物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200207-10 島根 食い物の恨み

2020-02-27 | 行った所

時々吃驚するような旨いものにありつける機会がないわけではないが、一般的に言ってその機会はめったにない。
これは実はさっさと忘れてしまいたいことに属するが、それでも書いておく。

------------------------------------------------------------------------------------------------------------
出雲蕎麦

正直言ってあれほど不味い蕎麦は初めて食べた。
その店先ではよくわからなかったが、部屋に案内され、しまった、とは思ったのだ、これは団体客用の店だ、あそこで出てしまえばよかったのだ。しかしいくら何でもあれ程のものを食わせられるとは思わなかった。
寒い日だったので暖かい蕎麦が食いたかった。大体が基本的に冷たい蕎麦と暖かい蕎麦の2種類のメニュー。
出されてぎょっとなった。どんぶりの中の温かい汁の中に蕎麦らしいものは入っているが、表面はなんだか乾いている。箸を入れればふやけ切った麺が中で固まっている。これに冷たい出汁を入れて食えという。腹は減っていたし、頑張ったが完食は無理だった。こんなものを客に出せる神経が分からない。
饂飩の釜上げはあるが蕎麦の釜上げなんて知らない、仮にあったとしても表面が乾くほど放置して出すものなのか? 汁は蕎麦湯でもなくただのお湯だった。どんぶりに白湯を入れ、茹で麺を放り込んで放置したものを出されたとしか思えない。
津山で食べた温かい天ぷらの信州蕎麦は旨かったことか。津山の店は地元の常連さんが並んでいた。あんまりな違いだった。

------------------------------------------------------------------------
安来 泥鰌

名物に旨いものなし、という。
しかし安来と言えば安来節、ドジョウ掬いでしょう、始めてきたのだ、また来るかどうかわからない、と泥鰌の店を探したのだ。
安来の町中に泥鰌の店がないことで察するべきだった。

この食材は既に一見さん向けでしかないことに。動物性たんぱく源が豊富な現代の舌を楽しませるものではないことに。もう少し調理法に工夫すればマシになるのではないかと思うがいうまい。
安来ではすでに泥鰌資源は枯渇しているらしく、出てきたのは大分県の泥鰌だった。

-------------------------------------------------------------------------------------
宍道湖 シジミ

JR松江駅エリアの和食の店、結構流行っているように見えた。蟹のセットメニューがメインのようだったが、それは避けた。
可もなく不可もない程度の刺身、宍道湖7珍というがなんだかよくわからず、また食べたいと思うほどのものもなく、その半分は既に宍道湖で入手困難とかで代替品だったがそれはいい。
しかし、シジミの小鍋と称するものは何なのだ。よくあるで固形燃料で一人分の鍋が熱せられる。「シジミには既に熱を通してあります」と言われてよくわからなかったが、蓋を取ると小さなシジミが10個ばかりすっかり開いて入っている。仕方がないので白菜等に火が入るまで待つ。
シジミはまるで出し殻の様だった。汁にはシジミの風味一つなかった。
東京でびっくりするほど美味しいシジミ汁を出されたことがある。宍道湖のシジミと聞いた。旨いものは都市に集まり、地元には残らない?
しかしこれなら家でスーパーでシジミを買ってきて普通にみそ汁にした方がマシだ。
宍道湖沿いを走りながら、シジミ汁の店はないかと思ったが見つけられなかった。

