物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20200815 若狭

2020-08-19 | 行った所

若狭上中ICで舞若道を降り、北へ。田烏(たがらす)トンネルを抜けるとすぐ田烏の海だ。


田烏で鯖を食べる。

田烏から一つ西の漁村、矢代へ向かう。


矢代でクルージングだ。と云っても6人乗りのモーターボート、屋根も何もない。出た時には曇っていたのに、今では雲一つないカンカン照り、直射日光が肌に痛いほどだ。船はワンクルーズ1万円、船頭一人に客は5人まで乗れるが、一人でも二人でも船は出る。時間も乗りたい人がいたら出す、とフレキシブルだ。

若狭湾は越前岬から丹後半島までの非常に大きな湾口だが、その中に敦賀半島、常神半島など大小様々な半島が入り組み、複雑な地形を形成している。矢代湾は黒崎半島と内外海半島に抱かれる湾だが、その中に更に岬と湾があり、田烏・矢代・志積などそれぞれ港になっている。


沖の石は矢代湾の入口近く、かなり大きな岩礁で、潮干に見えね、とは言いながら海上に姿を見せている。ただ、季節天候により現われ方は違うようだ。釣り人を乗せてくることもあるそうだが、客がどうしてもというならともかく地元の人は勧めないそうだ。海が少し荒れても波をかぶり危険だそうだ。ここまで矢代港から飛ばしてきた船で約20分。
この石は航行する船にとっても危険だ。夜など気が付きにくいだろう。だからここで難破する船は多かったそうで、「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」は二条院の讃岐「姫」がここで船が沈んだ人たちを悼んで作った歌だと船頭は言うのだ。確か「石に寄する恋」という題詠だったと思うから絶対違うと思うけれど、そんな解釈もあるのかと驚いた。
田烏の南の山に山城があり、それも頼政の城だという。ほとんど怪しい。本当に山城があるとしたらたぶん戦国の山城だ。頼政にはここで合戦の用意をする必要もなかったはずだ。しかし、ここには頼政への敬意と親しみがある。鵺退治の物語も矢代の名に掛けた話に変じ、今も伝わる。この辺近くに頼政が所領を持っていたことだけは確かだが。

 玖須夜岳、右に小さく岩が見える。老人礁と云って漁業権の境の目印だそうだ。

 沖の石の向こうに常神半島が見える。

 田烏方面

沖の石橋と棚田が見える


矢代を出て宮川へ向かう。矢代と背中合わせの南側のはずなのだが、道がないのだ。そんなはずは・・と思うが、少なくとも車の走れる道は、本当にないのだ。


田烏から南へ大きく迂回していく。小浜市宮川地区、旧宮川村だ。平家物語第4巻「鵺」の終わりに頼政は丹波の五ケの荘、若狭の宮川の東を知行したとある。宮川村の集落の中で東に当たる大谷、新保辺りが候補だろうか。

大谷を通り矢代へ行く道標はあったのだが・・


頼政の館跡があるという。大谷集落への入口辺りの田圃の中の道端だ。

ただここには館跡を示すものはない。「源三位建法沢山頼円神儀」とある碑がある。建法沢山頼円というのは頼政の戒名だ。側面には、「治承4年5月26日」とある。これは頼政の死んだ日だ。ということはこれは墓ではなかろうか。頼政の墓は宇治平等院内にあるのだけれども。

大谷集落の北のはずれまで行ってみる。舞若道をくぐる。

杉田玄白ゆかりの滝があるようだが、道は途絶える。

柵をした道の前に矢代への道標がある。先日矢代で見た宮川大谷への道標に対応するものだろう。車で行く道はなくなっているのである。

 左矢代

竹長の神社や賀茂神社にも寄ってみる。

 竹長風景

 賀茂神社

 

花の里みやがわ、向日葵が花盛りだった。

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海道下 (平家物語)

