木曽路はすべて山の中にある。と書いたのは藤村だったはずだ。全く山ばかりだ。そして木曽の谷は狭い。木曽山脈で東に隔たる伊那に比べても随分狭い。木曽川が流れ、その河岸段丘になっている。
日義村、その名も朝日将軍義仲から採ったという。義仲はここで育つ。父義賢は武蔵で甥の義平に殺された。2歳の駒王丸は齊藤実盛に木曽へ連れてこられたという。養父中原兼遠は駒王丸の乳母の夫だという。駒王丸はたくましく育つ。乳母子、義兄弟、親友の兼平と共に。駒王丸は義仲として元服する。
巴の存在は「?」が付くがもちろん女はいただろう。清水冠者と呼ばれる義高は義仲が19歳か20歳のころ生まれているはずだ。母は尊卑分脈に拠れば中原兼遠の娘、兼平の妹だろうか、十分候補になりえただろう。義高は嫡男とされるので正妻だろう。ただ、源氏の棟梁候補の婚姻と考えると内向き過ぎる気がする。例えば、甲斐源氏、美濃源氏あたりは候補にならなかったのだろうか。もし、美濃源氏と提携出来ていたら随分変わったろう。北陸路を回ることさえなかったかもしれない。養父中原兼遠は義仲の源氏の棟梁となることを望み、貴種を拾ったつもりで育てただろうが、一面、この木曽の地で娘と仲睦まじく生きてくれたら、とも思っていたのではないか。義仲には他にも子はいるようだがよくわからない。義仲は京都で松殿藤原基房の娘の婿になる。平家物語には随分デレデレした様子が描かれる。しかしそれは一時の事、木曽を出てからの義仲はまさに疾風怒濤の3年間を駆け抜けた。兼平をはじめ一緒に出立した1千人のうちで戻った者はほとんどいないだろう。
義仲館
日義村、頑張った!郷土の英雄義仲の全てを展示するぞ、という意気込み。等身大人形やらビデオやら、ジオラマ、義仲関係の大地図。南都牒状がコピーでも写真でもなく、手書きで写して巻物に仕立てて展示されていたには驚いた。義仲の下文もあった(これはコピー)
徳音寺がすぐ近くだった。
この村のマンホールは笹竜胆の意匠だ。
巴ヶ淵
濃尾平野を流れ、伊勢湾にそそぐ木曽川は大河だが、この辺りではまだ上流、渓谷の趣だ。近くには山吹山という山もある。巴御前、山吹御前は義仲を彩る伝説の女達だ。地名の方が先、と云うことはないかしらん。また、巴の場合はどこかで板額との混同が起こった、或いは平家作家の意図的な混同はないのだろうか。板額という女武者の事を知った作者が、義仲にも女武者を附けた。ただ平家物語での巴の存在はあっさりしている。盛衰記ではもっと詳しいようだが、平家物語では出自もかかれない。第9巻、木曽の最期で義仲の兵が7騎になって初めて出てくる。その後、今井兼平に会い、手勢を集めたもののまた5騎のみになった時、義仲は「最後の戦に女を具したりなどいはれん事 口惜しかるべし」と巴を去らせる。去り際の巴はすさまじい。武蔵の大力の剛の者、御田八郎師重、30騎ばかりで出てきたところへ割って入り、「先づ御田八郎に押し並べ、むずと組んで引落しわが乗ったりける鞍の前輪に押し付けて、ちっとも働かさず、頸ねじ切って捨ててんげり。」その後物具を捨て、東へ落ちる。
林原本平家物語絵巻
ただ、鞍の前輪に押し付け、頸をねじ切る、というのは、宇治川の合戦で畠山重忠が義仲の郎党長瀬を同じように打ち取っているし、篠原の戦いで手塚光盛が齊藤実盛を討ち取る場面も同じだ。騎馬戦の組打ちの定型かもしれない。
板額は城一族の女である。横田河原で義仲と対決した城である。平家物語6巻「しわがれ声」で急死した資永、継いだ長茂の妹であるようだ。城一族は横田河原の後、落ちぶれるが、長茂は梶原景時のつてを得て鎌倉の御家人になる。しかし梶原氏が滅ぼされた後、京都で反旗を翻す。呼応し、越後で資永の子資盛と板額が挙兵する。もともと城氏は平家の郎党で越後を任されていたのだ。板額は反乱軍の一方の将として奮戦し、鎮圧に来た鎌倉軍をてこずらせたという。板額は足に傷を負い捕まり鎌倉へ連行される。吾妻鏡に記載され、板額は実在したとされている。
南宮神社
義仲の戦勝祈願の地の一つ、この辺の神社はみんな義仲が祈願したことになっているかのようだが。
19号線に面しているが、裏手に滝があり趣のあるところだった。
旗揚げ八幡。
このケヤキか! 樹齢800年だそうである。つまり義仲の同時代からの存在だ。さすがに樹勢衰え、2代目がすぐ近くにある。
義仲屋敷跡が隣接。
宮ノ越宿