コメント

20200210 伯耆国府址 因幡国府址

2020-02-25 | 行った所

松江から帰途は、伯耆国府址 因幡国府址に寄ろうかという話である。昨日とは一変、天気は悪い。

実のところ、伯耆というのが出雲と因幡の間にあることを認識したのはこの旅の直近である。
因幡というのは出雲と隣接しているものとばかり思っていた。この思い込みはたぶんに「因幡の白兎」にあると思える。
兎がワニ(サメ?)をだまして海を渡り、最後に捕まり毛を剥がれる。更に大国主の兄神達に騙され泣いているところを大国主に救われる、という最も親しまれていると言っていいこの神話は出雲と深く結びつく。オキの兎は隠岐の兎、隠岐から一番近い本州の陸は島根半島、すなわち出雲に他ならない。出雲大社にも兎のモニュメントも数あり、因幡というより出雲のうさちゃんみたいだった。この話の類話は世界各地にあるらしい。だから別に隠岐・因幡にこだわることはないのかもしれない。むしろ普通名詞の沖・稲場でもいいわけだ。この話は兎とワニ 大国主と八神姫の結婚という二つが合わさってできたのだろうか。八神姫は因幡だから、兎も因幡の素兎と称されるのだろうか。素兎は毛皮剥がれて素っ裸の兎ということか、沖にいた時には黒兎か茶色かわからないということか。
ともあれ、出雲と因幡の間には伯耆がある。
平正盛は因幡の守だった時出雲の源義親を討ち取ったとされる。平忠盛は伯耆の守になっている。

松江から安来・米子を通り大山の北側を走る。あいにくの天気で大山は全く見えない。

伯耆国府は倉吉にある。鳥取県の西方海沿い近くを走っていると結構平野部のある印象なのだが、倉吉市は山の方へ入る。地名そのものが倉吉市国府に国衙址はある。



かなりの発掘調査をしたらしい、国庁そのものではないが付属施設らしい法華寺畑遺跡が一部復原整備されている。






伯耆守として山上憶良が赴任していたことがあり、歌碑があった。残念ながら伯耆での作歌は確認されていないらしく歌碑は「瓜食めば子ども思ほゆ・・」であった。憶良は貧窮問答歌なども知られるが、昨今の働き方改革とやらの関係からも次の歌が面白いように思う。
「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむそ」
この歌は筑紫で詠まれたという。当時憶良は筑紫守、上官の大宰大弐は大伴旅人。旅人主宰の宴席から憶良が退出するときの歌だ。嫌味はなくさらっとユーモラスに言ってのけたのがさすがだ。
旅人は大酒飲みだ。何しろ「なかなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒に染みなむ」だ。
しかしこの二人は歌人同士として付き合い尊敬しあったようだ。

倉吉市街地を少し走る。ここも街並みが売りらしい。相撲の琴桜の出身地だ。

海岸近くの道路に戻り、鳥取市を目指す。因幡の国府も町名国府にある。ここも発掘済み、礎石と柱が復元されてある。

かなり開けたところにある印象だ。

因幡の守で著名なのは大伴家持。左遷だったそうだ。近くに万葉資料館があるが休館日だった。
因幡の守平正盛、因幡・伯耆・出雲の軍勢を率い義親と戦ったというがはてさて?

鳥取市街地でラーメンを食べ、鳥取道を佐用JCTまで走り中国道に乗る。山間部は雪だった。岡山県に入ると不思議と雪がなくなる。吉河(よかわ)JCTから舞若道、舞鶴は雪があった。

コメント

20200209 出雲 松江屋形船

2020-02-24 | 行った所

加茂岩倉遺跡を出て、高速で松江に戻る。城脇の駐車場へ入れ、堀川めぐりの屋形船最終便に間に合った。


屋形船といっても屋根があるだけの開放的なものである。風は冷たいが、船には炬燵がある。長い特注のこたつ布団のかかったやぐら炬燵だ。船頭の手慣れた解説付き、船頭は歌まで歌う。種々の鳥がいたがカワセミも見た。ラッキーだったらしい。



屋形船の屋根は低い橋の下を通るたびに下方へ畳まれる。乗客はこたつに頭を接するまで下げてやり過ごす。話に聞いたことはあったが、本当だったのだ。

天守の見えるスポットでは完全な逆光。

折角だったから松江城にも上りたかったが、時間的に無理だ。

松江の城下は堀尾吉晴が造ったのだという。鎌倉時代、出雲には佐々木氏が守護として入った。その系統の京極氏が守護をしていたが、戦国時代尼子氏が乗っ取る。尼子は毛利に敗れ、関ヶ原の後、堀尾氏が出雲に入る。当初入場したのは尼子氏の居城だった月山富田城だった。安来の南の方だが、完全な山城のようだ。堀尾吉晴は平城の周りに武家・町民の住む城下町を欲した。水運の便と平地があることをみての立地だったのだろうが、宍道湖と中海の間の低湿地の開拓は容易ではなかったろう。

