平家物語第7巻は北国に下向する経正が途中竹生島に寄ったことを伝える。「竹生島詣の事」である。
海津に着いた経正は琵琶湖に浮かぶ島を見て、なんという島かと問う。竹生島だと聞いて、名高い島だ、行ってみよう、となる。6人侍引き連れて小舟で島へ渡る。時は4月であるが旧暦の事、既に夏、鶯の声はしわがれているが、不如帰鳴くのが聞こえる。美しい景色に蓬莱山かと感激し竹生島明神に詣でる。日が暮れ 僧の求めに応じ琵琶を奏でる。
琵琶の名手経正の奏でる上弦・石上の秘曲に明神も感応して経正の袖に白龍となって出現する。あまりの忝さに経正は歌を詠む。「ちはやぶる神に祈りのかなえばや しるくも色にあらわれにけり」
何を祈ったのか、この場合は北国での対源義仲勢との戦勝以外には考えられないだろう。しるしが現れ神に祈りが届いたと喜んで帰船に乗る。袖に白龍が現われるという状況をどう考えたらいいのかわからない。袖の上に大きな龍が現れるわけではないだろう。或いは誰かが手鏡か何かで光を集め、何か神々しいものを見せた状況かもしれない。
この前段では木曽義仲が息子を頼朝の娘の婿として鎌倉に行かせることで頼朝と停戦し、東山北陸両道を討ち従え京都上洛をしようとしていること、平家方は大軍を集め討伐軍を組織し出征する事が描かれている。
後段は火打城合戦、越前今庄、川を堰き止め立てこもる源氏方、攻めあぐる平家だが源氏方から平泉寺斉明の裏切りが出て、平家軍は一気に火打城を攻め取り、加賀まで侵攻する。
両段とも如何にも軍記物らしいところだが、その間の竹生島の話は何とも優雅である。さすが平家の公達、管弦に長け、神もお味方してくださる、という勝利だったのだが、この後で砺波山の戦い、倶利伽羅でのまさに平家の地獄が待っていた。
さて、経正は竹生島に詣でたのだろうか。
海津について湖面を見やり、あの島は何か、と問うのはいい。しかし渡るだろうか?
この北国下向で、平家は大軍を集めた、しかし、それで義仲勢を一蹴出来ると考えていたはずもないのだ。
義仲は既に平家家人の地元豪族を市原合戦で笠原氏、横田河原で城氏を打ち破っている。源氏同士とは言いながら険悪だった頼朝との仲も取敢えずおさまり、後ろを突かれる憂いなく北陸路を南下しようとしている。しかも以仁王の遺児北陸の宮を奉じ入京を目指す。
一方平家は関東へ向けて頼朝らを追討する大軍を送ったつもりが、本体が到着する以前に駿河などにいた平家の味方は鉢田の戦い等で甲斐源氏にやられてしまい、ほとんど戦わずして富士川から逃げ帰るという醜態を演じてしまう。墨俣の合戦などに勝利し、一息ついたものの、この北陸遠征に墨俣で戦果を挙げた軍兵は参加していない。大将知盛以下、転戦を重ねた消耗戦にもはや遠征に耐えなくなっていたらしい。光源氏にも喩えられた貴公子ではあるが、富士川での敗将の維盛が総大将、武将というよりミュージシャンの経正が副将という布陣が既に平家の人繰の難しさを語っているようだ。折から畿内は飢饉だ。兵糧は現地調達、しかし、地元民さえ食うに困っているところへ大軍の食糧調達などとんでもない。平家軍が五月雨式に進発しているのもそのせいだろう。さらに言えば平家繁栄の象徴ともいうべき清盛はこの遠征の2か月前に急死した。楽観要素はない。
竹生島 海津方面から見ている。琵琶湖北岸から竹生島は近い。海津からだと5・6kmだろう。但し船を着けれる船着き場は南側にしかない、反対側である。
小舟で難なく着けるだろうが問題は時間である。何時頃島に渡ったかわからないが、日が暮れ、夜になって離島。少なくとも半日、ひょっとしたら丸一日が費やされただろう。率いた軍兵の大半はそのまま進軍を続けたのかもしれないが、その場に残って経正の戻りを待ったものも少なくなかったろう。兵糧不足の進軍は時間との競争だ。無駄な足止めは無駄な食料を必要とする。経正自身が兵糧問題で走り回るとは思えないが、状況は聞いていただろうし、少なくとも全くわかってなかったとは思えない。そこまでアホではなかったろう。