中山道の中間地点、京と江戸の真ん中だそうだ。笹竜胆の白旗がなびくは中山道と関係はない。義仲の地、というほどだろうか。
このすぐ左手に木曽八景 駒ヶ岳の夕照の碑があった。晴れた日には木曽駒が見えるのだろう
白山には3つの馬場がある。馬場といっても乗馬の練習場などではなく、ばんば、と読んで白山禅定道の起点となるところだ。禅定道とは山頂までの道だそうだ。越前は平泉寺、加賀は白山比咩神社、美濃は長滝神社、それぞれが九頭竜川、手取川、長良川と、白山に源流を持つ河川に対応する。富山の庄川も白山源流だが、禅定道はない。
苔寺の異名もある平泉寺は、今は正確には平泉寺白山神社というらしいが、杉木立の根元に緑の苔絨毯を敷き詰め、粛然とした佇まい、近年の発掘調査の成果あいまり石の文化を伝え、盛時の面影と迫力を充分想像させてくれるところだ。
白山比咩神社は、これは何というのか、流行っているお宮さん、という感じで、禅定道?馬場?どこ??という感じ。わずかに神馬の実物大がそれっぽいかと。手取川をさかのぼり、笥笠(けがさ)中宮神社まで行くと多少禅定道の雰囲気はあるがあまりにも寂れ果てた感がある。ここの石碑に、安元年間の鵜川騒動に関して笥笠中宮が強訴の領導であったと記されていた。
長滝神社であるが、もともとここが一番小さかったようだ。白山は「こしのしらやま」と呼ばれた山ではあるし、開山を伝えられる泰澄も越前の出身となっている。美濃から見た白山は一種の裏側から見ているようなものではないか。とはいえ一時はそれなりの勢力も張ったらしい。しかし白山として強訴に参加したということはないようである。
3馬場は力を合わせて、ではなく白山の支配権をめぐり、しばしば対立、訴訟沙汰に及んでいるが、どうも長滝さんは勝ったことがないようだ。
境内に郡上一揆の宝暦騒動の碑があった。近くの資料館にも資料があった。小冊子があったので100円で買って帰ったがまだ読んでいない。
長滝神社のすぐ脇が長良鉄道の白山長滝駅だ。単線でプラットホームがあるだけの駅舎だ。長良鉄道はかつてJR越美南線だった。福井県側はまだ越美北線として走っている。南線・北線をいつかは繋ぐ、という計画だったそうだが、つながる前にこの辺りの鉄道の時代は終わったようだ。
資料館の脇が道の駅で鮎の幟があり、アユが食えるかと喜んだが、時間が早くてダメだった。
高山へ行ってIC近くでラーメンを食べた。
高山の街は雨の中を外国人らしい観光客が飲食店に列を作っていた。そのまま高山は通過し、361号線、山間の道をひた走り木曽へ向かう。
私は、どうやら7月27日に小松の鵜川あたりをうろついた後、白山比咩神社、ついで笥笠中宮神社へ行ったことを書き忘れていたらしい。物忘れしないためにやっているというのに、書くこと自体を忘れていれば世話はない。
今更書くといっても既に2か月も前の事、写真を幾つか貼ってお茶を濁しておく。
白山比咩神社に隣接する金剣宮
手取川をさかのぼり中宮へ
笥笠中宮は鬱蒼たる森に囲まれていた。
当初は9/21土出発、長滝白山神社経由で信州に入り、木曽・諏訪・上田・長野・小布施・上越に出て日本海側を帰ってくる2泊3日の予定であった。それが台風17号がやってくる、というので1泊2日に変更したのだった。もっと言えば、この旅は7月の連休を利用するつもりだったのだが、都合がつかなくなり一度キャンセルしているのだ。小布施では北斎を見るつもりだった。8月に東京へ行った時も墨田の北斎美術館は休館という始末で、私は北斎に振られっ放しだ。
、
それはともかく9/21朝雨の中を出発し、福井ICから中部縦貫道を大野まで、大野からは下道で九頭竜湖に沿って走り、油坂から白鳥へ。そこから長滝神社へ行き、白山文化資料館へ入り、道の駅でアユが食えると喜んだら、時間が早くて出せないと言われた。東海北陸道を北上、高山でラーメンを食べ、361号線へ出て、山道を延々と走った。途中で乗鞍岳と御嶽山の間を走っているとわかったが天気が悪いので何も見えない。漸く木曽へたどり着く。
宮ノ越の義仲館を見、南宮神社、旗揚げ八幡、義仲屋敷跡、巴ヶ淵、をたどり、木曽福島の宿に入る。
