている。日本一の大魔王の歌とも思えない。この人は鳥羽の子ながら実は曾祖父白河の子という噂あり、父に嫌われたという。これは「故事談」に書かれ広く流布された話であるが、元木泰雄編「保元・平治の乱と平家の栄華と」の冒頭の佐藤健治の「鳥羽院・崇徳院―崇徳院政の夢」の実証的な研究がこの蒙を破る。歴代の天皇親子の付き合い方、鳥羽-崇徳の付き合い方を細かく調べ上げ、鳥羽は決して崇徳を嫌っていなかったと論証する。むしろ親しい親子関係であった。しかし最晩年の鳥羽が崇徳を遠ざけたことは事実であり、これは美福門院の讒言に他ならないだろう。後妻が前妻の子の相続を妨げる策謀と言えばそれまでだが、最晩年床に伏し、頭脳も朦朧となった鳥羽には利いたのであろう。考えてみれば昭和の事件について同時代資料に近いというだけの理由で週刊誌の記事を論拠にしたものが信じられるだろうか。「故事談」は「故事談」で価値があるが、面白おかしく流布されすぎたようである。
しかし、崇徳の怨霊が祟りをなす、という畏れは平家物語の時代、即ち心疚しい後白河の時代を通して世を覆うのである。
78 あはぢしま かよふちどりの なくこゑに いくよねざめぬ すまのせきもり
源兼昌
この歌もわりに好きなのだが、源兼昌と平家物語の関係を見いだせなかった。
79 あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいづるつきの かげのさやけさ
左京大夫顕輔
この歌はもっと好きである。シャープな月影。顕輔は白河の近臣だったという。
80 ながからむ こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもへ
待賢門院堀河
歌は色っぽいというのか女の情念が黒髪にあいまり纏わりつくというのか、ちょっと苦手かも。「みだれそめにし」とよくお手付きをした。
待賢門院堀河という人については知られた歌詠みというしか分からないが、彼女の仕えた待賢門院は無視できない。白河の養女にして鳥羽の后、崇徳・後白河の母である。大変な美少女だったらしいが、ゴシップはかなり早くからあった。藤原忠実の日記「殿記」によれば長子忠通との縁談を素行を気にして断ったとか。これは崇徳の出生と直接関係はしないが「故事談」の補強とはなっただろう。どのような美女もいつかはその美貌に影が差す。鳥羽の寵愛はいつしかより若い美福門院に移る。
81 ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる
後徳大寺左大臣
藤原実定の事である。これは平家物語でおなじみの人物。近衛の后にして二条に請われ二代の后となった多子の弟である。且つ、清盛の歓心を引かんがため厳島神社に詣で、内侍たちを歓待するところが描かれる(第2巻「徳大寺厳島詣出の事」)更に福原遷都について行ったものの新都造営は道半ば、京都が恋しくて、姉多子を訪ねるのである(第5巻「月見の事」) ほととぎすの歌は一字決まりである故早く覚えはしたが、面白い歌とも覚えなかった。しかし、多子とのやり取りを踏まえると、時局に振り回され、ただ月ぞ残れると詠嘆するしかなかった、と云うのが観取され、また違った趣が感じられる。
82 おもひわび さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみだなりけり
道因法師
作者について知るところはない。歌留多を取るときには 「おもひわび」と「うらみわび」が常にごっちゃになり嫌いだった。
83 よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる
皇太后宮大夫俊成
藤原俊成、定家の父にして忠度の師。忠度は寿永2年の都落ちに際し、俊成に歌集を託す。(第7巻「忠度都落ちの事」)勅撰集が編纂される時には一首なりとも、という忠度の願いを俊成は「さざ波や滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」の一首を読み人知らずで入れることで応える。「よのなかよ」よりも「さざなみや」よりも私は忠度の鎧に結ばれていたという「行き暮れて木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」の方が好きだ。
84 ながらへば またこのごろや しのばれむ うしとみしよぞ いまはこひしき
藤原清輔朝臣
六条流の歌人で御子左の俊成の対抗馬だったというが知るところはない。今見てもなにやら難しい歌で子供のころは「憂し」を牛と思い何の歌かわからなかった。牛車の牛と一緒に見ていた世の中?・・・
85 よもすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
俊恵法師
かるたの読み札の俊恵の肖像は酷くしわくちゃのじいさんで、坊主めくりの中でも疫病神のように思えた。鴨長明の和歌の師だそうだ。
86 なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな
西行法師
数多い西行の歌の中で何故この歌が百人一首?というのは多くの人が抱く疑問だろう。なんだか妙な理屈で月と涙をこじつける。西行は平家物語には登場はしない。ただ、北面の武士になったのは清盛と同期であり完全な同時代人である。平家物語の海道下の小夜の中山は明らかに西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」をなぞっている。西行の歌より重衡の鎌倉行の方が先行するはずなのではあるが。
徒然草第10段に西行と後徳大寺実定との話が出てくる。81番ほととぎすの実定である。西行は実定邸の屋根に鳶除けの縄が張ってあるのを見て「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき」と非難し、行くのを止めたという話がある。兼好は他の家での屋根の縄の理由を鳥が池の蛙を取らないようにするためと聞き、後徳大寺にも何か理由があったのだろうとしている。
87 むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ
寂蓮法師
俊成の養子となった歌人とか。一字決まりの始めの歌、いい歌だと思う。
