岐阜県ひるがのの分水嶺公園
長良川水系と庄川水系の境、日本海側と太平洋側の分水嶺
紅葉しかけた分水嶺公園
これは福井県と滋賀県の県境付近わずかに滋賀県側、淀川水系の源、ここより北は日野川水系になる
すぐ向かいはスキー場だ。滋賀もこの辺りはどっさり雪が降る
すぐ北側は栃木峠
青い標識より向こうが福井県
戦国時代、加賀越前双方、大聖寺の争奪で血を地で洗った。主に加賀一向宗門徒勢と越前朝倉勢である。最終的に織田信長が朝倉も一揆勢も斬り従え、加賀は前田家の領地となり、大聖寺も支藩となった。江戸時代には北陸道の宿場としてそれなりに繁栄したようだ。
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*大聖寺城案内板1
*大聖寺城案内板2
大聖寺城址登り口付近には芝生公園があり、大きな廟がある世に見えたので行ってみると忠魂碑だった。
城址から北へ、大聖寺川を渡り、高速道路の下をくぐり、片野の湿地へ行ってみる。
ラムサール条約にのった湿地である
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ガンや鴨・白鳥の有力越冬地。観察館がある。だがまだ大規模の渡りには至らず、それでも鴨がちらほら。何種類か教えてもらったが、その場ではわかってもすぐわからなくなる。だいたい図鑑の色彩はあまり宛にならないようだ。
シラサギ(ダイサギ?)百舌鳥のメスもいた。
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もう少し北へ、片野の海岸だ。
*水際に黒い鳥がいた。クロサギらしいのが魚を捕らえていた。
*海岸線左手、福井県芦原の風車列が見える。
神戸市の西の端、明石海峡に臨み五色塚古墳は立地する。
*後円部から明石海峡を見る 対岸は淡路島
最初に全面復元がされた古墳としても有名である。古墳というと濠に囲まれたうっそうと樹木が茂る小山を思い浮かべる人が多かった。宮内庁が天皇陵として指定しほとんど調査されない古墳の多くがそうだ。だがそうでない古墳も多い。全国の古墳の数はコンビニより多いというが、後期の群集墳などどういう分に数えるのだろう。また鬱蒼と樹々が茂る小山は最初からそのように造られたわけではない。小山を築いたその上には葺石をを貼り付け、赤みの強い埴輪を巡らせる。人工物であることを主張していたはずだ。
五色塚はそのように復元されている。
前方部を海側に向け、後円部側に駐車場がある。
*後円部 右手に明石海峡大橋が見える
*小坪古墳
*小坪古墳案内板
陪塚とみられる小坪古墳との間を通って五色塚くびれ部近くに管理事務所がある。若干の出土品も並べてある。
*五色塚モニュメント
*案内板 復元整備50年をうたうならもう少し読める案内板にしてほしい。
*管理事務所内の説明版
葺石は奇妙なほどに整然と並べてある。黒い石発掘当初からあった石で、対岸の淡路島から持ち込まれたもののようだ。白い石は復元用に他から持ち込まれ加えられた川原石だ。
*葺石
*葺石
*葺石
前方部は長大に見える。
*前方部から後円部
*前方部から明石海峡
*後円部埴輪の並びと小坪古墳
円筒埴輪は鰭付きで、鰭を突き合わせて並べてある。こう見るとまさにバリアを作っているようだ。5.6個ごとに朝顔型の埴輪が挟まる。
*後円部の案内板
* これも見難い
*くびれ部近くに方形の島状遺構 古墳東側
古墳には設計図があり、このプランは奈良の佐紀古墳群の佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)と丹後の網野銚子山古墳とそっくりだという。岸本直文という研究者が測量図を比較検討した。
*佐紀陵山古墳と網野銚子山古墳を突き合わせた図(北丹後古代資料館)
佐紀古墳群は去年(2023年)クラウドファンディングで資金を集め、航空レザー測量が行われた。速報は出たが、分析はこれからだろう。
琵琶湖から流れ出る唯一の河川は瀬田川。宇治川と名を変え、更に大阪府下では淀川となって大阪湾にそそぐ。
数々の治水・改修を経て流れを変えてきているが、古来、京都・難波間の水上交通路となってきた。大阪の発着点は渡辺津と呼ばれ、平安末の「院様御一行」の熊野詣もここへ上陸した。
渡辺津は現在の天満橋付近、大阪城の北になる。淀川は大阪の手前でいくつかに分流していたが、渡辺津に着くのはその分流の一つに乗ってのことだった。明治時代の河川改修で分流は纏められ、大きな河口が大阪湾に注ぐ本流となった。
大阪は上町台地を除くと、河川が複雑に入り組んだ低湿地。河内湖もあった。水路が周りを囲む土地に、町・城郭・寺が造られ栄えた。16世紀の石山本願寺は約10年に渡り織田信長と渡り合った。本願寺の後に秀吉が大阪城を築いたのだ。江戸時代を通じ、道頓堀をはじめとする水路が整備され、大阪は更に栄えた。
枚方市の関西医学病院近くの交通量の多い通りと淀川河川敷の間にある淀川資料館は、常駐職員もいないような小さな資料館だがなかなか面白いのである。
淀川の自然環境・生物から水上交通・洪水・治水・河川改修の歴史などが展示されている。
*資料館裏の堤防から見る淀川河川敷
*舟運の変遷
*資料館脇にある食わらんか舟現物
*30石船
*食わらんか舟
明治時代の河川改修にはお雇い外人、中でもオランダ人デ・レーケ、エッセルなどが活躍した。
彼らの名前には覚えがある。越前一の大河九頭竜川河口の三国港の改修に関わった人達だ。三国港には今もエッセル堤と呼ばれる突堤がある。三国湊を見下ろす丘陵には蝙蝠傘屋根と呼ばる楼を載せた八角五層の建物がある。龍翔館というのだが、歴史博物館になっている。これは明治初期、湊の旦那衆がお金を出し合って作った小学校を模して建てられている。その設計者はエッセルだと思われてきたが、実はエッセルなどの教えを受けた日本人らしい。いずれにせよユニークな洋館だ。中は吹き抜け、ステンドガラスもありしゃれている。エッセルはだまし絵画家として知られるエッシャーの父親だ。
ところで、粗朶沈床法という工法だが、私は全然違う場所で知った覚えがある。全く同じものだとは思えないが、古墳時代の治水址で発掘されたものだ。敷葉工法とも言い、その当時朝鮮半島経由で入ってきた新工法と目されていたように思う。その後その系列の技術は途絶えたのか、19世紀には外国から教えてもらわなければならないものになっていたらしい。
*粗朶沈床法
*お雇い外人の給与表
*驚くような天井川
*淀川の源流
*宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社 樫原市曽我町
*人麻呂神社 樫原市地黄町
樫原といえば、樫原神宮、神武陵と呼ぶ似非古墳、畝傍山、そして樫原考古博物館。だが、結構広い市域だ。今井町や新沢千塚も樫原だ。そしてちょと気をひかれる名前の神社もあった。考古博物館ではホケノ山古墳の展示をしていた。