ホテルに向かい渡ったくにびき大橋から東の方に大山が残照を受け白く輝いて見えた。

コメント

20200209 出雲 出雲大社 加茂岩倉遺跡

2020-02-23 | 行った所

雲津から高い橋を渡り境港へ出、中海の砂洲が広がったような島を通り、松江方面に戻り、宍道湖の北辺を走り出雲市へ向かう。湖岸道路はいささか単調だ。

出雲大社は宍道湖が果てた後さらに西へ距離がある。事実上出雲の西端、ここが古代出雲の中心だったとは思えない。私にはやはり風土記の丘付近、東出雲の方が中心だったと思えるのに、大国主が国譲りに際し、高い社を築き祭れと言ったのはここだったのか?長い参道、行きかう人々、ここは観光地だ。だが昨今どこの観光地でもかまびすしかった外国語の響きは聞こえず、それらしい人も見かけない。新型コロナウイルスと呼ばれる中国武漢発祥の疫病の影響らしい。古来疫病は人の行動を変える。

参道はいったん上がって下る。正面に山が見える。あの山が本来の御神体だろうか。

大社本殿前には大きな円形が描かれている。発掘された神殿柱跡を示すものだ。巨大な神殿があった証拠だという。この関係の資料が古代出雲歴史博物館にあるはずなのだが、あいにく改装で休館中だ。あらかじめネットで判ってはいたが、来ればやはり悔しい。

出雲そばの店で昼食を摂るも不味かった。

旧大社駅へ寄ってみる。

天気はすっかり回復し、春の日差しが満ちている
かつて山陰本線から大社線という支線が伸びていた。その廃止後も駅だけ記念に残されている。木造平屋、特異な屋根だが中はハイカラ。

プラットフォーム、線路にも降りれる。踏板に兎の意匠。

SLも保存されている。


雲南市、加茂岩倉遺跡へ向かう。道がよくわからなかったが、何とか行き着く。

駐車場に銅鐸を模したものがある。

この遺跡は平成になって銅鐸が37個一括して発見された。現在の所、最大数を誇るが、銅鐸出土遺跡はよくわからない。古墳とか住宅趾とかではないところから出てくる。これまでも開墾などで発見され、そのまま取り出されたことが多いため出土状況がよくわからいことが多かった。ここも農道整備のための工事で見つかったのだが、すぐ文化財担当者が呼ばれ、考古学者による発掘がされた遺跡だ。

駐車場から遺跡とガイダンス建物へと歩く。いい春の散歩となった。途中から木道を上がる。山陰は雪が残っていた。



ガイダンスから遺跡遠景

コメント

20200209 出雲 雲津

2020-02-18 | 行った所

松江から雲津浦へ向かう。

えらく不便なところだ。松江駅近くから美保関方面へ向けて走る。中海北側を走る。しばらく七類港行のバスが前を走っていた。七類港からは隠岐への船が出る。七類へ行く道との分岐を過ぎ、境港へ行く橋の下を通りしばらく行くと雲津へ入る道があった。対向車は滅多にないがすれ違いが難しい急こう配の坂道が続く。下って集落が現れる。
集落に入って間もなく覚源寺らしい小さな寺があり、その脇奥に五輪塔はあるにはあった。だが義親を示すものは何もない。

