平治元(1156)年12月27日、源義朝は京都から敗走する。その敗走経路を平治物語に沿ってみて行く。
内裏を守り、攻め寄せる敵方と互角に遣り合ったはずだった。しかし、内裏にはすでに守るべき帝も院もいなかった。3年前の保元の乱で、官軍として戦える喜びを臆面もなく披露していた義朝だ、そして東国で散々やってきた戦法がここでも通用することに自信を深めていたに違いない義朝だったが、知らぬ間に官軍から賊軍に替わっていた衝撃は大きかっただろう。自身の忠誠心というよりは、味方を繋ぎ留めれない、という焦りではなかったか。事実、ここまで行動を共にしてきたはずの美濃源氏・摂津源氏は相次いで義朝に敵対する。互角だったはずの内裏を守る戦いから、引きずり出される格好で、鴨川河原から六波羅ときてみれば義朝の周りに残ったのは身内と東国からきていた武者たちのみだった。
12月9日未明に敢行したクーデターは成功したはずだった。畿内最大の武力平清盛は熊野詣に行って留守である。東国の兵を動かすことはできなかったが、畿内にいた与党を結集し、後白河のいる三条殿を急襲した。二条帝と院を確保した。ここに後白河乳母夫信西の専横を是としない二条親政派と共に、藤原信頼を首班とする政権が樹立されたはずだった。
だが、平清盛の帰京、二条親政派の裏切りで、あっさり信頼政権は瓦解する。その間わずか20日に満たない。
義朝はこうした動きを理解しえただろうか。東国の土地を巡る自力救済、それが長く彼の知る世界だった。頼朝の母となった熱田神宮宮司の娘との婚姻が彼にとっての京都デビューだった。この縁は次男朝長の叔父波多野義通との不仲になろうとも繋がなければならないものだった。保元の乱で確かに義朝は源氏の棟梁としての地位を確立した。しかしそれは、父為義が摂関家の武力だったのと同じように、信頼の武力になった、というだけの事ではなかったか。信頼と義朝の関係は深い。奥州の物資を得るために、東国武蔵の実効支配を得るために、信頼との協調は不可欠だったが、協調というより、義朝は信頼に従ったのだ。平治物語の信頼を殴りつける義朝は、仮にあったとしても、この関係の最終段階だ。信頼を通じてしてしか政局を見てこなかった義朝にしてみれば、三条殿夜襲こそが出番であり、その後の事は預知らぬことだっただろう。信頼の異母兄基成は陸奥の国司だ。遙任ではなく長く現地に暮らし、藤原秀衡に娘を嫁がせてもいる。信頼は武蔵国も握っている。だからこそ邪魔な異母弟義賢(義仲父)を排除できた。義朝にとって、信頼はなんと信頼できる親分だったことだろう。
とはいえ、別の見方もある、これを後白河に拠る信西排斥と見ることもできるようだ。信西は後白河乳母夫であるが、二条親政を志向していた。二条への譲位が仏二人(美福門院・信西)の合意であったことに、後白河には大いに不満であり、信頼を利用し、院政の継続を狙っていたというものだ。平治の乱、後白河黒幕説とでもいうのだろうか。(礒貝富士雄「武家政権成立史」河内祥輔説紹介)
話を義朝に戻すと、義朝は京都を脱出しなければならない。目指すは東国、相模の鎌倉の館(たち)だろうか。
近世になってからの言い方で確定もしていないらしいが、京都七口というものがある。京都へ出入りする代表的街道の入口だ。
ウィキペディアから
この図の五条口は渋谷街道になるだろう。伏見に行くようになっているのは豊臣秀吉が伏見街道を開いたからだ。通常東国へ向かうとしたら、この渋谷街道か粟田口を通り山科に出るルートだろう。20年を超える後に以仁王が園城寺に行くのに使ったのは荒神口だ。如意越えという。