翌朝、木曽福島の宿場を少々見る。そこからあまり天候が悪ければ、木曽の桟経由で帰っても仕方なかったのだが、雨はやみ薄日もさしてきている。諏訪まで行くことにする。予定外だった大田切城も行く、ということで権平峠経由で伊那へ入る。権平峠はトンネルだった。天竜川沿いに下り、駒ケ根市でようやく大田切城趾を見つける。駒ケ根の博物館を2つ覗くも当て外れで、諏訪へ行く。諏訪大社下社で、駐車場ですぐ、手塚太郎光盛の城跡の案内板があった。ラッキー。諏訪大社は上社と下社があり諏訪湖を挟んで小高い場所にある。しかも下社には秋宮と春宮、上社には本宮と前宮、計4つの神社があるという。秋宮の資料館へ行くと、手塚光盛の兄の金刺盛澄の資料があった。
うな重で鱈腹となり、春宮へ。近くの御柱館へ行く。曲がる場所が分からずまごまごしたが、ここは面白かった。教えてもらった木落坂まで行く。さらに諏訪湖の周りを一周、と思ったが、道が混雑しており、引き返し、岡谷ICから帰途に就く。
諏訪で遊びすぎたか、遅くなり、さらに恵那で1時間の渋滞に合い、瑞浪まで下道を走り、と遅くなった。移動距離の長さを少し甘く見たようだ。
今庄の宿は福井城下から南へ8里(32km)1日の行程だという。ここから、栃木峠越えと木の芽峠越えの道が分かれる。どっちにしろ嶺北南部の山塊を越えることになる。北陸自動車道でも福井から南下すれば今庄ICの手前で「ここより山岳道路」の標識がある。
今庄宿の南に道標がある。文政のもので笏谷石製。左は北国街道、栃木峠を越えて近江に入る。木之本の宿から北國脇往還で関ヶ原へ向かう参勤交代に使われた道だ。もちろん琵琶湖の東岸沿いに京へも向かえる。右は敦賀・若狭へ向かう木の芽峠越えの北陸道だ。鹿蒜川沿いにしばらく行くのだが、その後二手に分かれる。木の芽峠コースと山中峠コース。山中峠越えは杉津(すいづ)に出るそうだ。このコースを行ってみようかと。
鹿蒜川沿いの道を行く。今庄・杉津線という道路だ。
鹿蒜川
しばらく行くと上新道という集落のあたりに看板があった。うっかり見逃すところだった。この辺りで左に曲がると木の芽峠越えらしい。現在、鉄道・高速・476号線はトンネルになっているから普通に道路を走れば木の芽峠を通ることはない。
今庄・杉津線をさらに行く。だんだん登っては来ているが、極端な山道という感はなく幅員も確保されている。山中信号所址へ来た。北陸トンネルが作られる前、敦賀から北上する列車は海岸線をしばらく走り、それから山越えで今庄に向かった。急勾配の斜面を行くためスイッチバックという手法が使われた。北陸線の山越えはここばかりでなく大変だったらしい。
今でも敦賀の南、疋田付近ではループ線になっている。
山中トンネルの手前に案内板がある。大伴家持の歌があった。
トンネルに入らず脇の道を行く。ほどなく海が見えてきた。山は越えたらしい。
この先の下りが大変だった。急こう配。急カーブの連続。山側の道路端には斜面がかなり崩れてきているようだし、谷側の方も怪しい。悪天候や夜間にはとても通れない。随分下って、漸く大きな道路と合流した。てっきり今庄・杉津線に戻ったと思ったが、8号線だった。敦賀に向かうところだったが、引き返し、河野経由で今庄に戻った。
ところで岩佐又兵衛の物語絵巻に「山中常盤物語絵巻」がある。義経の後を母の常盤御前が追って歩き、山中で盗賊に惨殺される。それを知った義経は復讐する。といった全く架空の物語なので場所はどうでもいいのだが、又兵衛は越前に工房を持っていたので、この山中を仮の舞台と考えてもおかしくないだろう。
又兵衛はこの山中峠を通たことはあったのだろうか。江戸との往還は普通に考えれば栃木峠越えだ。京都との行き来には木の芽峠を使ったこともあるかもしれない。けれど、ちょっと違う道を行ってみようと思ったこともなかったとは言えないだろう。万葉の昔からの街道、だが江戸初期で既に廃れた寂しい山道。文字通りの山中の道。全国にある山中の道が皆そうであるかもしれないが、まさにここは山中峠。
こうした物語絵巻は大名の娘の嫁入り道具として発注されることが多かったという、それこそ越前松平家の発注でもおかしくはないと思うが、これは嫁入り道具ではないだろう。常盤主従が殺される場面、義経の復讐の場面、実に凄惨なのだ。酸鼻を極めると言っていい。間の義経がどこかの屋敷に婿入りする場面などは誠に豪華絢爛、王朝絵巻といった感じなのだが、ギャップが大きい。荒木又重の子として、如何にも又兵衛その人は残虐の時代を生きてきたのだと思わせられる。
又兵衛は江戸で死んだが、遺言により墓は福井にある。
福井市松本 興宗寺