一方で戦勝祈願は必要な事である。しかし全軍に神の加護がわが軍にありとしらしめさなければ意味がない。よい例は次巻に出てくる木曽願書だ。倶利伽羅を前に木曽義仲は埴生八幡で神に祈る。参謀覚明が願書を書き、読み上げる。主だった武将たちが鏑矢を捧げる。白い鳩が舞い降り、八幡大菩薩のお使いが現れたことで全軍が勇み立つ。
竹生島詣では違う。これでは経正の自己満足に近いものに見える。もし竹生島明神に祈るとしたら、海津での遥拝、瑞兆の手品は別の形とならなければならない。
また竹生島明神が弁財天の垂迹だという。この弁天のイメージは琵琶を持った女性としてのイメージだったのだが、もともとは8本の腕を持ちその手には武器の類を持った軍神だという。佐藤太美氏によれば腕が2本になり琵琶を持つのは鎌倉期で経正が祈ったのは軍神に対してだというのだが、もし琵琶を持つ弁天のイメージが無かったら、そもそもここに経正は出てこないのではないだろうか。現在の竹生島の弁天は16世紀浅井家が祭った者らしいが8本腕のものであり、2つのイメージはずっと絡み合ってきていたようにも思える
実は、竹生島へ行って驚いたのは、平家物語の痕跡が全くないことである。思いもかけないようなところに平家の落人の関係だとかがあったりする。義経が腰かけたの水を飲んだのという所はそれこそあちこちどこへでもある。ところが平家物語の優雅な一場面の舞台である竹生島には何もない。
確かに平家の公達とはいえ経正の知名度は高くない。清盛の腹違いの弟経盛の子で敦盛の兄であるのだが、清盛・時子とその子たちを平家本流とするなら傍流の子に過ぎない。しかし仁和寺五世門跡覚性法親王から楽才を認められ「青山」という琵琶の名器を託された琵琶の名手である。笛の敦盛と共に管弦に秀で平家の雅な一面を担ったと言えるだろう。その経正が来て琵琶を弾いたというのは竹生島にとって損な話ではなかろうと思うのだが、全くそんなことを示すものがないのである。
竹生島は経正の竹生島詣でに一顧だに与えていない。
私の結論としては経正は竹生島詣ではしなかったろう、平家物語元作者の創作だろうと思うのだが、どうだろうか
あれこれ見ていくと平家物語の名場面は次々とあり得ない話になっていく。竹生島然り、宇治川の先陣争い然り、頼政の鵺退治然りである。
23日土曜日に泊まった宿が、彦根城隣接の玄宮園の夜景見物の送迎をしてくれるという。20時出発、21時に戻るというプラン。大きな見事な庭園でした。ライトアップに紅葉が池の水面に見事に映る。場所によっては石垣の上の天守も映り込んでいる。
翌日は朝早く出て9時には駐車場に着いたというのに第一駐車場は既に満車。すぐ別の駐車場に入れたけれどすごいもんだ。
彦根城の天守そのものはそれほど規模の大きなものではない。サイズだけ言えば丸岡城に比しものすごくでかい、というほどではない。規模の違いは城域だ。広い堀、石垣をめぐらした城の城域が恐らくほとんど残っている。人口10数万都市の彦根の町の真ん中に一里四方の城がある。だからか車の道路事情はいいとは言いかねる。大変な混雑、というより渋滞して全く動けない。特に昨日はえびす講のお祭りがあったとかで、ナビが示す宿へ行く道は通行止めで、迂回路は大渋滞、たまらず脇道にそれたらびっくりするような狭い路地に入ってしまい、抜け出るのに四苦八苦した。城下町の敵侵入を阻害する見通しが効かない狭い路地、あれはそれそのものだった。そんな路でも車を停めた家がある。どうやって出入りしているのかと思うほどだった。
しかし城は素晴らしい。大変な数の観光客が要りこんでいるはずなのに余裕の吸収、それだけの広さがある。下りて玄宮園に回る。
昼間見ても素晴らしい庭園。井伊家の富はすごいものだったに違いない。
玄宮園脇に楽々園というのがある、井伊直弼の生まれたところだそうだ。ここの御茶座敷は地震の間と呼ばれるらしい。屋根が瓦でなく杮葺きで軽く、基礎が建物の規模に比し頑丈、筋交いなども多いようだ。地震があっても取敢えずここに入れば安全ということか。
平家物語第12巻は元暦2年(1185)京都付近の大地震を伝える。後白河は庭に幄舎を張り避難したとある。テントのようなものをこしらえてそこに避難したというのだろうか、建物の倒壊を恐れたのだろう。