義朝はこの三つのルートは使わず、更に北へ向かっている。
六波羅の戦いで平治物語は源氏の武者の勇敢さを語るが、負けは負け、衆寡敵せず北へと逃げるしかない。
「義朝は、相従ひし兵ども、方々へ落ち行て小勢となりて、叡山西坂本を過ぎて、小原の方へと落ち行ける。」
角川ソフィア文庫「平治物語」挿図
西坂本は現代の地図では探せない。比叡山ドライブウエイの起点となる銀閣寺の辺りかと思うが、角川ソフィア文庫「平治物語」の地図ではむしろ宝ヶ池付近に見える。彼らは比叡山には向かわず、大原、八瀬へ向かう。
出町柳から叡電が出ているが、それに沿うように高野川沿いをさかのぼり八瀬に行ったのだろうか。
八瀬には叡山西塔の法師が手ぐすね引いて待ち構える。
斎藤実盛が機転を利かせ、兜を投げ捨て、法師どもが取り合ううちに馬に鞭を入れる。義朝一行さっとこの場を抜けていく。
更に北で、信頼と出会う、が、これは物語だ。いくら何でも信頼一人こんな山中をまごまごしていないだろう。成親と共々さっさと仁和寺に駆け込んでいる。
次いで義朝弟信太先生義範(義広)と十郎義盛(行家)が別行動を申し出る。しかしこれもこの二人が平治の乱に参戦していたことは平治物語以外の記録はない。二人が何の咎も受けていないことから不参加だったろう(by元木泰雄氏等)
さてこの道はずっと北へ行くと、大原を過ぎて、朽木、熊川を通る鯖街道で、若狭の小浜へ通じるのだが、義朝一行はそちらに向かわず堅田に降りる。
龍華越え、別名途中越え、というそうだ。367号線を北上すると途中トンネルというものがある。トンネルを過ぎるとすぐ道は分かれ、477号線で南東に下っていく。
この龍華越えで義朝達は今度は叡山横川の法師どもにも襲われる。後藤兵衛尉実基の奮戦でここも駆け抜ける。
しかし義朝叔父の義隆が討ち死にする。義隆は義家の末子だろうか、義朝の父為義の父は義親だが、為義は義家の養子となっているから叔父というわけだ。更に次男朝長も足に矢傷を負っていた。
どうもよくわからないのは、この道を来て北陸へ抜けず、瀬田へ戻ることだ。越前斎藤氏出身の実盛もいたことだし、と思うのだがどうだったのだろう。一応北陸へ向かわない理由は述べている。「北陸道へ赴かば、この事を聞きて都に馳せ上る勢、多からん。・・・・・東坂本へかからば、たとひ人怪しむとも、洛中の騒動により馳せ上る由を言はば、仔細あらじ。」
しかし、この後、義朝は長男義平に単身甲斐信濃を攻略するように命ずるのだ。義平は美濃から越前に入る。足羽まで来て兵を集めていたという。この兵は義朝が殺されたという情報を聞いて霧散したという。いかに勇名高き悪源太と云えども10代の冠者には限界があったのだろう。だが、義朝本人だったらどうだったろうか。
同時に齊藤実盛についても一考を要する。越前には実盛生誕の地とか、産湯の池とか伝承地がいくつかある。しかしそれらの伝承も、もしかしたら、平家物語で実盛が語られたことによって実体化したものであるかもしれないのだ。猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇などという鵺の存在を認める人は稀だろう。しかし鵺退治にかかわる「遺跡」は実際にあるのだ。実盛は河合斎藤氏の出であることは違いないにしても、いわばあぶれ者、武蔵に行かねばならなかった事情を持った者かもしれない。わが故郷として主君ごと受け入れられる自信が実盛にはなかったかもしれないのだ。
義朝一行を堅田から瀬田までは咎めるものもなかった。瀬田橋は橋桁が落としてあったものか、通れず船で渡る。舟を調達でき、すんなり渡れている。何故瀬田を守る官軍・見張りさえいなかったのかと思うが、そうだったのだろう。ここまで、義朝達はむしろ幸運だった、と言えるのだろう。