今庄へ行き、燧城へ上る。前回、6月に登ろうとしたときには、登山道に柵があり、侵入禁止かと思ったのだが、鹿よけの柵であり、ヒトは登ってもいいとわかったので、再挑戦である。標高270m、山城としてそれほどの規模のものとも思われないが、結構きつかった。落ち葉が大量に落ちていて、雨の後では滑って登れなかったろう。
今庄の宿文政の道案内付近から
本丸付近
本丸付近は北東方向が伐採してあり、日野山が見える。
すぐ下に日野川の流れているのが見える。JR今庄駅、今庄宿がある。
寿永2年(1183)4月、義仲勢はこの燧城に籠り、平家の北国下向軍を待ち構える。この時川の水を堰き止め、湖のようにして平家の侵入を防いだ。川の名は新道川・能美川とあるが、いずれも現在の川の名ではない。新道川は鹿蒜川、能美川は虎杖川に比定される。どちらも日野川へ合流する。
福井県史の源平北陸合戦
平家物語ではこうある「城郭の前には能美川 新道川とて流れたり。かの二つの川の落合に大石を重ね上げ、大木を伐って逆茂木に引き、柵をおびただしう掻き上げたれば、東西の山の根に水塞きこうで、湖に向かえるがごとし。」さて、どこで川を堰き止めたのか?火打城の案内板でもそうなのだが、日野川を堰き止めた、としているものも多いようだ。だが、この辺りでは既に中流域に入っている日野川は大河だ、この川を堰き止めたら地元民への影響が大きすぎるだろう。秀吉の城攻めではあるまいし、加賀・平泉寺が主力かもしれないが、遠征軍ではない、勢力圏内での守備戦だ。二つの川の落合とは、鹿蒜川と日野川の合流地点だと考える。
既に日野川と合流している板取川(能美川)が宙に浮くが仕方がない。新道川(鹿蒜川)との合流地点までを能美川(板取川)と呼んだということもないだろう。新道川(鹿蒜川)・能美川(板取川)共に日野川の支流だ。紫式部に日野山を詠んだ歌がある。 日野山・日野川、地名としてセットだ。
火打城の城砦は細長いが、虎口のある大手はこの合流地点を向いて作られている。
平家はどこから来たか。琵琶湖の東西から北へ攻め上って東軍は虎杖峠を越え、西軍は木の芽峠越えとなっている。
『福井県史』通史編1 原始・古代 「第六章 若越中世社会の形成 第四節 北陸道の水陸交通 三 武者往来の道 源平北陸合戦」
しかし、栃木峠越えの整備されたのは近世に入ってからの事らしい。もちろん道はあったろうが大軍が通る道とは思えない。後続部隊として北陸路に来た経正は竹生島に詣でて琵琶を弾いているが、彼らも海津に来ているので木の芽峠ルートである。
近江から今庄に至る峠越えのルートは3つ。山中峠越えは一番古い道で、大伴家持が通ったことで知られる。次は木の芽峠越えで、紫式部も通ったという平安時代から鎌倉・室町のメインルートだ。山中峠越えに対して新道といわれた。現代の道路では国道476号線が近いが、敦賀から今庄へ向かうと木の芽峠はトンネルになっていて、トンネルを抜けると湯尾付近まで365号線と重複してしまう。古来のルートは鹿蒜川沿いに伸びる今庄-杉津線の上新道あたりに出るらしい。そこに案内板が立っている。
福井県史の源平北陸合戦に拠れば、盛衰記から 東西いずれから来た平家軍も「還山」に至ったとある。還山かえるやま、家持のころから、木の芽峠から山中峠にわたる山並みをかへるやま、といったらしい。
鹿蒜もかひる、かえるである。
結局平家軍の終結したのは南今庄辺りではあるまいか。
将に火打城のすぐ南を流れる鹿蒜川を堰き止め、集結する平家軍の眼前に湖水さながらの情景を見せたのである。
この策も、平泉寺長吏斉明の裏切りによりあっさり火打城は陥落してしまう。
この城山は、南北朝・一向一揆の合戦にも使われる。山中の石垣はいつのころのものか判然としないだろう。首のもげた石地蔵があったが、これは一向一揆以降のものか。
虎口から本丸へ続く石段
新羅神社脇にの登り口があって、案内板もたっている。真直ぐ階段を登れば観音堂だが、左へ進むと登山道になる。新羅神社は新羅三郎を祭ってあるそうだ。何故源義家の弟源義光を祭っているのかは不明。
観音堂へ
山を巻くように登って行くと虎口址へ出たが、この登り道が大手ではなかったようだ。登りの時には気が付かなかったが、下った時、稲荷神社へ向かう標識があった。こちらが大手口になるのだろう。
コスモスが群れ咲、ススキが高く穂を上げ、萩は盛りを過ぎて花を散らす初秋でした。