2020-08-13 | まとめ書き

平家物語第10巻「海道下」は道行だ。

一の谷で捕らえられた平重衡が梶原景時に連れられ京から鎌倉へ下っていく。


馬を射られ、頼みの乳母子後藤盛長に見捨てられ、死ねもせず捕まった平家の公達が連行される。

盲目ながら多くの旅をしてきたであろう琵琶法師がこの道行を語るとき、耳傾ける人々はどんな風に聞いたのだろう。

重衡は牡丹に例えられる貴公子だったという。立てば芍薬、座れば牡丹、という男子は想像しがたいが、「千手前」の最期にある。同時代史料としては重衡従兄弟の資盛の恋人建礼門院右京太夫が女房達に面白い話をして笑わせる重衡を描いている。華やかな人だったのだろう。今を時めく清盛正室時子の数ある息子達の中でも気に入りの愛息、嫌でも人は寄ってこよう。しかも重衡は兄宗盛・従兄弟の維盛とは違い武将としての素質もあったらしい。墨俣・室山と知盛とともに戦果を挙げている。治承4年(1180)暮れの南都への出陣も戦いとみれば重衡は確かに勝ったのだ。以仁王の挙兵に呼応しようとした南都を放置はできなかった。焼けるのなら焼けて仕方がない。焼けてしまったものは仕方がないというのが清盛・重衡の認識だったのではないか。重衡が事の重要さに気付くのはもっと後だ。清盛は治承5年2月に病死し、南都焼亡の責は重衡が担う。

さて重衡は京都を出でて山科に向かうのであるが、どういう経路をたどったのだろうか。海道下は山科の四ノ宮から始まるが、出発地点は京都のはずである。
京都へ出入りする道は京都七口というが、定まったのは近世、秀吉以降の事のようだ。当時、西へ向かう道として考えられるのは、三条口から粟田口を行くルートで江戸時代の東海道・中山道の出発地点となっている、もう一つは五条からのルートでほぼ1号線に重なるが渋谷街道と呼ばれる道だ。鹿ケ谷からの山越えも行って行けないことはなかろうが旅のルートとしては考え難い。
さて、重衡の鎌倉連行の前に「土肥次郎実平が手より、まず九郎御曹司の宿所へわたし奉る。」とある。ここから梶原景時に具せられ鎌倉下り、となるわけだ。土肥実平がどこにいたのかはわからないが、九郎御曹司、義経の宿所はわかる。六条堀川に源氏累代の館と呼ばれるものがあったという。保元の乱では為義たちが、平治の乱では義朝が拠点とし、土佐房による義経襲撃の場所もここだったというから、九郎御曹司の宿所は六条堀川とみて間違いないだろう。
(堀川五条を少し下がり、西本願寺の附属建物の駐車場北辺付近の歩道脇の草むらの中、源氏邸の井戸で後年茶の湯でもつかわれる)

だとすれば三条廻は不自然だ、五条から渋谷街道を通ったと考えるのがいいだろう。
現1号線より少し南側、京都女子大の脇から東へ向かう。
小松谷、と言われ重盛の館のあったところだ。重盛の家は小松家と呼ばれるが、そのまま京都東南の押えであったわけだ。灯篭の大臣ともいわれた重盛は「四十八間に精舎をたて、一間に一つづつ、四十八の灯篭を懸けられたりければ」と蓮華押院三十三間堂をしのぐ長大な堂宇を建て華々しい法会を行った。重衡もきっと見たであろう。重盛すでの亡く、平家は都落ちに際し皆邸に火をかけた。栄華の夢跡がある中を進んだのだろう。この辺りに正林寺という寺がある。一応小松邸はこの辺りとなっている。幼稚園併設の大きな寺だ。

(小松谷正林寺門)

渋谷街道は清閑寺町辺りで1号線と合流するが、まもなく一号線は南下していってしまう。渋谷街道はほぼ真直ぐ東へ進む。山科の街中である。五条別れで三条から山科へ向かっていた道と合流する。更に四ノ宮を過ぎたあたりで1号線は再び北上してほぼ一緒になる。京都東ICもあり高速道路・一号線並行して逢坂山へ向かう。

「四宮河原になりぬれば此処は昔延喜第四王子蝉丸の関の嵐に心を澄まし琵琶を弾き給ひしに博雅三位といつし人風の吹く日も吹かぬ日も雨の降る夜も降らぬ夜も三年が間歩みを運び立ち聞きてかの三曲を伝へけん藁屋の床の古も思ひやられて哀れなり」