平家物語冒頭、本朝の滅び去った猛き者たちが列挙してある中に将門・純友らと並んで康和の義親が出てくる。
源義親は頼朝(義仲・義経)の曾祖父に当たる人物であり、八幡太郎義家の息子である。時の治天の君、白河院は源氏に冷たい。義親は対馬守に任じられてはいるが、これだとて東国に強い源氏への嫌がらせ、遠国へ追い払う意図を感じる。
康和3(1101)年、義親は、九州大宰府の大江匡房に訴えられる。義親が九州で人を殺し、官物を奪っているというのであった。朝廷は追討の前に義家の郎党の豊後権守藤原資道を派遣し、説得して召還を試みることになった。しかしその使者は義親に従い、官吏を殺した。何か義親側にまっとうな言い分があったことを思わせる話である。この後朝廷は義親を隠岐に流刑にするのだが、誰がどうやって義親を捕まえ隠岐へ連れて行ったのか、その辺はわからないらしい。実際隠岐へは行かなかったという説もあるらしい。が、出雲にはいたらしい。
嘉承2年(1107)出雲守藤原家保の目代らを殺害して年貢などを奪った。雲津浦に立てこもるが、白河院の命で追討使になった平正盛(清盛祖父)により討ち取られる。この辺の事情が書かれているのが、大山寺縁起絵巻である。雲津は蜘戸として出てくる。出雲風土記には久毛等浦として出てくる港だそうだ。とはいえこの縁起の成立も14世紀の事であり、200年以上もあとに書かれた話ということになる。
出雲のどこで目代を殺し、官物を奪ったのかもあいまいらしい。風土記の丘付近、現松江市大草町付近だろうと思ったのだが、12世紀初頭の出雲の国庁はどこにあったのだろう。どっちにしろ奪ったものを雲津に運んだとすれば船だろう。
ただ、行ってみて思うのだが、この雲津に義親が立てこもったという話自体に違和感がある。
雲津浦背後の山は険しい。浦は深い入り江で良港と言えるだろうが小さい。島根半島には42もの港があったという。その中でも雲津は大きい方ではないが、隠岐との定期航路のようなものでもあったのだろうか。それも義親がそもそも隠岐へなど行っていなかったら意味がなくなる。
雲津浦の山に砦を築き立てこもったなら、確かに難攻不落。だが出口がなくなる、反乱軍としての広がりを欠く。しかも正盛はわずか数日で義親を破り、12の首を挙げて京都へ凱旋したという。どうやって? 遠征軍が険しい山道をどう攻める? 海から行けば入江の口は狭い、狭すぎる。一番狭まっているところは100メートルを切るのではないか。これでは両岸から矢を射かけられれば船で入るのも難しい。同時に攻める側は海上封鎖することは可能だ。つまり物量に勝る追討軍が時間を掛ければ雲津の砦を落とすことは可能だが、短時間ではできない相談に見える。

雲津浦の入り江の外は、美保関北浦と呼ばれる景勝地だ。出雲赤壁と呼ばれる険しい海岸線だ。ただ陸上からはアクセスできない。

松江観光協会 美保関町支部のサイトから

島根半島42浦巡り再発見研究会のサイトに海上の空中から撮ったらしい写真があったが「写真複製禁止」となっていたのでURLを書くにとどめる http://42ura.jp/54.html

本当に義親は雲津浦に立てこもったのだろうか。どこかへおびき出されてだまし討ちにされた、という可能性の方が高いように思う。

義親は父義家譲りの豪勇で知られていた。一方正盛は白河院の近臣として急速に台頭してきたが武勇の誉れはなかった。その正盛の快挙になんか変だ、と思った都人もいたらしい。同様の疑惑は正盛の息子忠盛(清盛父)の海賊退治に関しても出てくる。西国の海賊を退治したと言って平家の家人にならなかったものを賊扱いしているのでは?と囁かれた。
忠盛には自分の利益のためなら手段を択ばないところは確かにある。肥前神埼荘、ここに宋船が入ってくる。大宰府の管轄であるから大宰府の役人がやってくるのだが、忠盛は拒む。院庁下文を示すのだが、なんとこれが偽造品。鳥羽院の追認を見込んでのことかもしれないが、公文書偽造も辞さない忠盛の姿勢が分かる。

