物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

神戸市街地の西国街道

2024-09-14 | 行った所

神戸市中央区吾妻通付近

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五色塚古墳

2024-09-12 | 行った所

神戸市の西の端、明石海峡に臨み五色塚古墳は立地する。
*後円部から明石海峡を見る 対岸は淡路島
最初に全面復元がされた古墳としても有名である。古墳というと濠に囲まれたうっそうと樹木が茂る小山を思い浮かべる人が多かった。宮内庁が天皇陵として指定しほとんど調査されない古墳の多くがそうだ。だがそうでない古墳も多い。全国の古墳の数はコンビニより多いというが、後期の群集墳などどういう分に数えるのだろう。また鬱蒼と樹々が茂る小山は最初からそのように造られたわけではない。小山を築いたその上には葺石をを貼り付け、赤みの強い埴輪を巡らせる。人工物であることを主張していたはずだ。
五色塚はそのように復元されている。
前方部を海側に向け、後円部側に駐車場がある。
*後円部 右手に明石海峡大橋が見える
*小坪古墳
*小坪古墳案内板
陪塚とみられる小坪古墳との間を通って五色塚くびれ部近くに管理事務所がある。若干の出土品も並べてある。
*五色塚モニュメント
*案内板 復元整備50年をうたうならもう少し読める案内板にしてほしい。


*管理事務所内の説明版

葺石は奇妙なほどに整然と並べてある。黒い石発掘当初からあった石で、対岸の淡路島から持ち込まれたもののようだ。白い石は復元用に他から持ち込まれ加えられた川原石だ。
*葺石
*葺石
*葺石

前方部は長大に見える。
*前方部から後円部

*前方部から明石海峡
*後円部埴輪の並びと小坪古墳
円筒埴輪は鰭付きで、鰭を突き合わせて並べてある。こう見るとまさにバリアを作っているようだ。5.6個ごとに朝顔型の埴輪が挟まる。

*後円部の案内板
* これも見難い

*くびれ部近くに方形の島状遺構 古墳東側

古墳には設計図があり、このプランは奈良の佐紀古墳群の佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)と丹後の網野銚子山古墳とそっくりだという。岸本直文という研究者が測量図を比較検討した。
*佐紀陵山古墳と網野銚子山古墳を突き合わせた図(北丹後古代資料館)

佐紀古墳群は去年(2023年)クラウドファンディングで資金を集め、航空レザー測量が行われた。速報は出たが、分析はこれからだろう。

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淀川資料館 枚方市

2024-08-23 | 行った所

琵琶湖から流れ出る唯一の河川は瀬田川。宇治川と名を変え、更に大阪府下では淀川となって大阪湾にそそぐ。
数々の治水・改修を経て流れを変えてきているが、古来、京都・難波間の水上交通路となってきた。大阪の発着点は渡辺津と呼ばれ、平安末の「院様御一行」の熊野詣もここへ上陸した。
渡辺津は現在の天満橋付近、大阪城の北になる。淀川は大阪の手前でいくつかに分流していたが、渡辺津に着くのはその分流の一つに乗ってのことだった。明治時代の河川改修で分流は纏められ、大きな河口が大阪湾に注ぐ本流となった。
大阪は上町台地を除くと、河川が複雑に入り組んだ低湿地。河内湖もあった。水路が周りを囲む土地に、町・城郭・寺が造られ栄えた。16世紀の石山本願寺は約10年に渡り織田信長と渡り合った。本願寺の後に秀吉が大阪城を築いたのだ。江戸時代を通じ、道頓堀をはじめとする水路が整備され、大阪は更に栄えた。

枚方市の関西医学病院近くの交通量の多い通りと淀川河川敷の間にある淀川資料館は、常駐職員もいないような小さな資料館だがなかなか面白いのである。

淀川の自然環境・生物から水上交通・洪水・治水・河川改修の歴史などが展示されている。
*資料館裏の堤防から見る淀川河川敷
*舟運の変遷
*資料館脇にある食わらんか舟現物
*30石船
*食わらんか舟

明治時代の河川改修にはお雇い外人、中でもオランダ人デ・レーケ、エッセルなどが活躍した。
彼らの名前には覚えがある。越前一の大河九頭竜川河口の三国港の改修に関わった人達だ。三国港には今もエッセル堤と呼ばれる突堤がある。三国湊を見下ろす丘陵には蝙蝠傘屋根と呼ばる楼を載せた八角五層の建物がある。龍翔館というのだが、歴史博物館になっている。これは明治初期、湊の旦那衆がお金を出し合って作った小学校を模して建てられている。その設計者はエッセルだと思われてきたが、実はエッセルなどの教えを受けた日本人らしい。いずれにせよユニークな洋館だ。中は吹き抜け、ステンドガラスもありしゃれている。エッセルはだまし絵画家として知られるエッシャーの父親だ。

ところで、粗朶沈床法という工法だが、私は全然違う場所で知った覚えがある。全く同じものだとは思えないが、古墳時代の治水址で発掘されたものだ。敷葉工法とも言い、その当時朝鮮半島経由で入ってきた新工法と目されていたように思う。その後その系列の技術は途絶えたのか、19世紀には外国から教えてもらわなければならないものになっていたらしい。
*粗朶沈床法
*お雇い外人の給与表