妹尾太郎兼康
この人物は「平家物語」には、平家の郎党の典型のように書かれているように思う。第1巻から第8巻まで断続的に登場する。些細なケンカ沙汰から拷問、大規模な合戦、およそ力を必要とする場面はどこへでも、彼は平家の良き家人として走り回る。六波羅の警備隊長、といった役どころだろうか。
「平家物語」に沿って妹尾兼康の活躍を見ていこう。
まずは第1巻 殿下の乗合から。
平清盛の孫資盛(重盛の子)が若等たちと狩りに行き、帰りに摂政の藤原基房(松殿)の牛車の列に行き会った。資盛が道を譲らなければならないところ、資盛は譲らず行き過ぎようとした。基房の家人はこれを見とがめ、狼藉した。資盛は帰って清盛に訴える。清盛は怒って、高倉帝の加冠の儀に出仕しようとした基房の行列を襲う。この時、基房の家人の髻を切るなど狼藉を働いたのが、妹尾太郎兼康である。重盛は清盛をいさめ、狼藉した郎党を叱り、資盛を伊勢へ追いやった。この時資盛の歳は12,3歳。
平家物語ではこうなのだが、玉葉では違う。まず、資盛は狩りではなく女車での外出、年齢も10歳である。元服していたのかどうか?そして基房に報復するのは清盛ではなく重盛。基房は重盛に詫びを入れている。にもかかわらず、出仕の時を待ち襲撃。愚管抄でも同様らしい。玉葉の筆者、九条兼実、愚管抄の筆者慈円、共に基房の弟である。事件の近くにいて同時代資料を残した彼らの記述の方が真相に近いであろう。彼らに資盛をかばういわれはないので、子供がお忍びでたまたま通りかかっちゃった、というのが正解。狩り帰りの騎馬武者とは違うのである。では、何故基房の家人はただ咎めるだけではなく狼藉を働いたか。これには背景がある。
松殿、基房の父は藤原忠通、保元の乱で弟頼長と争った忠通である。忠通は法勝寺入道と呼ばれる。百人一首に「わたのはら漕ぎ出でてみれが久方の雲井にまがふ沖津白波」がある。私はこの歌の持つおおらかさが好きなのだが、作者の気性がおおらかなものであったかどうかは定かではない。なかなか子供が出来なかったので、一たんは弟頼長を養子にする。しかし実子が生まれると離縁、この事が頼長が憤懣を募らせる一因ともなる。忠通の実子、嫡男基実の妻は盛子、清盛の娘である。基実は若くして死ぬ。子は基通。盛子も幼くして嫁ぎ、実子ではないようだが、自分の子にしたのか。摂関家の家督にも役職と財産の部分がある。盛子は役職は弟基房に渡したものの財産の大半は基道に渡すものとして預かった。息子が成人するまで仕事だけはよろしくね!ということだ。もちろん清盛の後ろ盾があっての事、後白河の承認もあるとなっては基房としてはどうしようもない。この知恵をつけたのが藤原邦綱、経済に強い清盛のブレイン、摂関家の下で受領を歴任、摂関家の経済を隅々まで知る邦綱が清盛については致し方ない。松殿の平家一門への反感募るばかり、ということになる。だいぶ後になるが、清盛の推挙を受けて、源頼政が三位となった。その式に赴く時の牛車を貸してほしいと頼まれたが、基房は貸さなかった。清盛ずれの推挙を受けた奴に貸せるか!だったのだろうか。また、これも後年、一次のことだったろうが、松殿は義仲を婿にしている。更に後白河がらみで言うと、清盛の嫡子重盛とほぼ同時期、盛子は死ぬ。この時、後白河は名目上盛子の管理下にあった摂関家の所領を没収する。清盛にとっては思いもかけぬ打撃となり、治承3年の政変、清盛が後白河を鳥羽殿に押し込めるクーデターの契機となる。
次は鹿ケ谷の陰謀が漏れた第2巻、西光被斬である。
会議は踊るは19世紀のオーストリアだった。しかし12世紀の京都東山でも謀議は踊るのである、文字通りに。瓶子(へいじ)が倒れた!でそれ首を 採れ!と猿楽だ。さすがに本当かいな?なのだが、謀反の盟約は神との盟約、すなわち神事で、酒と踊は切っても切れぬというのだが、ほんまかいな?正気の残っていた静憲(信西の子)はあきれ返り、多田行綱は恐慌をきたして清盛の下へ駆け込む。
この謀議が現われ清盛の下に連れてこられた西光が、他の腰抜け公卿と一線を画す覚悟の良さでかっこいい。この時一緒に捕まった成親を拷問するのが妹尾兼康。これも彼の役職だからだ。兼康は手加減し、成親に悲鳴だけを上げるように言う。成親は臆面もなく悲鳴を上げ続ける。成親は備前小豆島に遠流となり、やがて殺される。成親の子成経は鬼界が島へ流されるが、途中、ここは父の配所に近いのかと尋ねる。実際には近かったが、兼康は遠いと答える。この辺り、妹尾はあはれをしるおとこ、となっている。