義親と正盛との話に戻す。
疑惑は正盛と義親が談合し、義親を逃がし、別人を殺したのではないかという物だ。しかしこれは正盛にとってのメリットは大きいが、義親のメリットは見えてこない。正盛は合戦のリスクを回避し、勇猛義親を討ち取った名誉を得、恩賞も期待できる。義親は源氏の栄誉を地に落とし、自身を生ける影となし、反乱の賛同者への裏切りにもなる。父義家の死により源氏の棟梁への復帰は絶望的となり失うものの無い(だからこそ反乱を企てた)義親がただ命ながらえるだけにみえる正盛の提案を飲むだろうか?
しかし、この疑惑は長く燻る。以後20年に渡り義親の「偽物」が4人も現れるのだ。一人目と二人目は10年後、越後と常陸に現れる。越後の平永基の所に出入していた僧が義親と名乗っていた。国司に引き渡しを命じられた永基が斬った。永基は治承5年(1181)横田河原で義仲と対決する城資職の祖父である。
常陸に現れた「義親」は逃げるが、下野で捕まり京都へ送られ、殺される。白河・鳥羽両院が引見する騒ぎになったそうだが偽物とされた。
三人目は不思議な展開をたどる。義親と名乗る男が藤原忠実の鴨院に匿われた。鳥羽院の意向あっての事だという。会って本者という者あり偽者という者ありだったというが、分からないということがあるだろうか。20年近くが経過したとはいえ30代が50代になっただけだ、同世代の人がたくさんいただろうし、息子の為義もいる。義親の乱当時13歳の少年とはいえ幼児ではない。当然父親かそうでないかくらいはわかったろう。また忠実自身が義親を見知っていたと思われる。全くかかわりのない偽者を匿うだろうか、既に誅されたとして追討使正盛に恩賞まで出しているので本者とも言えず・・という状況に見える、
更に四番目の義親が大津に現れる。鴨院義親と大津義親が京都で互いに郎党引き連れ乱闘に及び、大津義親が殺された。
凱歌を挙げた鴨院義親だが、源光信が郎党を連れて鴨院を襲撃、義親を郎党もろとも殺害した、ということになっている。鴨院義親と大津義親の乱闘は光信邸前の出来事だったそうだが、義親?が居るとはいえ前関白屋敷である。この襲撃は余程義親の生存が都合の悪い輩=正盛を疑いたくなる。

もし偽義親の中で本物がいたとしたら3番目の鴨院義親が有力視されているようである。
私には義親が正盛と談合し逃げた、ということが信じがたいのではあるが、どちらかというと、一番目の越後義親が気になる。まず法師であった点、出雲から逃げ出す時点で出家するというのは自然な発想に思える。まず近くの大山寺辺りで頭を丸め、日本海側の沿岸を少しづつ北上すると越後だ。義親の乱が院近臣の国司とその威を借る目代への反感を背景にある程度以上の範囲の豪族たちを統合しての反乱であったならば、成功か不首尾かはともかく僧兵を擁した大山寺との提携は当然視野に入っていたろう。

それにしても、義親に関しては何が何だかわからない事が多すぎる。

この雲津浦には「かんから祭」というお祭りがある。江戸時代、この浦で疫病が流行った時、昔この浦で死んだ義親の祟りとされ、その霊を慰めるための祭りだという。ネットで見る限り、紅白に分かれて赤の平正盛・白の源義親方で赤勝て、白勝て、とやるらしい。それで霊を慰めることになるのか?と思うし、むしろ墓を何とかした方がいいのでは、と思ってしまうのだ。

海岸近くに諏訪神社という神社があったが、部外者立ち入り禁止となっていた。

集落には他に荒神社というのがあった。小さな集落だが神社2つ、寺一つを擁している。

松江市のサイトの中の、総合メニュー > 暮らしのガイド > 文化・スポーツ > 松江市史 >西田先生コラム「 源氏の御曹司、松江に死す」西田友広(中世史部会専門委員)このページを見つけなければ、私は雲津へ行ってみようとは思わなかったはずである。
http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/matsueshishi/column-nishita.html