88 なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるべき
皇嘉門院別当
「なにはえの」「なにはがた」「みをつくしてや」「みをつくしても」上の句・下の句共にお手付き頻発の地雷札。作者についてはよくわからないが仕えた皇嘉門院は崇徳中宮で忠通の娘であるので保元の乱では父と夫が対立したことになる。子供はいなかった。
89 たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする
式子内親王
後白河の娘、以仁王の同母の姉。加茂の斎院。和歌が苦手で今様狂いの父とは違い、和歌に才能があったようであるが、後鳥羽が評したと云う「もみもみ」とした感じというのが私はおそらく嫌いである。
90 みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
殷富門院大輔
作者はよく知られた歌人らしい。この歌は院政期というより、王朝、摂関時代の女房と貴族のやり取りの歌のように思える。
仕えた殷富門院(亮子内親王)は後白河の娘、以仁王の同母姉、つまり式子内親王と姉妹である。
91 きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ
後京極摂政前太政大臣
九条良経の事である。九条兼実の子。歌は面白いとも何とも言いようがないが、少なくとも百人一首唯一虫が出てくる。百人一首に出てくる動物は鹿と鳥くらいだ。
この人は38歳で急死しているが殺された可能性が高いそうな。しかも天井から槍で突き殺された説もあるそうな。
92 わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし
二条院讃岐
源三位頼政の娘にして二条帝に仕えた。仲綱と同母。頼政と同じく和歌を得意とした。この歌は評判だったらしく沖の石の讃岐と呼ばれている。讃岐という名前がどこから来たかわからない。少なくとも頼政は讃岐とは関係ないようだ。二条院亡き後どうしたかはよくわからないようだ。結婚したのだろうが、諸説あるようだ。頼政同様長生きで、頼政から引き継いだ若狭小浜の宮川保の事で70余歳で鎌倉へ訴訟に赴いた。
93 よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
鎌倉右大臣
三代将軍実朝の事だからさすがに平家物語とはこじつけにくい。歌は「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも」の方が好き
94 みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり
参議雅経
飛鳥井雅経の事である。後鳥羽の近臣であり頼朝にも気に入られていたようである。
95 おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで
前大僧正慈円
平家物語の成立に切っても切れない縁があるであろう天台座主の慈円。大懺法院を作る。徒然草で平家物語の作者と伝えられる信濃前司行長も扶持した。但し藤原行長、下野前司であったらしい。この人が慈円の援助で書いたと。もちろんいろんな説がある。慈円その人を作者に充てる人もいる。
慈円は知られた歌人だというが、この歌は好きではない。
96 はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
入道前太政大臣
西園寺公経の事。頼朝とは親しく関東申次として朝廷で力を持つ。承久の変でも後鳥羽院に従わなかった。
この歌の趣旨は小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」にそっくりだ。そしてそれ以上のものではない。
97 こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ
権中納言定家
小倉百人一首の選者と知られる歌人だが、平家物語との関わりは知れない。この歌は定家の作と知るまでは王朝時代の女房の歌だとばかり思っていた。よくわからないが、この歌が自分で選ぶほど会心の出来だったとでもいうのだろうか? 確かに言葉の調べ流麗にして、待つから松へ、浜辺の風景から塩焼へ、やくやもしほ と歌い上げていく魔法のような言葉遣い。でもなんだか言葉遊びのようだ。
98 かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける
従二位家隆
定家の従兄弟だそうだ。この歌は好き。「ならのをがは」は下賀茂神社の中にある。
99 ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは
後鳥羽院
後鳥羽院に同情的になれないのはこの歌が好きではない所為もあるのではないかと思う。「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」だったら嫌いにはならなかったかも。
平家に出てくる後鳥羽は高倉の第四皇子尊成親王で安徳の弟、まだ4歳の幼児である。高倉の4人の男児の長子は安徳で西海にある。2番目も平家が連れて行った。京にいるのは3男・4男。義仲は以仁王の遺児北陸の宮を奉じるのであるが、後白河は強引に四宮の即位を決める。この時平家物語によれば後白河は三宮・四宮を召す。三宮は大いにむずかり、四宮はにこにこと後白河の膝に乗ったというのだが、見知らぬところへ連れてこられ、見知らぬ年寄に近づかせられたら泣きわめくのも幼児の正常な反応だと思う。(第8巻「山門行幸」)
後鳥羽は安徳が退位しないまま、三種の神器を欠くまま即位する。
次に後鳥羽が平家物語に出てくるのは第12巻「六代の斬られ」である。後鳥羽は遊び好きの暗君とある。文覚は毬杖冠者と後鳥羽をののしっている。文覚は後鳥羽を退位させ高倉の二宮を即位させようと画策する。文覚は佐渡へ流されるのだが、平家物語では隠岐へ流されたこととし、後鳥羽を「文覚が流されるところへ向かへもうさむずる」と言わせ、承久の変で後鳥羽が隠岐に流されたことと合わせている。
百人一首の100番目は順徳院、後鳥羽の子供である。
「ももしきや ふるきのきばに しのぶにも なおあまりある むかしなりけり」
しょうもない歌と思ってきたが、一つの時代の終わりの詠嘆と思えばそれなりに。