この辺りも秦という地名らしい。予備知識無くたまたま見かけた案内板に惹かれていってみた。
かなりの敷地によく封土が残ってるな、という円墳が点在。古墳時代後期の横穴式石室だが2種あるようだ。
秦氏の古墳というと京都太秦の近くで見たことはあった。
玄室への入口はふさいである
コウモリ塚玄室
コウモリ塚図
湖東三山とは琵琶湖の東岸 彦根市の南の山がちなところに北から西明寺・金剛輪寺・百済寺、百済寺はひゃくさいじと読むのだそうだ。いずれも紅葉の名所だそうだが行ったことがない。真ん中の金剛輪寺近くに北陸道のスマートICがある。
行ってみることにする。紅葉といっても楓や桜、要は落葉樹は皆紅葉するわけで、わざわざ見に行くものかな、と思っていたのだが、行ってみるとさすがに名所というだけはあってなかなかのものだった。寺の規模も思っていたよりずっと大きな山寺で随分歩いた。
西明寺
頼朝が来たっていつだろう、2回上洛しているうちのどちらかだろうが
不断桜
本当に桜だった。冬桜とは聞いたことがあるが、見たことなかった。
苔も美しい
金剛輪寺
水子供養なのだろう、小さな石仏が涎掛けを着け、風車を持ってびっくりするような数がある。参道の両脇に果てもなく続き、少し開けたところにもぎっしりだ。石仏は昭和以降のものがほとんどのようで、商売上手の寺とみた。
金剛輪寺の入口に隣接して愛荘町立 歴史文化 博物館というのがある。金剛輪寺の元本堂にあったという金銅造聖観音坐像が展示されていたが、これはレプリカで、本体はボストン美術館だという。ボストンの特別許可を得て模造した、という代物。フェノロサの同行者ピゲローにより持ち出されたらしい。明治の神仏分離令・廃仏毀釈はこのように相当大きい寺にして本堂仏を売り払うような状態だったようだ。
朝早く出たので西明寺に駐車場に入ったのは9時前で、駐車場は余裕だった。金剛輪寺も入れるところがあった。しかし金剛輪寺から出るときには駐車場は満杯、臨時駐車場まで車が列を作って待っていた。さすがオンシーズン、好天気の連休。
百済寺
百済寺は少し離れている。参道の入口か「下馬」と書かれた石柱のある公園があった。その公園でなんと檜皮の採取中だった。
私はスギとヒノキの区別が怪しく、これがヒノキだったかと改めて驚く。皮をはいだヒノキの地肌は赤く、まるで朱塗りの柱のようだった。近くに止まっていた車には「社寺屋根工事請負」と書かれており、石清水八幡の屋根も現在同じ会社でしているとのことだった。
結局百済寺までは行かずに彦根へ向かう。この次にしよう。
朝倉へ行く。全山紅く染まるような紅葉の名所ではないが、晩秋の光長閑な佇まい。
中央右唐門
復原街並み
諏訪庭園
米津金属加工工房跡端
安養寺跡を探すが分からず 蕎麦屋に入る。不味かった。
盛源寺へ行く。車の入れぬ登り道の傍らに石仏が佇む。赤とんぼが日向ぼっこをするように碑に張り付いていた
朝倉街道を行く。はじめての道だ。曲がりくねった山間の道路。下りると東大味の集落だ
あけっつぁまの案内板 小さな祠が明智神社。ささやかな資料室がある。来年のテレビドラマとかでブームなんだそうである。
朝食後、宇治河畔を散歩する。
平家物語に宇治の合戦は2つある。1は第4巻「橋合戦」、2は第9巻「宇治川の事」
1は以仁王を南都に向かわせた源頼政と平家軍の戦いだ。2は源義仲の手勢と頼朝がよこした義経軍の戦いになる。
義仲の宇治へ回せた兵力は手勢は300、鎌倉勢が2万では川を押し渡られてしまっては対処の仕様がなかったろうが奮戦している。佐々木高綱=イケヅキVS梶原景季=スルスミの先陣争いはこの時だ。2騎は橘の児島の先から駆け出して川に入る。先行する景季に高綱は馬の腹帯が緩んでいるなどと声をかけ、締め直す景季を尻目に先陣を取る。
橋合戦では守る頼政が平等院側、対して宇治川の合戦では攻める義経勢が平等院側から川を渡ることになる。義仲勢は宇治を突破され、同時に範頼勢に瀬田をも突破される。この辺り読むのがつらい。義仲は京都六条河原から大津へ向かう。最期の戦い、粟津だ。今井と再会、別れ、そして死。今井の死は平家物語中でも印象的だ。