四宮河原は京都市山科区四ノ宮辺りで、逢坂山の入口というけれど(ワイド版岩波文庫「平家物語の註、以下同じ)山科から京都に入る道は車で通過するだけだから逢坂山もそれと思って通ったことはない。

京阪京津線四ノ宮駅がある。四ノ宮川という川が流れているようだ。四宮河原というのはこの川の河原だろうか。蝉丸を醍醐天皇の第四皇子という伝承があるそうで四ノ宮とはそのことらしい。

(逢坂山トンネル碑とその付近から下を見る)

京阪京津線の大谷駅のすぐ北側から東へ500mにも満たない距離で旧東海道が残っている。東端に逢坂の関の説明板などが立っている。車だとこちら側からしか入れない。関の位置は正確には不明らしいが。

 うなぎ屋のある通りだ。

 蝉丸神社、下から鰻を焼くにおいが上ってくる。蝉丸は盲目の琵琶法師、重衡も琵琶の名手であったことが、「千手前」に出てくる。

「逢坂山うち越えて、勢田の唐橋駒も轟と踏み鳴らし」

逢坂山を越え大津に入る。
現在琵琶湖には近江大橋・琵琶湖大橋をはじめ、1号線の橋、高速道路の橋、鉄道各線の鉄橋などいろいろ架かって入るが、平安末にあったのは勢田の唐橋ただ一つ、俵藤太のムカデ退治の伝説の舞台にもなれば、今井兼平が粟津で義仲と再会する前、必死と守っていたのが勢田だった。勢田の唐橋は京阪石山坂本線唐崎前駅のすぐ東にある。駒も轟と踏み鳴らしが交通量が多い事を言うのならば今もそうだ。。

「雲雀揚がれる野路の里」草津市に野路という地名は確かにある。

「志賀浦波春かけて、霞に曇る鏡山」

志賀は大津市内となっていいるけれど(岩波ワイド文庫註)、むしろ琵琶湖そのものではなかろうか。雲雀が上がり琵琶湖は春の陽光を受けさざ波がきらめく。「行く春を近江の人と惜しみけり」芭蕉が誰と春を惜しんだのか知らないが、彼が好きだった義仲ではないだろう。義仲は近江で死にはしたが、あくまで木曽の人であったろう。霞にの煙る山々、鏡の里の道の駅がある。義経元服の地だとして大きな看板が出ている。

(鏡神社本殿)

判らないのは三上山が出てこないこと。見ながら来たはずなのである。近江富士とも呼ばれる端正なこの山が出てこないのは残念である。

(兵主神社付近から見た三上山)

 

近江には春がよく似合う。

長閑に街道を行くイメージだが、野路から鏡への途中の大篠原は、約一年後、宗盛父子が斬られるところとなる。

重衡もまたこの道を引き返す。南都の僧たちに引き渡されるために。

「比良の高根を北にして伊吹の岳も近づきぬ」

比良は琵琶湖西岸になる、遠望したのだろうか。因みに近江八景は「三井晩鐘,粟津晴嵐,瀬 (勢) 田夕照,石山秋月,唐崎夜雨,堅田落雁,比良暮雪,矢橋帰帆」だそうだ。ほとんどが琵琶湖の西岸である。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~komichan/oumi8K/oumi8kei.html から画像拝借


伊吹は畿内と東山道の間の目印だ。北陸道からも目印になる。

 (JR北陸線車窓から)

平治の乱に敗れた義朝一行は雪の伊吹山麓を踏み進む。13歳の頼朝は一人はぐれ捕らえられる。その頼朝は今、勝者として鎌倉で重衡を待つ。

「心を留むとしなけれども荒れて中々優しきは不破の関屋の板廂」
元歌は「人住まぬ不破の関屋の板庇あれにしのちはただ秋の風」壬申の乱の後造られたこの関は名は高くとも平安後期には既に廃止されて久しい。