西近江の東坂本、戸津(下坂本)、唐崎、志賀の浦、瀬田で舟に乗り瀬田川を渡り、野路、三上山麓、鏡山、愛知川、この辺りは義朝もよく知る街道なのだろう。愛知川手前で頼朝は最初の脱落をする。平賀義信が探しに行って合流する。
不破の関が通れまいと伊吹山麓を回る。
ここで頼朝再度の脱落。13歳の少年である、小学校6年生か中学1年、確かに元服もしている、上西門院蔵人として職に就き出仕もしているが、朝から馬上で着慣れぬ甲冑姿、疲労困憊も無理はない。だが、この脱落は誠に幸運であったのだ。頼朝はない命を拾う。一方頼朝の幸運の逆をいった不運が朝長を襲う。龍華越えで受けた矢傷は適切な治療が受けられれば大事には至らぬものであったかもしれない。しかし「龍華越のいくさに膝の節を射させて、遠路を馳せすぎ、深き雪を徒歩にて分けさせ給ひし程に、腫れ損じて一足も働かせ給ふべきようなし。」朝長は殺してくれと父義朝に首を差し出すのだ。
美濃青墓の宿は義朝の馴染だ。
この宿の長者大炊の娘と義朝との間に娘もいる。大炊の姉は為義と懇ろで、3人の男児がいたが、保元の乱後、義朝はこの男児らも殺したと保元物語にはある。義朝乳母子の鎌田正清も延寿という今様歌いが馴染だったらしい。この延寿、梁塵秘抄にも見え後白河と知り合いだったというのは、角川ソフィア文庫「平治物語」の註である。延寿を義朝の相手とするものもある。
大炊のもてなしにほっとしたのもつかの間、落人がいる!と騒ぎになり、押し寄せる敵に佐部式部太夫重成というものが義朝の身代わりとなる。この人は美濃源氏らしいがよくわからない。
翌朝、自ら殺した朝長の処理を大炊に託し、義朝は出立する。大炊はさぞ困っただろうが、丁重に弔う。しかし、墓は掘り返され、朝長の首は平家に渡されたという。その後大炊の菩提寺に葬られる。
義朝は杭瀬川で舟に乗る。ここで上総介広常が分かれる。上総曹司と呼ばれた義朝だ、広常とは昵懇だったはずだ。のちに広常は石橋山で敗れた頼朝に大いに寄与するが、「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」(愚管抄)などの発言から、頼朝に謀殺される。もしこの発言が本当なら、広常は朝廷もしくはその周りに翻弄された義朝を見ていたせいではないだろうか。佐竹等と問題を抱える広常はそっちの解決が先遣問題と思っていたろうが、また、朝廷の事に関わってはロクなことはないと思い定めてはいなかったろうか。
杭瀬川
杭瀬川の船頭、舟法師は鷲巣源光、義朝を怪しげに見て隠れさせて関を通る。杭瀬川を出て揖斐川に合流、伊勢湾に出て知多半島の内海に着く。鷲巣源光は養老寺の僧とあるが、平治物語の注記によれば、大炊の兄弟であるらしい。たまたま通りかかった舟に乗ったというよりは大炊の手配によるものだろう。
この時の義朝の風体、「馬ニモノラエズ、カチハダシ」(愚管抄) 雪の伊吹山麓で馬は捨てた。青墓でも落ち着けず、まさに落ち武者の風体。一行はさらに減って、平治物語では、鎌田正清・渋谷金光丸・鷲巣源光くらいしか数えられない。齊藤実盛も分かれたのだろう。頼った先は内海長田荘司忠致、鎌田正清の舅であるが、このありさまに、再起はできそうもない、と踏んだのだろう。とりあえずは湯殿でごゆるりと、と案内する。
湯殿跡
時は平治元年12月29日、暮れも押し迫った大晦日の前日、御所での戦が始まり六波羅で戦った27日からここまでほぼ不眠不休であったであろう、青墓の宿では仮眠は取れたかもしれないが、憔悴しきって内海に着いたであろう義朝にはありがたい湯であったはずだ。