コメント

20200208 八雲立つ風土記の丘

2020-02-17 | 行った所

八雲立つ風土記の丘へ行く

冷たい雨が降ってくる。取敢えず資料館へ入る。この辺りは「意宇(おう)」というらしい。出雲の国風土記は唯一ほとんどが残っていると言われる風土記だ。くにびき神話は記紀にはない。まともには知らずというより全然見たこともなく、よそから引っ張ってきた土地が島根半島になったとは知らなかった。越の国風土記などと云うのは断簡さえ残っていないのだが、高志の一部が持っていかれたなんてことは書いていないだろうな。

出雲国府址へ行く。風土記の丘から徒歩20分くらいだったが車で。この辺りには国衙関連の建物群、国分寺・国分尼寺、正倉跡なども出ている。ただ、これらの建物群は9世紀ごろまでしかたどれないようだ。中世には出雲の国の中心は、出雲大社のある出雲市の方へ移るようだ。道中、出雲一之宮熊野神社の看板があり、出雲一之宮は出雲大社だろうと怪訝だったのだが、そういうことらしい。平安末期ごろの状況はどうだったのだろう。








松江市街に入り、松江駅近くに泊まる。

コメント

20200208 出雲 安来

2020-02-17 | 行った所

大山から降りる。下りは行と道が違い、除雪も徹底しているし、ずっと走り良い。こちらがメインルートだったのに違いない。
山を降りるともう雪はない。

安来市和鋼博物館へ行く。何を象ったのか奇妙な屋根の建物。
まずは玄関ホールにあった足踏み式天秤鞴を試してみる。足がバタついた時、たたらを踏む、などとというがこのたたらに関係があるのか。


たたら製鉄、砂鉄から日本刀に欠かせない玉鋼を取り出す。とは言うもののこれは一大産業だ。製鉄というからにはそれなりの規模のものが想像されるが、実は砂鉄を取るのがこれほどの作業だとはイメージできていなかった。

鉄穴(かんな)流しは、山を崩し、水に流し、沈殿させ、また流す。地形が変わるほどの大土木工事に等しい。更に堅牢な炉を築き、高温に熱する。即ち燃料が要る。炭にする木材、広大な森林が必要だ。これを指揮するのは技術者としてのムラゲではない。もっと広範囲な支配者だ。

ヒッタイトはいち早く鉄器を用い、中東に覇を唱えたという。しかし、伐採のし過ぎで森林が枯渇、衰退したと昔読んだ気がする。
この大プロジェクトはどのような人に率いられて始まったのか。弥生時代の遺跡から鉄の遺物が出ることはある。地域によっては鉄製農機具が普及していたともいわれるが、大規模な製鉄の証拠はないのだろう。本格的鉄の生産は6世紀と言われるが、まさに古墳時代の後期であり、記紀の特異な感じをたたえる出雲神話もこの投影であるかもしれないが、我こそ鉄のルーラーだと示す古墳の主はいるのだろうか。

この博物館は技術的なところが詳しい。近代での角炉は韮山の反射炉に似ていた。

安来へ来れば町の中にどじょうを食べさせる店くらいいくつもあるかと思っていた。どうやらそういう物でもないらしく、観光会館のようなところでどじょうの小鍋を食べた。旨いものではなかった。おまけに安来のどじょうでは足らずに大分からの仕入れだそうだ。
ちょっと思ったのは安来節のドジョウ掬いの踊りは、どじょう取りではなく鉄穴流しではないのか。あの重労働をちょっとコミカルに笑い飛ばしてみたかった、とか。

コメント

20200208 伯耆 大山寺

2020-02-17 | 行った所

久世ICから米子道を北上。溝口ICから下道、大山寺を目指す。
雪が舞う。その内冗談ではない雪になった。一応除雪はされているが、路面は見えない。前を行く車は明らかに雪道に慣れていない。牧場が広がっているようだ。それを過ぎるとモンベルの店があった。なるほど登山をする山なのだ。さらに行くとスキー場の駐車場に出た。この辺に車を置かざるを得ないのだが満杯だ。暖冬で雪不足でシーズン初めてのまともに営業できる土曜日だったそうだ。なんとか隅に車を置かせてもらい寺まで上がる。