それでも天皇の代替わりの度に閉じたというから関屋はあったのか。形式に過ぎない関は厳めしくなくたださびしい板庇。ただそこを通る都人には畿内から出る感慨はあったのだろう。

「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん」
不破の関を越え、垂井・青墓(赤坂)から美濃路と呼ばれる道を尾張へ歩む。墨俣も通ったはずだ。重衡は行家・義円を撃破したことを思ったであろうか。

平家物語の道行きは墨俣も熱田も飛ばし鳴海に出る。潮干潟とはあるけれど現代の鳴海は名古屋市緑区鳴海で全くの市街地であり、宿場を思わせるものもない。鳴海潟というくらいだから伊勢湾が近くまで入り込んでいたのか。江戸時代までけっこうな宿だったはずである。

「三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」

三河国八橋は知立市内。蜘蛛手は蜘蛛が足を八方に出す様で水の流れが縦横に交錯していることを形容しているとのことである。この辺りで大きな川は矢作川のようだ。湿地帯だったのだろうか。そのまま伊勢物語を借り、昔男の業平の話をそっくりイメージさせる語りだったのだろう。業平と重衡、二人の貴公子が交錯する。湿地となればかきつばたも似合い、唐衣の歌も言葉遊び以上の物に見える。

「浜名の橋を渡り給へば松の梢に風冴えて入江に騒ぐ波の音さらでも旅は物憂きに心を尽くす夕間暮れ」

云うまでもなく浜名湖なのだが、橋があったのか・・と驚く。現代の1号線の浜名大橋は200メートルを超えている。江戸時代は渡しのようなのであるが。

「池田の宿にも着き給ひぬ、かの宿の長者熊野が娘侍従が許にその夜は宿せられけり。侍従、三位中将殿を見奉て、「日来ろは伝手にだに思し召しより給はぬ人の、けふはかかるところへ入らせ給ふことの不思議さよ」とて、一首の歌を奉る。
旅の空 埴生の小屋の いぶせさに ふるさといかに 恋しかるらむ
中将の返事に、ふるさとも 恋しくもなし 旅の空 都もつひの 住みかならねば
ややあつて、中将、梶原を召して、「さても只今の歌の主は、いかなる者ぞ。優しうも仕たる者かな」とのたまへば、景時畏まつて申しけるは、「君はいまだ知ろし召され候はずや。あれこそ屋島の大臣殿の、いまだ当国の守にて渡らせ給ひし時、召され参らせて、御最愛候ひしに、老母をこれに留め置き、常は暇を申ししかども、賜はらざりければ、頃は弥生の初めにてもや候ひけん、いかにせむ 都の春も 惜しけれど 馴れしあづまの 花や散るらむ
 と言ふ名歌仕り、暇を賜つて罷り下り候ひし、海道一の名人にて候ふ」とぞ申しける。」
天竜川を渡り、池田の宿へ。池田宿は平家物語に因縁深い。この段の宗盛の愛人の話然り、源義朝はこの宿の遊女に範頼を産ませた。青墓の宿の例を見れば、遊女とはいってもそれなりのステータスはあったのではないか。それなら長者熊野(ゆや)と何らかの関係があったのではないか、と想像する。

平家物語が流布した頃には範頼の事も世に知られていただろう。ここでもたぶん範頼との物語の二重写しがあっただろう。

熊野の長藤は咲いた時期に見たいものである。

 

「都を出でて日数経れば、弥生も半ば過ぎ、春もすでに暮れなんとす。遠山の花は残んの雪かと見えて、浦々島々霞渡り、越し方行く末の事どもを思ひ続け給ふにも、「こはさればいかなる宿業のうたてさぞ」とのたまひて、ただ尽きせぬものは涙なり。御子の一人もおはせぬことを、母の二位殿も嘆き、北の方大納言の佐殿も、本意なきことにし給ひて、万の神仏に懸けて祈り申されけれども、その験なし。「賢うぞなかりける。子だにもあらましかば、いかばかり思ふことあらむ」とのたまひけるこそ責めての事なれ。」

