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坊主の出自

2024-06-02 | 行った所

「朝倉始末記」などというものを読んでいて、驚くことの一つは坊主たちが非常に戦闘的なことである。一向一揆が将に戰さと呼べるようなものであったことに、全く知識がなかったわけではないが、一向宗(浄土真宗本願寺派)のみならず、高田派・三門徒派なんてのも十二分に戦闘的で、立派に軍勢の一翼を担うのだ。平泉寺の僧兵どもならまだわかるが。しかし、高田派勝曼寺明秀が言ったという「我ガ宗派ヲ破滅セントスル一揆ヲ攻討ツコソ仏法ノ紹隆タルベケレ」の主旨はどの宗教も内包するものなのだろう。
平安末期の僧兵(衆徒・大衆)は武者の家を出自とするものが多かった。平泉寺を率い、平家と木曽義仲の間で返り忠を繰り返した斉明は越前斎藤氏の出だったし、以仁王の乱に出てくる日胤は千葉常胤の息子だ。数百年を経た坊主の出自なんて意味のあることとも思えないのだが、出てくるのだこれが。坊主たち自身が誇らかにこれを言う。
浄土真宗は親鸞の教えを守り伝えるといいながら、いくつかに分流している。その中の高田派は北陸に勢力を伸ばしていた。ところが蓮如が吉崎に道場を開くや、本願寺派が驚くべきスピードで浸透していく。これに加賀の守護富樫家の内紛が絡む。高田派が与んだ富樫幸千代は本願寺派と与んだ富樫政親に敗れる。更に本願寺派と政親が対立、本願寺の一揆は政親を敗死させ、ここに「百姓がもちたる国」が出現する。浄土真宗の国とは言いながら本願寺派(一向宗)のみの支配だ。なんせ一向宗は他宗に改宗を迫り、坊主を追い出し、焼き討ちまでかけるのだ。片っ端からやられたようだが、一種の近親憎悪なのか同じ浄土真宗の他派により過激であった印象がある。
永正3年(1506)加賀一向一揆は多勢をもって越前に攻め寄せる。越前朝倉氏は宗滴教景を総大将に九頭竜川江を防衛線に陣を張った。戦いは朝倉勢が一揆を押し返し、越前から追い払う。この時の朝倉勢の一角に高田派と三門徒派がいる。
風尾村勝曼寺の明秀という高田派の坊主は、小和田本流院へ急行し、高田派を挙げて守護(朝倉氏)へ味方するように提言する。本流院の真孝は慎重である。明秀は本願寺派の非道を説き、更に僧とはいえ、真孝は桓武平氏国香の子孫ではないか、自分(明秀)は斎藤実盛の弟の子孫である。折立稱名寺は佐々木高綱の子孫、聖徳寺は三浦氏の子孫、円福寺道場は斎藤氏、などと高田派の由緒を、平家物語とその周辺に出てくるような人物を絡めて語るのだった。丹は磨いても色は変わらぬ、金は錆びても変わらぬ、我らは僧になっても本性は変わらぬ。とえらく血統主義を漲らせ、参戦を説くのだった。

風尾村勝曼寺
旧清水町、現福井市風尾町。斎藤実盛の弟三郎実貞の子が南居村に蟄居し、その子孫が文永1年、顕智上人に遭い、縁あり出家して勝曼寺を建てたとのことである。
文殊山の南麓鯖江市南井(なおい)には斎藤実盛の弟の子孫だという家があり、実盛所縁の地として知られている。

 県道6号線、福井市街地から西へ海岸の大味へ出る道の途中にある。行ったのがまだ雪のあるころで、本堂は雪囲いの中だった。脇に勝曼寺と掲げた建物があった

加戸本流院(円福寺)