大山寺、寛治8年(1094)京都に強訴したという。12世紀には僧兵3000人を抱える勢力になっている。大山寺縁起の成立は14世紀半ばとされるが、これに義親の乱の記載がある。
 参道の長いスロープ、結構急だ。激しくはないが雪は降り続く。一応の足ごしらえはしているが、こんなことなら防水ズボンが要るのだった。参道脇は土産物屋や旅館だ。立派なつららが軒端に揃う。階段に掛かると雪かきをしている人がいる。おかげで上がれる。山門をくぐりまた登る。宝物館はあるが閉まっている。どっちにしろ大山寺縁起は焼失している。摸本が東大史料編纂所にあるだけだ。かなりの数の僧兵がいたはずだが、この雪では何がなんやら。




 しかしここには佐々木高綱の等身大地蔵というのがあったのだ。思いがけないところで平家物語で馴染の名前に出くわし、すっかり喜んでしまう。地蔵は高綱が病を得た時に作ったという。但し現存のものは江戸末期のものだそうだ。
高綱は長門・備前の守護となり、安芸・周防・因幡・伯耆・出雲などの恩賞地を貰い中国地方一帯に関係ができた。乃木希典が佐々木家の子孫というのはたぶんその関係だ。

雪の石段をおっかなびっくり降り、スロープに掛かる。軽トラが一台ゆっくり上がってきた。やり過ごしてまた下る。
やれやれ、もう少し、と思った途端だった、つるつるの圧雪に見事にすってんころりん、したたかに尻を打ちつけた。
高名の木登りの教訓や如何、やすく思へば必ず落つと侍るらん・・・・

コメント

20200207 美作 津山・真庭

2020-02-14 | 行った所

津山は美作にある、といってもピンとこないのだ。島田荘司や横溝正史のおどろおどろの小説のネタ、津山事件のイメージがあるので中国地方の山の中、というのは確かなのだが。

この図は高校生の使う新編日本史図表という参考書から採った。こんな細かいこと勉強してたんかいな?

古代吉備国が備前・備中・備後に分かれ、備前が更に備前と美作に分かれる。播磨や因幡・伯耆にも囲まれ海への出口はなく、あまりぱっとしない国に見えてしまう。

越前松平家の祖は結城秀康、徳川家康の子であり、将軍職を継いだ秀忠の兄である。秀康の子が忠直。しかし忠直は豊後に逼塞させられてしまい、越前藩は忠直の弟忠昌が継ぐ。忠直の系統は津山藩主となった。結城秀康以来の伝世品などは津山に継承されたということである。忠直お抱えの絵師に岩佐又兵衛がいた。彼の描いた絵物語なども津山に伝わっていたはずであるが、津山藩最後の藩主は廃藩置県後すぐ死んでしまう。享年45歳というからさぞや混乱を極めたであろう。家宝など保持できようもなかったろう。

津山は焼けていないのだろう、そこそこ城下町の街並みが残る。
その一角、洋学資料館へ行く。宇田川玄随をはじめとする蘭学の流れ、名前に見覚えはあっても津山藩だとは思わなかった人たち。小学生、6年生だろうか、が校外学習に来ていた。なかなか力の入った資料館だった。すぐ脇に箕作阮甫という天才語学者の家があった。


蕎麦屋に入る。信州蕎麦とあった。中国山地の山の中で信州か、と思ったが旨かった。津山に松平が入る前は森家が所領しており、森家は信州から来たそうだ。初代森忠政は森蘭丸の弟だそうだ。この人が実質的に津山城・城下町を整備したらしい。

津山城の石垣は大変立派なものだ。平城とされるが小高い丘の上にそびえ、天守があった頃はさぞ威容であっただろう。城の入口には森忠政の像があった。


「津山冷ゆ石の三鬼に会ひに来て」 山口誓子
西東三鬼の墓があるというから探すのだがなかなか。城下町の常で道が狭く一方通行が多いから行き過ぎるとまたぐるりと一周だ。うろついているうち鉄砲町という案内板を見つけた。吉井川で練習したのか。