しかし、歌舞伎「俊寛」で成経・康頼を連れ帰る赦免船の使者はこの兼康で、芝居の上は見るからに憎々し気な悪役である。
次は第7巻倶利伽羅落である。
倶利伽羅で平家は源義仲に大惨敗を喫する。この時兼康は捉えられる。捕まった経緯は不明である。その前の富士川・墨俣などの戦いに兼康は出なかったのだろうか?それはわからない。平家物語が出陣を伝えるのはここだけだ。平家の郎党として彼の名は隠れもない。義仲は兼康の武勇を惜しみ殺さない。旗下の武将たちは大将がどんな人物を許し、誰を殺すか、じっと見定めていたはずだ。
この時兼康はいくつであったか、60歳前後と思われる。清盛より5歳程度若い。兼康は清盛の父忠盛の館で育った、という説もあるらしいので、それに従えば、清盛とは兄弟のように睦んだ時期もあったかもしれない。義仲と中原家の子弟たちとの関係のようなものがあったかもしれない。兄貴として、棟梁として仰いだ清盛は既に亡い。清盛の後継者たちを彼はどのように見ていたのか。どっちにしろ彼は平家に忠節を尽くす。なんとこれからが彼の本領発揮だ。
第8巻、章題からして「妹尾最期」
寿永2年、再起し讃岐屋島に居を構える平家を叩くべく、義仲は備中へ兵を送る。この時、義仲も側近の今井も出陣してはいないが、足利義康の子義清を大将に、信濃の海野行広を侍大将とし、7000騎を派遣する。彼らは備中水島から船で屋島に渡ろうとした、というのだが、現在の倉敷市水島というよりは玉野市の方らしい。平家が黙ってみているわけもなく、千艘もの船でやってきた。義仲方は慣れぬ船戦で大ピンチ、大将も侍大将も討ち死に。
それを聞いて義仲は10万騎を率い備中へ急行。
妹尾兼康を捕らえたのは倉光次郎成澄で弟三郎成氏が預かっていた。成氏は半年近く兼康を預かってきた。捕虜ではあるがそれなりの武将と丁重に扱ってきたはずだ。気心も知れてきたと思っていたはずだ。兼康が言う、旧領備中瀬尾は馬を飼うのによい土地だ、命を助けてもらったお礼に案内する。成氏は義仲に報告し、30騎で妹尾を連れて備中に先行せんとする。途中で兼康の嫡子宗康が100騎で出迎え播磨国府(姫路)で会う。三石の宿で宴会になる。三石というのは山陽本線に三石という駅があるのでそのあたりだろう。ここで妹尾は倉光成氏らに酒を進め、酔っぱらったところで皆殺しにしてしまう。
この頃備中は行家の領国だったが、その代官館も襲い、代官を殺す。
瀬尾の一党は妹尾館に集結する。どうやら岡山市内のようだ。
妹尾は福隆寺畷に城郭を築く。福隆寺畷がどんなところか判然としないが、畷というのは田圃の畦道などというが、私は泥土の中に続く一本道だと思っている。合戦址として知っているのは太平記の四条畷、灯明寺畷。新田義貞は灯明寺畷の深田に馬の足を取られ討ち取られた。報を聞いて駆けつける義仲勢の今井達も泥土に手を焼いている。
しかし、今井らは猛攻を加え、妹尾は兼康、宗康、郎党の3騎となって落ち行く。倉光次郎成澄は弟の敵とばかり追いすがる。しかし川の中でもみ合い、水練のできない倉光は返り討ちに合ってしまう。
妹尾3騎の馬はもう駄目だったのだろう。兼康は倉光の馬を奪い乗る。息子宗康20歳だというが走れない、というのは馬がだめになって徒になったのだろう。しかし、太って走れない、というのは侍の子としてどうも。。。平安末にもそういう人はいたのね、と親近を感じないでもないが。60歳の父に嫡子が20歳というのはこの時代としては奇異な気がする。何か事情があったのか。いったんは息子を見捨て、走り去る兼康だが、引き返し、息子を殺し、敵陣に打ち込んで死ぬ.郎党も死ぬ。義仲は「あはれ剛の者や。これらが命助けでみで」とのたまひける。
この妹尾兼康にセットになるものは渡辺競のエピソードだろう。彼は源頼政の郎党である。以仁王の挙兵時、出遅れて平宗盛に捕まった競は、恭順すると見せかけ、宗盛の馬を奪い、頼政の子仲綱の恥を注ぎ。宗盛に一杯食わせ、頼政の下へ馳せ参じるのだが、馬のエピソードのリアリティに難もあり、兼康の話の方がはるかに迫力がある。