加戸は三国の近くである。

 これは脇門だったのだろうか、入って左手に本堂があり、右手に参道で階段があるが道路で断ち切られていた。
真孝は柏原天皇(桓武)の子孫、鎮守府将軍平国香の子孫下野国大内氏の出だそうだ。平の国香は将門の叔父で、国香を含む親戚たちと将門との確執が乱に発展していく。国香が鎮守府将軍であったかは知らない。国香の子貞盛は清盛等の先祖になる。
本流院真孝は高田派を纏めていたらしい。後の堀江の乱でも本流院真孝の名が出てくる。堀江の妻と真孝の妻、朝倉義景の母(宗淳孝景妻)が若狭武田の娘で姉妹、という縁で仲裁に出てくる。堀江氏は本流院を経由して加賀へ転出した。堀江氏は本願寺と通じ、朝倉を裏切ろうとした。
堀江の乱は永禄10年(1567)であり、永正3年(1506)加賀一向一揆との戦いから60年もたっているのだ。真孝は永正3年20歳だったとしたら永禄10年は80歳過ぎだ。不可能ではなかろうが同一人物なのだろうか。

折立稱名寺
佐々木四郎高綱といえば、宇治川の合戦で名馬イケヅキ・スルスミを駆っての梶原景季との先陣争いで名高い。その高綱の子左衛門尉重高が越前に来て、その孫の五郎時高が顕智上人により出家し稱名寺を建てたということである。

 大変立派な門・堂宇であり佐々木氏の底力のようなものを感じる。美山町(現福井市)の山の中である。山が富を生む財産だった時代のものでもある。

黒目稱名寺

黒目は三国の南、九頭竜川対岸になる。
折立稱名寺が移転したというよりは並立していたのだろう。
    梅の古木で知られ、境内の石碑によれば永禄1年(1558)が寺が造られて間もなく植えられた梅だということである。

 
 掲げられた寺宝の他に「柴田勝家の感状」があるはずである。本願寺から送り込まれた越前一揆の総大将下間頼照の首を勝家に届けてほめられたのである。近くの下野神社に頼照の供養碑がある。

聖徳寺


相模の土屋の義清が建立したそうである。義清の実父は三浦義明の弟岡崎義実である。ということは石橋山で戦死した佐奈田与一の弟になる。
大野の味見の谷とあったのだが、現福井市である。旧美山町は旧大野郡であったのだ。実際福井市街地に出るよりは大野の方が近そうである。ただ冬場は通れる道ではなさそうだが。同じ旧美山町の赤谷というところへ行ったことがある。週末を過ごす人はいるらしいが事実上の廃村だった。味見はまだ人の生活がある。しかし10年後・20年後を考えると難しい。

仙福寺
この高田派の寺の由緒を明秀は上げていない。
 福井市の足羽川と足羽山の間にある街中の寺である。
先祖は佐々木経高という、盛綱や高綱の兄弟だという。承久の乱で京方につき自害。経高の次男高範が越前で顕智上人の弟子となり寺を開いたとのことである。
天正2年、本覚寺を先頭とする一向一揆に囲まれ攻められた。仙福寺恵玄は一揆と和睦する。あらかじめ、織田信長の下へいざとなったら人質を出し、一揆と和睦する、と了承を取っていたということである。
度々出てくる顕智上人だが、親鸞の直弟子で高田派三世ということである。

本向寺


この寺は高田派ではない。本願寺派、即ち一向一揆の寺である。和田本覚寺・藤島超勝寺・荒川興行寺・宇坂本向寺・久末昭厳寺、と名だたる一揆の旗頭に並んでいる。宇坂で旧美山町ではあるが、折立や味見に比べれば余程町近い。
手塚光盛の弟の子孫が親鸞に帰依し、寺を建立。更にその子孫が蓮如に帰依、本願寺派になったということである。手塚光盛といえば、篠原合戦で斎藤実盛の首を取ったことで名高い。信州諏訪の名門金刺氏の出である。

だが、「街道の日本史28 加賀越前と美濃街道」には本向寺は千葉常胤の息子の創建とある。こっちの方が史料があるのだろう。朝倉始末記(福井市史)には手塚の子孫とあるのである。

これらの寺はいずれも由緒を境内に掲げたりはしていない。それどころか、一揆のことなど何の関連もなかったかの如くに佇むのである。

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