重衡は子供がいないとあるけれど、正妻佐の局に居なかっただけで、モテ男重衡には子がある。鎌倉の鶴岡八幡宮、箱根で僧侶となった子らがいたらしい。

「小夜の中山にかかり給ふにも、また越ゆべしとも思えねば、いとど哀れの数添ひて、袂ぞいたく濡れ増さる。」

 西行歌碑

重衡の南都攻めで焼亡した東大寺大仏復元の勧進で、奥州平泉の藤原秀衡を訪ねる生涯二度目の陸奥への旅に赴いた西行はこう詠んだ「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」つまり重衡が通ったこの時にはこの歌はまだ詠まれていない。重衡はこの道を引き返してくるのだから、またこの峠を越えたはずだが、西から東へと越えるのはこれが最初で最後となる。
西行は平家物語の完全な同時代人だが、物語に直接は登場してこない。ただこんな風に現れるのだ。
今、中山は一面の茶畑となっている。茶は平安期から中国から入ったが、鎌倉期まではほとんど薬扱いだったようだ。室町を経て戦国時代に爆発的に広がる。つまり重衡も西行も目に映ったのは全く別の光景だっただろう。しかし、峠の見晴らしのいいところに出れば、新緑の山中は輝いていただろう。

「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」

これはまた「伊勢物語」だ。「宇津の山に至りて、わが入らんとする道はいと暗う細きに、蔦、かへではしたがかり、もの心細く・・・・・駿河なる宇津の山辺のうつつにも 夢にもひとにあはぬなりけり」

「手越を過ぎて行けば、」

手越の宿だ。静岡市の安部川西岸の区域となる。富士川までは20kmと少々か。「海道下」の次の章「千手前」鎌倉で重衡を接待する千手前は手越の宿の長者の娘だ。「みめ形、心ざま、優にわりなき者」と云われる美女だったが重衡の斬首を聞いて出家する。

 手越の少将井神社

手越宿は富士川の合戦の平家敗走に前後して火事があったらしい。

重衡は従兄弟維盛のあまりにもふがいない敗戦に苦い思いをいだいたろう。

「北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根と言ふ。その時三位中将落つる涙を抑へつつ、 
惜しからぬ 命なれども 今日までに つれなき かひのしらねをも見つ」

手越から見えるのは富士だ。分からないのは「甲斐の白根」 ワイド版岩波文庫の註には「山梨県の白根山。赤石山脈中の北岳、間の岳、農鳥山がその最高峰」とあるのだが、手越のあたりから南アルプスが見えるのか。富士が目に入ると他の山を意識することがなくなってしまう。次に富士の裾野云々と書いてあるので甲斐の白根と富士を混同しているとも思えない。註によれば「海道記」を踏まえるとある。

(2022年補注:登呂遺跡から「甲斐の白根」が見えた。手越からも条件が良ければ見える可能性が高いのだろう)

 手越付近からの富士

「清見が関打ち越えて、富士の裾野になりぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。南には蒼海漫々として、岸打つ波も茫々たり。「恋せば痩せぬべし、恋せずもありけり」と、明神の詠うたひ始め給ひけん、」

静岡市清水区の清見が関址は清見寺前にある。重衡が通った頃には、不破の関同様、関としての機能はほとんど失われていただろう。

清見寺は徳川家康の気に入りの寺だったそうだ。江戸時代には興津という宿場町として栄えたようだ。三保の松原も近い。確かに富士の裾野だ。
(清見寺:せいけんじ)
重衡を連行してきた梶原景時は、頼朝の側近として鎌倉に重きをなしたが、頼朝急死後、御家人の連判によって追い落とされる。連判人は実に66人に及んだ。翌正治2年(1200)梶原一族は相模一宮から京へ上る途中、清見が関辺りで襲撃され討ち取られたという。ここは梶原一族の終焉の地でもあるのだ。
 三保の松原 富士


「足柄の山打ち越えて、小余綾の磯、丸子川、小磯、大磯の浦々、八的、砥上が原、御輿が崎をも打ち過ぎて、急がぬ旅とは思へども、日数やうやう重なれば、鎌倉へこそ入り給へ。」