その場限りで適当に院宣を出し散らす後白河法皇に、義仲の我慢も限界だったのだろう、挑発されもしただろう、法住寺合戦を引き起こした義仲に同情する。平家を西国に追い、都に入った義仲だが、慣れない習俗に悩み、折しも飢饉の畿内に大勢の兵を連れて入ったことから食糧不足に拍車がかかり、義仲軍の評判は落ちる一方。一緒に京都入りした行家も足を引っ張る。西国に平家を追って行くも苦戦、しかもその間、後白河は頼朝と手を結ぶ、というのではたまらない。
法住寺合戦で一人の高僧が死んだ。延暦寺天台座主明雲、比類なき識者、法王や清盛の出家時にも儀式を執り行った大権威であったはずだ。後白河は、明雲は身代わりに死んでくれたと泣いたという。
しかし、この明雲という名には見覚えがある。遡ってみる。
この明雲、平家物語にはすでに何度か登場している。物語に従ってみていこう。
まず、12巻ある平家物語第2巻の冒頭「座主流し」だ。
鵜川騒動の後、山法師の強訴に怒った後白河が座主明雲を遠流にする。参議達の反対にも法王の怒りは解けず、明雲は伊豆へ送られる。これには西光の讒訴があったという。が、山門、延暦寺の僧兵達も黙ってはいない。座主の奪還を企てる。
この間、明雲はただただ泣いてるのである。座主、一山を預かるトップの矜持など全くないとしか思えない有様なのだ。
座主奪還に押し寄せた僧兵達を前にしても、明雲は、優柔不断に泣いてる。堪り兼ねたか、大兵衛の戒浄坊阿闍梨祐慶、人呼んで「いかめ坊」が進みで、そんな事だからこんな目に遭うのだ、と決めつける。明雲は迎の輿に乗ってもなお、遠流は嫌だが寺へもどれば法王の怒りが恐ろしい、と泣いてる。いかめ坊ならずとも少しはしゃんとしろ!とどやしつけたくなってくる始末だ。
公家の息子が寺に預けられて、エリートコースを歩み、それ以外の道を知らないとはいえ、坊主の最高位に上り詰め、維持するためにはそれなりの苦労もしてきたのではないかと思えるのに、この泣きっぷりは尋常とは思われない。平安朝、貴族の泣くのは哀れを知るものというステータスを示すようなものだとは思うが、それにしても、の泣きっぷりである。
次の登場は第4巻、以仁王、頼政は園城寺に助けを求め、挙兵する。園城寺は比叡山と南都興福寺にも挙兵を呼びかける。比叡山は園城寺を下に見ているので、簡単には動かない。結局断ってくるのだが、この時、清盛は織延絹3000疋を明雲に送っている。もちろん以仁王方につくなよ、というダメ押しだ。絹は貨幣経済が浸透しない間の事実上の通貨のひとつだ。明雲は叡山の谷々、峰々の僧房に配った。しかし随分不公平な分け方になってしまったらしい。この座主様には有能な実務者がついていなかったのか。「山法師織延絹の薄くして 恥をはえこそ 隠さざりけり」「織延をひときれもえぬ我らさえ 薄恥をかく数に入るかな」は山門法師の自嘲だろうか。
この明雲、平家物語にはもう一度登場している。第7巻 木曽山門蝶状・山門返牒 に続く「平家山門への連署」である。
北陸路に彗星の如く現れた義仲、入京前に越前国府で評定する。参謀格の僧覚明は先ず山門を味方につけようと、延暦寺へ書面を送る事を提案する。義仲は受け入れ、覚明は書状を認める。要は平家につくのか、義仲につくのか、場合によっては焼き討ちすると、半ば脅迫である。
山門も直ぐには返答出来ず、評定を重ねるが、遂に義仲につくと結論を出し、返答する。
この間平家は何をしていたか、何しろ倶利伽羅・志保山・篠原と多くの子弟が戦死、悲しみ満ちているのは仕方がないが、今後をどうするのか、清盛亡き後、一族郎党を引っ張っていく人がいないのだ。一応棟梁は宗盛なのだが、平時はともかく戦時の指導者には向いていなかったようだ。まさか山門が平家を裏切り義仲につくとは考えていない。評定後、一応山門に書状を送っておこうということになるが遅いのだ。以仁王の乱に見せた清盛の抜け目なさ、親平家のはずの比叡山だが、さっと絹を送り、関係を確かなものにしてしまう。やはり平家は清盛で終わりなのだ。
その書状を受け取ったのが明雲である。既に義仲への返答を送った後だ。明雲は平家派、ということになっている。この泣き虫が荒法師の意見に押され、義仲に与することを止めれなかったのはわかる。しかし、親平家というのなら義仲からの書状が来た時点で、こういうものが来たと知らせてやるくらいのことはできなかったのか。叡山の義仲への返牒も即断ではなく、数日の評定を経ての事だったのだから。