*驚くような天井川
*淀川の源流

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柴田氏庭園 敦賀市

2024-08-19 | 行った所

 入口

 冠木門

 

 

 

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近江の伊勢 (守山市)

2024-08-17 | 行った所

 伊勢遺跡資料館

 パノラマ

 楼閣址

 

 大宝神社

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樫原

2024-08-15 | 行った所

 *宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社 樫原市曽我町

 *人麻呂神社 樫原市地黄町

樫原といえば、樫原神宮、神武陵と呼ぶ似非古墳、畝傍山、そして樫原考古博物館。だが、結構広い市域だ。今井町や新沢千塚も樫原だ。そしてちょと気をひかれる名前の神社もあった。考古博物館ではホケノ山古墳の展示をしていた。

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花ハス公園 南越前町杣山

2024-08-14 | 行った所

2024年7月初め頃

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姉川付近

2024-08-12 | 行った所

*姉川南岸

*姉川北岸の碑

*伊吹が見える

*小谷城

*浅井歴史民俗資料館

⋆浅井家家臣

*浅井家年表

 茶臼山 伊吹が見える

 茶臼山近く

*勝山

*横山

*横山日吉神社

 

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朝倉孝景(英林)像・義景像

2024-08-11 | 行った所

*福井市郷土歴史博物館のXポスト画像
両方とも名高い絵でいろいろな本に載っているおなじみの肖像であるが、実物を見たのは初めてで、しかも両方並べて見れる機会がそうそうあったとは思えない。
義景像は孝景(英林)像を意識して画いているのだろうが、絵師の力量が劣るのか、筆は些か荒くなっている。その分モデルの人物も品下がって見える。もっとも朝倉家中興の祖、戦国大名としての祖と仰がれる孝景と、義景とでは先入観の差もあるが。
品格の違いはともかく、二人は似ている。頭のかっこう、鼻などそっくりである。
系図によれば、孝景(英林)-氏景-貞景-孝景(宗淳)-義景、であり、孝景は義景の祖父の祖父、曽曽祖父とでもいうのだろうか、5代前の人物である。それにしては似すぎているような気がする。似ていない父子もいる。父には似ていないが祖父にはそっくりの孫もいる。しかし5代前の人物の遺伝子は単純に考えると16分の1に過ぎなくなる。
おそらく絵師は義景像をできる限り孝景によせたのであろう。しかし全く違った面貌をしていたとも思えない。今川義元・武田信玄・織田信長・羽柴秀吉・柴田勝家・前田利家などの肖像はそれなりの個性を移しているように見える。信長の肖像は複数あっても丸顔の信長像はない。
義景は文化的素養のあった人物らしいのだが、この像からは教養がに染み出るという風には見えない。大変気難しく、癇癪持ちでもありそうだ。朝倉孝景(英林)像に感じられる威厳、知性は感じにくい。

二つの肖像画は軸装で足羽山麓の心月寺所蔵だが、ここに収まるまでいくつかの変遷があったと、解説にあった。

Xユーザーの福井市立郷土歴史博物館さん: 「【朝倉孝景・義景像の伝来をめぐる謎】 おはようございます! #郷土歴史博物館 では、重要文化財 #朝倉孝景(敏景)・ #義景 像を約15年ぶりに同時公開しています。昨日に引き続き、今回の調査で新た判明した研究成果を紹介します。(つづく3 ※訂正 解説B)の著者名に誤りがありました。 ✕竹内→武内 https://t.co/3ihkcuaM9g」 / X

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奥琵琶湖 木ノ本 塩津

2024-08-11 | 行った所

木之本は言うまでもなく北陸道の宿場町だ。市もたった。
*JR木ノ本駅前、見える山は田上山という。賤ケ岳合戦時、秀吉方の砦が築かれた。
ここに江北図書館という滋賀県で一番古いという私設図書館がある。
*江北図書館
*江北図書館案内板
木ノ本駅近くの古い木造洋館だ。子供の頃の図書館で覚えのある板張り、軋む階段。
規模は小さい。明治35年(1902)に杉本文弥という余呉出身の弁護士が青少年の勉学にと私財を投じた文庫だ。
現建物は昭和12年に建てられた郡農会庁舎だそうだ。1Fは現役の図書館だ。2Fが資料室になっている。
江戸時代の絵図が平台のガラスケースのに収まっているほか、多くの木製の本棚が並んでいる。特別の稀覯本や古書はなさそうだ。昭和の本が多いようだ。私自身が子供のころ読んだ児童書も多い。
洋館らしい窓辺の下には木箱が並んでいる。小さな引き出しのついた箱は図書カードが入っていたに違いない。群書類従と書かれた木箱がある。その脇に渡岸寺観音堂現場事務所と書かれた木箱もある。十一面観音で名高い渡岸寺観音堂だが何が入っているのか。

  

木之本から西へ湖岸に出る。
山梨集落には一般車は入れない。
*山梨集落
*広屋の大石
*広屋の大石案内

北へ塩津に行く
*塩津神社
*塩津神社由緒
由緒にはこうあるが、塩津はやはり塩の集散地だから塩津だろう。

塩津の道の駅に丸小舟があった。大浦の丸小舟の館は優れた資料館で、丸子船の実物も展示してあった。この道の駅の船は屋外に屋掛けしただけの展示なので近々と周りから見れる。
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塩津港遺跡や琵琶湖運河計画の資料もあった。

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