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いかでかこれにはまさるべき 木曽義仲 

2020-08-10 | まとめ書き

平家物語第6巻「廻文(めぐらしぶみ)」で木曽義仲が登場する。先ず義仲の生い立ちが描かれている。為義の次男義賢の子、義賢は義平に殺され、2歳の義仲の母は木曽の中原兼遠の元へ行き義仲を託した。そして20余年、力も世に優れ、心も並びなく強い。古き伝説の武将たちにも勝るとも劣らぬとほめあげる。
「ありがたき強弓・勢兵、馬の上、かちだち、すべて上古の田村・利仁・余五将軍・知頼・保昌・先祖頼光・義家朝臣といふ供、争か是にはまさるべき」とある。
喩えられるのは平家物語を聞いた時代の人たちには、直ぐそれとわかるスーパーヒーローだったのだろうが、今、すぐああ誰だ、と思うのは無理だ。順番にみていこう

先ず上古の田村

これだけは坂上田村麻呂の事だとすぐ見当がつく。征夷大将軍として陸奥へ赴き、戦果を挙げた平安京の守護神、田村麻呂、伝説にも彩られ、上古の将軍の代表として疑いない。

 田村神社(甲賀市土山町)近くの坂にいた蟹の怪物を退治したそうな。

清水寺も田村麻呂が建てた寺だそうで、陸奥遠征で捕虜にした阿弖流為(アテルイ)母礼(モレイ)の碑がある。田村は命は助ける約束で京へ連れてきたのだが、桓武は斬った。

 

次の利仁

藤原利仁、利仁将軍と呼ばれるが、田村麻呂と違い、現代に知られているのは芥川龍之介の「芋粥」によってだろう。元の話は「今昔物語」で敦賀の豪族の婿になっていた利仁が、京都でのさえない五位の上司を敦賀に連れて行き大御馳走をする話だ。狐がお使いする話あり、利仁の神通力を示しつつもユーモラスだ。

敦賀市公文名の天満宮、菅原道真と共に利仁を祀る。近くに舅有仁の館もあったらしい。藤原利仁の息子は斎宮職に就き、斎宮の藤原で斎藤を名乗る。全国の斎藤さんは祖先をたどるとみな利仁に行きつく、嘘のような話だが、少なくとも平安末から中世の越前の斎藤氏はみな利仁の子孫を名乗っている。

余五将軍

平維茂(これもち)のことだが、これはさらに難易度が上がる。伯父の平貞盛の15番目の養子となったので余五というそうである。「今昔物語」に説話がある。郎党が殺されたが、その郎党が殺した男の子が敵討ちとして殺したことを知り、許した話と、豪族同士の軍合戦の話である。主に信濃北部、越後との境辺りに勢力を張ったようで、戸隠山の鬼退治伝説があり、歌舞伎の「紅葉狩」で鬼退治するのが維茂である。

 維茂に扮した錦之助(2018年9月大歌舞伎チラシより)

義仲との決戦の前に急死する城資永(「しわがれ声」)、横田河原で義仲に大敗する弟助茂の城氏はの維茂の子孫だという。
そう言えば、燧が城で義仲を裏切り、倶利伽羅峠で捕まり殺される平泉寺長吏斉明、篠原の戦いで手塚光盛に打ち取られる老武者齊藤実盛は藤原利仁の子孫ということになっている。

 

致頼

致頼というのは誰なのだろう?岩波本では「ちらい」とルビがふってある。平凡社の文庫本には知頼(ちらい)とある。
平致頼という人物らしい。平氏の系図中、高望王―国香―貞盛の次の維衡をもって伊勢平氏の祖とするのだが、平致頼は国香の弟良兼の系統ということである。致頼は既に伊勢に在って維衡と衝突を繰り返していたらしい。(高橋昌明「清盛以前」)どうも伝説のヒーローというイメージは湧きにくい。今昔物語に「平維衡同じき致頼、合戦して咎を蒙ること」という話がある。二人とも流罪のなるのだが、先に仕掛けた致頼が悪いとして、致頼は隠岐へ、維衡は淡路へ流される。今昔ではこの次の致頼の息子致経の話が面白い。藤原頼通の命令である僧が夜園城寺へ行くのを致経が護衛する。致経はどうということない装備で現れるが、道を進むと武装した部下が次々現れ、無言のまま僧を警備し、寺へ着く。帰途も京に入ると部下たちは無言で分かれ行く。致経と部下との関係が興味深いが、このやり方、同じ今昔に出てくる盗賊の話と似てはいないか。    
ウィキペディアによれば「致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。」とのことである。