宇治の平等院の対岸に宇治神社があり、かわいい見返り兎がいた。
宇治西ICから京滋バイパスに乗る。巨椋JCT付近は巨大な巨椋池があったというが跡形もない。高速からは工場地帯のように見える。久御山淀ICで降り、石清水八幡宮へ向かう。電車の駅からケーブルカーで登るつもりが、ナビの言う通り入ったら急坂の狭い住宅地を登ることになった。住宅が尽きると竹林、まもなく駐車場になった。折から七五三でにぎわっていた。
本殿はともかく、周りの建物や門の屋根はひどく傷んでいる。
非公開文化財の特別公開だというので入る。信長寄進の樋とか左甚五郎作の目抜きの猿とか。全体に皇室とのかかわりが強調されている。武家の厚い崇敬を受けたという八幡の気配がなくぴんと来なかった。
エジソンの碑がある。立派なものだ。電球のフィラメントにここの竹を利用したとか。
展望台より京都市街地方面
琵琶湖畔から422号線ついで3号線沿いに瀬田川を下る。琵琶湖から流れ出る唯一の河川、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾にそそぐ。どこで瀬田川が宇治川になるのかと思っていたがよくわからなかった。漠然と滋賀県のうちは瀬田川、京都府に入ると宇治川かと。初めから水量の多い悠々たる流れかと思ったら、渓谷じみてくる。さらにはダム湖のようになっている。全くの山間地で、土砂崩れの後も生々しい。30分ほどで宇治平等院近くへ出る。
観光地の路地を抜けホテルに入る。
平等院の境内に入り、源三位頼政の墓を探す。
鳳凰堂を巡る池の周りにいくつか建物があるが、その内の最勝院というというところに墓はある。数ある源平の大将の中でも源頼政は特異だ。源平の戦、治承寿永の合戦の口火を切り、以仁王と共に三井寺に挙兵する。叡山の助力を得られず南都へ向かうも、追う平家の勢急で以仁王を逃がすべく平等院に立てこもる。橋桁を落とし宇治川を結界に僧兵の奮戦もあったが、平家方の足利勢の馬筏で宇治川を押し渡られ、敗死する。歳は70余歳。
頼政は扇を開き辞世をよんだという、それにちなんで扇の芝とか。
鳳凰堂は東に向かって建つ。西日が差して逆光だ。堂内は修復中とか。外観の塗装が見慣れないくらい赤い。
鳳翔館に鳳凰堂内の色彩復原があった。極楽浄土とは、確かに極彩色、目のくらむ美しさなのかもしれないが、長くいると落ち着けないうるさいところのようだ。
今井兼平の墓はJR石山駅のすぐ近くのはずだ。ナビにもちゃんと表示されていた。が、細い路地がくねり、右や左のナビの指示も何か心もとない。その割にはあっさり行き着いた。
今井兼平。源義仲の乳母子、義兄弟、義仲四天王の一角、猛将、誰よりも義仲を理解し、支えた男。最期に互いに会いたいと思い、共に死にたいと思った。どうして義仲寺に一緒に祀られないのか、と思うのだが、こうして兼平の墓を前にするとこれはこれでいいかと思う。義仲は義仲、兼平は兼平。住宅地の中のせせらぎの傍の墓であった。
えらく逆光だった
義仲寺は幹線道路からも表示があり、簡単に見つけたが駐車場探しの方に苦労する。
午後の秋の日差しの中境内には植木屋さんが入っていた。小さな寺で境内も狭い、芭蕉の墓があるので俳句関係の人の訪れの方が多いようだ。芭蕉は自ら義仲と共に葬られることを望んだというが、何故義仲だったのか。共通点を見出せるようには思えない。数ある武将たちの中で何故特に義仲だったのか。義仲は確かにこの辺りで死んだのだろうが、その息吹は木曽の山中の方が強く感じられる様だ。彼はきっと京都も近江も嫌いだ。
義仲の墓
芭蕉の墓
境内 芭蕉が何本か植わっていた
境内 しゅうかいどうとほととぎす
芭蕉庵天井
格子の絵は若冲だそうだがここまで剥落していると何が何だか
琵琶湖畔に出てみる。この辺りは湖が狭まってきているのであまり大きなうみには見えない。対岸に三上山が見える。画面右になるが写っていない、中央左は膳所城跡。