長田を完全に信頼しっ切っていたかといえばそうでもなかろうが、何か考えるにも疲れ切っていたのだろう。長男義平は別ルートへ行かせた。次男朝長は死んだ。三男頼朝ははぐれ敵に捕まったかと思われる。
湯殿で襲撃され、「鎌田はおるか!」と叫んだ、と伝えるのは平治物語だ。「我れに木太刀の一本なりともあれば」という伝承もあるらしい。野間大坊の義朝の墓には木刀を供える習慣があるらしい。木刀と云っても小さな経木のような代物で、何十本あったところで武器にはなるまいと思われるものだが500円で売っている。
義朝墓
一方愚管抄によれば、湯を勧められた時点で、「謀反」を察知し自死したという。
鎌田も死に、鎌田の妻(長田の娘)も自害した。その墓も野間にある。
湯殿近くに「乱橋の跡」というのがある。義朝の郎党と長田の郎党が合戦したところだという。案内板には鷲栖玄光と金光丸の名がある。
乱橋案内板
玄光は源光に同じだろう。彼のその後はわからないが、平治物語では、平治2年正月5日金光丸は京都で常盤に義朝の死を報告している。義朝が京都で梟首されるのは1月9日の事である。
野間大坊こと鶴林山大御堂寺は古い由緒を掲げてはいるが、
実際には平康頼が義朝を供養したてた堂が起源らしい。康頼は平頼盛の息子保盛に仕え、保盛が尾張を領した時一緒に来たらしい。美男で美声だったとされる康頼は後白河にすっかり気に入られる。鹿が谷の陰謀事件に関わり、俊寛・成経と共に鬼界が島に流される。許されたのちは僧として、「宝物集」という仏教説話を書いている。墓は大徳寺にある
。
義朝の墓は鎌倉にもある。
頼朝が父の菩提を弔うため勝長寿院という大寺を建てた。「大御堂」とも呼ばれ、現在も地名は残って入るが、寺そのものは再三火災にあい、再建されず、今は碑のみがある。鎌田の墓もある。
この寺はいつまで威容を誇れたものなのか。
義朝のしゃれこうべとされるものは、平家物語で2度文覚により頼朝にもたらされる。1回目は平家物語第5巻「伊豆院宣」でこの話自体奇怪なものだが、文覚は懐から義朝の頭骨なるものを出して頼朝に「謀反」を勧めるのである。2回目は第12巻「紺掻之沙汰」である。元暦2年(1185)7月、既に平家は壇ノ浦に滅び、捕虜となった宗盛達の処分も終わった。文覚は義朝の頭骨を首にかけ、弟子に鎌田の骨を掛けさせ鎌倉へと下向する。文覚は実にしれっと前のは偽首だったと言い、頼朝は文句も言わず、仰々しく新たなしゃれこうべを受け取り、勝長寿院を建てるのだった。
長田忠致は平致頼の末裔だそうだ。致頼は平家物語第6巻「廻文」で颯爽とデビューする木曽義仲が、いにしえのヒーローたちにも勝るとも劣らぬものだと語られる時、ヒーローとして挙げられる坂上田村麻呂以下の武人たちの中にいる。伊勢平氏の祖は平維衡であり、致頼のまた従兄弟に当たる。維衡は伊勢平氏の名を挙げる正盛の曾祖父である。致頼は維衡より早く伊勢にいたらしい。致頼は伊勢の北方に勢力を張り、維衡はこれより南だったらしいが、彼らは衝突し、両方とも誅せられるのは今昔物語にもある。致頼は摂関家にも食い入っていたらしい。(高橋昌明「清盛以前」)さらに致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」と称せられた武人と目されていた。
治承4年(1180)頼朝の動向を密告する駿河の長田入道という人物が吾妻鑑に見えるらしい。長田忠致の事とする人もいるようだが不明らしい(元木泰雄「保元平治の乱を読み直す」)