明雲は平家からの手紙を他のものに見せず、三日間祈祷し「平らかに花咲くやども年ふれば西へ方ぶく月とこそなれ」という神宣が現れたと言って披露する。要は、平家は命運尽き、比叡山にも見捨てられるのだが、この和歌はでき過ぎのように思われる。平家が明雲に書状を送ったまではいいが、この和歌は物語の創作というところか。いずれにしてもこんな下手な手品を見せる明雲の品性はよろしくない。
そして第8巻法住寺合戦である。
寿永2年(1183)11月19日、大軍が法住寺に参集している。義仲が手勢を率いて攻め寄せる。後白河方はいくら大軍でも指揮官が鼓判官平知康という訳の分からない男だからたまらない。この男、後白河の使いで義仲に部下の狼藉を止めるように伝えるためにやってきたのだが、義仲に鼓を打たれたのか張られたのかとからかわれ、用件も告げず逃げ帰った。後白河に義仲は阿保だから早く追討した方がいいと告げた。いわば、合戦の口火役だが、何を思ったのか、築地の上で妙な格好をし、院宣に逆らうと罰が当たる、とか言って踊っている。義仲勢が攻めかかると、真っ先に逃げだした。
この鼓については、頼朝も、「不思議なることを申し出でて君をも悩まし奉り、云々」と戦犯扱いをしている。弁解に鎌倉まで行った鼓とは会いもしなかった。この時、頼朝は 「おほくの高僧・貴僧失ひける」と言っているが、高僧の一人は間違いなく明雲だろう。
三井寺の長吏円恵法親王と院御所に籠っていたが、火が回り、馬に乗って逃げるところを射殺された。林原本平家物語絵巻には、馬から転げ落ちる明雲が描かれている。袈裟も掛けずどこの小坊主かと思う姿である。
朝から越前さかなまつりへ行く。台風15号の影響とかで冗談なく暑い。
ガザえびや干物、あれこれ買い込み、バイガイの串焼きなんぞを食べ、船に乗る。
漁船の体験乗船だそうで、イカ釣り船で30分ほどの遊覧。テトラポットの波よけを離れると結構波がある。こんな客を乗せるくらいだから大したことはないのだろうが揺れる。もとより漁船で客船ではないから、甲板に丸椅子が並べてあるだけだ。波しぶきを浴びる。おじさんがあれは何、どこ、と解説してくれる。
船旗翻る
越前岬
敦賀半島
遠くかすんで丹後半島
定置網
野々市から犀川を渡って金沢市街に入る。といっても野々市市も金沢市もほとんど一体化している。
広坂を上がり、石川県立歴史博物館へ。特徴的な赤煉瓦の建物は、旧陸軍兵器庫で移築されたようだ。
中庭には辰巳用水の石管が再生されており水が流れて涼しげだったのだが、意外に風が強い日で、私は帽子を池に飛ばしてしまった。
展示はオーソドックスだ。古墳や豪族の分布図等は学芸員の労作だろう、義仲の事も触れられてはいたが、説明のバックの壁紙のようなものは、倶利伽羅峠の戦いの屏風絵か何かから採った火牛だ。誤解を招くようなものだと思うが、平安末を専門にする人がいないのかもしれない。一向一揆と前田家の比重はやはり大きい。明治以降はほぼ民俗の展示といっていい。平日の所為かあまり人がおらず、ゆったりしていてよかった。
富樫の屋敷跡が野々市の方にあるらしい。富樫氏は平家物語にも義仲の加賀の手勢として出てくる。火打合戦の後、加賀の方へ退いて戦うが、ここでも負けてしまう。「平家 加賀の国に打ち込み、富樫・林の2城郭を打ち払う」とあるが、この2城の場所が分からない。林は加賀というより福井の東藤島のあたりではないかと思うのだが。富樫城もこの時は野々市だとは思えない。平家はこの後、篠原(片山津)に集結し、倶利伽羅と志保へ向かう。篠原と野々市では直線距離でも30kmを超す。富樫は義仲とともに京へ上るが、少なくとも義仲最後の手勢の中には入っていない。
この頃の加賀の国衙は小松なのだが、この後、富樫が加賀の守護になると、小松よりも富樫の本拠地野々市が栄える。現金沢城のあたりの山は高尾城という富樫の城だったらしい。この高尾城を一向一揆が攻め落とす。守護富樫政親敗死、加賀は百姓のもちたる国となった。
野々市に戻る。野々市工大前といういしかわ鉄道の駅の脇に富樫館跡の碑があった。
小松へ向かい、多太神社へ行く。
裏口から入ってしまったのでよくわからなかったが、表の方は意外なほど長い参道があった。参道の両脇には民家があるが、少なくとも参道の周りを社域としてもそれなりに大きな神社だっただろう。ここに齊藤実盛の兜が義仲により奉納されたという。一般公開はしていないらしい。社務所らしいところもかぎが掛かっていて誰もいなかった。
、