 

保昌

藤原保昌(やすまさ)の事だが「ほうしょう」とルビがふってある。祇園祭の保昌山は「ほうしょうやま」と読むそうだからわかる人にはわかるのだろう。和泉式部と結婚した。藤原南家の系統の家に、生まれたが軍事貴族ともいうべき人だった。今昔物語に盗賊袴垂との説話がある。

 ウイキペディアより

 

頼光

源頼光、大江山の酒呑童子退治や四天王の活躍など伝説の武者だが、先祖頼光というのは少し違う、頼光は摂津源氏の祖だ。義仲は河内源氏に属すので頼光の弟頼信を祖とする。

 

義家朝臣

言わずと知れた八幡太郎義家であるが、ルビが「ぎか」とふってある。平家物語は語られるものだったはずだ。「よしいえ」ならばともかく「ぎか」で分かったものかどうか。梁塵秘抄に「八幡太郎はおそろしや」とあるので、一般的に八幡太郎とよばれていたのではないのだろうか。この場に現れた英雄たちは、ほとんど名前は音読みだがからいいのか。

 

ところで「ありがたき強弓、精兵、云々」という描写はもう一度現れる。第9巻「木曽最期」である。ここでは義仲に付き従う巴に関する描写ではあるが、物語は義仲の登場と最期に最大級の賛辞を贈っているかのようである。

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五位鷺

2020-08-06 | まとめ書き

鷺は身近な鳥でだ。コサギ、アオサギ、地方都市だと少し郊外の田圃にもいるし、街中の城址の堀端にもたくさんいる。見間違えることはあるまいと思っていたが、ゴイサギの画像を見るとにわかに自信がぐらつく。これが鷺か!見たことのある鳥なのか否や、すくなくともそれと認識して見たことはないはずだ。たまたま見た画像の首や足をちぢめているのかと、いくつか画像を漁ってみたが、やっぱりアオサギなどとはかなり違う姿だ。鷺がペリカン科に属するとも初めて得た知識だ。

平家物語第5巻「朝敵揃」に五位鷺が出てくる。延喜の帝、醍醐の時というから、寛平9年(897)~延長8年(930)、10世紀のはじめとみればいいだろうか。神泉苑に行幸し、六位蔵人に池の水際にいた鳥を捕まえさせた。蔵人は無茶だと思ったのだけれど、宣旨だからと言ってみる。鳥はひれ伏して飛び立たず捕まった。醍醐は喜び、神妙であると五位を与えた。何しろ「宣旨」と云えば枯れたる草木も花咲き実なり、飛ぶ鳥も従がひけり、というのである。醍醐は父宇多院が抜擢し重用した菅原道真を左遷させている。大宰府で死んだ道真は祟る。清涼殿に雷となって落ちる。雷・怨霊には宣旨は無力だったようである。
ところで、利仁将軍は醍醐に仕えた。今昔物語で、利仁が敦賀へ連れて行き御馳走するのは「五位」と呼ばれている男だ。芥川龍之介の「芋粥」の元話だ。情けないしょぼくれ切った小役人が五位なのだ。五位にも正従あってそれぞれに上下あるから五位だけでも4階級あることになるが、ただ五位とのみ呼ばれていることは実質的な差異は大きくはなかったのか。取敢えず五位以上は貴族、のはずなのだが、このしょぼくれぶりはどうしたものか。貴族の子弟は10代前半で六位になり、家柄その他の条件で昇進していくが、たぶんこの五位は生涯五位のままなのだろう。
余りうらやましいとも思えぬ五位だが、武者たちはたいそうこの官位が欲しかったらしい。頼朝は武者たちが朝廷から直接位階をもらうことを許さず、自分が推薦したものに限る、などと制限を設け、御門葉と特別に目をかけたもの以外昇進できないようにしている。
頼朝は最初上西門院の蔵人となった時六位だったのだろう。その後平治の乱の一時的勝利の後の除目で従五位下になり、それは平治の乱後止められていたが、平家の都落ちの後復位される。更に義仲追討後、正四位下、平家追討で従二位になる。
因みに、義仲、義経、範頼の官位は皆従五位下である。