ようやく墓があるという寺を見つけたが、墓地の中から探せず退散。隣接して宇田川家の墓のある寺もあった。





真庭は大庭郡と真島郡が合わさり真庭だそうだ。真庭は幕府直轄地だったが旧勝山町には勝山藩があった。出雲街道が走り、ここも古い街並みを売りにしている。勝山の資料館へ入る。勝山藩主は三浦だそうだ。鎌倉の有力御家人だった三浦氏は北条早雲に追い詰められ、油壷で終焉を迎えたのだが、命脈を保った一族もいたのか。




暖簾をかけた町屋が多くそれも売りらしい。屋根が気になる。屋根端の築地塀の上部のようなものは何というのか。



武家屋敷付近

この辺りは林業が盛んだ。新しい加工材も作られる。CLT(Cross Laminated Timber)だ。


コメント

20200207-10 美作・出雲・伯耆・因幡

2020-02-14 | 行った所

20200207(金) 寒い朝だ。暖冬で来ていたが急に冷え込んだ。積雪というほどではないが、薄く凍っている。
だが、日が差してきているようだ。北陸道から舞若道に入る。山の樹々の雪が白く輝き、北欧のクリスマス絵葉書でも見るような景色になっている。吉川(よかわ)JCTから中国道に入り、一気に津山へ入る。
まだ昼前だ。津山は城と街並みが売りらしい。洋学資料館辺りを見、蕎麦屋に入る。信州蕎麦とある。中国山地で信州かよ、と思ったが旨かった。津山城下を作った森家は津山に来る前は信州に居たそうだ。城へ向かった後西東三鬼の墓を探す。
真庭に行く。旧勝山町という所が街並み保存地区となっている。

20200208(土)久世ICから米子道を北上、大山寺を目指す。雪が舞う。スキー場の駐車場の一角に車を停め大山寺に上がる。車道は圧雪、階段は雪に埋もれていたが雪かきをしている人がいる。佐々木高綱の地蔵を見て下りる。下りの圧雪でスッテンころりんしてしまい、尻が痛い。
大山から安来へ。和鋼博物館へ行く。たたらの町安来というわけだ。この博物館はよかった。ケラという物が何物か初めて分かった。観光会館のようなところへ行きどじょうを食べた。
八雲立つ風土記の丘へ行く。寒く時折雨が落ちてくる。歩き回る気がせず資料館を見て、車で出雲国府址へ行く。
松江に向かう

20200209(日) 松江から雲津浦へ向かう。えらく不便なところだ。覚源寺らしい寺とあるにはあった五輪塔を見るもピンとこない。海岸近くの諏訪神社は部外者立ち入り禁止となっていた。
引き返し、橋を渡り境港、中海に浮かぶ島というか砂洲の広がったものに見えるような島経由で宍道湖辺へ出る。宍道湖北岸に沿って走り出雲へ。出雲大社は大きな神社ではあるのだが、よく流行っているお宮さんにしか見えずあまり面白くなかった。本殿前に大きな柱跡が示してある。出雲神話の国譲りで大国主は巨大な社を建てて祭れという。例を見ない高さの神殿が可能になるという巨大柱跡だったはずだ。これに関する資料が出雲古代博物館にあると思ったのだが休館中だった。
蕎麦を食べて加茂岩倉遺跡へ向かう。朝は曇りで雨もぱらついていたが、すっかり晴れた。現在最大数の銅鐸が一括して見つかった遺跡だ。
加茂岩倉を出て高速で松江に戻る。松江城堀川めぐりの屋台舟の最終出港は16:00、間に合った。

20200210(月)帰路につくが、途中、伯耆国府址(倉吉市)と因幡国府址(鳥取市)へ寄る。
鳥取道を佐用JCTまで中国道-舞若道-北陸道経由で帰る。

コメント