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20200802 若狭

2020-08-04 | 行った所

若狭の美浜へ向かう。
敦賀半島の美浜側の付け根、菅浜などよりよほど手前となる北田という集落に入る。
ここに齊藤実盛が立てた供養塔があるという。ただ、ここで実盛が立てたというよりも、元鯖江市にあった寺がここへ移り、供養塔も移ったらしい。笏谷石の塔だが、標示も何もないのでさっぱりわからない。だがどうやらこれらしい。

寺は北田泰蔵院というはずだが、寺号を示すものも何もない。建物は結構新しい。

振り返ると海が見え、いいところではある。


源頼政が耳川からから拾い上げた観音像を祀ったという寺があるはずなのだが、どうもさっぱりわからない。
海岸近くに天王山という小高い山がある。てっぺんに大きな防災無線のアンテナが立っている。この山の南西のふもとであるらしいのだが、この山の周囲ぐるりと鉄条網が張ってあり、登山道には柵がある。動物除けの柵ではなく、鍵のかかった柵だ。建物らしいものが山の木の陰から見えないこともないのだが。北側へ回ると登り口があったので行けるかと思ったが、それは神社までで、その上はふさがれている。
美浜町歴史文化館の学芸員らしい人に寺の名を言って聞いたのだが、どうも知らないようで、何か地図を出してはくれたが、その地図の示す場所に寺の無いのは確かだった。


美浜町歴史文化館はまだ新しいのか、ネットで電話番号を確認し、ナビへ入れたのだが、全然違う公民館についてしまった。ようやくたどり着く。ここの目玉は興道寺廃寺という7世紀後半の寺跡の発掘調査の成果だった。金堂・講堂・三重塔のある立派なものだ。耳分氏という豪族が建立したようだ。耳分氏は平城宮出土の木簡にも見え、塩を貢納していた。


彌美神社へ行く。改装中で立派な堂宇を建設中のように見える。

寺は滅んでも神社の方は生き残るのだな。

 

田烏まで足を延ばす。若狭町だとばかり思っていたら、小浜市に入っていたのだった。

かなり大きいい神社がある。天満宮だが狛犬の台座に彫られているのは「海上安全」

深い湾口の中のさらに入り組んだ湾、良港である。ここは鎌倉時代、北条氏が押さえていた。北条の三つ鱗の紋の入った幟をなびかせた船が出入りする。この幟は田烏の旧家から出た。

   幟と地図は「図説 福井県史」による。https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/B04/B042.htm

集落の上を走る道路には沖の石橋が架かる。

「潮干に見えね沖の石の」の沖の石である。この近くに宮川保がある。平家物語第4巻「鵺」の最後に頼政は鵺を退治し、丹波の五ケ荘、若狭小浜の東の宮川を知行したとある。鵺話はともかく、頼政が宮川に関係があったのは確からしく、娘二条院讃岐が相続したらしい。

 田烏

 田烏集落

田烏の西隣の集落、矢代へ行く。ここも港だが、田烏よりは小さい。

 矢代


福寿寺という寺のようなものがあり、そこに掲示されていたものが面白かった。

変わったお祭りがあるらしいが、矢代という地名由来が頼政の鵺退治に引っ掛けた話になっている。物語は語り継がれ、事実であったとして新たな伝承が伝えられていく。

沖の石までのクルーズがあるようだ。

賀茂神社の鳥居から30メートルほど前に大正時代に建てられた道標があった。非常に読みにくいが、右宮川大谷 真ん中には小濱郵便局、左田烏、と読めるようだ。小浜に合併前は宮川村と云うのがあったようだ。

 

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